3章 調査報告

 

この章では、資料やRACDA高岡会員への聞き取り調査により得られたデータなどをもとにして万葉線存続運動を再構成する。

 

1節 調査概要

聞き取り調査:2回に分けて3人のRACDA高岡会員の方にインタビュー調査を行った。一回目の調査は会長の島正範氏への個人インタビュー、二回目の調査は島氏、幹事の小神哲夫氏、同じく幹事の善光孝氏へのグループインタビューである。それぞれの簡単なプロフィールについて下に示しておく。インタビューはすべてICレコーダーで録音し、本稿ではそれを文字に起こしたものをデータとして用いる。また、一回目のインタビューの際に頂いた「万葉線再生視察資料」(RACDA高岡作成)も資料として活用する。

また、RACDA高岡の活動をより深く理解するため、フィールドワークとして月2回開催される定例会に計6回とRACDA高岡が参加した万葉線のイベント(万葉線電車祭りでのうどん販売)に参加した。

 

■インタビュイーのプロフィール(201011月のインタビュー当時)

・島正範氏(51)

RACDA高岡での役職:会長

1998年に小神氏を含む10人とRACDA高岡を設立する。

設立以来、会長を務めている。

 

・小神哲夫氏(60) 

RACDA高岡での役職:幹事

万葉線存続問題発生当時、高岡市の交通部局で仕事をしていた。行政だけでは限界があり、市民の立場で公共交通の問題を考える団体を作ろうとしていた。当時の上司が島氏と知り合いであり、ともに公共交通ビジョンを作るという時に協力してもらった関係で(後述)、RACDA高岡の結成に参加した。

 

・善光孝氏(47)

RACDA高岡での役職:幹事

 RACDA高岡に入ったのは2000年ごろ。

RACDA高岡が万葉線存続運動を行っていた当時はあまり活動に参加していなかったが、存続後は活動にも参加するようになり、全国各地の公共交通存続運動にもでかけるようになったという。

 

2節 万葉線存続運動全体の再構成

この節では、万葉線の存続問題について記述された文献(青木、2002;高橋・佐野、2007;吉田、2005)や新聞記事、RACDA高岡会員への聞き取り調査を資料として用いて万葉線存続問題全体のながれを時系列に整理する。

なお、存続運動へのRACDA高岡の関与については第3節で述べるため、この節ではRACDA高岡の活動については省いて記述する。

 

1項 路線の沿革

万葉線は、富山県高岡市の高岡駅前電停と射水市(存続運動当時:新湊市)の越ノ潟駅の間12.8kmを結び、中間に23の駅・電停を擁する路面電車である(鉄道線を含む)。

 万葉線の起源は、富山市中心と新湊(現:六渡寺)とを結ぶ鉄道路線で、1933年に越中電気鉄道株式会社によって建設されたものである。1943年に富山県のすべての私鉄が合併して富山地方鉄道株式会社となり、この路線も富山地方鉄道射水線となった。一方、高岡側からは1948年に地鉄高岡から伏木港間が、1951年に米島口から新湊間が開通し、富山市と高岡市が新湊経由で結ばれることになった。しかし1958年、富山県公聴会において富山新港の築港が計画され、港口にあたる射水線の路線の一部を切断させることとなった。1966年、射水線の堀岡―越ノ潟間が切断され、これに伴い経営が加越能鉄道に移管した。西側に引き継がれた区間は翌年から無料のフェリーによって結ばれたが、実質的に直通需要が断ち切られてしまった。またこの時期には富山県の自家用車普及率が全国平均を上回り始め、路線の切断と自家用車の急速な普及によって、加能越鉄道の利用者は激減した。さらに、高岡市中心部から伏木港へ通じる道路の自動車通行量が激増し、同区間の路面を走行する電車の存在が自動車交通を阻害する要因であるとして、1971年に米島口から伏木港間が廃止され、現在の路線形態(高岡駅前〜越ノ潟)となった。

 

 第2項 廃線問題浮上から存続決定まで

1976年に水害により庄川橋梁の橋脚が一部流失し、一部区間運行不能の事態に陥った。この時初めて加越能鉄道から被害箇所以東のバス転換の申し入れがなされ、これが万葉線(当時:加越能鉄道)にとって第一の危機となった。この危機は、廃線に反対した高岡・新湊両市が復旧及び経営改善にむけた補助事業を行ったことにより免れる。そして、1980年の8月に高岡、新湊両市および市議会・加越能鉄道・商工会議所・自治会などにより、「万葉線対策協議会」が結成され、利用促進および路線存続に向けて動き出す。

そのような状況のなか、1993年に国が全国の私鉄に対し行ってきた欠損補助の対象を縮小する動きがみられ、加越能鉄道に対しても1997年度限りでの欠損補助打ち切りが表明された。これにより、再び廃線に向けての動きが活発化しはじめた。この国の方針を受け、高岡市と新湊市、富山県、加越能鉄道で協議を行い、国が欠損補助の代替として設けた近代化補助を1995年度より導入することが決定した。また、この間1993年の10月に「万葉線を愛する会」(注3)が設置され、利用者増のための対策が活発化する。

しかし、1998年の2月に加越能鉄道が万葉線の運営からの撤退を正式に表明し、バスよる代替運行案を提示した。そのような流れのなか、19988月には、富山県と高岡市、新湊市、加越能鉄道、学識経験者をメンバーとする「万葉線検討会」が設置され、今後のあり方について検討を行った。それにより加越能鉄道が主張するバス転換と、行政が主張する第三セクター化して存続する2つに集約し同98年度中に結論を出すことで当面の決着を見た。20005月には検討会から最終報告があり、開業から10年間で5.8億の欠損額を含めた27.8億の財政投資が必要であるとの報告がなされた。10年後も赤字であるという厳しい検討結果であったが、また同時に「存続は市民や経済界の負担は小さくないが、存続による市民へのメリットは大きく、21世紀の街づくりの観点などからも望ましい」という、市民の負担を提示したうえでの存続に前向きな提言もなされた。20006月、存廃問題に決着をつけるべく「万葉線問題懇話会」(注4)が設置され、先に行われた経営改善計画調査、議会、住民団体、経済界など幅広い意見を集約した上で、ここで出される方針を尊重することが確認された。検討を重ねた結果、同年9月に「市民の大多数が存続を望んでいること、存続後10年間に予想される累積欠損額5.8億円については、社会的価値を考えれば高岡、新湊両市が負担するに値する額であること、存続に当たっては市民の積極的な参加を得て経営を行う新しいタイプの第三セクター方式が最適であること」等の提言がなされ、これを受けて両市と県、加越能鉄道で協議が行われ、11月までに大筋の合意が得られた。12月の両市の定例市議会で第三セクターによる万葉線存続が了承され、県議会でも認められた。

 200111日付で、高岡市、新湊市が「万葉線経営第三セクター設立準備室」を設置して3月には、万葉線()設立総会と第1回取締役会が開催、10月には、加越能鉄道との間で、万葉線の営業譲渡契約が締結され、200241日より新会社での運行を開始した。

新会社の資本金は県1.5億円、高岡・新湊両市各1.5億円ずつ、市民5000万円の比率で出資され、これに民間寄付金の1億円を合わせた合計6億が初期投資額とされた。民間寄付金については、万葉線を愛する会やRACDA高岡などの市民団体も、市民に対して募金の呼びかけをおこなっている。この市民が出資するという枠組みにより、万葉線は市民が支える新しい形の第3セクターとしてスタートした。

 

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↑高岡駅前電停(道路側)          ↑高岡駅前電停(高岡駅側)

 旧型車両(歩道から撮影)         看板には「市民が支える路面電車」

の記述がみられる。

 

(ともに2011123日筆者撮影)

 第3項 存続後の取り組み・状況

ここまで述べてきたように、万葉線は、危機的状況から市民が支える新しい形の第3セクターとして存続を果たした。それまでは利用者の減少が続いていた万葉線であったが、第3セクター移管後には様々な利用促進策が図られ、利用者は増加傾向にある。

その施策の一つが、運賃の改定である。第3セクター移管2年後に運賃を平均18%値下げし、運賃体系も従来の10円単位から50円単位に、利用者にとってわかりやすいよう変更した。そのほか、通学年間定期の新設やサイクルアンドライドの実施なども行われている。

設備面でも様々な施策が行われている。従来は、冷房が付いておらず出入り口にも段差がある旧型車両のみが運用されていたが、約40年ぶりの新車となる超低床車両「アイトラム」が2004年の1月に導入された。この車両はフルフラットの床面を持つ100%低床車両で、従来の車両と比べて乗降がしやすいなどバリアフリーを追求した車両である。それまでの車両にはないような赤色の鮮やかな塗装がされており、町に彩りを与えている。なお、「アイトラム」という愛称は公募によってつけられたものである。20041月の時点では1編成のみの導入だったが、同年8月に第2編成、20073月に第3編成、20083月に第4編成、20094月に第5編成と第6編成が導入され、2011年現在までに計6編成が導入済である。設備面ではこのほか、路盤や電停の整備、末広町電停の新設(20083月)などが行われている。

これらの策が功を奏してか、3セク移管の前年度には約99万人にまで落ち込んでいた輸送人員が、開業5年後の2006年度には約115万人にまで上昇し、その後は2009年度まではほぼ横ばいとなっている。

 

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↑新型車両「アイトラム」         ↑20083月に高岡駅前−片原町間に新設

(歩道から撮影)              された末広町電停

 

(ともに2011123日筆者撮影)

3節 万葉線存続運動のなかのRACDA高岡の活動

この節では、万葉線存続運動からRACDA高岡の活動を抽出して記述する。ここでは聞き取り調査のデータ(以下、本文中斜体部分はデータからの引用とする。)のほか、RACDA高岡が作成した「万葉線再生視察資料」、RACDA高岡5周年記念誌である『万葉線とRACDA高岡5年間の軌跡』(2004年)を資料として扱う。また、ここではラクダ高岡の万葉線存続運動を便宜上、運動の性格の違いをもとに前期・後期に分割して記述する。

 

 1項 RACDA高岡について

RACDA高岡の概要

テキスト ボックス: 団体名:路面電車と都市の未来を考える会・高岡(通称名:RACDA高岡)
設立:1998年(平成10年)4月23日
目的:
・市民の立場から人と環境にやさしいまちづくりを考える。
・路面電車を始めとする公共交通機関の活用を呼びかける。
・市民自らの行動を心掛け、住み良い地域社会を目指す。
会員数:正会員40人、応援会員7人、法人会員2団体(平成20年)
(出典:万葉線再生視察資料−RACDA高岡作成)
 

 

 

 

 

 

 

 

 


RACDA高岡は当初、万葉線存続を目指して設立した団体では無く、万葉線を使って都市や中心市街地を活性化することを目的とする団体であった。

RACDA高岡の設立は、1997年に高岡市の交通部局の職員が「高岡市地域公共交通ビジョン」を策定する過程で勉強会を重ねるうち、岡山で「路面電車と都市の未来を考える会(RACDA)」という団体の会長をしていた岡将男氏のことを知ったことに端を発する。本研究のインタビュー協力者でもある小神氏を含む当局職員は、公共交通ビジョン策定委員会設立に際しての基調講演を岡氏に依頼した。それと同時に岡山のRACDAと同様の活動を高岡にも期待し、そのために岡氏の考えに同調してくれる理解者を求めていた。当時の高岡市生活環境部長に公共交通ビジョン資料作成の手伝いのため呼ばれた島氏は、その際に岡氏と知り合い、岡氏から聞いた公共交通を利用したまちづくり活動に興味を持った。そこで島氏は、当局が探し求めていた、岡氏らの活動に同調する良き理解者となった。

そして、岡山で行われていた「トロッコレース」を高岡でも行うための受け皿の団体として本家のRACDAをもとにして1998年の4月にRACDA高岡を設立した(RACDA高岡、2004)。

活動は、獅子舞共演会での手漕ぎトロッコ試乗会を試みることから始まり、グルメツアー、活動資金を稼ぐための高岡朝市への出店、居酒屋での飲み会などであり、存続問題そのものに関わりは無かった。しかし、廃線になれば万葉線を生かした街づくりはできないということで、万葉線存続問題について会員の関心を高めるため、万葉線の存続問題を考える定例幹事会という勉強会を始まることとした。そこから本格的に万葉線存続問題に関与するようになる(後述)。

万葉線存続後から現在に至るまでのRACDA高岡は、月二回の定例会のほか、設立当初から続けている朝市での出店、全国の市民活動視察と交流を目的とした視察交流旅行など、今でも数多くのイベントを行っており、公共交通を利用したまちづくりを進めるために現在でも活発に活動を続けている。

なお、RACDA高岡は「批判要望グループではなく第二行政体を目指す」という基本姿勢を掲げており、団体として行政に対して要望を提出するというスタンスではなかったため、万葉線存続運動の際にも行政や事業者に対して存続を直接要望するなどの活動はしていなかった。また、一般的に存続運動においてよくみられるような路線存続のための署名活動もRACDA高岡としてはおこなっていない。この理由について島氏は次のように語っている。

 

「(*署名は)単なる要望なんですよ。何にも知らないけど、頼まれたから名前だけ書くのでは無責任。万葉線を残したいと思いますって言って署名をしても、その人がじゃあ明日から万葉線に乗りますっていうことはならない。(中略)なるべく万葉線を利用するとか、そういうからには本当は行動も伴わなければいけないけど(*行動が伴わないので)だいたいの場合の署名運動はうまくいかない。」         (*は執筆時の付け足し)

 

このように、行政や事業者などに向けて訴えることはしなかったものの、そのかわり市民に向けて訴える活動を活発に行っていた。その主たるものが後述するラクダキャラバンである。次の項からはRACDA高岡の具体的な存続運動時の活動についてまとめていく。

 

2項 RACDA高岡の存続運動(前期:精神形成期)

RACDA高岡は加越能鉄道が撤退表明を出した後の時期に結成されたが、存続運動を目的として作られた団体ではなかったため、会員は万葉線がなくなるという危機感を抱いていなかった。会員は、万葉線の存廃問題よりも万葉線を使って遊ぼうという意識の方が強かったようである。そのため、設立から1年間くらいは「飲んだ席でワイワイガヤガヤ」やっていただけにすぎなかったと島氏は語る。

ところが設立2年目から、万葉線がなくなれば自分たちの活動目的を失うということ(RACDA高岡の存廃問題)で、危機感を持ち始め、RACDA高岡の足元を固めなくちゃいけない」(島氏)ということで1999年の6月から定例会を開催し、『路面電車とまちづくり』という本を教材に、その読み合わせから勉強会を始めた。その後、本の読み合わせを重ね、定例会で会員の意見を出し合って議論し「万葉線再生計画案」をRACDA高岡の提案としてまとめあげるに至った。『RACDA高岡5年間の軌跡』のなかでは、この時期について「定例会という形が出来たことで以降さまざまな行動を起こす元となる力を育み、目に見える以上の成果をもたらした。ラクダ高岡の精神形成期であった。」(RACDA高岡、200469)と記述されている。

 

 第3項 RACDA高岡の存続運動(後期:外部発信・運動活発期)

万葉線を活用したまちづくりの将来像である万葉線再生計画案を住民側に提案するため、1999年の12月から「ラクダキャラバン」という名の住民との交流会が始まった。会員のつてを頼りにいろいろな地域やグループに依頼して開催するもので、会場や動員などは開催団体に依頼し、そこにRACDA高岡が出向く方式をとっていた。RACDA高岡は、政治的な団体ではなく、純粋な市民団体ではあったが、やはり初めは警戒されたと島氏は語る。しかし話していくうち、まじめにやっているということで理解も得られたという。なかには、飛び込みのように訪問するものもあったようで、その際には、RACDA高岡の会員でありながら当局の職員でもある小神氏の存在が、事をスムーズに運ぶ役割を果たしたそうだ。訪問先の人が「こんなやつら来とったんやけど、おまっちゃしっとるか。」ということで役所に問い合わせた際、「こういうことで、こういう活動をしていて、行政のほうでも太鼓判までは押さないけど、身元は保証しますよ」というように行政からの証明もあったことで、信頼性も得られたと島氏は語っている(斜体部はすべて島氏へのインタビューからの抜粋)。

このラクダキャラバンは、RACDA高岡にとっては自分たちがつくった万葉線再生計画案を住民側に提案すると同時に、地域住民の意見を聞く機会でもあり、アルコールを飲み交わすことで忌憚のない意見交換をしていた。万葉線存続後、全国各地の存続運動にかかわってきた善光氏はインタビューのなかで、活動がうまくいく存続運動団体を「飲み会をしょっちゅうやっているところは残る(酒がはいらないと本音が出ない。机の上の話し合いだけで終わってしまう)」と表現しているが、この論理はキャラバンにも適用できることではないだろうか。RACDA高岡が設立当初から飲み会を多く開いていたことも、この柔軟な形式をうみだす手助けになったのではないかと推測する。ラクダキャラバンは多くの地域・団体で開催されたが、なかには万葉線問題を自分たちの問題として捉えづらい、二塚や中田など沿線外の地域での開催もあった。このような地域では、その地域が抱える課題と絡めて考えることができるような構成にしていたという。二塚の公民館でおこなわれたキャラバンでは、近くを走るJR城端線と絡めながら「万葉線以上に城端線が危ない」ということを訴え、万葉線の問題をその地域の問題に置き換えて話し合えるような内容にしていた。中田キャラバンでは昔、地元のタクシー会社が廃業した際、自治会が陳情し他の事業者が開業した事例などが参加者から話され、議論がはずんだという。

このように地域課題と絡めて考えるようにしたため、当事者意識が持ちにくい人々に「万葉線は他人ごとではない」というような問題を提起することができ、問題の全体化に貢献したといえる。

このラクダキャラバンで聞かれた住民の声のなかには、「いままで声には出さなかったが、自分も残してほしいと思っていた」というような「声にならない声」も多く聞かれたという。そして、この「声にならない声」を顕在化させ「住民の熱意」を示すことができるようにするため、選挙ポスターや応援の横断幕をヒントにして存続の意思表示のポスターを制作した。そのポスターを各家庭に張り出してもらうため、ポスター掲示の依頼に沿線の自治会などに出向くようになる。新湊の連合婦人会長宅にポスターを持って訪問した際、そこでも残してほしいと思っていたという声がやはり聞かれた。そこで連合婦人会の組織力により、ポスターは新湊全地区で張り出されるようになる。さらに、このポスターに触発された連合婦人会は新湊で独自に署名運動を行うようになる。

その時のことを島氏は次のように語っている。

 

「じゃあ、こんなこと(*RACDA高岡のポスター掲示運動)するがなら、私ら(*連合婦人会)にもできることを、と考えて署名活動をやられた。それは私たち(*RACDA高岡)が提案したわけじゃなくて、新湊の連合婦人会が自ら考え組織力使って、署名活動をされた。その後、隣接した高岡市に逆戻り、飛び火して高岡地区の方々も署名活動ということになった。」                    (*は執筆時のつけ足し)

 

このように声にならない声を顕在化させるためのポスター掲示運動は、新湊の連合婦人会による署名活動にもつながり、この運動は高岡にも広がっていった。ポスター掲示による声なき声の顕在化は、それまで行動する手立てがわからなかった市民が自ら考えて行動するための材料を提供する効果も生んだようである。

また、ポスター掲示と同時期に「万葉線SOS」を全国のLRT(注5)推進団体に送り、高岡市、新湊市、県への嘆願書送付を依頼した。「万葉線SOS」は全国19の推進団体に送付しそのうち16の団体から回答が届き、その内容は読売新聞の全国版と県内版で紹介されたという。この新聞への掲載は、取材に訪れていた読売新聞記者の「全国に向けての存続の呼びかけはRACDA高岡としてやらないのですか?もしされるなら全国版にも掲載しますよ」という話に島氏が飛びついたことによるものである。『RACDA高岡5年間の軌跡』では、この新聞への掲載について「県外にも存続を願う人がいることを多くアピールできた」と記すと同時に「マスコミを巻き込み、記事を書いてもらうコツも学んだ」(RACDA高岡、200494)と記述している。

万葉線存続決定後は、民間寄付金1億円を集めるため、RACDA高岡も他の団体とともに市民に対して呼びかけを行う役割を担い、募金活動を推進させる役割を担った。