3章 先行研究

 

平沢進(平沢・富田2008)は、VOCALOIDがメーカー側の設定したパッケージやキャラクター性を自在に操作できることに注目している。例えば、100%自作の物をコントロールする場合、自作であることを知覚した時に所有者の興が冷めてしまうことがある。しかし、メーカー側によって最低限お膳立てがされているVOCALOIDには、そうした心配は全く無い。そうした「外在する物がやってきて、それを責任を負うことなく所有できる」ところが、VOCALOIDの需要の鍵であるとしている。また現実の女性に個人の理想の女性像を投影する場合にはコミュニケーションの必要性や責任、理想との食い違いが生じるが、コントロール可能なVOCALOIDはそうしたリスク無しで女性像を投影するための対象でもあると述べている。

さやわか(さやわか2008-12)は、ミクの内面と背景が排除された空白の状態を、ユーザーが自由に想像し物語を創造するための配慮だと述べている。さらに、80年代アイドルがアイドル個人の現実的な要素からそうした空白を維持できなかった事例を挙げ、ミクはそうした失敗を踏まえ初めから実体を排して作られた架空のアイドル「芳賀ゆい」の発展型だとしている。

さやわかはまた、ミクの二次創作について、多様化した要因を二つ挙げている。一つは声や絵といった要素の結びつきの弱さからくる代替可能性である。普通のキャラクターの場合、原作等でまず絵を与えられ、その次にアニメ化によって声を手に入れるという順序がある。しかしミクの場合、公式によって声と絵が同時にユーザーに提示されていることにより、絵が前提となって成り立つ普通のキャラクターとは違い、絵と声という二つの要素が並列してミクを形作ることになる。その結果、声と絵のどちらもミクという存在の前提となる要素として使えるという事態が起こる。さらにどちらも前提になり得ることで、二つの要素の結びつきは弱くなり、片方を交換してもミクとして機能するようにまでなったのである。

二つ目の要因は、現代のデジタル動画メディアの構造である。現代のデジタル動画メディアはコンテナという入れ物に映像・音声・テキストのデータを入れることで成り立っている。DVDが映像以外の、音声と字幕を自由に切り替えて視聴できるのはこのためである。動画制作者であるPはコンテナに音声、映像、字幕を入れていくことになるが、これによりその作品は制作者が意図的に選んだもののマッシュアップとなるのである。

これら二つの要因から、ミクはその存在自体が動画制作者が意図的に選んだ声と絵のマッシュアップということが出来る。そしてそうしたミクの存在の曖昧さが多様な二次創作を可能にしているとさやわかは述べているのである。また、そうしたミクの対となる存在として、ドキュメンタリータッチによって現実に近い虚構を提供する90年代〜ゼロ年代前半のアイドル像を挙げている。