6章 考察

 

1節 アイドルとしての活動

 

 バーチャルアイドルの活動の場所は、今やニコニコ動画などの、ネットの中のみに限らなくなっている。夏の終わりの39祭りではミクをウォータースクリーンに投影し、3Dで動くミクを見せながらでライブイベントを行なっていた。そのためイベントは、実質的には現実のコンサートと同じような様相を呈している。このイベントで興味深いのは、VOCALOIDには歌い手という格好のパフォーマーが存在するにも関わらず、あえて3D映像のミクがメインの歌い手として活躍する場を与えられていることである。5周年記念とゲームのプロモーションという理由こそあれ、歌い手を差し置いて、ウォータースクリーンという大規模なセットまで組んで3次元でミクを歌わせたことは、VOCALOIDというコンテンツにおいて大きな一歩だったのではないか。ミク自体に関して言えば、今まで2次元のネットの中でのみ活動していたところを3次元の現実に躍り出たことにより、アイドルらしさが一層強まったように感じる。3次元の場での活動は、ネットを介したミクと視聴者達の無数のマンツーマンのやりとりの集まりではなく、ミク対会場に集まったファンという、現実のアイドルと同じような一対多のやり取りを可能にしたからである。このイベントはミクに現実のアイドルと同じような舞台でのライブというアイドル活動の場を与えたという意味で、非常に大きな意義のある出来事である。

 アイドルマスターに関してはネットの中から抜け出すことはまだできていないものの、逆にネット独自の発展をした。現実世界でライブが行なえないなら、ネットの中でそれをやろうというのである。ハルカニは基本的にニコ生で行なわれるが、生放送なのでもちろん一つのチャンネルを視聴できる期間には限界がある。期間を過ぎればそのチャンネルは二度と見られないようになる上、リアルタイムで見ようとすれば時間的制約はさらに厳しいものとなる。ニコニコ動画のコメントには、あたかも見ている人全員が時間軸に関係なくリアルタイムで視聴しているように演出する、疑似同期の効果があるため、基本的に動画の視聴には時間を決めて行なう生放送形式より、時間に縛られず皆が好きなタイミングで見られる通常のニコニコ動画の形式の方が適している。実際ハルカニに投稿される動画は図5のようにニコニコ動画で一般に見ることができるため、時間的なことだけ考えればニコ生を選ぶ理由はほとんど無い。

 

(5 けまりP,2013-8 「『765PRO ALLSTERS スペシャルメドレー』 LIVE in HaRuKarnival'13 アイドルマスター」より)

 

しかし生放送であるニコ生のコメントは、本当にリアルタイムであるため、視聴者同士の一体感を一層煽りやすい。ハルカニがニコ生の形式をとったのはここに起因するのではないか。あえてリアルタイムで行なうことによって演出されるリアリティや一体感を以って、ただの動画群の視聴をライブやコンサートと同様の臨場感を持ったものに引き上げようとしたのではないか。現実でできないならネットで、しかし可能な限り現実に近く。P達のそうした意識が、ハルカニを、規模こそ小さいが現実のコンサート同様の盛り上がりをみせるまでに至らしめたのである。

 いずれの例をとっても、バーチャルアイドルが現実のアイドルと同様にアイドルとして活動できる場が、公式にしろ、ファンの手にしろ、積極的に作り出されていることは確実である。

 

2節 用意された設定と作り出される設定

 

 バーチャルアイドルには、設定面で白紙の部分が必要であることはこれまでに述べた。しかし完全に白紙でいいと言うわけでもない。そこには最低限度の基礎の用意、すなわち「お膳立て」が必要なのである。

 ミクは設定面では限りなく白紙に近い状態で生まれてきた。しかし絵と声と、身長・体重・音域など、最低限の設定だけは公式によって用意されていた。この生まれ方はミクが現在に至るまでに、数え切れないほど二次創作されてきたことと無関係ではない。もし白紙の状態から何かを一から作り出そうとしても、たいていの人は手を付けられず途方にくれてしまうだろう。しかし、ベースとなる設定が最低限存在していれば話は別で、人間はそうした少ない情報からでも多くのことを想像し、または今ある設定を操作して自分なりに作り上げることができる。そして設定が少なければ少ないほど、新しく設定を想像・創造する余地は大きくなる。むしろ、ユーザーが新しく設定を付与したり操作したりするために、わざとそうした余地を多くしてあるのである。つまりミクはあくまで、ユーザーが設定を操作するための雛型にすぎないである。しかしこのミクの余白の多さが、声や絵を交換可能なとてつもない操作可能性に繋がり、Pごとに違うミクが生まれると言った事態に繋がったのである。

 ミクの設定がユーザーの操作可能性を優先して最低限度なのに対し、アイドルマスターのアイドルはリアリティを優先して細かな設定が付与されていた。これは一見すると対になっているようにも見える。しかし、アイドルマスターのそのしっかりしているように見える設定にも、ある程度の余白は残されている。10人以上ものキャラクターが登場するため区別しやすいようなキャラクター付けはされているものの、それは区別に必要な最低限度のものである。さらに第5章第2節の図のようにキャラクター単体で見ると、その個性は意外とあっさりしており、リアリティとある程度のいじりやすさの両立がなされている。第5章第4節で触れたような、ユーザーの操作によって春閣下が生み出された事例は、そうした弄りやすさに要因があったのだろう。

 

3節 「操作できること」の意味

 

初音ミクとアイドルマスターの二つに共通して言えたことは、どちらも「設定が操作可能」なことだった。前者は声や映像といった「要素」を、後者は育成するアイドルの歌唱力や表現力、または歌う曲や衣装といった「ステータス」を操作することが出来る。この「操作」という要素が、バーチャルアイドルという存在において大きなウエイトを占めている。何故なら「操作」できるということは、同時にその対象を「所有」できるということに等しいからである。

現実のアイドルの場合、その所有権は芸能事務所にあり、そうした事務所や関係機関の意向で、アイドルの身なりや行動、性格などのステータスが決まってくる。ファンの要望が反映されることなどほとんど無い。しかしバーチャルアイドルの場合は、ソフトを入手しさえすれば、そのユーザーはそのアイドルの所有者になることが出来、気に入らないところを操作することでその人が望むようなアイドルに仕立て上げることが出来る。逆に言えば、そのような簡単な手順だけで、バーチャルアイドルは誰のものにでも、それでいてそれを手に入れたユーザーだけのアイドルになってしまうのである。

また平沢進(平沢・富田2008)は、ミクというバーチャルな存在の所有に関して、「『100パーセント所有できるけれども、所有した対象に対して何の責任も取らなくてよい』というところに妙な感覚がある」、と言っているが、そのように所有していながらもその対象に対する責任が生じないのも、バーチャルアイドル特有の現象だろう。そしてそれによって無責任な完全支配ができることこそ、初音ミクの魅力の一つなのではないだろうか。

アイドルマスターは、初音ミクのような自由度の高い操作はできないものの、代わりにRPGによる疑似的な一体感によってそれを補っている。アイドルを導く立場である芸能プロデューサーの立場という設定で、アイドルと同じ時間を過ごすことで、そのアイドルのステータスのみならず人生までも自分が握っているような感覚にユーザーは陥る。初音ミクに比べると比較的リアルなそんな「所有感」こそ、アイドルマスターのユーザーの感じる魅力なのかもしれない。初音ミクの所有を「無責任な完全支配」とするなら、アイドルマスターのアイドルの所有は「責任重大な支配感覚」と言えるだろう。

 

4節 まとめ

 

基本的なスタンスとして、バーチャルアイドルは設定よりもユーザーの創造性を優先することは間違いなさそうである。ユーザーが最低限の設定という基礎を基に、余白の部分を、アイドルを操作することで自分の手で生み出す。それがバーチャルアイドルをプロデュースすることなのである。

ここまで調査・分析・考察してきて思ったのは、バーチャルアイドルに関連する公式やファンの活動が、想像以上に活発だったということである。初音ミクはその操作可能性から多くの人を引き付け、時には公式の後押しも借りながら、P達に二次創作という形で設定を操作されることによって様々な発展を遂げてきた。アイドルマスターのアイドルは、ある程度の余白を残した状態でPに現実のプロデュースを疑似体験させ、そしてP達の試行錯誤によって、ネットの中限定ではあるものの独自の活動の仕方を確立した。二つのアイドルは、道は違えどもユーザーの盛んなプロデュース、すなわち操作によって、現在の形にまで進化を続けてきたのである。そしてファンや公式といった外部からアイドル活動の場を与えられ、現実のアイドル同然に活動しているのである。今やバーチャルアイドルはただのアニメやマンガのキャラとは違い、人々からは現実の、生身のアイドルに近い扱われ方をされており、またそうした生身のアイドルに迫りつつあるとも言えるのである。