第四章 「専門家」になりきれない(なろうとしない)介助者たち

 

 本章では介助者へのインタビューをもとに介助の専門性に関する意識を分析していく。

 

第一節 AさんとBさんの介助者としてのライフストーリーに見られる相違点と共通点

 

 Aさんは個人で障害者との付き合いがあり、そこから障害者のグループに参入し、人付き合いの延長として介助を始めた。その後、グループのメンバーが中心となり、NPO法人文福が設立され、Aさんも文福に参加するよう勧められ、常勤スタッフとなり仕事としての介助を行うようになった。それに対してBさんは研修を通して初めて介助を知り、それをきっかけにアルバイトから介助を始めた。二人の介助者になるプロセスは、Aさんが無償の人付き合いとしての介助からスタートしたのに対し、Bさんは研修を受け、有償の、仕事としての介助からスタートしている点で異なっている。しかし、Bさんは文福の常勤スタッフとなったきっかけについて「ある人から猛烈にプッシュされた」と語っている。仕事として介助を始めたBさんであったが、文福の常勤スタッフとして介助を続けていくにあたっては障害者との関わりを意識しており、介助に対して人付き合い、あるいは人として関係を作ることへのこだわりを持っている。そのため、AさんとBさんでは介助者となるプロセスは異なっているが、二人とも介助に「人付き合い」を重視しているという共通点がある。

 また、介助の給料についての考え方にも共通点が見られる。Aさんは介助に給料が出ると意識すると、利用者との関係が仕事上の付き合いになってしまうのではないかと感じており、給料額についても多くても少なくても構わないと語っている。Bさんも介助の給与額に関しては、介助の内容と金額を結び付けようとしておらず、現在の給与に関しても過不足は感じていないと語っていた。Aさん、Bさんともに「お金をもらっている」ということにあまり重い意味付けをしようとしていない。それはおそらく「高いお金をもらうにふさわしい」介助の内容を求めることにつながりかねないからではないだろうか。二人にとっての本来理想的な介助者と障害者との関係は、あくまでAさんが重視するような「人付き合い」であり、Bさんが語ったような「近所に住んどる人でも」できるようなものである。そこに金銭による報酬が加わることを二人は決して否定しておらず、特にBさんは「責任感」という積極的な意味も見出している。とはいえ、そうした意味を超えて介助という仕事に特別な価値をもたらす、質を与えることに対して二人は抵抗感を持っているように見える。このように、二人は「人付き合い」を重視した介助を行っているため、個人の「人付き合い」の関係が「仕事」としての関係になってしまうことを警戒し、意味づけをしようとしないのだと思われる。


 

第二節 介助の資格および専門性に対する意識

 

 Aさんは介助を始めた当初、ヘルパー等の資格を有していなかった。しかし、そのことが介助に影響したり、不自由があったりといったことはなかったようだ。介助をするにあたって不安もなかったと語っている。

 また、介助をするにあたって、資格を取得し、初めて認可が下りる、いうシステムが必要だと感じているか、という問いに対しては以下のように答えている。

 

稲家:今実際に働いてみて、介助っていう世界に入る時に、資格であったりとか、専門的な教育を受けてようやく認可が下りるって・・そういう制度って必要だと思います?

A:うーん・・・うん。制度上は必要なんだろうけど。資格っていうのもその人のある程度の目安でしかないから。すごい資格を持っている人でもちょっと人間的に不器用すぎたりだとか、あるし。資格を持っているから、介護給付を国に請求できる・・・自分が介助に行った時間を国に請求できるとか・・・そういうシステム面では必要なのかな、とは思うけれど。まあ人となりというか・・・仕事したり生活していく上でそんな資格はあってもなくても、あったらあったで目安でしかないっていう考え方で・・・うん、そういう経験をした・・・資格を取るっていう経験をしたんだっていう目安なだけだから。うん。

 

この語りから、Aさんが介助に資格を重視していないことがうかがえる。Aさんは資格をあくまで目安と考えており、介助者としての資質はまた別のところにあると感じているようだ。資格の意義は介護給付金などの面であると感じてはいるが、資格で介助者の資質を判断できないと感じている。Aさんは介助をすることに対して、どんな技術ができるかに落とし込む必要はないと考えており、人柄を重視している。そのため、介護技術の指標である資格で介助者の資質を定めることに抵抗感を感じている。

BさんもAさん同様、介護、介助に関する資格を持っていなかった。資格を持っていないことについて、Bさんは不安に思う時もありながら、それが逆にプラスになったとも感じていた。Bさんは資格も介護に関する知識もない状態で介助を始める方が、先入観がなく良いのではないかと語っている。資格取得のプロセスについての問いでは以下のように語っている。

 

稲家:実際介助の場に出るにあたって、事前に学校とかに通って、その勉強をして、認可をもらって、実際の現場に入る、プロセスは必ずしもないと思いますか?

B:あー…プロセスねぇ……認可を得るって、たとえばヘルパー2級とかを取って、在宅行くみたいな感じ?

稲家:そうですね

B:……まあ、うーん、いる…とは思うけど、ちょっとここ最近はやり過ぎでないかな、という気が。何でもかんでも専門的であろう、っていうのは、やりすぎかなぁっていう気が、します。敷居が高くなりすぎるとね、なかなか入りにくかったりするしね。

稲家:そうですね()なんか。初めのイメージは特に。

B:はい。

稲家:そういった意味でも、あの、専門化…していくってのは、どこか問題があるように感じますか?

B:うーん(3秒沈黙)問題…そうだね…やっぱどことなく、プロ意識というか、専門意識を持ちたいっていう願望が強いんだろうね。よくわからんけど()。なので、そう思ってくればくるほど、自分は専門的だからって、いちばん身近なことができなくなってくると本末転倒かなって、気がします

 

 この語りからBさんは介助が専門化していくことを警戒していることが読み取れる。Bさんは介助が専門的になると一番身近なことができなくなると語っている。「身近なことができなくなる」とはどのような事態なのだろうか。専門的になるということは介助に効率性を求めたり、介助の内容にについて「これ以外のことは出来ない」といった限定性をもたらす恐れがある。そのような意味でBさんは介助に資格が重視され、専門性が求められることで、介助者が身近な存在でなくなることを危惧しているのかもしれない。

 Aさん、Bさんともに介助を始めた時にはヘルパー2級等の資格は持っていなかったが、介助に支障が出ることはなかったようだ。また、Aさんは介助をするにあたっては付き合いや人柄を重視し、どんな技術ができるかに落とし込む必要はないと考えていたし、Bさんも介助に資格制度が持ち込まれることで、介助者が身近な存在でなくなる問題が起きることを危惧していた。このように二人は資格制度によって、介助の人付き合いの面が失われることを警戒しているようだ。

そして、介助は専門的な仕事か、という問いにはAさんは非常に悩みながら以下のように述べた。

 

稲家:介助は専門的な仕事だと思いますか?

A:……うーん(4秒沈黙)うーん(3秒沈黙)うん。うんまあ今の世の中では、専門的…として見られる、…し、実際そうなんだろうけど、……うーん(3秒沈黙)うん……うーん…うん、そうやね、専門的やね。うん。

 

 Aさんは長い沈黙をはさみながら、介助は専門的な仕事であると答えた。この問いに対して沈黙を置きつつ悩みながら答えたのには、Aさんが介助を専門的な仕事だと位置づけることに対して違和感を抱いているからではないだろうか。その違和感については介助を人付き合いの延長として行っていた時のやり方についての以下の語りから内容が推測できる。

 

A:同行とか、自分が関わってた時は、無かって……具体的に、わかる話をすれば、Cさん(身体障害者)のところに入っても、Cさんが、僕は足が使えるから、足で支えれるから、体持ち上げてって言って、Cさんが車椅子移乗を指示してて、で、おれがこうですか?って、初めて持ち上げて車椅子移乗したときも、それはCさん自身の指示で、他に誰もいなかったりとか、そういうやりかたでの、介助…っていうのをやってて。それが本来、その人自身が責任を持ってやることだから……うん。なんかその形が一番自然なんじゃないかなぁと、いうのは(ある)。指示を出す障害者が責任を持つっていうので。

 

 人付き合いの延長で介助を行っていた時は、障害者自身がやり方を含めて指示を出し、その責任の所在も障害者自身にあると語った。AさんはCさんにやり方を確認しつつ介助をしており、Aさん自身もそれが自然なやり方だと感じていた。介助の経験がないAさんであったが、やり方についてはCさんが指示を出し、責任も障害者自身が取るためAさんも自然な形で介助をすることができた。専門性については以下のように考えている。

 

A:基本、障害者自身の人が指示だして、指示を出すのはその人自身だから、責任は障害者の人自身にあるっていう…のがあるから、別に誰でもできるっていったらできるし、専門……専門じゃ、専門性……でない世の中に……していこうと思ったら、していく努力はできるんだろうなぁって…うん、たとえば、近所の人が介助に入るとか、隣の人が、じゃあ明日の夜来るわーみたいな……そういうなんというか…うーん……文化住宅みたいな……関係なんで、まちなかも…うん。

稲家:地域ぐるみで支えていくっていうのも一つの…形ですかね?

A:なればいい…けれども、それがうまくいってないから、専門性が必要とされたりとか……するん……だろうなぁって。

 

 Aさんは「介助は誰にでもできる」と語っている。Aさんは知り合い付き合いから介助を始め、福祉に関する資格も知識もない状態で介助を行っていた。介助の基本は障害者が自ら責任を持って指示を出し、それを行うことであるため、Aさんは資格がない状態でも介助をすることができた。また、ベテランの介助者であるAさんだが、長く介助を続けてきたが故に、その日、その場、その人によって変化する介助の難しさを感じ、障害者の指示を介助の初心者のように聞くことの重要さを感じてきたのではないだろうか。これらのことからAさんは介助のベテランであるにも関わらず、「介助は誰にでもできるものではない」と感じておらず、介助の専門化に違和感を抱いているのだろう。

 また、Aさんは介助が誰にでもできるからこそ、近所の人が介助に入るような素人介助が行われることを望んでいる。しかし、専門家が介助を行うようになると、そのような知り合い付き合いの介助の機能は薄れていきかねない。現状ではほとんどが資格をもつ介助者・介護者による介助であるが、Aさんは近所付き合いで介助が行われるような社会に変わっていってほしいと考えている。

 一方で、Bさんは介助に専門的な技術はあるか、という問いに対し、生活に必要な程度の知識があればよいと語った。以下はその語りである。

 

稲家:介助っていう、特定の専門的な技術とか技法とかってものは、特にないと思いますか?

B:いや、あると思います。基本的なものは

稲家:基本的なものは?

B:うん、あの身体介護でも…あると思うし、……まあ人間のマナー的な、最低限の マナーとか、米のとぎ方知らんって言ったら、怒られるよね()さすがに。まあなんかそういうこととか、…まあちょっと医療的なこととか、必要な人には、それなりの医療的知識も多少は知っといた方が…うーん。ちゃんとできるぐらいには、そうかなって思います。

 

 Bさんは介助をするには、生活で身につく程度のものであるが、基本的な技術や知識が必要だと考えている。しかし、そのような介助の技術の存在を認めつつも、介助は専門的な仕事か、という問いに対して以下のように語っている。

 

稲家:介助は専門的な仕事だと思いますか?

B:いやー難しいねぇ。…その人にとって専門的かもしれない。ただ、介助…介助するっていうことに、プロは無いと思うけど。常にアマチュアであれば、いいんでないですか?わかんないけど()

稲家:なるほど()

B:わかんないです()

稲家:やっぱり、その場その場に応じた柔軟なやり方とかが…必要だと思いますか?

B:うん。だって介護保険の…ヘルパーさんと違って…うちらはやることが決まってないよね?

稲家:はい

B:あの、一時間以内にメシ何品作って、洗濯してっていうことは決まっていない、その日その日その時その人によって違うわけやから、それはなんか、こり固まった考えじゃ、ちょっと辛いんじゃないかなぁ、って思います。

 

 介助の基本的な技術は簡単に習得できるものだと考えているが、それを身につけても介助はできないとBさんは考えている。介助はその時々に応じて内容が変化し、たとえ同じ利用者だからといって、常に同じ介助が求められることは無い。そのため、特定の専門性を確立し、それに基づいた介助をすることはできない。だからこそ、介助には障害者の指示をしっかりと聞き、先走ることなく、障害者のペースに合わせて介助をするアマチュアのような心構えが必要であり、介助のプロは存在し得ないのだと考えているのではないだろうか。

 このように、Aさん、Bさんともに実際の介助の体験をもとに、介助の専門家になることを志向せず、常に素人のような、障害者の指示に耳を傾けられる介助者になれるよう意識している。