2章 先行研究

 

1節 ネット世論

 

最初に「ネット世論」とはいかなるものなのか。まず、「世論」とはなにかを考えてみたい。遠藤薫によれば、「<世論>が特定の争点に関する、少なくとも何らかの可視化された集合的意見であるとするならば、それは個々の人間の意見の集積として考えられる」(遠藤 2004 : 15)と述べている。本論の「世論」はこれに依拠する。

では、「ネット世論」における「ネット」とは「どこ」をさすのだろうか。集合的意見、またそれを構成していく個々の意見を見ることができる場所とはどこなのだろうか。誰にでも開かれた空間であり、ある程度の言論の自由が保障された、「公共」の概念に近い場所が望ましい。そのひとつとして挙げられるのがインターネット掲示板だろう。ネット上に無数に存在する掲示板の、大きな知名度をほこる場所が、ネット掲示板の「2ちゃんねる」である。(本論ではSNStwitterなどについては言及しない)

ここで、田辺龍(2006 : 45-47)によるネット掲示板の「2ちゃんねる」内の議論の調査とその結果をまとめたい。

まず、田辺は20059月に行われた衆議院議員選挙に関する「2ちゃんねる」内の「ニュース速報板」内のスレッドと他スレッドを調査した。その結果、一つのスレッドにおいてすら、議論が喚起されたりその議論の決着をみたりすることはほとんどなく、それは「2ちゃんねる」においてごく普通のことであると述べている。また、「2ちゃんねる」は「量的には膨大な、質的には多様な書き込みがいわば書き捨てられていく場所」(2006 : 47)であると述べている。

 

同論文において田辺は述べる。

 

複合メディア環境においては、匿名掲示板がそれ単体として世論を喚起する役割を果たすことは想定しがたいが、膨大な書き込みからは、他メディアに参照されることによって新たな議論の広がりを獲得して、それがさらにネットを含む他メディアに参照されるというようなループは想定されるだろう(田辺 2006 : 48

 

「2ちゃんねる」とは、個々の意見が集積する場所ではあるが、それが一つの集合的意見として収束し可視化されることは非常に難しい場所であり、それ単体として世論を形成すること、また喚起することは難しい場所なのである。

では、日本における「ネット世論」とは、どのようなものなのだろうか。田辺は同論文(田辺 2006)において、他国においてインターネットが世論の喚起に大きな影響を与えた例は存在するが、「日本においては、ネットの世論が政治的な問題の推移に大きな影響を与えた例は未だ現れてはいない」(田辺 2006: 43)と述べている。

(尖閣事件における機密情報とされていた映像情報の動画サイトへの公開または流出、それ自体が、政治的なレベルで影響を与えたことは事実ではあるが、本論では触れない)(それはあくまで「個人の意見・行動」であり、「世論の代弁」と言われることもあるが、「意見の集積」である「世論」とは異なるものであると考える)

 

また、遠藤薫は

 

 ネット上での動きをマスメディアが取り上げることによって、問題が広く知れ渡り、それが再び、ネットにも口コミにもフィードバックされ、さらにまたマスメディアにフィードバックされるという、複合メディア環境における相互干渉がこれらの問題を可視化した(世論の喚起のように見せた)と考えるべきである(遠藤2004: 61

 

と述べている。加えて遠藤は、「「ネット世論」という言葉が使われるとき、それは「一般の世論」とは異なるという暗黙の了解がある」(遠藤 2010: 108)とも述べている。

 

つまり、日本において「ネット世論」それ自体が政治的なレベルで影響を与えたような事例は存在せず、「ネット世論」が語られるとき、それは他メディアとの関係性の上に成り立ち、「世論」として存在するかどうかも含めて、非常に曖昧な存在なのである。

 

 

 

2節 間メディア性

 

1節では、「ネット世論」というものがどういうものであるかを述べてきた。次に、ネットというメディア空間と他メディアとの関係について述べていきたい。ネット空間といっても、その空間がネットだけで完結しているわけではない。現代には、ネットを含めTV、新聞、ラジオなど様々なメディアが存在する。そのような複合メディア環境において、その空間及びそこでつくられる言説は、単独では形を成さない。

 

複数のメディア間の相互作用によって、「世論」は形成されるとしたのが、遠藤の「間メディア性」の概念である。以下に遠藤の定義を引用する。

 

 あらゆるメディア空間は、意図するしないに関わらず、相互にわかちがたくリンクし合いつつ、複合的なメディア環境を形作っていくのである。そして、そのような複合メディア環境において、メディアとメディアの相互作用がいかになされ、また変容しつつあるのかを問うのが、「間メディア性」の概念である(遠藤 2005 : 6

 

また、遠藤はネットにおける複合メディア環境下における間メディア性の特徴として、「ないものが現実化するような現象」(遠藤 2003 : 205)がよく起こると述べている。例として、小泉内閣時の塩川大臣の「塩爺」ブームをあげその説明を行っている。まず、ネット上で「塩爺」というキャラクターがつくられ、ネット上で広がり、それをTVや新聞が取り上げる。そして、一般にも、そのネーミングが浸透していった現象である。そして、その現象がネット上にもフィードバックされ、更なる拡がりを獲得するのである。多層化した言説空間の中で、幾重にもさまざまなメディアにより情報が循環することで、本来「塩爺」という存在しなかったものが、キャラクターとして形を得た現象である。

また、そのようなメディア間の情報が錯綜した社会の中で、ひとりひとりの情報の受け手の意識も形成されるのである。

 

 

 

3節 公共圏

 

2節において、遠藤の「間メディア性」の概念を引きながら、それらの空間が分かちがたくリンクしており、相互に影響を与えあっていることを述べてきた。次に、それらの空間、ひとつの言説空間として考えられる空間について述べていきたい。

遠藤(2005 : 5-7)は、Habermasの「公共圏」とTGitlinの「小公共圏」の概念を引きながら、それらの空間の性質について述べている。以下でその内容をまとめる。

ひとつの公共圏は、ひとつのメディア空間及びその言説空間においてもその存在は一枚岩のようなものではなく、さまざまな小さな言説空間から構成されているのである。Habermasによれば、その空間は一元的な「公共圏」として「民主主義の基本原理に基づいて、政治的主体としての市民が、社会的諸問題について、マスメディア等のコミュニケーション手段を通じて発信し議論し世論を形成して、議会や行政の政策決定・遂行過程に影響を及ぼす社会的領域」(Habermas  1962,1990)と定義している。後、TGitlinは「公共圏」については、細分化された「小公共圏群」のゆるやかな連結として再定式化するべきであると主張している(TGitlin  1998)また、遠藤は「小公共圏の連結≒間メディア性」(遠藤 2005 : 7)であるとも述べている。公共圏は、さまざまな小公共圏から形成されており、それらは相互に影響を与えあいながら存在しているのである。そして、遠藤によれば、「われわれは必ずしもすべての人にとって同じ<公共>空間に生きているとはいえず、個々の立場や価値観に沿った<公共>空間を想定して、意見表明はもとより議論の<場>を選択している」(遠藤 2005 : 7)と述べている。

では、ここで、公共圏または小公共圏としての、ネット掲示板の場としての特徴を述べていきたい。大きな特徴としては、現実または社会的な自己に縛られない「匿名」の場であることと、その場へのアクセスが自由に行えることである。そのようにして、ネット上に存在するコミュニティの場について、遠藤は、「ネットワーク上に開かれたコミュニケーションの<場>は、「コミュニティ」という強い紐帯をイメージさせるものというよりはGoffmanのいうgathering(集まり)の場であり、あたかも公共広場のように、そこに集う人々は集合離散し、つねに流動的である」(遠藤2005 : 7)と述べ、ネット上に開かれたコミュニケーションの場を小公共圏とみなすことは可能であると述べている。

 ネット上に開かれたコミュニティ空間は、ユーザーに対してその場を選ぶ権利があると同時に、出入り自由であることから、その繋がりは選択の自由の上に成り立つ、緩やかな繋がりなのである。その上で、そのコミュニティ空間も他の空間と相互に影響を与えあいながら存在しているのである。

 

 

4節 ネット掲示板

 

3節まで「ネット世論」なるものが形成されるとき、それがどのような環境下で行われるのかを述べてきた。4節では、「ネット世論」が形成されるとき、その場所として取り上げられるインターネット上の掲示板がどのようなものなのかを述べていきたい。とくにそのネット掲示板についての中でも、「2ちゃんねる」についてのイメージはどのようなものだろうか。田辺は、何らかの事件に関してネット世論として他メディアによって、インターネット掲示板に言及されるとき、それは多くの場合、「2ちゃんねる」を指していると言ってもよい(田辺 2006 : 42)と述べている。

では、そのインターネット掲示板「2ちゃんねる」のイメージはどのようなものなのであろうか。「2ちゃんねる」を指し、「負の感情のるつぼ」と述べられることがある。また、その書き込み自体を指し、何の意味もないという皮肉をこめて「便所の落書き」などと揶揄されることもある。それ自体は否定しきれない一側面ではある。

では、もうすこし「2ちゃんねる」へのイメージを詳しく見ていこう。

平井は、社会的な認識として、マス・メディアによる「犯罪の温床」及び「社会問題の発生源」などの報道イメージにより、「一種の無法地帯」として認識され、とくにそれらはインターネットを利用しない人びとや2ちゃんねるにアクセスしない人びとの認識に大きく影響を与えている(平井 2007 : 163-164)と述べている。

 インターネットを利用しない人びとや2ちゃんねるにアクセスしない人びとにとって、マス・メディアとくに、既存メディアとでもいうべきTV、新聞などの報道によって「ネット世論」としての「2ちゃんねる」のイメージ形成は大きな影響を受けているのである。

では、インターネットを利用しない人びとや2ちゃんねるにアクセスしない人びとを「外側」とし、その認識がそのようにしてできあがるのならば、ネット掲示板ユーザーとしての「内側」の認識はどのようにしてできあがるのだろうか。「一種の無法地帯」というイメージをもたれる「2ちゃんねる」のコミュニケーションは一見混沌としてみえる。しかし、遠藤によれば、そこには「ゲームのようなルール」(遠藤 2004 : 131-132)が存在する。それは「内側」によって共有されている雰囲気のようなものであったり、ネット特有のコミュニケーションの取り方であったりする。AA(アスキーアート)(1) やネット用語、スラング表現など、「外側」からみれば、理解が難しいものは逆に、それらを共有している者同士での「内側」の意識の共有に繋がるだろう。また、「内側」同士の雰囲気の共有による結束、それとは逆に、「外側」への排他意識により、「内側」への帰属意識が高まることもある。

 

さて、先行研究を引きながら「ネット世論」が形成されるときの状況を述べてきた。「ネット世論」とは、その存在自体が曖昧で、間メディア性の中で、他メディアとの関係の上に成り立ち、影響を受け合いながら成り立つものである。本論では、「ネット世論」形成に大きく関与していると考えられる、インターネット掲示板「2ちゃんねる」のスレッドをひとつの小公共圏とみなし調査することで、存在ありきとされる「ネット世論」形成に関し、実際にどのようなやりとり、もしくは議論が行われているのかを調査していく。