第二章 先行研究

 

山室圭介(2007)において、外国人の生徒達は日本語での会話能力は高いにも関わらず、学習面では日本人の生徒に劣ってしまうといった問題について触れられている。著者が出会ったBというブラジル人の小学生は、学校や家での出来事を上手に日本語で説明できたにも関わらず、算数の文章題を解く場面では、文章を読んで理解し、計算式を作るということができなかった。

このような問題についてアレッセの代表者である青木由香(2013)では、会話能力は十分に見えても、学習に必要な言語能力は未発達であるという点を教員などの大人たちが見落としがちであるということを指摘している。大人は、一見すると、子ども達は日本語を使いこなしているため、彼らが授業についていくことができない理由を「ちゃんと授業を聞いていないから」などと判断してしまう。その結果、子どもたちは日本語能力が不十分であるまま日本語教育を打ち切られてしまうため、授業にはとてもついていけなくなってしまい、学習意欲すらも失ってしまうのだ。

では、なぜ外国人児童たちは日本語の会話能力のみしか向上していかないのだろうか。太田晴雄(1995)において外国人児童が最初に日本語を学ぶ場所である「日本語教室」について説明されている。日本語教室というのは、文部省が1992年度より開始した、日本語能力が極めて不十分である生徒が在籍する学校に、日本語や学習の指導を担当する教員を配置するといった制度である。具体的には、特定の授業時間に外国人児童を別室に移動させ、そこで日本語や各教科の指導をするといったものである。日本語能力が大きく関係していると考えられている「国語」「社会」「理科」の時間に日本語教室を行う場合が多い。この日本語教室は児童らにとって最適な支援なのかというと、現状ではそうとは言えない。児童たちは半年から1年も経過したら、日本語を使い、日本人の子どもと一緒に遊ぶことができ、一対一ならば教師と意志の疎通をはかることもできるようになる。しかし、その段階では生徒たちはまだ授業についていくことは困難である。では、日本語教室では授業についていくことが可能なレベルまでの支援ができるのだろうか。子どもたちが原学級から抜け出して、参加する日本語教室では継続的な学習支援は難しく、また、学年や日本語の理解力が異なった児童が複数参加することも少なくなく、専任の教員1人では対応しきれない。つまり、生徒たちは日本語能力が十分に発達する前に日本語教室による支援を終えてしまうのである。

授業に対応できる日本語能力というのはどのようなものなのだろうか。これについて、「言語能力」を用いて説明する研究がある。眞砂薫(2012)では、Cummins(1980)が提唱したCALP(Congnitive Academic Language Proficiency)とBICSBasic Interpersonal Communicative Skills)という概念を用いて説明している。CALPとは情報整理や理論的思考に必要な学習言語能力であり、もう一方のBICSは日常生活における最低限度の会話能力である。ただ、CALPが読み、書きの能力で、BICSが会話の能力というわけではない。CALPは読み、書き、そしてもちろん会話も含めて論理的思考が必要とされる高度な能力であり、BICSは読み書きには対応できない日常会話レベルの程度の低い能力なのである。BICSが日常会話などにより短期間で発達するのに対して、CALPは「読み、書き、考える」といった学習訓練によって長期的に養成しなければ発達しない。外国人児童らはBICSが発達しているために会話のみは日本人のようにこなせるが、CALPが未発達であるために学校の授業にはついていけないのである。また、これらの能力は、日本語のCALP/BICS、中国語のCALP/BICSといったように、各言語ごとに異なるものではない。これらはすべての言語に共通する基盤となる能力なのである。眞砂はこのCALP/BICS理論を用いて、まずは母語によってこれらの言語能力を養成することが、第二外国語を使いこなすことに繋がっていくのであると主張している1。つまり、多くの外国人児童らは幼少期に来日したために、母語も熟達していない段階で日本語を学ぶことになる。長期的な学習によってのみ発達するCALPは未熟な母語や覚え立ての日本語では発達させることは難しい。そのため、短期間で発達するBICSのみが成熟してしまうのである。

 CALPBICSはこのようにわかりやすく児童らの学習不振の問題を説明することのできる概念である。しかし、この概念のみで学習不振の問題を説明することができるのかは疑問である。これらのCumminsに続く研究の中で、日本語だけでなく母語も重視すべきという点に気づかされるが、CALPの未発達は児童らの学習不振の単一の問題ではない。後の第四章、第六章の内容になるが、私が調査した中国人児童のFは幼稚園に通う年齢で来日しているが、家庭内では母語のみを使用し続けている。彼は学校の成績も非常に優秀であり、これは、母語を使い続けることでCALPをしっかりと発達させたためであると説明することができる。しかし、同じく中国人児童のEは成績はFに劣らず優秀なのだが、家庭内では母親とは中国語で会話しているが、父親とは日本語を用いて会話している。しかし、家庭内で徹底して母語のみを使用し続け、母語の能力を成熟させることがCALPの発達に不可欠とあるが、このEのパターンはそれには当てはまらない。また、ペルー人のTは小学校低学年の時期に来日し、家庭内ではペルー語を使用し続けているが、成績は決して良いとは言えない。以上のように母語使用による問題によって学習不振の問題を説明できるケースもたしかに存在するが、これに当てはまらないケースも少なくない。また、第五章で述べるブラジル人の児童については、日本生まれ日本育ちでありながら、家庭内では家族がポルトガル語を使用し続けているために、どちらの言語も同時に習得し始めるという、母語が曖昧なケースが多い。このような場合はこの理論に基づき、家庭内では母語を、それ以外の場では日本語を用いてCALPを発達させるといったことは不可能である。

 以上より、CALP/BICS理論は児童らの学習不振を説明するための万能な概念ではなく、1つの要素と考えるべきである。これをふまえて本論文では、CALP/BICS理論ではすくいとれない学習不振の要因を明らかにしたい。詳しくは後で分析するが、それらの要因は児童と環境との間にある問題、言いかえれば、児童が学校や家庭で生活を少しでもスムーズにいくように切り抜けるやり方に関係がある。そのような部分に迫るためには、彼らの生活について観察すると同時にねばり強く聞き取っていく調査が必要である。そこで本論では、アレッセ高岡(高岡外国人の子どものことばと学力を考える会)という外国人生徒へ学習支援を行うボランティアグループに長期に亘って参加し、児童たちと直に接することでこの問題を調査した。