第6章 考察

本論文では、矢原(2007)の“トークン”という概念を起点として、保育職に就く男性は、職場でどのように男性らしさを扱い、働いているのかという疑問から調査を始めた。男性看護職員は、その場その場で男性性の不可視化と可視化を行なっていると述べられていたが、男性保育者でも調査からわかるようにそれが認められる。男性看護職員は患者からの“男性”という見方から不可視化戦略が行なえないのに対し、男性保育者は子どもたちからよりも、むしろ周りの同僚や保護者からの“男性”という見方をされるため、不可視化戦略が遂行できない。また第4章で述べたように、可視化戦略は保育職が女性職として現に成り立ってきたという文脈に照らしても限界があるため、ある程度までしか遂行できない。その結果、男性保育者は2つの戦略をその場その場で場当たり的に行わなければならず、不可視化戦略と可視化戦略の混じった戦略を行なうことになる。

その点を踏まえて本稿では、男性保育者の会Xを事例として、男性保育者同士が集うことは、彼らにとってどのような意味を持ちうるのかを分析した。彼らがイベントを開催する目的として、男性保育者の認知度を高める、魅力を伝えたいというものが挙げられた。しかし、イベントの中で行われている内容は“男性らしさ”が少なく、男性性を強調しているようには感じられない。むしろ技術向上という目的が強いように思われる。保育技術向上が少数者としての男性保育職にとって持つ意味として、@トークンであるがゆえに遅れがちな保育技術を補うことにつながること、A職場での不可視化戦略につながりやすい、という2つが挙げられた。@は、孤立感を抱く保育技術のない新人の男性保育者にとっては有効である。女性保育者とコミュニケーションがうまく取れず、距離を置いていたために遅れていた保育技術を補うことができ、孤立感の軽減につながるだろう。

またイベントで保育技術を向上させることは、保育職は本来個人差であるとする不可視化戦略につながっている。

1990年代まで男性の保育者が少なかった要因の一つは、保育職は女性が向いているという風潮があったからである。しかし、本来保育に男女の能力差はあるのだろうか。今回の調査を通して、保育における男女の向き不向きがあるとは感じない。そのことを考えると、保育に性差の違いを強調する必要はないと思われる。性を強調する必要のない職業ならば、可視化戦略は邪魔な存在となり、不可視化戦略を遂行することが本来あるべき姿であるといえる。しかし、不可視化戦略を妨げる同僚や保護者からの“男性”と言う見方は、完全にはなくならない。少しでもその要因をなくそうと、個人の能力を上げ、保育は個人差で評価されようとする男性保育者の会Xの不可視化戦略の強化は、妥当な戦略といえるのではないだろうか。

ところが、男性保育者の会Xの保育技術向上という方針を新人の男性保育者に訴えかけても、それを魅力と感じない人も多いという。男性保育者仲間の集まる場に参加せず、交流を持とうと行動しない人が多いことが問題点として考えられる。実際、Aさんらが入会を勧めても入らない男性保育者もいる。そのような人たちは、トークンであるがゆえに保育技術が遅れがちになってしまうということ自体におそらく気づいておらず、技術が向上しても孤立感の軽減につながるとは思っていないのだ。男性保育者の集まる会に参加せず、職場で抱えている孤立感を軽減しようと努めていない人こそ“真の孤立”といえるだろう。そのような人を少なくするためにも、男性保育者同士の交流の場をより多くしていき、参加を働きかける必要がある。

保育職は子育てに近い部分があり、本来性別に関係ない職業である。近年では“イクメン”といった言葉が流行語大賞のトップテンに入るなど、男性の育児参加は注目を浴びている。そうした状況を考えると、同僚や保護者の側からも“男性”という見方は次第に消え、保育職=女性職といったイメージはなくなっていくかもしれない。それに対応する変化が保育職の内部からも起こることを期待したい。