第五章 考察

 

 前章では五節に渡って調査結果の分析を行ったが、この章では、前章で明らかになった事柄のすべてに共通している原因であると思われる「母性神話」との関わりについて順に考察したい。

 

第一節 母性神話の説明

 

まず母性神話という概念について説明する。「ジェンダーの社会学/女たち、男たちの世界」において、山田昌弘(1989: 110-112)は、母性神話の定義をこう述べている。

 

『現代の母性愛の通念は、次の2点にまとめることができる。@母性愛は自然で本能的なもので、母親は必ずもち、自分の子どもにだけ働く。A母性愛は母性行動をひき起こす。』(山田 1989: 110

 

山田は、母性本能も、それに伴う母性行動も、決して普遍的なものではないという。近代社会と、それに適合した家族関係が成立するとともに普及した近代の常識であり、近代社会においては母親が子育ての唯一の責任主体になっていると述べている。

さらに、近代的なモデルの家庭、たとえばサラリーマンの夫と専業主婦と子供という家族構成であれば、市場労働と家事(育児)労働の分業が成立しているので、こうした規範が社会的にとっても母親にとっても上手く機能したかもしれないが、近代的なモデルケースの崩壊した現代ではそうはいかないと指摘している。

 

第二節 母性神話、ジェンダーとの関連性

 

第四章第一節では、実際は男性の検挙者の方が多いにも関わらず、報道では女性が加害者の例が多く報道されていることが明らかになった。こうした加害者報道の男女差は、女性(母親)は母性を有しているものだという前提のもとに生じると考えられる。

母性神話を前提として、母親の役割を逸脱した加害者女性を批判することにより、母性神話を補強するものと考えられる一方で、母親でも子に害をなすことの顕在化による、母性神話の打消しや瓦解に繋がるとも取れる。

次に、男性が加害者である場合、実際に検挙されるのは養父等よりも実父の方が多いにも関わらず、報道されるのは加害者が養父等の実の家族でない場合の方が多いということが分かった。女性が加害者である場合は、報道の面でも検挙数から見ても実の母親がほとんどであり、大きな差はなかった。実の家族でない男性による虐待が、実際の検挙数に関わらず多く報道されるのはなぜか。これは、実の家族である男性による虐待が実際よりも少なく報道されているという見方は出来ないだろうか。

同章第二節では、被害者の年齢が幼児期に集中しているのは、子が親に抵抗することは物理的に不可能であり、最悪の事態を招いてしまうためではないか、と述べた。

 この他にも、母性神話との関連については、育児は母親の仕事であり、常に子どものそばにいなければならないといった言説との関わりがあるのではないだろうか。

一般的に、「密室育児」、「密着育児」などと言われるが、母親は育児のために幼児と一緒にいる時間が長く、また、母と子の二人きりで過ごすことが多いため、子育ての悩みを相談できる第三者との接点を持ちにくく、虐待が発生しやすいのではないかと考えられる。

同章第三節では、「せっかん」という加害者行為を表す表現が、90年代に、男性が加害者で、記事主題が「子殺し」である記事の見出しに使われる傾向があることが明らかになった。

ある年代(90年代)において特徴のある傾向が見られたということに関して、これは、90年代から児童虐待が社会問題として台頭し始めたが、その時点では子どもへの暴力行為などが「虐待」として捉えられ報道されるまでには至らなかったこと、あくまで「せっかん」はしつけであり、虐待ではないと考えられていたことの表れではないだろうか。さらに、2000年代に突入してからは、2000年は男性3件、女性8件の計11件、2011年は0件と、「せっかん」という表現は全くといっていいほど使用されなくなっている。

ここから、90年代から2000年代突入までの間に、児童への暴力行為についてのまなざしが、児童虐待が社会問題として広まったことで、「せっかん(しつけ)」から「児童虐待」という変遷をたどったことがここから読み取れる。

また、女性が加害者で、記事主題が同じく子殺しである場合は、見出しで「せっかん」ではなく殺害・暴力を表す記述が使われる傾向が見られた。つまり、記事主題が同一のもの(子殺し)でも、男性が加害者であればしつけとして捉えられ、女性が加害者であればしつけでなく虐待として捉えられているということである。

しつけは教育の一環であり、社会的に認められる行為だが、虐待は社会的に許されない行為である。このことから、男性による加害行為はしつけとして肯定され、女性による加害行為は、社会的にも、母親の役割からも逸脱した行為として批判されている傾向があると考えられないだろうか。

加害者が父親であれば、しつけのやりすぎであって、加害者が母親の場合は、しつけのいきすぎなどでなく、殺害や暴力等の虐待と捉えられるのは何故だろうか。

このことには、しつけなどの道徳的、社会的な教育は父親の役割であり、母親の役目としてイメージされにくいという側面があるといえる。

また、第四章の一節でみられた、実の家族である男性による虐待が実際よりも少なく報道されているという傾向と合わせて考えると、実の男性による加害行為は、しつけという社会的に認められる行為として報道され、なおかつ実際の検挙数よりも少なく報道されるということになる。表4-3を見ても、実の父親が加害者である場合により多く「せっかん」という表現が使われていることからも、女性による虐待が批判的に報道される傾向と比較して、実の男性による虐待は、女性による虐待よりも注目されず、やや受容的に報道される傾向があると言える。

同章第四節では、報道傾向と検挙数の面で男女差の傾向に大きな違いは見られなかった。「子殺し(記事主題)」・「殺人(罪種)」では女性が加害者である例が、男性が加害者である例よりも多く、「身体的虐待(記事主題)」・「傷害(罪種)」では逆に、男性が加害者である例が、女性が加害者である例よりも多かった。

殺害に至るケースにおいて、加害者は男性よりも女性の方が多く、殺害にまでは至らないケースにおいては、加害者は女性よりも男性の方が多いということである。これに関しては、母親の育児環境が「密室育児」などと呼ばれるものであることが関わっているのではないだろうか。育児の悩みを相談しづらく、深刻な状態になりやすいためこうした事態を招いてしまう可能性が考えられるが、これだけでは説明不足であり、他にも原因があると思われる。

同章第五節では、児童虐待事件記事の見出しにおいて、事件の経緯として記述されるのは主に母親の育児不安であるという結果が出た。先行研究(祖父江: 1999)では児童虐待の最も大きな原因は経済苦であると結論づけられており、これも女性(母親)は母性を有しているものだという前提のもと、加害者女性への批判により母性神話を補強する報道だということができるのではないか。