第6章 考察

 

最後に一本杉の観光がどのようなものであったのかということを振り返り、考察を加えていく。

まず、一本杉は「花嫁のれん展」の会期中と平常時とのギャップを持っており、全国から観光客が訪れるほど有名になっても普段の一本杉は閑散としているという不思議があった。それは商店街が町づくりをして行く上で、さまざまな諸要因が関わっていくことによって、必然的に「花嫁のれんの常設」というマス・ツーリズム的な流れとは違った観光の在り方選択させてきたということから生じたものだったのである。このギャップが生みだされたことは、結果的に第2章の先行研究で触れられた地域住民のストレスとなっていく≪イラダチモデル≫の定義から逃れ、住民が「花嫁のれん展」にストレスを感じることを避けることに役立っていた。そして一本杉が花嫁のれんを常設しない代わりとして、花嫁のれんの語りや職人の語りからヒントを得て生成した「語り」を観光資源にするという方法を採用した結果、一本杉の観光が花嫁のれん展と平常時のギャップとして現れていたともといえるだろう。

また第2章の先行研究では地域の行う観光が、地域の経済の活性化と町・地域の活性化の2つの方向性をもって進んでいくことに触れてきた。一本杉の観光の事例はそこにいる人が活き活きできるような町と地域の活性化を重視した事例であり、それを対面的なコミュニケーションを限定する「語り」によって供給してきたといえる。「語り」というものは「住民」と「観光客」、「個人」対「個人」、あるいは少人数のグループでの親密なコミュニケーションをとることを前提としており、多数の観光客に対応するマス・ツーリズム的やり方では対応できない領域であった。

特に、この「語り」が住民側にもたらす作用に注目したい。第3章第7節ででは、花嫁のれんの研究者によって箪笥に仕舞われていたのれんを「再び」飾った時、かつての花嫁の内側に一種の浄化作用が働いていたということを指摘していた。嫁いだ日の華やぎ思い出し、そののれんを用意してくれた親の心遣いを噛みしめるとともに、過ぎた年月を振り返る。「再び」飾られたのれんは彼女達を遠い回想へ誘い、彼女の人生そのものが「語り」となって表れてくる。そうした人生の浄化される瞬間が、「感無量の面持ち」を生みだした。また両親からの「目に見えないものに守られている幸せ」を、実感させてくれる瞬間が彼女達に心温まる感動を生みだしたのである。また第4章第8節で述べたように語ることによって、彼女達、語り手個人が属しているある集団の歴史を聞き手に認めてもらうことによって、個人としてのアイデンティティとこれまで生きてきた営みを認めてもらうことも、この浄化作用と不可分の関係にあると考えられる。住民たちが「語り」を特別視したこと、住民の生活を守ることを重視したによって、人気が出ているはずの花嫁のれんの常設を避ける選択をした。この「語り」が浄化作用もつという点において、一本杉の観光がマス・ツーリズムと一線を画したといえるのではないだろうか。

ただし、現在の一本杉の観光は試験的にではあるものの「花嫁のれん館」の設置がなされ、常設化の流れが進んでいる。この動きはマス・ツーリズム化のベクトルであるといえる。このことからも明らかであるように、常設化を避けた一本杉の観光も徐々に変化の道を歩み始めているのである。のれんが常設化したことによってプラスの恩恵も確かに受けており、また今の少数の観光客を想定した「語り」重視の体制が抱える課題も存在しているのが現状である。それらの課題と向き合っていくなかで、今後の一本杉の観光の在り方がどうなっていくかは流動的といえる。一本杉の進んでいくこれからの方向性は安定的ではなく、マス・ツーリズムの圧力も内包されているのである。

研究対象として、一本杉の町のことや花嫁のれんの意義を知っていくなかで、一本杉の人々が親密なコミュニケーションに重きを置いていた、人のよさや共同体としての繋がりの深さが感じられた。インターネットにおける観光客からの一本杉の口コミでも町の人々の人のよさを評価している書き込みも多く見受けられ、これからもそのような対面的コミュニケーションの形を守る一本杉の体制を守ってほしいと思う。だが町の最終的な目標である「若者が帰ってくる町」にするためには産業の活性化は無視できず、マス・ツーリズムを一切排除してほしいとも言い切れない。地域の活性化のためにはどちらも大切なことであり、今後どのようにしていったらいいのかということは正直わからない。一本杉商店街が今後もその時々の住民の実情を鑑みて進んでいき、美しい花嫁のれんに受け継がれる喜びを共にし、心が洗われる物語がずっと語り継がれていくこと、人と人が温かなかかわりを持った優しい町の物語とが存続していくことを願っている。