第五章 考察

 

第四章までにおいて、「百合」愛好家が持つ特性を一つ一つ分析してきた。愛好家全体で共有されている傾向がある一方でジェンダー差により差異が生じる傾向もあり、また一つ一つの特性が相互に関係しているものもあった。ここではこれまでの分析の総括を兼ねて、「百合」愛好家が「百合」作品に求めているものや、「百合」に対して関心を抱く理由、そして「やおい・BL」との相違点・共通点を考察する。

 

 

第一節 「やおい・BL」との比較

 

 「百合」と「やおい・BL」の比較を行うと、共通点と相違点をそれぞれ見出すことができる。ここでは、それらについて考察を行う。

まずは共通点について考察する。

第四章の第一節では「解釈ゲーム」について分析を行った。もともと「やおい・BL」愛好家が行う行為であった「解釈ゲーム」が「百合」にも存在し、多少の個人差はあれ、愛好家が活発に行なっているという点は一つの大きな共通点であると言える。

「百合」においても「やおい・BL」同様、非「百合」作品を対象とした「解釈ゲーム」が行なわれている。また、高橋(2005)の述べた「攻」キャラであるAと「受」キャラであるBを「A×B」とする表記手法も取り込まれている。また、東(2010)の述べた「実際に「やおい」でカップルにされるのは、基本的には原作で何らかの関係があるキャラクター同士に限られる」というルールは「百合」においても順守されており、基本的な枠組みは同一であった。

しかし、「解釈ゲーム」の基本形を「やおい・BL」から取り入れている一方で、その内容には「百合」特有の形に作り替えられている点も見られた。以下では「百合」特有の性質、すなわち「やおい・BL」との相違点について述べる。

最も大きな違いは、「攻」「受」という役割の不要性である。これは「百合」の愛好家ほぼ全体で共有されている傾向である。

「やおい・BL」の「解釈ゲーム」形式そのものは取り入れられているものの、「やおい・BL」において前提条件とされている「攻」と「受」への役割の固定、すなわちカップルへの性役割の投影は「やおい・BL」の場合ほど重要視されておらず、時には否定されることもある。そもそも「やおい・BL」の「解釈ゲーム」において「攻」と「受」への役割は性交の描写を要として作られている。「百合」愛好家は性描写をそれほど積極的に追求しておらず、むしろその存在を否定することもあった。この点からも、「解釈ゲーム」の内容は「やおい・BL」と異なっていると言えるだろう。「攻」「受」の役割に重要性を見出さないというこの特徴は、「やおい・BL」における「解釈ゲーム」とは大きく異なる点の一つとしてあげることが出来る。

また、同様に「解釈ゲーム」の内容における相違点として、「キャラ萌え」型の「解釈ゲーム」がほとんど見られないという点も存在した。

「百合」愛好家の行なう「解釈ゲーム」には、ある特定のキャラクター単体で行われるものはほとんど見られない。「やおい・BL」に見られる、単体のキャラクターそのものに対して欲求を抱く「キャラ萌え」型は、「百合」愛好家にはほとんど見られず、キャラクター同士の関係性に重きを置いて「解釈ゲーム」が行われている。特に男性愛好家に注目すると、愛好家自身がキャラクターに対して欲求を抱く「キャラ萌え」的指向は否定される傾向も見られた。

「百合」愛好家の「解釈ゲーム」では、「やおい・BL」愛好家の「解釈ゲーム」に見られる「愛好家からキャラクターへの欲求」という要素が排除されており、純粋にキャラクター同士の関係性を想像し、カップリングを形成することを目的にしていると考えることができる。

最後に、「解釈ゲーム」の題材となりうる対象物の範囲も「やおい・BL」との間には相違点が見られた。

「やおい・BL」の「解釈ゲーム」では、漫画やアニメ作品にかぎらず、実在する芸能人や、「机と椅子」のような無機物の組み合わせまでもが「解釈ゲーム」の題材となっていた。

一方で「百合」の場合においては実在の人物や無機物を題材とする例は見られない。さらに漫画やアニメ作品を題材にする場合でも、題材とする作品として選ばれるものには「女性キャラクターが男性キャラクターに比べて圧倒的に多い」、「物語における主要な人物の大半が女性である」などの条件が存在している。「やおい・BL」の場合と比べ、「百合」の「解釈ゲーム」では題材となり得る作品が限定的なのである。

以上が「やおい・BL」と「百合」を比較した際に見えた共通点、相違点である。

 

 

第二節 ジェンダー差により生じる差異

 

本論ではこれまで「百合」愛好家が持つ傾向について考察を行ってきた。その中で、愛好家の中でも男性にしか見られない傾向、女性にしか見られない傾向も存在していることがわかった。ここでは、愛好家のジェンダー差により生じた傾向が表すものについて考察する。

第四章では男性愛好家は作品内の物語世界や「百合」作品に関わるイベント、作品の作者としての立場に男性が大きく関わることを嫌っていることを述べた。また、性描写のような男性読者を意識した仕組みが組み込まれることなどを嫌う、「男性の視点」の忌避も大きな特徴であった。

この男性に対する抵抗・嫌悪感は、愛好家によっては自分自身にも向けられていた。男性である自分自身が「百合」作品の登場人物に対して欲求を抱くことは、「百合」作品の魅力を損ねることに繋がると考えていたのである。

この考えを言葉にして主張していた愛好家は一部であるが、その他の愛好家に関しても、多かれ少なかれ同様の考え方を持っているのではないかと考えられる。作品内における男性に対する嫌悪感であれ、「男性の視点」という仕組みに対する嫌悪感であれ、その根本にあるのは「男性の欲求」が「百合」を破壊してしまうことへの懸念ではないだろうか。そして「自分自身」という男性が抱く欲求は他の何よりも明確に存在するものである。「男性の欲求」が「百合」に与える影響を意識しているのならば、男性愛好家は程度の違いはあれ、自分自身が「百合」作品の登場人物そのものなどに対して男性的な欲求を抱くことを忌避しているのだと思われる。

一方で女性愛好家には、男性愛好家とは対照的に女性登場人物を積極的に追求する傾向が見られた。これは男性側が抱いている自分自身を起点とした「男性の視点」の忌避という傾向が存在しないことにより、相対的に生じる相違点であると言える。

以上が、愛好家のジェンダー差がもたらす傾向の差異である。相対的な比較であったが、主に男性側が抱く「男性の視点」の忌避がジェンダー間で生じる差異の原因であったと言える。男性は男性の存在が「百合」作品の魅力を損ねてしまうことを忌避し、自分自身の欲求をも制限していた。一方で女性愛好家は「男性の視点」に対して関心すら抱いていなかった。自分自身の欲求について自重せず表現する傾向にあるほか、男性に比べれば作品内の男性登場人物に対しても受容的であるとも言える。このような相違点は、自身が男性で無いために、男性という存在が「百合」作品の魅力を奪ってしまうことへの危機感が男性と比べて弱いために生じているのではないだろうか。

 

 

第三節 愛好家が「百合」に求めるもの

 

 本論では、「百合」愛好家は「百合」の何に魅力を感じ、何を追求しているのかということを一つの問題点として定義し分析を行ってきた。ここでは愛好家全体に共通して見られた特性から、その論点について考察を行いたい。

「百合」愛好家は「解釈ゲーム」を行う際に特定のキャラクター同士の関係性を重視してカップリングを行う。愛好家が実際にこのような「相関図消費」型「解釈ゲーム」を行う時、「解釈ゲーム」を誘発するための重要な要素の一つであったのが、恋愛関係に無い女性キャラクター同士によるスキンシップ描写や親密さを感じさせるやり取りなど、「非恋愛関係での親密さ」の描写であった。

愛好家全体において、こうした「非恋愛関係での親密さ」の描写への関心や、「女性同士ならば恋愛関係に無くてもスキンシップなどを多く行うものである」という印象は共有されている。実際に恋愛関係にない女性登場人物同士のスキンシップ描写などをきっかけに「解釈ゲーム」を行う例も見られた。「非恋愛関係での親密さ」の描写を「解釈ゲーム」に結びつける愛好家は多く、上記のような描写は「百合」において重要な役割を持っているのである。

また、このような「非恋愛関係での親密さ」は女性同士でなければ自然に描写できないという考えが愛好家の間で持たれている。非恋愛関係であっても親密なスキンシップなどを行い、恋愛と非恋愛の境界が曖昧であるというこの女性同士特有の関係性が、女性同士、すなわち「百合」ならではの魅力として認識されているのである。

一方で、「百合」愛好家がキャラクター同士のカップリングを行なう際、「やおい・BL」において見られた「攻」「受」という概念を重要視しないということもこれまでに述べてきた。「やおい・BL」において「攻」と「受」はそれぞれ男性と女性の性役割を表しており、「攻×受」型への固定は本来同性同士であるカップルの片方に男性、片方に女性の役割を投影し、カップルを疑似的な異性愛関係にするという行為であった。「攻×受」型への固定は「やおい・BL」の「解釈ゲーム」においては絶対的に必要な要素であるとされていたものであるが、「百合」においてはほとんど重要視されていない。「やおい・BL」との比較を通して見ることができた中でも非常に大きな相違点であると言えよう。

ここで改めて述べた「百合」愛好家が持つ二つの大きな特性だが、関連付けて考察を行なうと、これらの特性は相互に関与していることがわかった。

愛好家は「非恋愛関係での親密性」を追求するなど、先述した「女性同士特有の関係性」に魅力を感じている。愛好家が「百合」というジャンルに感じている魅力は、女性キャラクター同士だからこそ成立するものだとされているのである。

一方、「攻」と「受」はそれぞれ男性と女性の性役割を表しており、「攻×受」型への固定は、本来同性同士であるカップルの片方に男性、片方に女性の役割を投影してカップルを疑似的な異性愛関係にするという行為であった。

仮に、この「攻×受」型の関係性を「百合」カップルに投影したとする。この場合、女性同士のカップルのどちらか片方が男性的な役割を持つことになり、「百合」の中に異性愛的な関係性が生じることになる。つまり、「百合」(すなわち女性同士)だからこそ成り立っていた恋愛・非恋愛の境界が曖昧な関係性が、異性愛の投影により成立しなくなってしまうのである。

結果として、「女性同士特有の関係性」という「百合」ならではの関係性と「攻×受」型の異性愛的な関係性の間に不整合が生じてしまい、「百合」ならではの特性が失われてしまうか、あるいは「攻×受」への固定をすること自体に違和感を受けてしまうのではないだろうか。「攻×受」型の関係性への固定は、「百合」ならではの魅力の一つを破壊してしまう。「百合」愛好家はこのことを意識して、あるいは無意識に、カップリングを「攻×受」型に固定してしまうことを避けているのではないだろうか。

このように、「非恋愛関係での親密さ」は「百合」愛好家の行なう「解釈ゲーム」の規則や指向性にまで深くかかわっていると考えられる。「非恋愛関係での親密さ」は、「百合」においてそれほどまでに重要な要素とされているのである。

では、なぜ「非恋愛関係での親密さ」は「百合」愛好家の持つ特性としてここまで大きく表れているのだろうか。

「百合」愛好家はキャラクター同士のカップリングを行なう際にも、決して不用意にカップルを異性愛的な恋愛関係に持ち込もうとしない。異性愛的な関係性を投影し、恋人としてのカップルの描写に魅力を見出す「やおい・BL」等とは異なり、「百合」愛好家は「非恋愛関係」という状態に大きな魅力を見出している。

しかし、そもそも「非恋愛関係での親密さ」は何も女性同士でなければ成立しないものではない。男性同士や異性同士でも、例えば家族愛や友情といった形で描写できるはずの要素である。

ただ、「非恋愛関係での親密さ」の描写について、女性同士で描かれている場合の方が男性同士・異性同士の場合よりも好印象に受け入れられていた。つまり女性同士の方が、スキンシップなどを含むようなより踏み込んだ「非恋愛関係での親密さ」について「描きやすい」に過ぎない。そしてこうした描写の含まれる作品が「解釈ゲーム」の題材にされるなどして「百合」愛好家から注目され、「百合」という限られたジャンルの中で「非恋愛関係での親密さ」の魅力が語られるようになる。結果として「非恋愛関係での親密さ」という要素があたかも「百合」特有の特性であるかのように見えてくる。

「非恋愛関係での親密さ」という要素自体は、本来は「百合」のみで求められるものではなく、もっと幅広く通じ得る普遍的なものなのではないだろうか。こうした観点からも、「百合」というジャンルにはさらに研究を深める余地が残されている。