第5章 分析

 

第1節 普通のこと

薬物依存症者にとって、私たちが送ってきた「普通の生活」というものが分からないことがある。フィールドワークやインタビュー調査では、びっくりするほどの人生を歩んできた人もいた。上岡、大嶋(2010165-169)によると、一緒に何かをする、普通の生活をサポートすることが大切だという。それは、正月を祝ったり、一緒に料理をしたり、掃除の仕方を教えたりなど、本当に普通のことである。断薬を中心に置かず、いかに生活の技術を上げるかに着目した方がよいのではないのかともある。薬物が止まっても、どのように生活していけばいいのかが分からないと、途方に暮れてしまう。だからこそ、「生活を豊かにする」ことが必要で、お風呂に入ったら気持ちいいとか、髪の毛を洗ったらすっきりするとか、みんなで一緒にご飯を食べたら楽しくておいしいとか、そのような幸せに、始めは居心地が悪くても慣れていくことが大切であるという。

フィールドワークで分かったことで、私たちが当たり前に経験してきたこと、例えば、映画を見たり、スポーツをすることに感動を覚えたり、楽しいと思えることが、とても大切なのだと思えた。今まで、薬などの依存物しか知らなかった、経験できなかったからこそ、今思いっきり知って、楽しむことがクリーン(1)でい続けることへの強みにもなるし、会話の種にもなり社会へ繋がりやすくなるのではないかと思う。

また、ハウスミーティングで林さんが日常生活のことで説教というか、注意をしているのだが、そこにも、薬を使わなくなり、クリーンが続いたことによって、したたかさなるものが見えてきたのだが、それは、回復しているからこそ生まれる問題であるように思える。今まで、薬をはじめとする依存物中心に生きてきた彼らにとって、普通の生活の上での些細なことにあまり気にとめておらず、家族と生活していたなら尚更、家族の誰かがそれをしてしまい、自分でするという観念が消失してしまっていたのだろう。それが、みんなで使うトイレやお風呂、またインスタントコーヒーの使い方など小さなところに、人間としてのしたたかさを感じることが出来ることは「普通」にまた近づいていることを意味しているのではないかと思う。

ダルクという環境は、断薬もさることながら、普通の生活のサポートをしていける場所である。また集団生活をすることにより、一人で生活するより気を使ったり、配慮をしなくてはいけない部分も増え、それとともに見えてくるものも比例して増えていくのではないだろうか。社会へと復帰してく為にはどうしてもステップが必要であり、この普通の生活を送ることは断薬の次のステップとして位置づけられるのではないだろうか。断薬をして、素面の状態を保つこと、そこから普通の生活を知り、経験していく。それがどんな小さなことでも目で見て、耳で聞いて、体で感じることが健全なひとりの人間として、新しく進んでいくためには重要であり、必要なことであると思う。

 

第2節 嘘をつけない、つかない

 ダルクでは、集団生活のため、自分の生活している姿がほかのメンバーに丸見えである。見られていないようでも、誰かがその姿を見ていたり評価していることもある。そういう中で、前章で述べたような日常の注意や要望が次々と生まれてくるのである。

2011年8月6日に行われた、薬物乱用防止フォーラムにおいて、茨城ダルクの責任者の岩井喜代仁さんがこう語っていた。

 

ダルクは人間再生工場である。そしてダルクはクスリをやめる場所ではなく、仲間たちとクスリを使わない生き方を学ぶところであり、入寮者の中でクスリをやめていく人が現れていくことが大切である。スタッフがいくら使わなくても意味がない。同じ入寮者の中で使わない人が現れて、それを見てほかの入寮者もやめていく。そうでないと、ただただ入寮者は自分が早く認められるために、ミーティングなどで綺麗事しか言わないで、早くダルクを出たがる行為をするのである。

 

 ダルクに入寮してくるメンバーのほとんどは願ってダルクに来ることはなく、家族が連れてきたり、犯罪を犯し出所とともに連れてこられるというケースが多い。そのようなメンバーは入寮当時はなかなか積極的にプログラムには取り組まないこともあり、きっと、岩井さんが語ったように自分を演じているメンバーもいるだろう。しかし、入寮期間は少なくとも1年間あり、その間作った自分を演じるのは難しい。前節で述べたように、普通の生活をしていくことをサポートする場であるので、ありのままの自分が成長していく場であり、綺麗事を言ったり、輝かしい展望を語ることはダルクの望む姿ではないのだ。どんな失敗をしてもいいと、スタッフの方は語っていたし、私自身もそう思う。失敗を恐れて嘘で固めたり逃げたりするのではなく、失敗を通して様々なことを学んだり、応用して成長することがダルクの望む姿なのではないだろうか。ダルクでの活動を通して、心から楽しめた時の自分の変化は大きなものになるだろう。また、先行く仲間のちょっとした行動が鏡として映るのである。つまりダルクでは、生活をしていくとともに素がさらけ出させて、嘘がつけない、嘘をつかない状態へと導いていくとともに、他メンバーの素の姿を見ることができ、それが自分の支えや目標にもなるのである。

そう考えると、あまり厳しい規則を作らず、自由時間を多く取っているダルクのスタンスは、どうこの時間を使おうかとか、打ちこめる何かを見つけるための時間として個人に与えることで、本来の自分というものが見えてくることにもつながり、また、薬を使わない普通の生活の仕方を自分で見つけていけるきっかけにもなるのではないだろうか。ミーティングの場として自助グループのNAがあるのだが、ボーイさんは、「NAだけだったら自分は行かない、NAにいる間は大丈夫でも、家に帰ってしまったら居場所がなくてどうしようもなくなる。ダルクだったら居場所があるし、仲間もいる」と語っていた。これはもう自分の家のようであり、逆に嘘をつく必要がないともとれる。メンバーの中にも入寮期間が長いメンバーはスタッフのサポートのようなことをしているメンバーもいて、積極性や自主性、生活をよくしていこうという意識が強く感じられる。これは、嘘をつかないで自分らしく生きていこうという気持ちの表れではないかと考える。そしてそれが、他のメンバーにとって鏡として映っていくのだろう。

 

 

第3節 語りの場がうまれる

 ダルクでは、1日に2回ミーティングが行われる。1つ目は朝の9時から行われるミーティングで、2つ目は夜にNAで行われるミーティングに参加する。ミーティングの形式は第2章で述べたとおり、言いっぱなし聞きっぱなしのスタンスで行われる。つまり、ここでは会話というものは成立していない。

 しかし、ミーティングを終えて自由時間になると会話の時間がうまれる。前章の第1節でも述べたように、台所や居間などで何気ない世間話や、過去の話をしているメンバーがいる。そうやってミーティング以外の時間に自分の話をするメンバーの姿を見て、なかなか話すことができないメンバーも打ち解けて話すことができるようになるのではないかと考える。どんな些細なことでも話していいという安心感は、どんなことを話せばいいかわからないと感じるメンバーには大きな支えになると思う。

また、ミーティングでも、スタッフなどによる長い期間の棚卸など、自分の過去を卸してきたメンバーの語りのうまさを身近で感じて、それを鏡として受け止め自分の成長に繋げていくメンバーもいるであろう。思わず聞き入るような話ができるメンバーには人間としての深さを感じるし、信頼というものも感じることができる。そこで個人的に相談を持ちかけるメンバーもいる。これからをどうすべきなど自分のこれからの人生について相談をする、できるというのは、とても安心できることであるし、支えになる。そして、信頼関係も生まれてくる。

ミーティングで自分の考えや思っていることを話し、知ってもらい、相手の話すことを受け止め知っていき、その延長でミーティング外で語りの場がうまれることは、NAではなかなかできない、ダルクだからこそできることであると考える。語ることで、お互いの距離を縮め仲間として歩いていく、それも、数時間だけのミーティングだけではなく共に生活していくことが、回復への大きな足掛かりになっていると考えている。