第五章      考察

第四章の分析では、米国忍者作品の特徴として、戦闘性の強調、生まれを問わず修行でなれる存在、単独で悪と戦う存在、現代が舞台である、という四つの要素を挙げた。そして日本忍者作品について挙げた特徴は、集団行動という点と、三つのタイプの存在である。これらを利用して、松居の言うクレオール化とアメリカの忍者表象の形成について考察していきたい。

 

第一節 戦闘性の強い忍者

まず、米国忍者の戦闘性の強調という特徴は、諜報等の隠密活動と破壊活動とのバランスが取れた1960年代作品の史実タイプや、超人的技術を駆使して活動する漫画タイプとは合致しない。ここのみを見ると、米国作品における忍者は戦闘性が強調されており、クレオール化している、と思ってしまうが、エ・オ両作品に見られた、本来の忍者には含まれていない中国やアメリカなど異質の要素を付与することによってパワーアップするという、米国作品に同じように見られた特徴が80年代すでに日本には存在していた。この日本のエキゾチックタイプの表象と、アメリカの戦闘性の強調とは全く同じものである。よって、米国特有のクレオール化した特徴であるとは言えない。米国作品、そして日本作品のエ・オは、忍者の戦闘性が共通して強調されていたが、その戦闘性とは、漫画タイプのような超自然的な忍術の使用ではなく、肉体的な体術使用が主であった。これは1970年代から始まるカンフー映画ブームが影響しているのかもしれない。ブルース・リーやジャッキー・チェンによる一連のカンフー作品が1970年代に製作され、同時に世界的なブームとなって広がった。米国作品においては、中国の神秘的伝統であるカンフーと日本の神秘的伝統である忍者を混合させ、よりアジア的要素を強めた存在にするため、日本作品エにおいても、カンフーを習得した主人公が忍術をも会得することでより強力な忍者となっていた。日本では、この忍者とカンフー要素との結合が契機となり、忍者と他国の要素との結合が行われるようになったのではないだろうか。エのカンフー、オのアメフトと続き、以降様々な要素を取り入れることで、日本の忍者の戦闘性が押し出されるようになり、エキゾチックタイプとして設定した、戦士としての表象が生まれていったと考えられる。

 

第二節      修行でなれる忍者

修行でなれる存在として忍者が描かれていた日本作品はエがあったが、主人公は忍者の家の生まれであり、誰でもなれるという描写もされていなかったため、米国作品特有であると言えるだろう。米国作品において、全くの門外漢である者が忍者になるために行う修行の描写は専ら道場での組手や剣術、または開けた土地でフィールドアスレチック的な道具を用いて行われるということも特徴である。これは、鬱蒼とした山奥や人目のつかない場所での修行よりもいくらか神秘的ではなく現代的で、忍者ではない一般人にも忍者になるための門戸は開かれているということを示しているのではないか。Aでは物語冒頭の修行シーンにおいて、アメリカ人が忍者になるということに対し苦言を呈す日本人忍者が登場するが、師範はその日本人忍者に対し、外国人といえども忍術の極意を会得したからには正真正銘の忍者であると反論する。そして、忍術を修めた者は自身を師とし、のちの者に忍の法を伝えよ、と教える。これにより、忍者=日本人という公式は破られ、忍術の修行を積みさえすれば外国人にさえも忍者になる道は開かれているという表象が生まれた。日本人忍者の苦言通り、外国人が忍者になるということは当時のアメリカにおいても適当とは言えなかったのだろう。だからこそ、外国人でも忍者になれることを示すための修行描写が必要だったと考えられる。いずれにせよ、誰もが修行によって忍者になれるという描写は、米国作品のみに見られる特徴である。

 

第三節      単独行動で悪と戦う忍者

単独で悪と戦う戦士として描写されているという特徴は、日本作品においてはいずれも味方側に忍者の集団が描かれていることから、米国作品特有の特徴と言える。ただ、今回調査した作品には登場しなかったものの、日本の忍者作品には抜け忍という、忍者組織から抜け出し単独で行動する忍者が度々登場する。その抜け忍は得てして抜け出した忍者組織から派遣された追手と戦いながら孤独に逃走を続ける。ここで注意したいのは、米国作品における忍者は能動的に悪と立ち向かい、それを討ち滅ぼすことを目的として行動するのに対し、抜け忍は逃走し忍者組織から離脱することを目的としている点で異なるということだ。そうしたヒロイズムを持った存在として描かれる忍者は、アメリカの忍者表象特有のものである。打倒すべき悪を設定することの少ない日本の忍者作品は、忍者をヒーローとして描くことも少ない。悪役を設けているウ・エは、主人公の忍者がヒーローとして描かれていると言えるが、集団で行動しているという点では他の日本忍者作品と共通していた。米国作品における主人公の忍者は、単独行動という点が強調される。何らかの問題が発生し、忍者が悪の組織の存在を知覚する。そしてそれを滅ぼすために行動を起こす。また、ACなどは悪によって困難を強いられる第三者が存在し、忍者が救世主のように描かれることもあった。単独行動・勧善懲悪という特徴は、忍者にヒーロー性を付与し、強調して、スーパーマンのような存在として描写している。

 

第四節      現代が舞台

米国作品には、いずれの作品にも現代に存在する忍者が描かれていた。吉丸(2012)が指摘するように、本来の「忍びの者」が活躍したとされるのは南北朝時代から戦国時代にかけてであるとされているため、史実の忍者の文脈からは引き剥がされていると言えるが、日本作品においてもウが現代を舞台としているため、米国独自のクレオール化した要素とは言えない。しかし、日本の忍者作品の多くが時代物である一方で、全てが現代を舞台としているという点は、米国作品における大きな特徴の一つと言えるだろう。

 

第五節      まとめ

以上から、誰もが修行でなれる存在である、単独で悪と戦う存在である、という二つが米国作品特有のものである。つまり、クレオール化が行われたのはこの二点である。戦闘性の強調については、米国作品の強烈な特徴ではあったが、クレオール化が起きているとは言えない結果となった。米国忍者作品には違和感を覚える忍者描写が時折出現するが、それら全てがクレオール化したものとは限らないということに注意したい。

本来、日本作品においては、忍者になるためには忍者の家に生まれて修行を受ける、子供の頃に偶然忍者に拾われ訓練を受けるなどといったプロセスが必要であった。そこには偶然性が多分に含まれており、誰でも忍者になれるものではなかった。しかし米国作品内においては、忍者となるための場というものが設定されており、そこでは誰彼関係なく入門して修行をし、免許皆伝を言い渡され忍者となる、という描写がなされている。そして、システムの一部として、道具として、己の命を顧みない自己犠牲の塊であることを忍者自身が自覚して任務遂行を目指す日本の忍者とは異なり、米国作品の忍者は単独で巨大な敵に立ち向かい、絶対に負けないヒーローのように描かれる。これら二点の表象は日本独自の忍者表象から引きはがされ、米国仕様にアレンジされているという意味で、クレオール化していると言える。

今回の調査では、日米両国の忍者作品について、作品内で忍者がどのように表現されているか、作品ごとに見ていき、また作品の相互の関連を探ることで、両国の忍者表象にどのような特徴、関連性が認められるかという調査を行ってきた。上述の二点のクレオール化した忍者表象と、日本にすでに存在した忍者表象とが組み合わさってアメリカの忍者表象が形成されていった。日本作品においても、時代を経るごとに新たな要素を付け足し、忍者表象は変わっていった。小説、映画、コミック、ゲーム等、メディアを問わず毎年新たな忍者作品が世界中で製作されている。定まった形を持たないが故に、忍者は人々の想像の介入を許し、自由な創作へとつながるのだろう。今後、忍者の更なる進化に期待したい。