第3章 花嫁のれん展の誕生

 

この章では花嫁のれん展が誕生するまでの物語を記載し、「花嫁のれん展」の誕生に関わった出来事をピックアップして分析を加えていく。一本杉通りが最初に「のれんの街」という謳い文句を掲げたのはのれん展の始まる9年前の平成5(1993)に遡る。のれん展以前の9年間は行政の補助金等を使ったまちおこしを行っている。だがその成果として町が活気付くことはなく、ただただ疲弊していくばかりであった。また同時期の土地の再開発にあたって住民同士はもめにもめ、再三にわたる話し合いをした。これらの一見するとネガティブな経験が花嫁のれん展とスタイルを生みだす土台となっていったのである。またいまでこそ一本杉の一大イベントとなって認識されている「花嫁のれん展」の始まりはたった5人の住民だったのである。そこから町民、外部の人々を巻き込んでのれん展の開催までこぎつけるまでのプロセスを追っていきたい。


 

◆年表1

平成5(1993)  商店街「のれんの街」を掲げる 

平成7~9(1994~1996) 商店街「アートの街」七尾国際アーチストキャンプ

平成10~11(1997~1998) 商店街「アートとのれんの町」七尾なみなみねっと

平成12 (2000)  商店街「アートとのれんの町」街並み景観向上計画 ~16(2004) 

平成13(2001)   一本杉で火事

平成14(2002)1月  町会 焼け跡に一本杉公園の検討 

平成15(2003)   一本杉公園オープン

        123日 森まゆみさんより登録文化財制度について話を聞く 

平成16(2004) 114日 福井工業大学助教授 市川秀和先生に名の町家の話を聞く

Oh-Godの誕生(5人のおかみさんグループ)「花嫁のれん展」開催を提案 

41日 七尾市に4軒の申請書類提出

429日(みどりの日)〜59日(母の日)

第一回花嫁のれん展


 

1節「金」を使った町おこしの失敗経験

 

平成5(1993)町おこしとして商店ごとの「店のれん」を作成し、それを表に掲げ「のれんの街」を掲げた。しかしこの取り組みはそののれんを作制するのみに終始してしまいそれがきっかけで交流人口が増えるなどの効果は得られず町おこしとしては失敗に終わった。   

平成7~9(1994~1996)3年間は国から1千万の予算貰って「アートの街」という触れ込みで七尾国際アーチストキャンプを開催。1年目は七尾市の中心部に大掛かりな石彫シンポジウムを作成したが町に賑わいが戻ることがなく失敗。2年目は前年の失敗を反省し自分の店の前で小さなサイズの店の石像を作成し、3年目も同じような取り組みを行った。だがこの取り組みもその期間だけのイベントとして終始してしまい町の賑わいを取り戻したいと願う町民の願いは達成されなかった。北林さんは当時の町おこしを振り返って次のように述べている。

 

とにかくやってみてん。だけど結果はこの期間だけで終わって。盛り上がりなかってん。金もろうてやったけれども。結局こんで終わっとれんて。…どうすればこれ、町づくりができるか。ほれでまぁ、アートとのれんの町という謳い文句でいろいろやってきたけど、あんまりはかばかしくなかった。…で……ここ商店街やってんけど…だんだん疲弊していってね。いろんなことやっても金使こうだけや。

201293日 町会長・北林さんへのインタビューより)

 

北林さんは語りのなかで「この期間だけで終わって」「結局こんで終わっとれんて」とこの金を使った町おこしが一過性のイベントになってしまったということを強調している。また「だんだん疲弊していってね」という個所から町おこしで住民が疲弊していったことを語っている。「いろんなことやっても金使こうだけや」という語りからは、補助金を使った町おこし行ってきて町の活気を取り戻すことにつなげられなかったことを反省しているように感じられる。


 

2節 徹底した話し合いがもたらした和

 

補助金を使った町おこしが成功を見せないなか、平成13(2001)暮れに一本杉で火事が起こり、翌年町会で焼け跡に公園を作ろうという話が持ち上がる。その公園をオープンさせるにあたって、町会で一年間毎月集まって話し合いが行われ、活発に意見交換がなされる。

住民たちが話し合いにより公園の建設場を決定した。だがその翌日、公園建設予定場所の隣の住民から「町会長権限で公園づくりを中止にしてほしい」という申し出が出たのである。以下、北林さんの語りから引用する。

 

あのー…賛成は賛成やねんね。でもうちの隣来たらどもならんて。一転二転三転して、あーでもないこーでもないって。今のとこにまぁ、一応決まってん。…決まったけど…だけども決めたら次の朝、隣の人ら来て、町会長やめてくれっていわれて。町会長権限で公園づくりは中止やというてくれっていうて、頼みに来られたんやけど。それはできんね。いくら町会長やていうてもできんから。とにかくできることは、みんなをもう一回集めてあげること。みんなを集めてあげっから、そこでいろいろ話をしてくれって。そうしなおれの権限で公園中止はできん。このときにいろいろと町会の人よりあったもんで、町の和ができてん。したもない話をみんなで、ね。うん、やったもんで。

201293日 町会長・北林さんへのインタビューより)

 

北林さんはあくまで自分が出来るのは「みんなをもう一回集めてあげること」とし、町民からのクレームが出ても、とにかく「話し合い」で解決させようとした。そのように町の人達がより合って、したもくもない話をみんなでやったことで「町の和」ができたと北林さんは語る。このように徹底して住民同士の「話し合い」で物事を決めていったことで住民たちが活発に意見交換し、主体的に町づくりに関わっていく習慣を作っていったのかもしれない。公園づくりによって町の在り方を主体的に考える気運が少しずつ町の間からおこっていき、その気運がのちの花嫁のれん展を住民の中から生みだす土台となっていったのである。


 

3節 能登初の登録有形文化財

 

公園が完成した平成15(2003)12月、東京の知識人で登録文化財の審議員である森まゆみさんから「能登には登録文化財が一つもない」という話を聞いたことをきっかけに、能登の第一号は一本杉通りにしようと動きだす。候補に浮上した高沢ろうそく店・鳥居醤油店・多田邸・北島屋茶店・勝本邸の5軒の建造物を登録有形文化財にしようと長年、建造物の調査をしてきた市川秀和氏に協力を仰ぎ、町家についての話を聞く。

当時、市川氏の見立ては5軒のうち2軒が文化財にできるだろうというものであったが、「なんとしても450メートルに5軒の登録有形文化財を」とこだわった北林さんはそこで食い下がり、再び議論が重ねられる。そして何とか納得してもらい5軒全部を申請することが決まり、市に申請書類提出。平成16(2004)11月に4軒、翌年17(2005)に残りの1軒、5軒すべての建造物が国の有形文化財に登録される。

当時、町づくりのために450メートルに5軒申請したという事例は他にはなく、文化庁・地元の有力誌である北国新聞はこれを高く評価した。また文化庁からは現在もこの全ての建造物を使用しているという点で高く評価されたという。


 

4節 花嫁のれん展のきっかけ

 

花嫁のれん展の構想のきっかけになったエピソードを「花嫁のれん 七尾、一本杉通りに“のれん祭り”が生まれるまで」の記事を引用して紹介する。

 

…能登で初めて一本杉町の四軒が「登録有形文化財」に指定されることになった。歴史的な街並みの魅力を知ってもらうには何よりのニュースであった。しかし、古い建物だけではなく、何か自分たちの心に受け継がれているものはないだろうか……隣町の和倉温泉に近い石崎町では夏の奉灯祭りに花嫁のれんを飾り、彩りを添えている。東京からやってきた知人は、そんな風習が今も残っていることにたいそう驚き、羨んだ。「花嫁のれんならほとんどの家にある。そういえばうちにも」と、商店街のおかみさん連中が立ちあがった。箪笥や蔵を探せば、数十年前に持参したのれんがしまわれていた。姑や実母を尋ねると、さらに古い祝いの布が、華やかさもそのままに、現われた。

このおかみさんたち、それぞれ店を切り盛りしながら折に触れて集まり、目指す町づくりを話し合っている。持ち寄る手料理の見事さに惹かれ、夫である店主たちも輪に加わって、活発な会合が重ねられている。まとめ役は町会長の北林昌之さん。(…中略…)女性パワーに敬意を表し、得意の英語でおかみさんたちを「Oh god」と命名した。彼女達は、町会長にその年の春の大祭「青柏祭」と同じ時期に、のれん展を催すことを進言する。特別な仕掛けをするのではなく、通りの家々をそのままギャラリーに見立て、各自ののれんを飾り、訪れる人々をもてなそうというもの。町会長は即断、早速手分けして町の一軒一軒を回り、のれん展の趣旨を説明、賛同者を募ってみた。はじめは「Oh god」の5人だけで弱気だったのが、次々に手を挙げる家が増えていく。腕に覚えのある男衆が、竹床几*

(注2)を作ってあちこちにひと休みできる場所を用意した。こうして昨年の青柏祭は、450メートルの通りの37軒に、50枚を超えるのれんが下がる趣向となって、一層の賑わいに包まれた。…(後略)…

 

以上の記述にあるように、花嫁のれん展の構想は石崎町の奉灯祭りを参考として町内のおかみさんたちから得られたものであった。その構想を聞くや否や、町会長は彼女達5人を「Oh god」と命名。のれん展開催に向けて住民の賛同を得るために動き出す。はじめは「Oh god」の5人だけで弱気だったのが、次々に賛同者が増えていき、商店街を巻き込んでイベントが作り上げていく。そのようにして手作りイベント=花嫁のれん展は開催されていったのである。


 

5節 花嫁のれん展の成功の要因

 

商店街の手作りイベントである花嫁のれん展は見事大反響を呼ぶ。その要因がどのようなものであったかをここでは第一回のれん展についての町会長・北林さんの語りと研究者の花岡氏の記述を引用し分析する。

 

触っていいですかーっていうもんで、どうぞどうぞと、どんどんどんどん触らしとってん。ほんだら終わってからほれ、プロの人から大変お叱り受けて。これは女性の宝だと。それをこんな手の届くところに飾って、それを触らしていったい何をしとらいと。ね、何考えとるがいって、ひどくお叱りを受けて。ほんで2年目から、触らないで触らないでって。やったらこんどこれ……宝ということが分かったら今度は扱い大変や。古着やっちゅうたら楽なーけど。…(中略)…我々はほれ、古着やと思うとったから。まぁそれ、けがの功名やね。こんなまちなかでやって。201293日 町会長・北林さんへのインタビューより引用)

 

これまでのれんの展示は一か所にまとめて行うのが当然だと思っていたので、商店街の中で各店が一斉に飾るという初めての試みに、果たしてどのような景観を呈するのか、大いに興味をそそられた。…(中略)…登録文化財に指定された数軒の老舗を交えた町並みは、昔ながらの行き届いた佇まいである。一軒一軒案内され、準備されたのれんを拝見していった。私の反応やいかに、と伺うおかみさんたちのまなざしは、まことに真剣そのものである。聞けば、当初ののれん展を催す発想は、ごく気軽なものであったらしい。普段しまいこまれたままののれんを祭りの日に飾ってみようか、というくらいのものだったとか。…(中略)…商店街の人たちにとって初めての催しが、大きな成功を挙げたのは、周到な準備と骨身を惜しまぬ人々の熱意にあったことはもちろんであるが、何よりも企画の素朴さにあったといえる。のれんの知識、品質の良しあしは何ら問題ない。(花岡慎一「花嫁のれん考」より引用)

 

北林さんの語りで「古着やと思うとった」とあるように、一本杉の人々は花嫁のれんを役目を終えた古着同然のものだと思っていた。その価値に気付いたのは第一回目以降に呉服系の専門家から「花嫁のれんは女性の宝」であるという指摘を受けたあとだった。

一方、研究者の花岡氏は従来ののれんの展示の形に縛られない展示を評価し、のれん展が成功した理由は「企画の素朴さ」にあったと分析している。以上の北林さんの語り、花岡氏の考察から分析すると、一本杉の花嫁のれん展は企画側の商店街が花嫁のれんの「価値」を認識していなかったからこそできた「けがの功名」の企画であったのである。


 

6節 花嫁のれんに込められた「女の覚悟」

 

以下は一本杉通りのホームページから引用した花嫁のれん展のPR文である。

 

…花嫁のれんの持つ美しさと物語は、御覧いただければお分かりになる筈です。

一生に一度しか使われなかった花嫁のれん、それが箪笥や蔵から出て輝き出します。

1枚の友禅画に込められた嫁ぐ娘を送る親の思い、嫁ぐ日の華やぎ、そして花嫁のれんに込められた女の覚悟をぜひ感じて頂ければ幸いです。(一本杉通りかわら版 花嫁のれんを題材にした 能登・七尾・一本杉通りのPR。 http://ipponsugi.org/2012/03/post-159.htmlより引用)

 

以上の記述にあるように、花嫁のれんには「女の覚悟」が込められているという。それは具体的にどのようなものであるのか。『出会いの一本杉』で語られる商家に嫁いだお嫁さん達の語りから分析する。

 

「能登はとと楽、加賀はかか楽」って知ってますか。能登の男は家で何もしない、だから私の故郷の加賀では「金沢より向こうには嫁がせるな」「嫁さんはたいそうな目にあう」といいます。確かに能登で専業主婦ってほとんど見ません。たとえば珠洲市では女性の9近くが働いているようです。(『出会いの一本杉』漆陶舗あらき 新庄礼子さんの語りより引用)

 

昭和46年に嫁いで来たんですが、お姑さんは、「もうさんざん家事をやったから、あんたが来るのを待っとってん。流しのことは頼む」とひとこと。それでも高澤には高澤の味というものがあるからと厳しい。その上のおばあちゃんもいましたし、おじいちゃんの友達が入れかわり立ちかわりで入ってやってきては人生論やりながら飲んでるという状態。サラリーマンの家から嫁いできて流した涙はバケツ一杯、いや〜かるい、湖一杯分。(『出会いの一本杉』高沢ろうそく店 高澤行江さんの語りより引用)

 

以上の記述から分析すると、花嫁のれんに込められた「女の覚悟」は「能登はとと楽、加賀はかか楽」といわれるような土地の風習や由緒ある商家に嫁ぐというプレッシャーに耐える覚悟であったように思われる。能登の嫁は働くことが当たり前であり、まして銀座通りに店を構える由緒ある商家に嫁入りすることは、普通の結婚生活とは比べ物にならない並々ならぬ苦労が必要であったのである。「娘」から「嫁」へ変わる、家に入る女の並々ならぬ覚悟がそこにあったのだろう。


 

7節 花嫁のれんの意義

 

「花嫁のれんの意義」を花岡慎一氏の花嫁のれん考の記述と季刊誌『銀華』での美術史家・気谷誠氏の記述と元に分析していく。

 

…のれんを拝見しながら、それぞれの家人から披露される昔語りに耳を傾けた。ある店でのこと。そこのご隠居は、昔自分が持参したのれんは古いからと出し渋っている。私にとってはそれこそが貴重で、出してもらいたい品であったので、いっそ二連掛けにしてはどうかと提案し、喜ばれる場面があった。華やかなのれんの彩りを前に、おかみさんたちが一様に、久しく忘れていた嫁した(ママ)日の晴れがましい姿を思い起こし、感無量の面持ちで見いっている。花嫁のれんの本来の意義に触れ、胸が熱くなるひとときであった。…(中略)…店のなかに家紋のついた友禅染の色鮮やかな三幅、四幅、五幅それぞれが、一幅の絵としてその家の歴史を語り、子孫に至福の思いを抱かせてくれた、その感動が、商店街の人々のみならず、街を見て歩く人々の心をも深くとらえたのであろう。のれんの中心に染め抜かれた家紋の持つ品位と力強さ、それはすなわち祖先から子孫への絆を示すメッセージである。今日まで粗末に扱われることなく大切に保存されたのが何よりの証といえる。(花岡慎一,2008,「花嫁のれん考」より引用)

 

…けして裕福ではなかったが、娘の嫁入りには贅を尽くし、花嫁のれんをあつらえた。のれんを携えたのはいずれも本家の嫡男に嫁いだ4人の娘たちだ。本家に嫁ぐのであれば、舅や姑とひとつ屋根で暮らし、人一倍苦労を強いられることになる。花嫁のれんは、そうした苦難の道に娘を送り出す両親が、前途安らかなる事の祈りを込め、花嫁に託した精いっぱい美麗な餞であるのだろう。人は気まぐれな運命に翻弄されながら生きている。戦後半世紀余りが過ぎるうちに、姉妹の身辺には嬉しいこともあれば悲しいこともあった。…(中略)…花嫁のれんは、婚礼の数日間でその役目を終えるのではない。無用なものゆえにいつまでも色あせずに永らえる。それに託した両親の思いがいつまでも続くのと同様に、美しい姿のまま、箪笥の一隅に仕舞われて花嫁を守り続ける。そして再び取り出したときに知るのである。若き日に、ひとたび美と交わした契りはけして人を裏切りはしない。美の象徴的な力は、時空を超えて発揮されるのだと。それはわたしたちを遠い回想に誘い、過ぎた年月をそのうちに包みこみ、目に見えないものに守られている幸せを、実感させてくれるのである。(気谷誠,2005,「無用なものほど美しい」季刊誌『銀華』第141号文化出版,より引用)

 

2つの記述に共通している点は箪笥に仕舞われていた花嫁のれんを「再び」飾った時のかつての花嫁たちに起こった現象についての言及している点であり、それはかつての花嫁の内側に一種の浄化作用が働いていたということを示している。婚儀のその日にかけられたのれんを見て、商家の嫁になる覚悟を固めた花嫁。かつての花嫁たちは花嫁のれんを再び見ることによって、嫁いだ日の華やぎ思い出し、そののれんを用意してくれた親の心遣いを噛みしめるとともに、過ぎた年月を振り返る。遠い回想への誘いそこから花嫁の人生そのものが花嫁の「語り」となって表れてくる。いままで苦労した人生の浄化される瞬間が、「感無量の面持ち」を生みだし、「目に見えないものに守られている幸せ」を、実感させてくれる瞬間が「かつての花嫁」と「その語りを聞くものたち」に心温まる感動を生みだしたのである。