4章 調査

 

 本章では、実際にワーキング・ホリデーへ行った人々の体験談に触れる。

調査は2012924日にAさんとBさんを同時に行い、同年1112日にCさんへ行った。

 

1節 人に語れるのが嬉しい――Aさんの体験

 

 Aさん(女性)は2010年(当時24歳)から1年間、オーストラリアにワーキング・ホリデーへ行った。パースで2か月間語学学校に通ったのち、マッサージ師の仕事を得た。その後シドニーへ移り小学校英語指導者資格を取得した。現在は英語を使える仕事に就くため、カナダへワーキング・ホリデーに行きケンブリッジ検定取得を目指している。オーストラリアを選んだ理由は滞在費の安さだという。当時の英語力に関しては、大学で国際関係の学部だったものの「英語力は全然伸びなくて」と語っている。また、現在渡航しているカナダに関しても費用の安さを挙げ、ビザの関係でオーストラリアへのワーキング・ホリデーに行けないことからカナダを選んだという。

 社会人となり半年経った頃に、ワーキング・ホリデーに行きたいと思いエージェントを訪れた。しかしその時は話を聞いただけにとどまった。実際に渡航したのは思い立ってから二年半後である。自分自身の性格を「あまり楽観的ではない」と語っており、実際に予算の目星がつくまで二年ほどエージェントを訪れることもなく準備をしていたという。

ワーキング・ホリデーへ行こうと思ったきっかけは、小学生のころから英語が好きだったということと、結婚を意識し始めたことだという。「(結婚までの)あと23年で何ができるかな、何をやり残したかなって思ったとき、海外に行くってことになった」と語った。両親が結婚して家庭に入るという考えを持っていたため、Aさん自身もそう考えていたという。また、ワーキング・ホリデーについては「経験できればそれでいい」と考えていた。英語を話せるようにならなければいけないと思うことは、かえってプレッシャーだったそうだ。

 仕事を辞めることに対して、不安はあったという。しかし、Aさんは当時の仕事に対し「キャリアが必要な仕事をしていたわけでもないし、大金を稼いでいたわけでもない」こと、また自分のやりたいことに沿っていたわけではなかったことから「辞めることに未練は全くなかった」と語った。また、海外で1年間生活することで、世界が広がると前向きに考えていたという。「行く前は、海外に1年居るのはすごいと思っていて、そういう人になりたいと思った」とも語っているように、仕事を続けることよりも海外での経験による自身の変化を期待していた。

 現地でのアルバイト探しは苦労したという。新聞等の求人情報が読めなかったため、一軒一軒歩いて探した。今日はこの道沿いの店すべてにあたる、と決めると、求人が有る無しに関わらず、覚えたての「今仕事は空いていますか?」という英語と簡易な履歴書をもってまわった。最初の街では見つからず一駅先の街まで行ったという。結果は厳しく、突き返されることや受け取ってもすぐに捨てられてしまう店もあった。最終的に4050軒を回り、やっと仕事を得た。日本食レストランは日本人が多いことから就職先としては避け、現地の人が訪れるような店を探していたAさんは、ピザ屋で働き始めた。従業員はオーナーとAさんだけで、さらに客も現地の人が中心であったため、とても「よかった」という。掛け持ちでもう一軒レストランで働いたものの、そちらは仕事の指示や注文が英語で何を言われているのかわからず、勤務時間についても理不尽なことも多かったためにすぐに辞めた。ピザ屋でのアルバイトは順調だったが、2週間ほど働いた後にお店がつぶれてしまった。そこから再び仕事を探し、最終的には友人に紹介されたマッサージ店で落ち着いた。マッサージ店では経験がないにもかかわらず研修3日目で客を任される等戸惑うことも多かったが、指名をとれるほどにまで成長し、「日本では絶対にできない経験でした。すっごく楽しかった」と彼女は語った。

帰国後、Aさんは再び海外に行きたいと思っていたため、正社員としての仕事は探さなかった。小学校英語指導者資格を生かした仕事も考えたが、担当教師がすぐに変わってしまうのは子供たちにとってよくないと考え、区切りよく働ける英語の家庭教師をした。また、日中は契約社員として接客業に従事した。

Aさんはワーキング・ホリデー期間を「自分探し」の期間と考えるのは、ぼんやりしすぎて怖いと考えていたという。「心の中では、自分の中で変われるんじゃないかと思っていましたけれど、言いはしなかったですね。(中略)『自分探し』だけじゃ多分ボーっとして帰ってくると思っていました。だから、探すために動かなければいけないというか、何かをして初めて探していると言えるんだと思った」と語った。

Aさんはインタビューの際、気さくに何でも話してくれる人だという印象を私は持ったが、渡航前はそうではなかったという。「人間関係を作るのが得意じゃないんですよ。友達を作るのも得意じゃないし、しゃべるのとかも本当苦手で」。しかし、海外で生活して様々な国籍の人たちとコミュニケーションをとったことで変わったという。今では人脈が広がり自分の世界が広がることを楽しんでいるという。また、「人に話ができる体験が自分にあるっていうのがすごく嬉しい」と語っており、人脈が広がったうえに、国籍にかかわらず一生交友を続けたいと思える人とも出会った。

現在はカナダへワーキング・ホリデーに行っている。一度目のワーキング・ホリデーの際は「経験だけでいい」と思っていたものの、オーストラリアに滞在しているうちに国際関係や英語に携わる仕事をしたいという気持ちになった。しかし、現地にいた時は具体的に何をしたいというわけではなく、「英語は好きですし翻訳や通訳を仕事にできればすごくいいと思いますけれど、なんかピンと来なくて」、取り敢えず形に残るものをと思い、小学校英語指導者資格を取得したという。現在は留学エージェントの仕事に興味を持ち、現地での就職も視野に入れているという。

Aさんはワーキング・ホリデーでの経験を、「人に話が出来る体験が自分にあるというのが、すごく嬉しい」とかたった。留学エージェントの仕事に興味を持ったのも、留学に興味を持っている人に自分の体験を話すことでその人の力になる事が出来るという点で魅力を感じたからだという。

 

2節 海外で自分を試す――Bさんの体験             

Bさん(女性)は2007年から9か月間(当時31歳)、イギリスへワーキング・ホリデーに行った。1か月半語学学校で勉強をし、その後ホテルのレストランで7か月働いた。期間中は基本的にケンブリッジに滞在していた。ワーキング・ホリデーには休職という形で行ったため、帰国後の現在も同じ会社に勤めている。イギリスを選んだ理由は、イギリスに住んでみたかったからだという。渡航前の英語力は大学卒業程度で、仕事で必要となるわけでもなかった。

Bさんは31歳でイギリスに渡航した。就職後23年で辞めて海外に行こうとも考えていたものの、会社の居心地がよかったことと、帰国後の再就職に不安を感じていたため迷い続けていた。30歳の時にこれがラストチャンスと思い、当時発行数がごくわずかだったイギリスのワーキング・ホリデー・ビザを申し込んだ。「ラッキーだったのか、当たってしまったんですよ。(中略)これがだめなら諦めて仕事しようと思っていたのに」と彼女がいう。会社に休職制度はなかったため、仕事を辞めてワーキング・ホリデーに行くか、ワーキング・ホリデーを諦めて仕事を続けようかと迷っていた。しかし、上司に相談したところ、制度を作ってもらえることとなり、渡航準備期間が1か月という非常に短い期間で渡航した。

現地についたら英語も何とかなるだろうと思っていたが、実際には何を言われているのかさっぱりわからなかったという。ホームステイ先では家族に心配され、英語で問われているにもかかわらず「大丈夫」と日本語で言ってしまうほどだった。当初1か月半の語学学校卒業後に家を出る予定だったが、英語があまり話せなかったことや、ホームステイをしているほうが英会話の勉強になると思ったため延長し、5か月間ホームステイをしていた。

現地では到着3日目には仕事を探しに行ったという。アポイントを取らず飛び込みでアルバイトを探していたが、上手くいかなかった。しかし、そのことに対して落ち込んだりはしなかったという。「いつ来たのって聞かれたから3日前だと言ったら、3か月勉強して出直しておいでって言われて。そりゃそうだよなって思って、じゃあ次探そうって。3か月勉強しようじゃなくて、次の店探そうと思った」と語っているように、断られたとしても諦めずに次の店を探していった。Bさんは現地で就労しなくても十分生活はできる貯金があったが、海外でのアルバイトも経験したいと思っていたという。

Aさん同様英語環境でのアルバイトを希望していたBさんは、英語しか使わないという気持ちを強く持っていた。しかし、紹介されたホテルでのアルバイトでは、まず電話口で何を言われているのかわからなかったという。面接に行った際も1時間ほど英語で面接がおこなわれたが、ほとんど言われていることがわからず適当にYESと答えたり、面接官に本当にわかっているのかと何度も確認されたり、また内容も深く質問され、日本の面接よりも厳しいと感じたという。不採用だと思ったBさんは、面接官に何日から働いてといわれたことも気がつかず、その日に再度面接があるのだと思っていたため、当日行ったところ制服を渡されて採用されたことに気が付いた。アルバイトでは仕事に関する講座やセミナーを受けて勉強し、様々な国籍の客への接客などを経験した。業務や外国人の同僚とのコミュニケーションを通し、英語が上達したと振り返った。

Bさんはワーキング・ホリデーの期間について、「自分が海外で、英語が話せないのにどれだけできるか試したかった」と語った。もともと柔軟な考え方をする性格だったというBさんだが、現地ではカルチャーショックも受けたという。例えば、バスが2時間来ないのが普通ということに、初めは戸惑ったという。しかし、次第に怒っても仕方ない、来なくて当たり前と思うようになっていき、慣れたころにはまたか、歩いて帰ろうと思うようになったという。

Bさんは帰国後復職し、現在も同じ会社に勤めている。現地での生活を振り返り、「友達とか家族とか同僚とか、いろんな人に助けられて生活してきた。(中略)私ひとりじゃ何もできないのに、助けてくれて。1年間本当にいい時間を過ごせたと思う」と語った。海外で知り合った友人とは現在でも連絡を取り合い、結婚式に呼ばれたこともあるという。また、イギリスから日本に外国人の友人が遊びに来る際、富山に来てBさんの家にホームステイしに来るなど、良好な関係が続いているという。

 

3節 経験は後々活きる――Cさんの語り

 

 Cさん(男性)は2008年(当時24歳)から2年間、オーストラリアに渡航した。ケアンズで3ヶ月間語学学校へ通った後、5カ月間寿司屋でアルバイトをした。その後、二年目のビザを申請するために農業に関する季節労働を4カ月間経験し、翌年は1年間ゴールドコーストで過ごした。仕事は清掃スタッフやワインの販売員を経験した。オーストラリアを選んだ理由については、「本当単純なんですよ。友達が行ったのと、寒いのが苦手だから、南国に行きたかったからオーストラリアにしたっていう。それと、ホワイトヘブンビーチを雑誌で見て行ってみたいと思った」と語っていた。渡航前の英語力については、ほとんどまじめに勉強して来なかったという。また、高校卒業後公務員系の専門学校へ行ったため受験英語にもあまり触れていない。

 Cさんは専門学校を卒業後、飲食店へ就職した。2年ほど勤めた頃、友人がワーキング・ホリデーへ行ったことで興味を持ち、4年目で仕事を辞めてオーストラリアへ渡航した。飲食店で店長をしていたが、転職を考えた時に同業界にしか転職できないと感じ、転職の幅を広げるために、ワーキング・ホリデーで遊びながら英語を学びたいと思った。転職については、特に英語に関する仕事に就きたいとは思っていたわけではないという。ワーキング・ホリデーで初めて海外に出たと言っており、また海外に対して特別な憧れがあったわけでもないという。「4年間働いていたから現実逃避もしたかったし」とも語っている。

語学学校では日本人とつるまないと決め、外国人の友人を積極的に作っていった。「座学の勉強とか苦手だから、それなら話して英語覚えようと思って。友達と遊んでるうちになんとか話せるようになった」と語っており、3ヶ月で英語力はある程度伸びたという。友達と遊んでいく中で英語を覚えたと語っており、韓国人やヨーロッパ人の友人を作ったり、バーに行って現地の人と仲良くなっていったりし、英語を話す機会を作ったという。

アルバイトは、当時住んでいたシェアハウスのオーナーに紹介された寿司屋で調理および接客をしたという。他のアルバイトも友人からの紹介や情報をもとに、あまり苦労せず職を得た。二年目のビザを申請するために働いた農場は、日本人が多かったという。「日本人って、普通に仕事しているだけなのに現地だとすごいって言われるんだよ。仕事終わったから次何すればいいか聞いたら、仕事が早くて“Oh, Jesus!”って驚かれたよ」と語っていた。

現地では人との出会いをチャンスと考えていたという。ゴールドコーストへ移動する際、友人とヒッチハイクをして移動した。オーストラリアを南下している現地人と知り合い、車に乗せてもらった。ゴールドコーストに着いてからもその現地人と一週間ほど共に過ごした。また別の機会に、ドイツ人とイスラエル人に近くにバーはあるかと尋ねられて教えたところ、一緒に飲もうと誘われた。「普通だと断るでしょ、なんか怖いし。けれど、そこで断ったらせっかくの機会を逃すことになるじゃん。それはもったいないから、オーケーとか言ってついて行った」という。さらに一緒に飲んだ後彼らの宿泊先に行ったところ様々な国籍の人がいた。「日本人の友達連れて来たよとか言われて紹介してもらったけど、もう汗かきまくり。英語喋れないし」と当初戸惑ったものの、「ゆっくりしゃべるようにっててイスラエル人が気を使って他の人に言ってくれて。そこでどんどん仲良くなった」と語った。

2年目のワーキング・ホリデー・ビザを申請しようと思ったきっかけは、日本に居た恋人と別れたからだという。「日本に帰る理由無くなっちゃったから、もうしばらくいようかなって」と語り、親にも反対されることはなかったという。

自分探しについて、「どこにいても自分は自分って言うか…海外で自分探しして、本当の自分だって言うのって、日本にいる自分を否定するわけじゃない。地元の友達のおかげで今の性格があるから、それを否定して切っちゃったらそれまでの自分は無くなると思う」と語った上で、「自分に磨きをかけるって言う方があってるかな。自分磨きというか」と語った。実際、海外に行って何が変わったかも自分ではあまり分からなかったという。「帰って来てから友達に変わったなとか言われたけど、そう言われるのが嫌だった。地元の友達といつの間にかずれができていて、知らないうちに変わったことに結構悩んだ」と語っていた。

Cさんは現在、外資系企業に営業職として勤めている。帰国して半年ほどで、就職に対する周囲のプレッシャーから一度就職したものの、就業環境が悪かったため3日でやめて再び就職活動を行った。どういった活動が再就職に優位にはたらいたかについて聞くと、日本での居酒屋の経験だという。店舗運営やアルバイトの採用など一通りやってきた経験が評価された。「どんな経験も、あと後活きてくるんだと思う。居酒屋での経験が評価されたし、今営業として人前で説明することも、ワーホリの時にワインの販売員をしていたから慣れてたし」と語った。また、ワーキング・ホリデーでの経験はどう面接で話したかときいたところ、「教科書通りだけど、行動力とか、コミュニケーション力とか」と語り、英語力に関しては「日常会話は問題ないけれど…。TOEICを受けたら、リスニングはほぼ満点だったけど文法とか苦手だからあんまりよくなかった。そのせいで点数もあまりよくない」と語った。

ワーキング・ホリデーを通し、日本では出会うことのできないような人と出会えたことが一番良かったと語っている。「どこ行っても友達がいる。北海道から沖縄まで。岐阜とかから用事があって東京に友達が来る時なんて、家に泊まっていくよ。俺仕事だけど勝手にどうぞって。この前も何人かで集まったし」と、現在でも交友は続いているという。また、現地で知り合った当時30歳ほどの人に仕事に対する心得を教えてもらったり、自分より年下の人の仕事の相談を受けたりと、「地元だけの考えじゃなくて、世界というか…もっと広く物事を考えられるようになった」と語った。