第四章 分析

 

 この章では、第三章に掲載した表2や、調査対象としたブログ内に見られた愛好家の語りを元に、愛好家が「百合」コンテンツを消費する際の指向性や特性などを分析していく。

 

 

第一節 「百合」愛好家による「解釈ゲーム」

 

第三章では、表2の項目【解釈ゲーム】から、一つのブログを除く全てのブログで「解釈ゲーム」が行われているということを説明した。表において「×」は見られず、ほぼ全ての愛好家がなんらかの形で「解釈ゲーム」を行っているのである。

そもそも「解釈ゲーム」とは、「やおい・BL」愛好家の間で頻繁に行われている行為であった。特定の商業作品(少年漫画など)を題材に愛好家が自ら二次創作を生み出し、その一方で他の愛好家の二次創作を求めるというものである。

愛好家がブログで非「百合」作品を取り上げる場合は、ほとんどの場合において女性登場人物同士のカップリングを行っていた。また、同人誌即売会イベント(「百合」作品限定のイベント・「百合」以外の作品も含むイベントのどちらも見られた)に参加し、非「百合」作品を原作としたファンによる二次創作作品を購入している愛好家もいた。

このように、「百合」愛好家の間でも「やおい・BL」愛好家同様に「解釈ゲーム」が行われていたのである。

また、非「百合」作品の漫画を題材とする具体的な「解釈ゲーム」の例を挙げると「乃莉となずなのやつはもうガチ百合にしか見えなくてですね「乃莉ちゃんって温かくて気持ちいい・・・」とか!なにこのセリフ!なずな何言ってんのぉぉぉ(ブログH)」といったように、「解釈ゲーム」に発展するのは原作において何らかの接点の描写がある場合がほとんどであった。東(2010)によると「実際に「やおい」でカップルにされるのは、基本的には原作で何らかの関係があるキャラクター同士に限られる」という。つまり、こうしたルールは「やおい・BL」の場合と共通していると言える。

その一方で、「百合」愛好家の行う「解釈ゲーム」には、「百合」ならではの特性がいくつか見られた。ここでは、「百合」愛好家が行う「解釈ゲーム」について、「やおい・BL」内で行われる「解釈ゲーム」との比較を行いながら分析していく。

 

 

第一項 「百合」における「攻」「受」の概念

 

 「百合」愛好家による「解釈ゲーム」の特徴として最も際立っていたのが、「やおい・BL」の「解釈ゲーム」においては必須要素とも言える大きな特徴であった「攻」「受」要素が弱まっているという点である。

表2の項目【解釈ゲーム】を見ると、ほとんどのブログが「△」に当てはまっている。この記号は、その愛好家は「解釈ゲーム」を行うものの、その内容は「攻×受」型では無いということを表している。すなわち、「百合」愛好家の多くが「やおい・BL」同様に「解釈ゲーム」を行う一方で、「やおい・BL」の「解釈ゲーム」における非常に重要な要素である「攻」「受」という概念が「百合」においては重要視されていないのである。

「やおい・BL」の「解釈ゲーム」では、カップリングを行う男性登場人物について、性交の際に主体的な立場に立つ男性的な役割のキャラクターを「攻」、性交の際に受動的な立場に立つ女性的な役割のキャラクターを「受」として、ほぼ例外なくどちらかの役割に固定している。しかし「百合」愛好家の「解釈ゲーム」の中には、キャラクターを「攻」と「受」の役割に固定させない例が見られたのである。

「攻」「受」の要素が弱められた「解釈ゲーム」の具体例はいくつか見られたが、大きく二つのパターンに大別することができた。まずは以下でそれぞれのパターンについて取り上げる。

 

 

1、「攻」と「受」の役割に完全に割り振らない

具体例としては、ブログCがこれに当てはまる。

ブログCの作者はある非「百合」のアニメ作品を題材に「解釈ゲーム」を行う中で、「いざって時に攻めに回りきれないのがゆず子&縁コンビなのだ!」と書いていた。

「ゆず子」と「縁」はともに女性キャラクターである。また、引用文中には登場しないが、「唯」というもう一人のキャラクターがこの「解釈ゲーム」に関わっていた。ブログCの作者はアニメのワンシーンを見てこの三人を題材に「解釈ゲーム」を行おうとしている。なお、「ゆず子&縁」という表記がされているが、これは「ゆず子」と「縁」のカップリング(「ゆず子×縁」または「縁×ゆず子」)による「解釈ゲーム」というわけではない。

文中に「攻め」という単語が出ているように、「攻」と「受」という枠組みを作ると言う形式は「やおい・BL」の「解釈ゲーム」から輸入され、「百合」の「解釈ゲーム」にも用いられているようである。

しかし、上記の文章は前後を見ても「受」の役割を割り振られる登場人物についてははっきりと書かれておらず、「ゆず子」と「縁」について完全に「攻」に固定しようとしていないことが窺える。もう一人の登場人物である「唯」についても必ずしも「受」の役割を想定して「解釈ゲーム」に関わらせていたわけではなかった。

このように、「百合」の「解釈ゲーム」においても「攻」と「受」の枠組み自体は輸入されているが、「やおい・BL」の場合のように登場人物に対して「攻」「受」の枠組みを一意に一致させようとはしないというのが一つ目の例である。

 

 

2、「攻」と「受」の役割が反転する

この例はブログHに見られた。ブログHはある非「百合」作品のゲームの感想を書く記事の中で、「円香×海咲美味しいです(^q^)逆も然り←」と書いていた。この「円香×海咲」という表記は「攻×受」型「解釈ゲーム」の表記方式に当てはまるものであると思われる。

「逆も然り」とはこの「円香×海咲」の前後を入れ替える、つまり「海咲×円香」とするという意味で書かれている。すなわち、「円香」と「海咲」の「攻」と「受」の役割を入れ替えると言う意味である。

このことからブログHのブロガーは、一度は「攻×受」という形に登場人物を当てはめるものの、その順序であることにこだわりを持っているわけではないということが窺える。同様に、「A×B」という形で表記するものの、どちらが「攻」でどちらが「受」なのかという役割をそれほど意識していない例も見られた。

 

表2の【解釈ゲーム】で「△」としたものはいずれも上記の1や2のような傾向を持つ「解釈ゲーム」を行っているブログであった。

高橋(2005)によると、上記のような「攻」と「受」の役割が反転する、固定されないといった「解釈ゲーム」の手法は「リバーシブル」や「下克上」と呼ばれ、「やおい・BL」の「解釈ゲーム」においても見られることがあると言う。しかし「やおい・BL」の「解釈ゲーム」が性交の描写を要としている以上、役割の反転などは見られるまでも、男女の性役割を反映している「攻」「受」という概念そのものを取り上げることは出来ない。男女の性役割のどちらかをキャラクターに投影しなければ、性交の描写が成り立たないためである。

一方で「百合」愛好家による「解釈ゲーム」では、「攻」「受」の概念そのものが弱まっている。「解釈ゲーム」の基本的な枠組みは「やおい・BL」から輸入されているものの、登場人物に対して「攻」「受」の(すなわち性役割を反映させる二項的な)関係を固定させるという「やおい・BL」に見られた性質はほとんど失われていると言うことが出来るだろう。

また、第三章では表2【性描写】の項目から、「百合」愛好家は性交の表現をあまり重要視していないことを述べた。性交の描写を前提とする「やおい・BL」の「解釈ゲーム」と異なり、「百合」の「解釈ゲーム」では性交の描写は前提となっていない。この点からも、「百合」のカップリングには「攻」「受」の役割の固定という形で性役割を投影する必要性が薄れていることが伺える。

以上の通り、「百合」の「解釈ゲーム」では「やおい・BL」の場合と比べてキャラクターへの性役割の反映が弱く、「やおい・BL」の「解釈ゲーム」に見られた異性愛の投影という性質が弱まっているのではないかと推察することができる。

 

 

第二項 愛好家が「百合」作品において行う「解釈ゲーム」

 

 第一項では、「百合」愛好家全体で共通して見られた傾向について述べた。この項からは、「百合」愛好家の中でも傾向に差が見られた要素について分析を行う。

 第三章では表2の項目【好む作品】より、愛好家の間でも「百合」作品を好む愛好家と非「百合」作品を好む愛好家に分かれていることを述べた。「解釈ゲーム」の行われ方について分析した所、この両者の間で「解釈ゲーム」の行われ方にも差が見られることがわかったのである。

ここでは特に、「百合」作品を好む愛好家による「解釈ゲーム」について分析する。

「百合」作品を題材にする場合と非「百合」作品を題材にする場合とで見られた一つの相違点が、「解釈ゲーム」の行われやすさの違いである。

「百合」作品を題材とした場合よりも、非「百合」作品を題材とする場合の方が、キャラクター同士のカップリングを行う「解釈ゲーム」が頻繁に見られた。つまり、登場人物同士による同性愛を想像するという形の「解釈ゲーム」は、「百合」作品よりも非「百合」作品の方が活発に行われたのである。

ところが「解釈ゲーム」の本質を考えると、「百合」作品においてわずかながらとは言え「解釈ゲーム」が行われていること自体が異質であるように思える。

本文において「百合」作品とは、作品内で明確な女性同性愛が描かれている作品や、それを物語の主軸とした作品として定義している。すなわち、この定義に当てはまる「百合」作品においては、愛好家が自らカップリングを想像する「解釈ゲーム」を行うまでもなく、主要な人物同士のカップリングが物語中に登場しているのである。

「百合」作品では物語中に複数のカップリングが登場する。愛好家は作中に描かれる「百合」カップリングを見て楽しむことが可能であり、作中に「百合」カップリングが登場しない非「百合」作品と違って愛好家が自力で新たなカップリングを想像する必要はない。そのため、「百合」作品において「解釈ゲーム」が行なわれているということ自体、異質なものであると言える。

以上の通り、「百合」作品においては基本的に「解釈ゲーム」は行われないものであり、「百合」作品を題材とした「解釈ゲーム」は例外的な存在であると言える。そこで、今回の調査対象のブログで特に「百合」作品を題材とした「解釈ゲーム」に関する語りや、その題材となった作品に関連する記事をもとに、「百合」作品における「解釈ゲーム」について分析する。

実際に「解釈ゲーム」が見られた作品には、第三章で取り上げた『白衣性恋愛症候群』、『ゆるゆり』などがある。ここではこの二作品を具体例として分析を行う。

まずは一つ目の例として、『白衣性恋愛症候群』における「解釈ゲーム」を取り上げる。

『白衣性恋愛症候群』にはゲームのシステム上、主人公(女性)とヒロインとでのカップリングは複数登場するが、ヒロイン同士のカップリングは原則として描かれない。しかしゲームをプレイしたブロガーの中にはヒロイン同士のカップリングなどで「解釈ゲーム」を行なう者もいた。

ブログBにおける『白衣性恋愛症候群』の感想文の中で、「でも、私的には「沢井×大塚 ←まゆき介入」「山之内×なぎさ」「あみ×堺」もアリだと思うのですが、どうでしょう?」という語りが見られた。

この語りの中には「沢井」「大塚」「まゆき」「山之内」「なぎさ」「あみ」「堺」という七人の女性キャラクターが登場している。「沢井」は物語の主人公であり、それ以外のキャラクターは全て主人公とのカップリングの対象となるヒロインである。

先述の通り、原作中には主人公を含まないヒロイン同士のカップリングは描かれない。しかしブログBの記述中では「あみ×堺」など、主人公を含まないヒロイン同士でのカップリングについて言及されている。「百合」作品を題材とした「解釈ゲーム」とは、このように原作中で描かれないカップリングを形成するという形で行われるものである。

『白衣性恋愛症候群』には、主人公対ヒロインという物語上の明確なカップリングが複数存在している。一人の主人公に対してヒロインが六人存在するため、物語中には六通りのカップリングが登場するのである。では、なぜ愛好家はこうしてカップリングが複数存在する『白衣性恋愛症候群』において、新たにカップリングを想像する「解釈ゲーム」を行っているのだろうか。

愛好家が「解釈ゲーム」を行う過程を分析した所、ブログHにおいて以下のような例が見られた。以下は『白衣性恋愛症候群』に登場するヒロインの中の二人、「やすこ」と「はつみ(主任)」が物語中で行なったやり取りの抜き出しと、それを受けたブログHの作者の感想である。

 

 

ええ、やすこ×はつみ美味しいです・・・mgmg

だってやすこが!主任に!

以下会話

や「いーなー、いーなー!

  あたしもカノジョ、ほしいなー!」

 

や「年下の子猫ちゃんでもいいけど、

  年上のお姉さまも捨てがたいわ〜ぁ!」

 

や「ってことで、主任!

  うちと今夜、どうですか!」

 

や「職場恋愛になってしまいますけど、

  うちら、オトナやから、いいですよね!」

 

主「・・・・・ふっ、そうね、あなたが

  向こう一年の勤務表作成を代わってくれるのなら

  考えてもいいかしらね」

て!!やりとりを!!あばばばばばb

それでやすこが作成を嫌がって、逃げてからの、この主任の発言!

 

主「せっかく勤務表作成を押しつけられると思ったのに・・・」

 

つまり、やすこが勤務表作りを受諾したら、

はつみ主任はやすこのものに・・・!なるはずだったのにぃぃぃ

(ブログH

 

 

「やすこ」「はつみ(主任)」はともにヒロインであり、この二人によるカップリングは作中では描かれないものの、(恋愛的ではない)親しい関係性は多く描写されている。ブログHではこの二人のやりとりから「解釈ゲーム」をおこなっていた。他にも『白衣性恋愛症候群』で「解釈ゲーム」を行なう愛好家は、このような作中における接点の描写をもとに「解釈ゲーム」を行なっている。

『白衣性恋愛症候群』では、主人公対ヒロインの関係性以外にも、ヒロイン同士の会話や関係性の描写も多くあった。愛好家はこのような接点の描写をきっかけとして「妄想」を膨らませ、「解釈ゲーム」を行なっているのである。

一方で『ゆるゆり』では、ブログDを中心に「解釈ゲーム」が行われている記事が見られた。他の「百合」作品を読む場合にはあまり「解釈ゲーム」を行わないというブロガーも、『ゆるゆり』に関しては「解釈ゲーム」を行っていることがあった。

『ゆるゆり』において行われる「解釈ゲーム」も基本的な形は『白衣性恋愛症候群』の場合と同じであり、物語中に複数のカップリングが登場する一方、物語中では明確に描かれていないカップリングが愛好家の間で行われている。

『ゆるゆり』で「解釈ゲーム」が行われた理由について分析した所、『ゆるゆり』を読んだ愛好家のブログから以下のような語りが見られた。

 

 

というのも、ひまさく以外は多様なカップリングが成立しうるため、いろいろな楽しみ方が可能となっているのです。

結京の幼馴染熟年夫婦を楽しむもよし、恋する綾乃を応援して京綾を楽しむもよし、王子様と恋する後輩の結ちなもよし、手間のかかる先輩×ツンデレ後輩で京ちなよし、恋とは少し違う、いつもそばで包んでくれる関係のちなあかよし、年数を背景としない、信頼がつなぎとめる絆の綾千よし・・・と、その需要に応じてさまざまにタイプの異なるカップリングを提供でき、さらにそれがガチ百合からソフト百合まで幅広い、というところに、この作品を金字塔と呼ぶ所以があります。

(ブログA

 

ギャグで話を進めつつも読む方に百合を想像させる絶妙なバランスはゆるゆりならではだと思います。百合をギャグのベールで覆い隠しつつも、にじみ出る百合から読者に妄想を掻き立てる。一見すると今号は百合成分が少なめですが、読む方の百合リテラシーによってはキャラの内面を想像し、百合を想像させることが出来る。

(ブログD

 

ブログAにおける記述からは、『ゆるゆり』はキャラクター同士のカップリングを読者に委ねる仕組みになっているとわかる。そしてブログDでは、そのような仕組みが作品自体の作風により形作られていると語られていた。

ブログDによると、『ゆるゆり』は同性愛表現を控えめにして「ギャグ」を中心に話を進めており、これは『コミック百合姫』掲載作品のなかでも「ゆるゆりならでは」の表現方法であるとされている。

実際に『ゆるゆり』にはたくさんの女性キャラクターが登場するが、各キャラクター間のカップリングを明確に固定することはされておらず、一方で読者が関係性を「妄想」できるだけのキャラクター同士の接点が描写されている。読者はこうした数々の描写を手掛かりに、好みのカップリングを形成することができる。このような「ゆるゆりならでは」の同性愛表現の度合いが『ゆるゆり』が読者に「解釈ゲーム」を誘発させている要因であると言える。

『ゆるゆり』や『白衣性恋愛症候群』には、もともと「百合」作品でありながら、カップリングとして完全に固定されていないキャラクター同士の緩やかな接点が数多く描写されているという共通点があった。こうした描写が「解釈ゲーム」の題材として愛好家に受け入れられ、原作において提供されるカップリング以外で愛好家が自由に「解釈ゲーム」を楽しむという構図が出来上がったのである。

 

 

第三項 「百合」愛好家が行なう「解釈ゲーム」の対象物

 

 第二項では、「百合」作品を題材とした「解釈ゲーム」という例を取り上げて分析した。そして、「百合」作品において「解釈ゲーム」の題材となる作品には、カップリングとして完全に固定されていないキャラクター同士の緩やかな接点が数多く描写されているという特徴が見られることがわかった。

「百合」作品および非「百合」作品それぞれの「解釈ゲーム」において共通して見られたのは、原作において接点が描写されていたキャラクターたちが対象とされるという傾向である。「やおい・BL」における「解釈ゲーム」に関しても、実際にカップリングが行われるのは原作で何らかの接点が描写されているキャラクター同士に限られているため、「解釈ゲーム」の題材の条件は「やおい・BL」の場合と共通していると言える。

しかし「解釈ゲーム」の題材となりうる作品についてその他の条件について分析すると、「百合」と「やおい・BL」の間で相違点が見られた。

「やおい・BL」においては少年漫画や実在の芸能人、椅子と机のような無機物など、あらゆる物が「解釈ゲーム」の対象となり得る。しかし「百合」における「解釈ゲーム」の題材となる作品は、「女性キャラクターが男性キャラクターに比べて圧倒的に多い」、「物語における主要な人物の大半が女性」といった特徴を持つことが多かった。

『まんがタイムきらら』掲載作品のような、いわゆる「日常系」の作品はこの条件を満たすものが多い。今回調査したブログの中では実際に「解釈ゲーム」の題材として選ばれることが多かった。

そのため、以上の条件を満たすことが多い『まんがタイムきらら』掲載作品など、「解釈ゲーム」が行なわれる対象物が「やおい・BL」と比べて限定的になってくるのである。

 

第四項 「キャラ萌え」型と「相関図消費」型

 

 第二章では、勝山(2011)より「やおい・BL」における「解釈ゲーム」の行われ方には二通りのパターンがあることを述べた。一つは、キャラクター単体に対して好意を示す「キャラ萌え」型で、もう一つは、キャラクター同士の関係性に関心を示す「相関図消費」型である。

また、第三章では表2の項目【キャラ萌え型・相関図消費型】から、「百合」愛好家の大半は「相関図消費」型の「解釈ゲーム」を行っていることを述べた。

ここでは、愛好家が行う「解釈ゲーム」の内容について、「キャラ萌え」型・「相関図消費」型というパターンに注目して分析していく。

「相関図消費」型の「解釈ゲーム」の具体例としては、ブログCから以下のような物が挙げられる。

 

 要するに「姉妹百合のあかあか」を選べば…「京ちな・結衣ちな・ちなとも」という選択肢が生まれ、

友情→愛情√のちなあか」を選べば…「大人な関係?のあかとも」が…ヾ(*´∀`*)

(ブログC

 

以上は『ゆるゆり』を題材とした「解釈ゲーム」である。

文中にある「あかあか」などは「解釈ゲーム」上のカップリングの表記方法の一つであり、カップリングを行なうキャラクターの名前を省略し、連続して書いている。「あかあか」の場合は「あかり」と「あかね」という二人のキャラクターによるカップリングを意味している。この例では「京」は「京子」、「ちな」は「ちなつ」、「とも」は「ともこ」など、基本的には二文字に省略され、「結衣」のようにもともと名前が二文字のキャラクターはそのまま表記される。また、文中の「√」は「ルート」と読み、ここでは「解釈ゲーム」を行なう中で想定されるいくつかの組み合わせやシチュエーションの中の一つという意味で使われている。ここでは、「ちなつ」と「あかり」の友情が愛情に発展していく可能性を想定したパターンでの「解釈ゲーム」について「友情→愛情√(ルート)」と表現している。

「姉妹百合」や「友情→愛情」「大人な関係」など、キャラクター同士の関係性のあり方を自らキーワード化して表現しているのがわかる。この愛好家はこの他にも「百合語り」というテーマを自ら設定して『ゆるゆり』やその他の非「百合」作品による「解釈ゲーム」の記事を複数投稿していた。

今回調査したブロガーが「解釈ゲーム」を行う場合や「百合」作品を見る場合は、ほぼ全ての場合において上記のような形でキャラクター同士の関係性を重要視していた。ある特定の二人のキャラクターの関係性が前提として成り立っていたため、キャラクター単体での「解釈ゲーム」は成立しないのである。

では、なぜ「百合」において「キャラ萌え」型の「解釈ゲーム」は行われないのだろうか。

勝山(2011)では「キャラ萌え」型の特性として、「キャラクター単体、特に「受け」キャラクターに対して「萌え」といった好意を感じることであり、性的なイメージを彷彿とさせるような外見・行為を好む」と述べている。「キャラ萌え」型の「解釈ゲーム」が行われる際に見られるこれらの要素について、「百合」においてはどのように考えられているのか分析する。

この節の第一項では、「百合」の「解釈ゲーム」においては「やおい・BL」とくらべて「攻」「受」という仕組みが弱まっていると分析した。すなわち、特定のキャラクターに対して「受」という役割を固定的に持たせるということ自体、「百合」の「解釈ゲーム」においてはほとんど見られないのである。

また、第三章では表2の項目【性描写】から、「百合」の愛好家は性描写をあまり積極的に追求しておらず、他の要素を優先する傾向にあると述べた。愛好家が性的な要素以上に他の要素を意識しているのならば、ある特定のキャラクターを「解釈ゲーム」の題材にしたとしても、そのキャラクターの「性的なイメージ」といった要素は注目されづらいのではないだろうか。

このように、「百合」において「攻」「受」や「性的なイメージ」といった要素は「百合」においてあまり重要視されていない、もしくは排除されている要素であると言える。つまり、「キャラクター単体、特に「受け」キャラクターに対して「萌え」といった好意を感じることであり、性的なイメージを彷彿とさせるような外見・行為を好む」という「キャラ萌え」型的な指向性での「解釈ゲーム」は「百合」愛好家の持つ指向性の中においては成り立たないのである。

 

 

第五項 「百合」ならではの関係性

 

なぜ「百合」愛好家は他でもない(異性愛やBLではない)「百合」において「相関図消費」型の「解釈ゲーム」を楽しんでいるのだろうか。愛好家が行う「相関図消費」型「解釈ゲーム」の内容についてより詳細に分析した。

ところが、愛好家が注目するカップルの関係性などに注目しても、「百合」(すなわち女性同士)でしか成立しえないような関係性は見いだせなかった。例えば「姉妹」「教師と生徒」「先輩と後輩」など、いくつかのパターンへのカテゴライズが具体例として見られたが、こういった関係性自体はいずれも異性愛やBLで再現可能なものであった。つまり、愛好家が「解釈ゲーム」の過程でしばしば行う関係性のカテゴライズそのものに「百合」ならではの特色はないと考えられる。

しかし「百合」愛好家がキャラクター単体ではなくキャラクター同士の関係性に着目している点は第四項から明らかである。そこで、「解釈ゲーム」の内容までは踏み込まず、「女性同士であることの何が良いのか」という観点から調査を行ったところ、以下のような言説が得られた。

 

女の子同士だといろんな壁もあるし同性としての悩みとかあって絆が強くなったりするのかなって。あと女の子同士って結構べたべたするから見てて可愛いなって(´∀`*)

(ブログE)

 

 以上はブログEにあった、百合が好きな理由について語る記事の一部分である。

女の子同士って結構べたべたするから見てて可愛い」という言説には、このブロガーが抱く女性に対するイメージが含まれている。すなわち、女性は異性同士、男性同士の場合よりもスキンシップなどを多く行なうものであるという印象を持っており、その様子が「見てて可愛い」と思っているのである。

以上の言説と似た傾向を持つ愛好家が他に存在するか調査、分析した結果が、第三章の表2における【非恋愛関係での親密さ】の項目である。分析の結果、ほぼすべての愛好家がブログEの作者同様、恋愛関係にない女性同士の親密さの描写に関心を抱いている、ないし女性同士ならば恋愛関係に無くてもスキンシップなどを多く行うものであるという印象を抱いているとわかった。

「非恋愛関係での親密さ」の描写は「解釈ゲーム」とも結びついている。実際の例において、恋愛関係にない女性同士の親密な描写をきっかけに「解釈ゲーム」を行っているという場合もあった。また、具体例が見られない場合でも「女の子達がキャッキャウフフしてると「そのまま付き合え!」って言ってますね」(ブログJ)など、表2の「非恋愛関係での親密さ」において「◯」に該当したブロガーの多くから、女性同士の親密さの描写を「解釈ゲーム」の材料として結び付ける言説が得られた。恋愛と友情の中間とも言える好意をキャラクターが抱くシチュエーションに関心を持つ愛好家もおり、愛好家は「非恋愛関係でありながら親密な親愛表現をする」などといった恋愛と非恋愛の境界が曖昧な状態に関心を持っていると思われる。

第三章では表2の項目【愛情表現】から、愛好家がキスシーンに対してとりわけ高い関心を示していると述べた。キスシーンを親密さ表現の中で最高位と位置づける愛好家は多く、この傾向は愛好家のほぼ全体で共有されている。

「キスシーン」というものが持つ特性を考えると、これはベッドシーンのような露骨な性描写にはならず、その一方で親密さの表現としては非常に高い親密性を表現できるものであるといえる。実際の例として、ブログFでは「えっちシーンは、表現方法の1つとしてありだと思うが。えっちシーンよりキスシーンのほうが良いね」というように性描写以上にキスシーンを追求していた。

こうした親密さの描写が性行為にまで踏み込んでしまうと、「非恋愛関係での親愛表現」という状態が維持しづらくなってしまう。愛好家が「非恋愛関係」という状態に魅力を抱いているのならば、キスシーンを特別扱いする傾向や、性描写にあまり関心を持たない傾向は、「非恋愛関係」の追及に基づいて生じているものなのだろう。

また、このような親密さの描写が異性同士ではなく女性同士だからこそ上手く成立するものであるという考えが、愛好家の中で持たれていた。以下がその語りである。

 

青年誌で、ハーレム漫画の手法で、百合が成立している類まれな作品。 不幸体質かつフラグ立てまくりな主人公がもし男だったら、ただのエロ方面かラッキースケベで終わるしか無い舞台なのに、 ここまでお笑いルートで嫌味のないストーリーに仕上がっているのは、やっぱり百合の大勝利だと思うのです。(ブログB)

 

以上は愛好家のブログにおける、ある「百合」作品に関するレビューの一部である。主人公(女性)が複数のヒロインと親密な関係性を築くいわゆる「ハーレム漫画」的展開について、主人公が女性ではなく男性であった場合を仮定し、「ただのエロ」や「嫌味」などネガティブな言葉で表現している。こうした具体的な仮定をブログ中で行っている例は他のブログでは見られなかったが、同様の考えを他の愛好家が抱いているとすれば、「百合」愛好家は女性同士によるスキンシップなどの親密さの描写を「百合」ならではの魅力として捉えていると言えるだろう。


 

 

第二節 男性愛好家特有の傾向

 

第一節では「百合」愛好家が行う「解釈ゲーム」について分析した。この傾向は基本的に愛好家全体で共有されているものであり、ジェンダー差による相違点などはほとんど見られなかった。

一方で、第三章の表2の項目の中には、ジェンダー差による傾向の差が見られる要素も存在している。そこで以下では、男女の間で生じていた差について分析していく。

 本節では男性愛好家に注目する。表2に見られる傾向を中心に男性ブロガーの特性を考察していきたい。

 

 

第一項 男性への嫌悪感

 

 第三章では表2の項目【男性登場人物への意識】から、愛好家全体として男性登場人物に対し好感を抱いたり、無条件に登場を許容したりする傾向は少ないということを述べた。

この傾向について男女別に見てみると、女性愛好家は特に嫌悪感などを抱かない(表では「◯」と表記している)という者もいる一方で、男性愛好家には男性登場人物に対し嫌悪感を一切抱かないという者はおらず、男性登場人物に対してなんらかの抵抗や嫌悪感を持つ傾向が強いとわかった。ここでは男性愛好家特有の傾向として、男性愛好家が男性登場人物に対して抱く嫌悪感について分析する。

例えばブログFは、「百合」の魅力について「汚いもの(男)が介入しない、女の子同士だからこそ表現出来る美しさ」というものを挙げている。この語りには男性に対するはっきりとした嫌悪感が現れており、「百合」作品への男性登場人物の登場は無条件に嫌悪していた。表2の項目【男性登場人物への意識】において「×」と表記された愛好家はいずれもこのように男性登場人物に対する激しい嫌悪感を抱いていた。

一方で、「百合」作品における男性登場人物について「百合を壊さなければいいです」(ブログG)といったような語りも見られた。作品に男性登場人物が登場すること自体は許容するが、それは「百合を壊さなければ」、つまり女性登場人物同士の「百合」的な関係性を妨害してはならないという条件付きでのことである、という語りである。

また、作品内における登場人物の嫌悪という形以外で、「百合」の世界に男性が関与することに抵抗を持つ愛好家もいた。ブログBはある漫画(『コミック百合姫』にて連載されている作品)の感想を書く中で「待機列の男子率や、サークル参加の男女構成比とか、あるあるネタばかりで……男子に生まれてきてすいませんorz」と書いている。これは漫画の中に登場した、「「百合」を題材とした作品専門の同人誌即売会イベントにおいて、参加者の男女比について男性の比率が圧倒的に多いことを主人公(男性キャラクター)が嘆く」というシーンを受けての感想である。このようにイベントにおいて自分という存在(男性)が関わることに罪悪感を抱いているが、一方で「私は男が出てくる百合話も大丈夫な人ですので、過程でエッチしてようが、結末が百合ならいいのです。」と、作品内に男性が登場してくることに抵抗感は抱いていない。これは作品内には男性が登場しても構わないが、イベントという1つの「百合」の空間における男性の存在を否定しているという意味では、男性登場人物の嫌悪と共通している傾向であるように思われる。

男性愛好家はこのように何らかの形で「百合」の世界において男性が存在することに嫌悪感を抱くという者がいる。作品内の物語世界における男性登場人物に対する嫌悪感が最も多く見られたが、ブログBのようにイベントのような交流の場や、作者として「百合」作品を作り出す立場において男性はあまり大きく関わるべきではない、もしくは存在を主張するべきではないという語りも見られた。男性愛好家には、「百合」の世界には男性は一切不要である、もしくは存在しても構わないが深く関わるべきでないと考える傾向が、女性愛好家とくらべてより顕著に見られたのである。

 

 

第二項 「男性の視点」への嫌悪感

 

 第二章では赤川(1993)、堀(2009)の先行研究を引用し、男性向けポルノグラフィには作品の受け手となる男性の視点を意識した〈仕組み〉が組み込まれるということを述べた。

例えばアダルトビデオには、カメラの視点を現場において女優と性行為を行う男優の視点にできるだけ近づけることで、視聴者が男優の視点と同一化し、自分自身が性行為を行っているかのような錯覚を持たせるという技法がある。また別の技法として、男性向けポルノにおいて読者の好みの「フェティッシュな欲望」で構成された女性をカメラ目線で映し、男性は欲望を喚起させる記号を纏った女性身体を見つめるという「女性身体への視線」という技法がある。

この研究では上記のような男性向けポルノグラフィに組み込まれている仕組みを「男性の視点」と呼称している。そして第三章ではこのような「男性の視点」に対する傾向を調査し、特に男性愛好家がこのような仕組みに嫌悪感を抱いていることを述べた。ここでは、男性愛好家による「男性の視点」に対する嫌悪感について分析を行う。

「男性の視点」を嫌悪する傾向を持つブログAは、「百合」作品であっても受け入れられない作品はどのようなものかという問いに対し、「ただのレズ物AVにしか見えないもの」と答えている。その理由として「男性視点が濃すぎる」と述べている。

「男性視点」という言葉を用いていることから、ここで言う「レズ物AV」とはすなわち、主な視聴者を男性として意識して作られた、女性同士の性交を描いたアダルトビデオのことである。

「レズ物AV」には男優が登場せず、受け手の男性に「男優の視点に同一化」するような錯覚を持たせることは出来ない。しかし主な視聴者を男性として意識している以上、男性の性的欲求を満たすための何らかの仕組みが組み込まれるものであると考えられる。例えば、女優の性的身体を殊更強調して映し出すなどといった「女性身体への視線」の技法を組み込むことは、たとえ作品に男優が登場しなくても可能である。

ブログAの作者が「男性視点が濃すぎる」「ただのレズ物AVにしか見えないもの」として想定しているのは、このような男性の性的欲求を充足させることを重視した、「男性の視点」が多分に含まれる作品のことであると考えられる。ブログAの作者はこのような「男性の視点」が組み込まれた作品は「百合」作品としては魅力的でないと主張しているのである。

別の例としてブログCでは、「カメラ目線は百合じゃねえ!」という主張が見られた。

ここで言うカメラ目線とはイラストなどに描かれた女性キャラクターが作品の読み手に視線を向けている様子を指している。例えば、二人の女性キャラクターが描かれており、そのキャラクター同士が抱き合っていたり、密着していたりとどんなに親密なスキンシップをとっていようとも、キャラクターが「カメラ目線」であれば、ブログCの作者にとってはそれだけで「百合」作品としては魅力的でなくなってしまうのである。

「カメラ目線」は「女性身体への視線」という技法に用いられる手法の一つであった。このカメラ目線の否定にも、ブログAで見られたような「男性の視点」の否定に通ずるものがあると言える。

また、第一項で述べた「男性への嫌悪感」には、このような「男性の視点」の忌避とも関係性があると考えられる。

例えばブログFでは、「俺は男。つまり、百合の世界では不純物だ。不純物が百合女子にそう言った感情(キャラに対する愛情)を持ってしまったら、そのキャラを汚してしまうような気がしてなぁ……。」という語りが見られた。この傾向は第一項で述べたような「百合」の世界における男性の存在に対する嫌悪感を表しているが、同時に自分という存在(男性)が女性登場人物に欲求を持つということへのタブー視もしている。自分自身が「百合女子にそういった感情を持ってしまったら、そのキャラを汚してしまう」という語りからは、自分自身が登場人物に対して欲求を抱くことでその「百合」作品を破壊してしまうのではないかという懸念が読み取れる。つまり、自分という男性が女性登場人物に欲求を抱くという、自分自身を起点とする「男性の視点」を否定している。作品自体に「男性の視点」という機能が意図して組み込まれる以外にも、自分自身が女性登場人物に欲求を抱くということ自体が忌避されているのである。

一方でブログAは、「百合」作品に一人でも男がでてきたら許せないかという問いに対し「作品は許す。男を許すかどうかはその男次第」といったように男性の登場そのものは許容している。重要なのはむしろその登場人物の男性が物語においてどのような役割を果たすかということであると考えている。これはブログAに限らず、「男性の視点」に対して嫌悪感を持つブログにおいてはおおよそ共通している性質である。

このように男性愛好家には「男性の視点」を忌避する傾向を持つ者がいる。しかし女性愛好家に関して見ると、「男性の視点」に対して嫌悪感を持つどころか、「男性の視点」を意識する語りそのものが見られなかった。「男性の視点」の忌避は、男性愛好家特有の傾向の一つなのである。

また、こうした「男性の視点」の忌避は、第一節で述べた「解釈ゲーム」にも関わっている。第一節第四項では、「百合」愛好家は「キャラ萌え」型の「解釈ゲーム」を行わないと述べた。その理由として、「男性の視点」が関わっている例が見られたのである。

ブログFでは、「あなたが一番好きな百合キャラは?」というテーマを与えられて書いた記事の中で、「俺は男。つまり、百合の世界では不純物だ。不純物が百合女子にそう言った感情(キャラに対する愛情)を持ってしまったら、そのキャラを汚してしまうような気がしてなぁ……。」という「キャラ萌え」的指向の否定とも取れる言説が見られた。

これは、自分自身が女性登場人物に対して欲求を抱くという形での一種の「男性の視点」を否定する語りである。特に男性の「百合」愛好家に限って見た場合、「キャラ萌え」の傾向があまり見られないのは、このような自分自身に対する「男性の視点」の嫌悪感も影響しているのだろう。

 

 

第三項 性描写の不要性

 

第二項では男性愛好家による「男性の視点」の忌避について述べた。ここで関連して注目したいのが、第三章で述べた【性描写】に対する意識である。

「男性の視点」を忌避する指向性の現れとして見られた傾向の一つが、露骨な性描写の忌避である。第三章では表2の項目【性描写】について、愛好家の全体としてあまり積極的に追求されていないことを述べた。ここで男性愛好家側に注目して改めて分析すると、男性愛好家はほぼ全員が性描写をあまり追求していないことがわかる。性描写を含むこと自体を無条件に否定するという愛好家はいなかったが、一方で「百合」作品内において性描写が用いられることに何らかの抵抗を持っていたり、性描写を否定しないがそれ以上に追求する物があるという傾向を持っていたりしていたのである。

前者の例として、ブログGでは「(性描写の含まれる「百合」作品を読むのは)平気だけどエロだけのものは好きじゃない」と語られている。性描写は積極的に追求しておらず、むしろ性描写ばかりが全面に押し出されているような、男性を意識したポルノ作品として作られた作品は魅力的ではないと語っているのである。

後者の例としては、ブログFにおいて「えっちシーンは、表現方法の1つとしてありだと思うが。えっちシーンよりキスシーンのほうが良いね」という語りが見られた。こちらも性描写を積極的に追求する様子は見られず、それ以上にキスシーンの方が魅力的な要素であるとしている。

このように男性愛好家の多くは性描写をあまり重要視しておらず、通常は男性が積極的に求めるはずの「男性の視点」という要素をむしろ否定し、場合によっては「百合」においてポルノグラフィティは不要だと主張している。これは男性の抱く傾向としてはやや特殊な指向性を持っていると同時に、「やおい・BL」との一つの大きな違いであるとも言える。

第二章では高橋(2005)の先行研究を元に、「やおい・BL」における「解釈ゲーム」ではキャラクターを「攻」、「受」の役割に固定し、これらの役割の割り振りは原則として同性同士の性交が要であるということを述べた。「やおい・BL」における「解釈ゲーム」は「攻×受」型が基本である。つまり、その設定の要とされる性描写も、自動的に「やおい・BL」において必須な要素となる。

「百合」においては性描写自体が不要とされており、「解釈ゲーム」も性描写抜きで成り立っている。この点は「やおい・BL」と比較して、大きな相違点であると言える。

 

 

 

第三節 女性愛好家特有の傾向

 

 第二節では男性愛好家のみが持つ特性について述べてきた。本節では引き続きジェンダー差がもたらす相違点に注目し、女性愛好家特有の傾向について分析していく。

本節でも、第三章の表2の項目の中に見られた、ジェンダー差による傾向の差を中心に分析を行い、女性愛好家の特性を考察していく。

 

 

第一項 女性登場人物の追求・性描写の歓迎

 

第三章では表2の項目【女性登場人物への意識】から、女性愛好家は女性登場人物を積極的に追求しているということを述べた。女性登場人物を積極的に追求している場合は表において「◯」と表記されるが、男性愛好家側はそもそも判断の根拠となる語りが少なく表記があまり見られないのに対し、女性愛好家の場合は全員に「◯」がついていたのである。

ブログKでは「百合」を好む理由として「とにかく女子が好きで、かわいい女子と女子が愛憎とか性欲とかに翻弄される姿が堪らんからです」と答えている。その他の女性のブログでもこのように女性の登場人物等に対して積極的に「可愛い」などの表現を多用しており、「百合」が好きな理由として「美少女キャラクターが好きだから」という趣旨の語りをする愛好家も多かった。しかし男性愛好家のブログではこのように直接的に女性登場人物を追求する語りはほとんど見られなかった。女性登場人物に対する欲求を表現するのは女性愛好家特有の傾向なのである。

また、合わせて注目したいのが、表2の項目【性描写】について、女性愛好家は男性と比べて性描写に受容的、もしくは歓迎的であったという点である。

第三章では表2の項目【性描写】について、愛好家全体としては否定こそしないものの積極的に追求する傾向も弱いということを述べた。だがこの傾向について男女別に分析すると、性描写を積極的に追求する傾向は女性愛好家側に集中していることがわかり、女性愛好家に限って見れば性描写はむしろ歓迎される傾向にあると言うことが出来る。

例として、「(性描写のある「百合」作品でも読むかという問いに対し)むしろ大歓迎」(ブログH)、「(上記と同様の問いに対し)むしろウェルカムです!新作の百合エロゲマダー?」(ブログL)というような語りが見られた。他の要素以上に性描写を追求するような語りこそ見られなかったものの、性描写を無条件に許容、歓迎する語りは男性愛好家には見られなかったものである。

女性登場人物の積極的な追求(少なくともそうした欲求の積極的な表現)や、性描写の無条件での受容・歓迎は、女性愛好家特有の傾向であると言える。では、なぜ女性愛好家にはこうした傾向が見られたのか、次の項から分析していきたい。

 

 

第二項 男性愛好家の場合との比較

 

女性登場人物の追求や、性描写の受容・歓迎といった傾向に共通しているのは、いずれも愛好家が女性キャラクターに対し欲求を抱き、それをブログ内の語りという形で表現しているという点である。

このような傾向が女性愛好家の間で見られる理由について、男性愛好家の持っていた特性と比較する形で分析する。

第二節では、男性愛好家は「男性の視点」を忌避するという傾向を持っており、それが露骨な性描写など、受け手男性の視点を意識した仕組みに嫌悪感を抱いているということを述べた。また、「男性の視点」の忌避には、自分自身が登場人物に対して欲求を抱くということそのものに対するタブー視も含まれていた。男性愛好家は「百合」作品から「男性の視点」を排除するために、自分自身の抱く欲求さえも忌避していたのである。

しかし「男性の視点」を忌避するというこの傾向は女性愛好家にはほとんど見られなかった。これは「男性の視点」という仕組みの忌避と、それに伴う自分自身の登場人物に対する欲求の忌避という傾向が、愛好家自身が男性であるからこそ生じていたものだからであろう。すなわち、愛好家自身が女性であれば、「男性の視点」が存在しない(男性の欲求に汚されていない)作品世界を自分自身の欲求によって壊してしまうことは無いのである。

女性愛好家は自分自身を起点とする「男性の視点」を忌避する必要が無い。自分自身の欲求が作品世界の魅力を損ねてしまうことを忌避していた男性と異なり、自分自身の欲求の表現を自重する必要がないというのが、男性愛好家と比較して見えてくる女性愛好家特有の傾向と言えるだろう。そのため、男性愛好家が自重している女性登場人物の追求や性描写の追求、その欲求の表現などを、自重すること無く積極的に行えるのではないのだろうか。

 

 

第三項 「相関図消費」型「解釈ゲーム」との矛盾

 

 ここまで、女性愛好家特有の傾向について分析し、女性愛好家は自身を起点とする「男性の視点」を忌避する必要が無いため女性登場人物を積極的に追求し、欲求を表現できるということを述べてきた。

しかしこのように女性登場人物そのものに対して欲求を抱くという傾向は、「キャラ萌え」型の「解釈ゲーム」があまり見られないという「百合」愛好家の特性と一見矛盾している。ここで、その矛盾点について解消しておきたい。

第三章では表2の項目【解釈ゲーム】から、「百合」愛好家が行う「解釈ゲーム」のほとんどが、キャラクター単体ではなくキャラクター同士の関係性に注目する「相関図消費」型であることを述べた。また、第一節の第四項では「キャラ萌え」型が見られない理由について考察し、勝山(2011)の述べた「キャラ萌え」型の特性である「キャラクター単体、特に「受け」キャラクターに対して「萌え」といった好意を感じることであり、性的なイメージを彷彿とさせるような外見・行為を好む」という指向性が、「百合」愛好家の持つ指向性と矛盾しているためであると述べた。

事実として、女性愛好家のブログの中でも「キャラ萌え」型の「解釈ゲーム」が見られたのは一件のみであり、それ以外は男性愛好家同様「相関図消費」型の「解釈ゲーム」が行われていた。すなわち、女性愛好家は女性キャラクターに対して欲求を抱き、それを表現しているが、特定のキャラクター単体に対し欲求を抱いて「キャラ萌え」型解釈ゲームを行うということはほとんどしていないのである。

確かに女性愛好家は男性愛好家と比べ、女性登場人物に対して「かわいい」や「萌え」といった表現を積極的に使っていた。しかしそれは「(特定のどのキャラクターとは言わない)女性キャラクターが好き」だとか、「百合」作品のある特定のシーンを見て、「「百合」的関係にある二人がかわいい」といった形での表現である。

例として、ブログHから以下のような語りが挙げられる。

 

「ダメじゃないよ そのままでいーんじゃん?」

   と、最後に乃莉が言ってそのシーンは終わったのですが・・・。

   いや、そのままのなずなでいいんだよ、と言っているだけなのはわかりますが

   百合的に考えても全く違和感がなくてですね

   「そのままのなずなが好きだよ」

   と言いたい乃莉ちゃんしか浮かばなくてですね

   私はとりあえず萌えすぎて耐えられなくなって、一回目読んだとき本閉じました←

   まじでかわいかったんだもの!

(ブログH

 

以上は、ある非「百合」作品を見たブログ作者による「解釈ゲーム」の一部である。確かに「萌えすぎて」や「まじでかわいかった」といった直接的な表現は男性愛好家の間ではそれほど積極的には用いられず、女性愛好家が積極的に用いる表現であったが、いずれも上記のように「解釈ゲーム」の一部で用いるなど、自身が特定の女性登場人物に対して欲求を抱き表現するという形で用いられる例は見られなかったのである。

女性愛好家が持つ女性登場人物に対する欲求という傾向は確かに存在するが、その対象は(特定のキャラクターを指定しない)「女性キャラクター」全般に対するものであったり、「相関図消費」型の「解釈ゲーム」によりカップリングが行われていることが前提であったりという条件付きのものであった。つまり女性愛好家は、女性キャラクター全般に対する「かわいい」などの感情を前提に「解釈ゲーム」を行うか、「解釈ゲーム」の結果を見て「かわいい」などの表現を用いているのであって、「キャラ萌え」型「解釈ゲーム」が見られないという「百合」愛好家全体の持つ傾向との矛盾は生じていないと考えられる。