第4章 拡大する花嫁のれん展と語り部処の誕生

 

この章では第一回花嫁のれん展が成功を収め、花嫁のれん展が拡大していく過程とのれん展以外の時期の平常観光を充実させようとふれあい観光「語り部処」が誕生していく過程を追っていく。

第二回には約50000人の集客を成功し、一本杉の花嫁のれん展も人気が出てくる。その後、花嫁のれんは県に、イベントにと引っ張りだこ状態になる。「観光地化」を目指すなら、ふつうはここで「花嫁のれんを常設にしよう」という動きになって当然である。だが商店街はそれをしなかった。これは、のれん展を宣伝し観光客を呼び込む絶好のチャンス、交流人口を増やす絶好の機会を主催自ら断つという一見すると矛盾した行動であり、この選択が平常時とのギャップを生みだしたのである

だがこの選択の背景には過去の経験に基づいた反省、花嫁のれんに込められた思いを大切にしたいという気持ちがあった。そして主催者が住民側であるゆえに起こる問題などを鑑みてとられた行動であった。このような理由から観光地として名を馳せ、観光地として一躍有名になるチャンスを捨ててまでも、商店街は花嫁のれんの常設をあえて避けたのである。

商店街はその後、のれん展以外の平常観光として花嫁のれん展ののれんの語りからヒントを得た住民の「語り」を観光資源とするふれあい観光「語り部処」を始める。商店街はその「語り」というものを観光資源にしていくためにマス・ツーリズムと離れた方向性を選択していくのである。ここからはその詳細を詳しく追っていく。


 

◆年表2

平成16(2004)7~12月 月平均2組の視察&団体観光の申し込みが来るようになる

118日 高沢ろうそく店・鳥居醤油店・多田邸・北島屋茶店が登録文化財に登録される

平成17(2005)  2月視察11件、団体観光客8団体、テレビ・新聞9件取材

         3月 「語り部処」発足 13軒看板掲げる   

330日文化出版局雑誌「銀花」で花嫁のれん特集

2回花嫁のれん展

長谷川等伯展「松林図屏」の会期に合わせる 

花嫁道中スタート 5万人の人出

81日「語り部処マップ」完成

11月 勝本邸が登録文化財に登録

平成18(2006)  第3回花嫁のれん展

語り部処15軒に

         618日フジテレビ放送「ニッポン遺産」にて花嫁のれんが放送

         99NHKで生中継

平成19(2007) 325日 能登半島地震

 4回花嫁のれん展

穴水町のと鉄と協力し穴水の被災地から花嫁道中

8月名古屋から団体観光客

11月 花嫁のれん展in名古屋 (名古屋の植物園ブルーボネット) ―

平成20(2008)  4月 中心市街地に51軒の語り部参加者

5回花嫁のれん展

「地域資源∞全国展開プロジェクト(正式名称:小規模事業者新事業全国展開支援事業)」商工会議所の予算がつき750万の助成金

平成21(2009)   21日『出会いの一本杉』創刊 七尾商工会議所発行

6回花嫁のれん展

花嫁のれん冊子創刊

1016~22

東京都指定名勝「旧安田楠雄邸」で伝統文化・

花嫁のれんの展示会 花嫁のれん展in東京

平成22(2010)  フジテレビ系列で全国放送ドラマ『花嫁のれん』

(東海テレビ・制作)放送

7回花嫁のれん展

一本杉通りのHP 開設


 

1節 外部の影響とリンクさせたスタートダッシュ

 

下記のグラフは第一回から第4回の花嫁のれん展の集客人数の概数のグラフである。

グラフを見るとわかるようにのれん展の集客人数は第1回から第2回の間に爆発的に増え、第4回の時点で80000人を超えている。第2回は市の美術館で国宝が展示される「長谷川等伯展」と展示会期を合わせたことが功を奏し、展覧会にきた人々がのれん展にも訪れ、集客数が上がったのである。

また第1回の花嫁のれん展が文化出版局から取材を受け、翌年3月に同社の季刊誌に花嫁のれんの特集記事が掲載され、その記事がのれん展の全国版の広告の役割を果たしていた。その効果として記事を読んでのれん展に興味を抱いた人々がその記事が掲載された雑誌をもって北は北海道、南は九州から訪れたという。

3回の会期前雑誌にのれん展の宣伝を掲載してもらうと宣伝効果が如実に現れ、集客数を80000人に増やす。のれん展が回を重ねていくごととともにのれん展に参加する商店の軒数のれんの枚数も徐々に増え、第3回の時点で現在の宣伝と同じ、「50軒に150枚ののれん」の体制が出来上がっていった。

 

表4−1 第一回から第四回までの花嫁のれん展

 

第一回

2

3

4

のれん展集客数*(人) 

10000

50000

80000

82000

商店街参加軒数(軒)

32

46

50

50

のれん枚数

(枚)

57

104

150

130*

*…表4−1のデータは『七尾・一本杉通りのまちづくり』七尾市一本杉町会・一本杉通り振興会(商店街)制作資料のデータによる。

*…資料の記載が概数表示であるため、集客数は概数で記す。

*…第4回でののれんの枚数の減少がみられるのはこの年の325日に能登半島地震が起こり、七尾市内と近隣の町が被災したとことに影響を受けている。

図4−1

(出典)『七尾・一本杉通りのまちづくり』七尾市一本杉町会・一本杉通り振興会(商店街)

 

商店街の花嫁のれん展の参加軒数とのれん枚数の推移

図4−2

(出典)『七尾・一本杉通りのまちづくり』七尾市一本杉町会・一本杉通り振興会(商店街)

 

 


 

2節 過去の失敗経験からの学習

 

先にあったように一本杉は過去に補助金を使った町おこしが一過性のイベントになってしまった苦い経験をしている。この苦い経験が花嫁のれんの常設を避ける要因のひとつとなった。ここからは町会長・北林さんが「金」を使った町おこしやイベントを打ち立てて失敗をし、疲弊してしまった経験をあげて自らのまちづくりのスタイルを語った語りを引用する。

 

県の観光協会云々の招致があって。で、みえとるがい。で、よく聞くげんて。ハウステンボスについて。ほんと何をするかというとイベントを打ち立てる。3ヶ月の。そうすると、業者がそれに向けてお客さん入れてくれるげん。だから次から次へとイベント立てれんて。3ヶ月の。だから3ヶ月のイベントやれっていうわい。そしたら業者はそこを取り上げて、観光バスに人をのっけて来てくれる。だからその人らは年中のれん飾れと。みんなそうしてよんできとるわけ。花嫁道中も毎日やれっていうたりとか。そしたら業者はそれめがけてきちっと旅行とってバスどんどん送り込んでくる。だからやれっていう話を、全部お断りしたけども。そういう風にやっとる時は来るけども、一回きりやもん。来て、またいこうかなってリピーターにはならん…(中略)…観光観光いうとるけど、ほんならね新しい作るのでなくて。あるものでね、やってけばいいと。201293日 町会長・北林さんへのインタビューより引用)

 

県の観光協会の立場は、先行研究で触れた観光をめぐる立場のなかの第2の立場「プロデューサー」(旅を制作するもの)といえるだろう。彼らの「3ヶ月のイベントをやれ」「年中のれん飾れ」「花嫁道中も毎日やれ」という提案は、マス・ツーリズムを標榜する意見である。町会長は「そういう風にやっとる時は来るけど一度きり」と「リピーターにはならん」とその提案をすべて蹴る。そのような判断をさせたのは過去の「金」を使った町おこしが一過性のイベントで終わってしまったという失敗経験であり、そのため町会長は「金」を使った事業にネガティブなイメージを抱いており、無駄であったとさえおもっている。そのような「金」を使った観光にほとほと嫌気がさしていたのである。その過去の苦い経験から同じ轍は踏むまいという思いが働いたのではないだろうか。そして町会長は他の「金」を使った観光地の失敗例を引き合いに出し、あるものでやっていけばいいという結論に至った。


 

3節 女性の宝である花嫁のれん

 

花嫁のれんの常設を避ける要因の2つ目の理由は「花嫁のれんが女性の宝」だっとことによるものである。

 

触っていいですかーっていうもんで、どうぞどうぞと、どんどんどんどん触らしとってん。ほんだら終わってからほれ、プロの人から大変お叱り受けて。これは女性の宝だと。それをこんな手の届くところに飾って、それを触らしていったい何をしとらいと。ね、何考えとるがいって、ひどくお叱りを受けて。ほんで2年目から、触らないで触らないでって。やったらこんどこれ……宝ということが分かったら今度は扱い大変や。古着やっちゅうたら楽なーけど。今度宝ですってことなったらなんか事故あったら大変。借りて飾ったりするときね。201293日 町会長・北林さんへのインタビューより引用)

 

第3章第5節でも挙げられたように花嫁のれんとは「女性の宝」なのである。(花嫁のれんが「女性の宝」ということについての詳しい議論は第4章第8節「花嫁のれんの語り」の分析で行う)その心がわかったために第2回目以降は花嫁のれんの扱いに慎重になる。もし花嫁のれんを年中飾っていれば色褪せ、痛むことは避けられない。宝である花嫁のれんを一年中飾っているわけにはいかないのである。「花嫁のれんの本来の意義」を大切にしたい、花嫁のれんを大切に扱いたいという思いからも花嫁のれんを常設することは憚られたのである。


 

4節 住民側につのる疲労

花嫁のれんの常設を避けた理由の3つ目要因は住民側の疲労である。この問題は主催者が住民側であるゆえに起こる問題である。この問題は、花嫁のれん展が住民主体の観光といえども通常の観光地と同じように存在する。地域住民側につのる疲労とは観光化へのストレスそのものである。このストレスがもととなり地域住民が観光客や観光という行為への「イラダチ」が増大していくという危険があった。町会長・北林さんの語りから住民側の疲労についての語りを引用し、その疲労をどう解消させていったかを分析する。

 

宝ということが分かったら今度は扱い大変や。古着やっちゅうたら楽なーけど。今度宝ですってことなったらなんか事故あったら大変。借りて飾ったりするときね。それで…もう疲れるって思ってん。…もう1週間なんてとてもできんと。…疲れてね。1週間でやめようと。…(中略)…2回目終わった時は人気出てきたもんで……県もなんかイベント持ってきて出てくれとか。東京から写真家が来てね、のれんの写真を撮りたい、冊子作るから協力してくれとか。……NHKも食彩市場で生放送すっからのれん持って出てきてくれって。…もう堪忍してくれって。しばらく疲れたもんでのれんはしばらくおいといてくれって、いうて県は断って写真家も断って。断り状書いて。…(中略)…とにかく文化大切にして若者が帰ってくる町づくりをしようと。だから日曜日休みやけどお客さん来て、火曜日定休日じゃないけど休んだ、それでいいて。最初は観光客来るときは頼んで開けてもろうとったこともある。だけど、だんだんやりながら、ほんなことやっとったんじゃ長持ちせんなって。やっぱ休む時は休まなきゃ、ね。それでみてもらえばいい。

 

のれん展の運営は商店街の住民で行っているため、負担はすべて住民側にかかってくる。それに加えて、おのおの商店街に商店を構えているため、普段の店の仕事もおろそかにはできない。先に出た県の観光協会の「3ヶ月のイベントをやれ」「年中のれん飾れ」「花嫁道中も毎日やれ」という提案のまま、のれんのイベントがずっと続くとなると、さらなる集客が望めたとしても、住民側に休む暇がなくなる。このように住民側が開催の立場に立つと「年中のれん飾れ」「花嫁道中も毎日やれ」という提案がどれだけ無理な話で、住民の立場になっていない提案であるかということがよくわかる。主催者が住民側であったからこそ、住民側の負担とのバランスを鑑みて、その疲弊がのれん展そのものへのストレスや苛立ちを生む前に「常設を避ける」という方法で絶ち切ったのである。


 

5節 のれん展期間内外のギャップ

 

この常設をさける選択によって一本杉通りの平常時は花嫁のれん展で有名になったにもかかわらず閑散としているのである。その様子は北林さんのインタビュー中でも語られている。

 

それにだいだい…人おらんもん。観光客もなんも人おらんねーっていうわい。あんたら来てくれるからこんな元気な話、いつもすっけども。もっとほれ、高山みたいに人ぞろぞろおると思ってくるがいね。まー昨日もなんかお客さんきてって、10何人きたんかな?…「ここどんないね、だれもおらんがいね」って。201293日 町会長・北林さんへのインタビューより引用)

 

普段の一本杉の観光客も想定外の人の少なさが語られている。もっともそれはいままで分析してきたとおり主催者側の一本杉が多くの観光客を相手取ることをもともと想定していないことから生まれたギャップだったのである。


 

6節「語り部処」の始まり

第一回のれん展が成功を収めたことで町が活気付き、平成16(2004)7~12月から月平均2組の視察と団体観光の申し込みが来るようになる。以下はその当時のことを語る北林さんの語りである。

 

元気な町や元気な町やてね。だけども来てもろうても観光地っちゅうものないがいね。で、みんなここ見るがにほれ、15分から20分で終わるがいね。ね。こして観光に歩けば、なんか昔の商店街、寂れた商店街やけども、ほんだけで終わりや。……だからその話を聞いて。なんかないかなぁっていうたけれども、みんな大したこというてくれんげん。だけどもこれでいいちゅうから、これでやろうっちゅうのが、この一本杉の方針なんやちゃ。その視察の人らは我々と話をすればいい。けども、そのころからふらっと観光客が来るようなってきてん。ね、1人で来たり、グループで来たり。そしたらほれ、きたら何もないがいね。別にほれ、見るもんないし。商店街。で、だめだなーっていうので語り部を。のれん展の時に語りはうけたから。じゃぁ語りをやろうっていうことでこの語り部処をやろうってなった。これしかない。そいでこれ…最初13軒やってん。…回覧板まわして…それが今じゃ22軒なっとる。うん。ほんで語りしかないからこれやろうというもんで。そのほうが、町のなか歩いてもらったら町も元気になる。で、これで半年ぐらい視察の人らとあっていろいろ話をしてね。で、みんなこれでいいとおっしゃるから、これでやろうかってきまったけれども。だから語り部処。で、このマップを作った。201293日 町会長・北林さんへのインタビューより引用)

 

視察に来た人々からは「このままでいい」と言われ、たいした意見をしてくれない。それならそのままやっていこうと町の方針を決めた。のれん展の時にうけた「語り」をやっていこうという運びになり一本杉の平常観光として「語り部処」が誕生した。個人的に来たりグループで来たりする観光客に「町のなかを歩いてもらって」「町を元気に」することを期待したのである。


 

7節 平常観光の語り

 

視察の人こっち着いてあるいて、仏壇屋さん。2階の工場見せてもろうと、やっぱほれ、職人さんに尋ねたりするがいね。好きな人は。まぁいろいろ。そしたらとつとつとしゃべっとるがいね。自分のしとる仕事を。だから僕もそれ見たら、それでいいなって。別に上手にしゃべらんでも自分の言葉でしゃべればいいから、ってところが語り部処。だから店員でも、おばあちゃんでもおかみさんでもだれでもいいよって。自分の目線でしゃべればいい。201293日 町会長・北林さんへのインタビューより引用)

 

これは視察の際に職人が話している様子を見て北林さんが「語り」のよさを感じとったエピソードである。自分のしている仕事を語りで「日常生活そのもの」を観光資源にしたのである。この「語り」は「のれんの語り」とはどうも異質なものであるらしい。そのことは北林さんへインタビュー中に「花嫁のれんの時も語りを重視したいのですか」という質問に対して返された返答にあらわれている。

 

…あのねぇもともと、のれん展始めたら、みんなこう(花嫁のれんを)飾るがいね。みんなお客さん来たらこれ誰のやってみんな聞くがいね。何年ごろのやとか、家紋はとか。そんな質問攻めに第一回はおうとってん。朝から晩まで、みんな順番に来てはおんなじような質問もするがいね。ね?それで一回目終わってん。まぁ結局みんなしっとる自分の持ってきた自分のおばあちゃんのしとった語り。そのかたりでやろうと。ね。それにまずヒントを得た。じゃあ語りをやろうっていうのと。201293日 町会長・北林さんへのインタビューより引用)

 

この返答からは「のれん展の語り」が「語り部処」の始まるきっかけとなったことと「のれんの語り」はあくまで「のれんの語り」であって「語り部処の語り」とは別のものだということをいっていることが読み取れる。「語り部処の語り」が先にあげた職人の語りだとすれば「花嫁のれんの語り」はどのように位置づけられているのか。そしてこの位置関係は同時に「花嫁のれんの語り」を特別視しているとも読み取れるのではないか。もしそうであるならば花嫁のれんを常設しないという流れにも関わっていると思われるのである。ここからは「花嫁のれんの語り」を特別視し、花嫁のれんを常設しないという流れを示すのに重要であると思われる「花嫁のれんの語り」の内容を挙げ、どのような特徴があるのか分析することで「花嫁のれん」の語りの位置づけを分析していきたい。


 

8節 「花嫁のれんの語り」の分析

 

6つの花嫁のれんの語りを引用し、どのようなエピソードがのべられているか分析を加える。出典の記載のないものは「花嫁のれんの語り」は『花嫁のれんの冊子』から引用したものである。かっこ付き太字で付したのは筆者が解釈したコードである。

 

1 )高澤蝋燭店三代目、高澤博子さんののれん語り

大正十一年の生まれです。七尾から少し西寄りの鹿西町で、父は郵便局長をしていました。嫁入りは昭和十五年、戦時中のことです。【花嫁の実家の情報】【嫁入りした当時の情報】

母は三人の子供を育てながら、どこへ嫁に行くかわからないけど、いつの日か嫁ぐ娘のためにと、少しずつ支度を整えていたんでしょう、物の少なくなった頃でしたが、箪笥三棹一杯に着物を用意してくれました。【両親の思い】

ですからずっときもので暮らしたものです。両親の気持ちを受けた自分の思い

結婚したのは灯火管制の時代でした。嫁入りした当時の情報】

もんぺをはいての嫁入りでしたが、実は家の内に入るやすぐに打掛けに着替えて仏壇参り。その後高澤の家の二階で、いく晩も披露宴が続いたことを覚えています。今でこそ打ち明けますが、色直しも二回しました。外では地味にしていてね。披露宴、結婚式の華やぎ】

嫁いできた高澤家には姑も大姑もおりました。大姑はそれは厳しい人、その代から蝋燭屋です。多くの職人がいて、毎日毎日台所係ですよ。頭の切れた厳しい大姑も、おとなしい姑もともに長命でした。夫は七十二歳であっけなくいってしまいましたが。【嫁入り先の家庭の情報】

母は、一対の御所車を書いたのれんを用意してくれました。綸子*3の地に手書きの加賀友禅、上等のようです。あいさつ回り周りの為の重掛けや風呂敷、のれんとおそろいの鏡台掛け…、懐かしいですね。【嫁入り道具を見て昔を思い起こし懐かしむ】

実は六年前に孫が結婚し、その結婚式でのれんをかけてくれました。当主良英の長男で、五代目として店を継ぐつもりで勉強しています。幸せなうれしいことでした。【家族の結婚式でのれんを使用したこと】

夏のれん*(注4)が一枚手元にあります。義母が義妹に持たせた一枚ですが、残念ながら四十二歳の若さで他界いたしました。義母にとってはどんなにか無念なことであったでしょう。せめて大事に私のもとで残してやりたい、と思っております。【花嫁のれんを送った思いをしのぶ】

 

高澤さんの【花嫁の実家の情報】【嫁入りした当時の情報】【両親の思い】両親の気持ちを受けた自分の思い】【披露宴、結婚式の華やぎ】【姑の話】【夫の話】【嫁入り道具を見て昔を思い起こし懐かしむ】【家族の結婚式でのれんを使用したこと】【花嫁のれんを送った思いをしのぶ】ということが語られている。語りの中では明治から続く商家の大店らしい披露宴の華やぎが見受けられる。

 

2 )鳥居醤油店二代目、鳥居文子さんののれん語り

実家は能登とはちょうど反対側、能登半島外浦の志賀町、旧仲甘田村です。大正十年、5人姉妹の4番目に生まれました。家は地主でしたが、こちらへ嫁にくるというのは、田舎者が都会に嫁ぐということで、大変な思いをしたものです。一本杉といえば、七尾で一番賑やかな通り、銀座通りでしたから。【花嫁の実家の情報】【嫁入りが大変だったこと】

22歳で結婚しました。鳥居家は、一本杉で2番目に広い屋敷だったこともあり、姑は気位の高い人でした。同じころ一つ上の義妹には、雲雀に桐と菊が描かれた、立派ののれんを持たせ、鹿島郡の鳥屋町に嫁がせていました。田舎から嫁いだ私は、そんな風習があることもよく知らず、その話を聞いて肩身が狭くなって、思わず実家にせがんだのです。物のない時でした。もんぺはいて米の配給に並んだ時代です。それでも両親はどこからか調達して、右の宝船が描かれたのれんを送ってくれました。【結婚した当時の状況】【風習の話】【両親がのれんを仕立ててくれたこと】

夫は、平成一五年、八十九歳で亡くなりました。店は私に任せて役人として勤めに出、書画、骨董、家の普請と、道楽の限りを尽くし、奔放に生きました。七尾に縁のあるいろいろな人と親交を結んでいましたが、なかでも茶谷霞畝という俳人には、座敷の襖絵や仏壇の扉にも絵を描かせ、生活の面倒も生涯見ていました。そんなですから苦労がなかったわけではありませんが、私の世代では「嫁は置いてもらうもの」という考えが、頭の隅にこびりついているんですね。今は若い夫婦が醤油作りに精を出して、私は楽させてもらっています。ありがたいことです。【自分の夫の話】【嫁入り先での苦労】【今の現状】

そんなにまでして手元に届いたのれんでしたが、一度も飾ってみたことはありませんでした。昨年の青柏祭でやっとお披露目できたんです、六十年以上もたってね。ようやくじっくり眺めることができ、親の思いを改めて感じています。【両親の思いを改めて感じる】

 

鳥居文子さんののれんの語りで話題に上がった事柄をまとめると【花嫁の実家の情報】【嫁入りが大変だったこと】【結婚した当時の状況】【風習の話】【姑の話】【両親がのれんを仕立ててくれたこと】【夫の話】【嫁入り先での苦労】【今の現状】【両親の思いを改めて感じる】ということが語られている。語りの中では嫁入りが大変だったことと実家にせがんでのれんを送ってもらったエピソードが語られている。一度も飾ってみたことはなくのれん展が開催されることになってようやくじっくり眺めることができ、親の思いを改めて感じていると語っている。

 

3 )佐藤洋子さんののれん語り

平成7年に、3男が結婚しました。お嫁さんは羽咋から来たのですが、里に伝わるのれんがあるという。二年前、昭和10年代のものと聞きました。【花嫁のれんの情報】

大事にしている気持ちをうれしく思い、自宅で結納した時と、仏壇参りにかけました。蔵からひさびさに出して、京都へ洗い張りに出したそうです。【家族の結婚式でのれんを使用したこと】

「雪輪蔦」の家紋が陰陽に染めわけているのが珍しいようですね。里から聞いた話では、男紋、女紋だということです。【花嫁のれんの情報】

 

佐藤洋子さんののれん語りで話題に上がった事柄をまとめると【花嫁のれんの情報】【家族の結婚式でのれんを使用したこと】ということが語られている。里が花嫁のれんを大事にしている気持ちをうれしく思ったことも語られている。

 

4 )松本まつのさん、せいこさん

結婚したのは昭和四十一年、一本杉の呉服屋としては三代目となります。自分の結婚した年】【家の歴史】

嫁に入るにあたって姑は、「箪笥の中の着物は一枚なくても、のれんは張りなさい」と。呉服屋こそ、土地の風習を大事にしなさい、ということだったのでしょう。【姑の話】【風習の話】

金沢の友禅作家に依頼して、風呂敷と模様をそろえ、夏のれんとを二枚作りました。【花嫁のれんの情報】

 

姑の松本まつのさんと嫁のせいこさんののれん語りでは【自分の結婚した年】【家の歴史】【姑の話】【風習の話】【花嫁のれんの情報】呉服屋こそ土地の風習を大事にしなさいという姑・まつのさんの話と呉服屋に嫁ぐ花嫁としてめったに作らない夏用ののれんをつくったことを語っている。

 

5 )松本春子さんののれん語り

家と家の格を並べて娘に恥をかかせないために花嫁の両親はのれんをあつらえる。【花嫁のれんの説明】

披露宴のことは忘れてものれんをくぐったことは忘れません。【のれんへの特別な思い】

のれんを見るたび初心に戻ります。【のれんを見て初心に帰る

親って強いなーと思います。【両親の思いを改めて感じる】

(第9回花嫁のれん展の際のフィールドノーツより)

 

春子さんののれん語りでは【花嫁のれんの説明】【のれんへの特別な思い】【のれんを見て初心に帰る】【両親の思いを改めて感じる】ということが語られている。

 

6 )前田栄一さん、節子さんののれん語り

姑のきよゑは信仰心もあつく、仏さまのような人でした。羽咋郡の志賀町に嫁いだのは昭和5年のこと。明治45年生れ、92歳で存命ですが、今は施設で暮らしています。【姑の話】自慢の花嫁道具だったようで、大事にしていました。【花嫁のれんの話】私たちの娘の結納の時に下げて喜んでおりました。【家族の結婚式でのれんを使用したこと】一本杉は私の実家です。両親を見送って以来、志賀町とこちらを行ったり来たりの生活です。実家は、父が仏壇屋を営んでおりました。父は俳人でもあったのですから、同人の方をはじめ様々な方々が出入りする家でした。建物は百年以上前の商家で、同じ町内から引っ越してきました。奥の蔵を改造して座敷にして、そこで俳句の例会をしていたものです。【家の歴史】

 

夫栄一さんの加わったのれん語りでは花嫁のれんの持ち主である【姑の話】【花嫁のれんの話】【家族の結婚式でのれんを使用したこと】【家の歴史】ということが語られている。

 

「花嫁のれんの語り」の分析のまとめ

花嫁のれんの語りを振り返り特徴をまとめる。花嫁のれんの語りでは花嫁のれんが両親から実家の贈られるものであるため【花嫁の実家の情報】や【嫁入り当時の情報】は話題として上がりやすい。次に花嫁のれんを飾ることによって【両親の思いを改めて感じる】というフレーズが語りに多く現れる。次には【家族の結婚式でのれんを使用したこと】も登場しており、続いていく家族の系譜を祝ったことも語られている。格式ばったのれん、上等な質ののれん、または珍しいのれんである際は【花嫁のれんの情報】も多く現れる。これらの共通項をまとめるといずれも花嫁である語り手のアイデンティティを示すような物語となっている。自分を含む共同体(家)の歴史の語りの内容が前面に出ていると同時に花嫁の境遇によってもさまざまな物語となる。それぞれの花嫁(もしくは姑、夫)がそれぞれの【のれんに対する特別な思い】を抱いており、それが色鮮やかな花嫁のれんとセットになって、鮮やかな美しい思い出となって現れてくるのである。このように語り手個人と、彼女が属しているある集団の歴史とを聞き手に認めてもらうことが、個人としてのアイデンティティにつながるのである。