5章 考察

 

今回、マスメディアによって「ネット世論」として取り上げられることが多いインターネット掲示板2ちゃんねる(「ニュース速報+板」と「政治板」)を調査した。とくにその中で、「議論」とされるようなお互いのコメントに言及し合い、意見交換を行うような、コメントのやり取りが行われているかを調査した。その結果、場所(板)によってコメントのやり取りの質や量に違いがあり、また、お互いのコメントに言及し合うかどうかにも大きな違いがあることがわかった。

 4日間で約31万のコメント(計311スレッド)が投稿された「ニュース速報+板」の対象としたスレッドでは、「書き捨てられていくコメント」が多く、「尖閣事件」に関するものではないコメントや、スレッドの個数自体を伸ばすことを目的としたコメントも多く見られた。抽出したコメントツリーにおいても、いわゆる「ネタ系」や「釣り」と言われるようなものも多かった。

 対して、4日間で1000コメント(1スレッド)を消費した「政治板」のスレッドでは、「ネタ系」のコメントは少なく(決して皆無ではない)、抽出した2つのツリーにおいても、質は異なるものの、お互いのコメントに言及しあうようなコメントのやり取りのツリー(「連鎖型」)を抽出することができた。

コメントが「連鎖」していく大きな条件は二つである。

その一つは「速度」である。

先に述べた「ニュース速報+板」では「書き捨てられていくコメント」が多く、スレッドの消費も早いため、全体的にお互いのコメントに言及することは難しい状況であった。しかしながら、その中でもコメントが「連鎖」し、お互いのコメントについて言及し合うものは皆無ではなかった。ただ、膨大な書き込みが短時間で行われているため、その書き込みのスピードが緩やかになる時間帯(利用者が少なくなる早朝や午前)に、お互いのコメントに言及する余地があるように考えられる。それとは逆に、4日間で1つのスレッドを消費した「政治板」では、コメントの書き込まれるスピードが緩やかで、1つのスレッドの内容を見てから、お互いのコメントを参照しつつ、それらについて言及しあうことができる状況であったように見受けられる。

もう一つは、コメントのやり取りが続いていくための「要」となる「キーパーソン」の存在である。「連鎖型」のツリー内において、複数回の発言を行っている人物が存在する場合が多い。とくに、自身のコメントに対して返されたコメントに、更にコメントを返す様に(レスにレスを付ける)して、こまめに返答(レス)を行っている。これは、自分の発言(コメント)に対して、反応(レス)が付けられることに、関心があることを意味している。(コメントのやり取りの様相がほぼ11になる場合もあるが、「キーパーソン」≠オピニオンリーダーの存在を内包しながら、複数の人物が「連鎖型」のツリー形成に関わる場合もある)スレッド内において、反応(レス)に対して、更なる反応(レス)を返す人物が存在することが、お互いのコメントを参照し言及し合う「連鎖型」のツリー形成に大きく関わっている。自分のコメントにレスが付けられる(明確な形で反応が返ってくる)こと、それに対して興味を持ち、場合によってはレス(他者の反応)を期待しているかもしれない存在によって、レスの応酬が活性化するのである。

 インターネット掲示板2ちゃんねるでは、書き捨てられていくコメントの母数もたしかに多いものの、場所(板)や時間帯によってはお互いのコメントに言及しているようなやり取りがなされていることがわかった。小公共圏としてのスレッドごとに考えれば、そこを選び、集まる人びとの人数や、逆に集まった人びとによってつくられるその場の「雰囲気」というもので、その場所の性質は大きく左右される。とくに、対象とした「ニュース速報+板」においては、「祭り」状態となり、マスメディアにも注目され、多くの人びとの目に着くこととなり、対象としたスレッドへの参加者も非常に多かった。そのため、議論や話し合いの場として機能するというよりは、「尖閣事件」とは関係ないコメントが多く、「雰囲気」に乗るようなコメントが多かった。逆に、参加者自体は少なく、スレッドへの書き込みが緩やかに行われていった「政治板」のほうが、議論や話し合いがしやすい環境であった。「2ちゃんねるの掲示板」としてマスメディアにより注目されるスレッドとなったことで、逆に、参加者が多くなりすぎてしまい議論の場として機能することが難しくなってしまったのである。逆に、参加者が少ないスレッドのほうが、議論の場として機能しやすかったことが予想される。

しかしながら、お互いのコメントに言及する場となっても、それらは議論の帰結や、意見の集積からの集約に繋がることは難しい。そして、それらが純粋に可視化される機会は稀なのではないだろうか。そして、誰でもアクセス(参加)が可能であり、書き込みが可能となるインターネット掲示板2ちゃんねるのスレッドは、小公共圏というひとつの話し合いの場として、参加者(書き込み)が多くなりすぎると、話し合い(または相手の意見を参照)を行う場所として機能することは難しくなる。だからといって、膨大な量の書き込み、それらが決して無意味な訳ではない。個々の書き込み自体に意味は無くとも、少なくとも、「尖閣事件」に関して考えるきっかけを、内外に対して与えることになる。また、ひとつのスレッドが突出した知名度を持ち、そこに大勢の人びとが集まることで、逆に「祭り」の「雰囲気」とは別に、話し合い(もしくは意見の参照)を行いたいユーザーたちとの間で、住み分け(自発的な場の選択)のような現象が行われたのではないだろうか。「ネット世論」として他メディアに取り上げられること、それが純粋な「世論」としての可視化ではなくとも、ひとりひとりの問題関心に訴えることはあるだろう。また、ネット掲示板において、結果として、議論の帰結、集積された意見の集約という形での世論の形成が成されなくとも、話し合いの場もしくは意見の参照の場として機能していると考える。