第六章 モメンタムファクトリーOrii

 

第一節 調査概要

 

第一項 概要 

モメンタムファクトリーOriiの前身である折井着色所は昭和25年に先代の竹次郎さんによって操業を開始した。折井着色所は高岡銅器の数ある工程の中でも着色を専門として事業を展開し、仏像、花器、彫像作品の仕上げなどをおもな業務とし、完全な受注型の事業形態であった。しかし、バブル崩壊後は仕事が激減。そのため、問屋の依頼を受けて動く従来のやり方ではなく、自ら仕事を作りだしていかなければならないという危機感をもった。そこで高岡市デザイン工芸センターのセミナーに参加。現在ではオリジナルの商品開発にも着手し、クラフト作品や壁材など、マテリアル素材の開発にも取り組む。

 

第二項 歴史 

1950年 先代竹次郎さんにより折井着色所創業

1970年 三代目宏司さん生まれる

1996年 東京でコンピューター関連の仕事に従事していたが高岡に帰省

    着色業に従事する

1999年 高岡市技術養成スクールへ通い始める

2000年 圧延板への着色に成功

2004年 高岡クラフトコンペ 審査員賞(2000年から2008年までに入選4回)

2006年 高岡市伝統工芸産業担い手 優秀技術者認定

2008年 新会社モメンタムファクトリーOrii稼働

2009年 経済産業大臣指定伝統的工芸品 伝統工芸士に認定(仕上げ部門)

      高岡伝統産業青年会 会長を務める(現在は特別会員)

2011年 高岡ippinセレクト、第23回ニューヨーク国際見本市出展

      地域資源活用認定企業に認定   

(モメンタムファクトリーOrii HPより)

 

本稿では高岡銅器の中で着色の工程を担う折井宏司氏にインタビューを実施。HiHill参加をきっかけに、自らが商品開発を行い市場に進出している職人である。

 

第二節 分析

 

第一項 分業体制の変化

高度成長の時代は売れるか分からないものであっても作れば数が売れたため、大量に生産していた。しかし問屋が企画して、それを職人たちにふって仕事をまわすという分業の体制は前から崩れてきていると語る。とくに加工の部門は待っているだけでは仕事が来ないようになってしまった。単価は変わらないが発注量は激減し、問屋からの依頼を受けて動くという従来の、完全な受注型の事業形態では割に合わず、分業体制も変化せざるを得ない状況となっているという。

 

第二項 きっかけ 

折井氏はHiHillに参加する以前から高岡市デザイン工芸センターが主催するセミナーに参加していた。そこで、それまであまり交流のなかった型作りや鋳造などの部分に従事する職人との交流を持ったことが、ものづくりの刺激になったと語っていた。また高岡市のクラフトコンペ(11)も参加するようになったことで、いずれ自社のオリジナル商品を展開していきたいという思いを持つようになったという。

 

第三項 新しい技術 

 

本当に試行錯誤して編み出して、今できたのがこの圧延板っていう建築部材であったりクラフト商品であったり、板に使ってる技術。これは実は親父はできない。自分だけしかできない、新しく生まれた着色技法だということを知ってもらいたい。おじいさんのやり方があって、お父さんのやり方があって、高岡の着色の技法があって、そういう引き出しがいっぱいあって、それを三年とか四年とかかけて組み合わせることによってまた新しい色がでてくる。新しい色のやり方とかも普通だったらありえないようなやり方をやってみて、時には「混ぜる危険」みたいな邪道なことをしたときに初めてその色が出たりとか。新しい色がパッと出た、でも繰り返してやっても同じ色が出ない、でも何度か繰り替してやっていくなかで色がでるようになる。(中略)たまたま偶発的に悪戯しててやってたらできたとか、それを何度も何度も繰り返しやっていくことで安定して色を出せるようになった。

 

数年間の試行錯誤の末、圧延版という薄い板への着色を可能にし、クラフト商品や建築部材として新しい可能性を広げた。それまで圧延板のような圧力をかけ生成される密度が高いものにはうまく着色できないというのが定説であった。その定説を代々受け継がれてきた伝統の技法と新しい独自の着色技術を合わせることによってくつがえした。ただ新しい事をしただけでできたのではなく、もともとの伝統的な技法にたくさんの引き出しがあったからこそ、さらに進化した発色法を開発できたと語っている。

 

第四項 外部との関わり 

HiHillに参加したことで周りの依頼が増え、色々なところから何かチャレンジしてみないかとチャンスをあたえられることが多くなったという。何か面白いものやりたいというときに依頼がかかり、それまで取引のなかった建築の分野やホテルの内装等に少しずつ使われていくようになった。

 

やっぱり違う世界に入ってきたから。そのままずっとこっちにいて職人になってたらそこまでの発想、できなかったかもしれないけど、外部の世界を見てきて、やっぱり変わった。

 

折井氏は26歳までの数年間、東京コンピューター関連の会社に勤めており、一度産地を離れている。だからこそ外部からの視点を持つことができ、新しいことに積極的に挑戦できるのではないかと語っていた。

 

第五項 新しい市場への参入 

展示会に参加したことをきっかけに、現在商品展開しているクラフト製品は問屋ではなく小売店へ直接卸すようになった。また小売店や展示会に出品したおかげで、売る人の声が届くようになったり、直接工場に足を運んでくる人やこういうものをオリジナルで作ってほしいという依頼を受けたりするようにもなった。

 

(新しい分野への進出は)まったく抵抗はなかったですね。うちの伝統の技術を進化させて、伝統のものを守りつつ、一部革新的なことをして、(中略)10年、20年たって伝統の一つになっていくだろうと思っているので、昔ながらの高岡銅器の置物もこのまま伝統としてつながっていくだろうけど、新しい伝統を作るって意味ではね、抵抗は無かったですね。高岡銅器=工芸品っていうジャンルから脱却して、若い世代の人も興味を持ってくれるようにね

 

(写真6−1)モメンタムファクトリーOriiの商品

 

モメンタムファクトリOrii HPより)

折井氏は着色技術を活かした生活雑貨などを次々に発表している。(写真6−1)「高岡銅器=工芸品」というジャンルから脱却して、若い世代の人も興味を持ってくれるようなものを作ろうという思いと、自身がもともとインテリアに関心を持っていたこともあって市場への参入を図った。

従来の高岡銅器といえば仏具や置物というイメージだが、インテリアという新しい分野に進出することに対しては、古い伝統を継承し新しい伝統を作ることであるという考えがあるため抵抗は感じなかったという。

 

第六項 海外進出 

海外進出は行政が主催した催事に出展した際、声をかけられたのがきっかけ。それによりニューヨークでの国際見本市など海外の展示会にも出展するようになった。行政が企画した催事に顔を出すようになってから、人との出会いが増え、チャンスの機会を与えられるようになった。自信がないからと躊躇し、出展をためらっていてはステップアップできないと語る。

 

第七項 産地の変化

 

やめていく人がどんどんいる中でここ12年、ちょっとずつ県外からもそうだし、そういう流れ(若い職人の増加)にはなってきている。(中略)それでみんなやっぱり、この状況を見てこっちに移り渡ってきた子たちなんだけど、やっぱ伝統産業おもしろいなとかっていう、かっこいいなっていう風に変わってきてると思います。そういう職人、若い人たちが入ってくるのはすごいうれしいし、盛り上げようとしている感じがすごい出てきてますね

 

後継者の減少が問題視されている中、ここ1,2年で県外からも含め伝統産業がおもしろい、カッコイイと感じ、鋳物の世界に入ってくる若者はやはり以前に比べて増えているという。折井さんは芸文ギャラリー(12)スタッフなどとも積極的にコミュニケーションをとり、若い子が一緒に取り組んでくれることがうれしいと語っていた。