4章 金沢箔業界の現状

 

1節 調査概要

 金沢箔職人4人、金沢市役所の1人の職員へのインタビューを行った。概要は以下の通りである。

 

Sさん

73歳(インタビュー当時) 断切金箔

 父親が洋箔を打つ材料となる洋澄を打つ職人であった。中学卒業後、戦後で家計が苦しかったこともあり、洋箔職人として働き始める。その後、洋箔の仕事が暇になってきたことをきっかけに方向転換をはかり、修行を行い、現在の断切金箔の職人になった。

 2人の子どもがいるが、それぞれ独立し家業を継ぐ予定はなく、後継者はいない。

 どうしたらもっと良い箔を打つことができるのかを日々考え研究を行っている。自分で納得のいく箔でないと問屋に出さないなど、職人としての誇りを強く持っている。問屋がもっと目先の儲けだけでなく金沢箔業界に関心を持ち努力してもらわなければどうにもならないということを強く訴えていた。

インタビューは200911月、20109月の2度実施

 

Tさん

52歳(インタビュー当時) 断切金箔

断切金箔を家業としており父親が職人であった。高校卒業後職人になる。

4章第2節で金沢箔の現状について述べる際データを用いる。

インタビューは200911月に実施

 

Kさん

53歳(インタビュー当時) 断切金箔

断切金箔を家業としており父親が職人であった。大学を卒業後職人になる。

4章第2節で金沢箔の現状、第5章第3節で需要低迷、後継者育成に関する金沢箔の難しさについて述べる際データを用いる。

インタビューは200911月に実施

 

松村謙一さん

50歳(インタビュー当時) 縁付金箔

金沢金箔伝統技術保存会の会長。

6章第1節で金沢金箔伝統技術保存会について述べる際データを用いる。

インタビューは20107月に実施

 

金沢市役所文化財保護課の金沢金箔伝統技術保存会担当の職員

6章新し動きを述べる際データを用いる。

インタビューは20107月に実施

 

2節 金沢箔の現状

2章第2節の表にあるように、生産金額はピーク時の約5分の1にまで減少している。職人の数もここ20年ほどで約半分になっている。インタビューで「職人の中で若い世代は50代前半」(Kさん)と語られているように、深刻な後継者不足を抱えていることが明らかになった。このように、金沢箔業界も第3章でレビューした陶磁器業界、高岡漆器業界同様に需要の低迷、後継者不足という問題を抱えている。

金沢箔の使用用途の大部分は仏壇である。しかし近年仏壇のない家、現代風の木材などで作られた仏壇に注目が集まっており、仏壇の需要も低迷してきている。用途の大部分である仏壇の需要が低迷してきていることが金沢箔の需要の低迷に大きな影響を及ぼしている。これに職人は強い危機感を感じており、仏壇以外の新たな用途を探している。しかし、仏壇のように多くの金沢箔を使用する用途を見つけられずにいる、というのが現状である。また近年、中国、ベトナムなどの海外から入ってくる箔にも影響を受けている。縁付金箔の特性を持つ金箔を打つ技術を持っているのは日本(金沢)だけである。よって海外から入ってくる箔に影響を受けているのは断切金箔が主であるが、以前は品質もあまりよくなかったものの、数年前から品質も良くなりさらに多く輸入されるようになった。人件費が安く、それなりの品質のものを金沢箔よりも安い値段で取引することができるので、海外から入ってくる箔を利用するものも増えている。これが断切金箔の需要低迷にさらに拍車をかけている。

後継者不足の問題は先ほど述べたとおりだが、職人の年齢が若くても50歳代、平均して60歳代〜70歳代が中心である。職人の数もここ20年ほどで半数になっており非常に危険な状況である。一人前の職人になるには3年〜10年の修行が必要な金沢箔業界の10年後を考えると、職人の数がさらに減っていくことは明らかであり、早急に対策を取っていかなければならない。

しかし、そんな危機的状況を職人が理解しているにもかかわらず「金沢箔を継いでもらいたい気持ちはまったくない」(Kさん)「将来自分の息子に家業を継いでほしいとは言えない」(Tさん)と語られているように、後継者育成には消極的である。その理由は、インタビューで職人が最も強く訴えていた、需要の低迷により仕事が減り工賃が下がってきている今、金沢箔の職人になっても生活することが難しいという現状にある。自分たちが生活することで精一杯の中では、後継者の生活を保証することが難しく後継者を育てることはできない。先行研究として取り上げた高岡漆器の例でも「世間の考える後継者問題は人材不足からくるものだと思われがちだが、そうではない。たとえ、後継者を育てたとしても、その人間の将来に責任がもてないのだ。一人一人の将来は重い。今の伝統工芸にそれを担うだけの余力はもはや残ってはいないのが現状だ。これが本当の、伝統工芸に携わる人々が抱える後継者問題なのである」(第2章第1節)と語られているように、同様の状況にある。このように金沢箔業界も需要の低迷に伴い後継者を育てていくだけの仕事量が確保できず、後継者不足は理解しているが後継者育成に踏み切れないでいる、というのが現状である。

金沢箔の職人になるには少なくとも3年以上の修行が必要になる。修行をするにも教えを請う金沢箔職人を探さなければならない。教えてもらえる職人がいたとしても、一から十まで全て教えてもらえるわけではなく、親方が仕事をする姿を見て技術を自分で盗んでいけ、という職人気質な業界である。このように、金沢箔の職人になることは普通の会社で働くように容易なことではなく、「伝統」というものが強く残っている。また、家業で発展してきた業界であるので外部からの参入が難しい、ということも強く影響しているように感じる。実際に、今回インタビューに応えていただいた職人も、父親が金沢箔の職人、または金沢箔に関わった仕事をしている。小さいころから父親が働く姿を見て育ち自然に職人の道へ進んだ、という印象を受けた。先行研究で取り上げた漆器業界も同様に窯元、作家の出身地を見ても、どの産地も地元出身もしくは地元以外の県内出身者が大多数を占めているというデータが出ており、外部からの参入が難しいことを示している。(中泉啓 2004)現在では伝統工芸とはいいながらも昔とは異なり家業という意識が薄くなっていること、若い世代では職業選択が自由になっていたり自分の人生を自分の意志で決定したりするのが当たり前であるという社会一般の在り方がこのような伝統工芸の世界でも当然になってきていることが、さらに後継者が生まれにくい状況作りに拍車をかけているようにも感じた。

 さらに、金沢箔業界は後継者が不足しているが、若い人から職人を辞めていくケースが増えている。その理由は、金沢箔は見る人が見れば誰が打った箔であるかわかると言われており、一般的に職人暦が長いほど良い箔を打つことができるからである。よって仮に若い人が金沢箔職人として働き始めても職人暦の長い職人の箔に勝ることができず、自然と入ってくる仕事も少なくなってしまう。これは先行研究で取り上げた高岡漆器の例でも「職人は死ぬまで仕事があると言われていた。それが昭和4050年代から逆転して、そのような簡単なものではなくなってきて、若い人がどんどん仕事を変わっていった。彫刻師はみな60代、70代、50代は「若手」。塗り師はみな40代、50代で、30代が「若手」。職人の世界全体で高齢化が進んでいる」(第2章第3節)と語られており同様である。若い後継者が求められている中で、若い人から仕事を辞めていく状況は、職人の高齢化にさらに拍車をかけ悪循環を生みだしている。

 このように金沢箔業界も需要の低迷、後継者不足という大きな問題を抱えている。しかし今回調査を行った職人全員が、これからの金沢箔は若い人が金沢箔の職人になりたいと思うような魅力ある業界にしていくことが大切であると語っていた。職人も金沢箔はこのままではいけない、どうにかしなければならないという強い使命感を持っているのだと感じた。

 

3節 Sさんのライフヒストリー

 本論文は断切金箔工法の誕生を金沢箔業界のターニングポイントであると捉え、主に断切職人に焦点を当てる。Sさんは洋箔職人として仕事を始め、洋箔の仕事が暇になったことから、方向転換を図る。断切金箔工法の誕生を経験し、現在は断切金箔職人として働くSさんのライフヒストリーは、経歴の長さゆえ示唆する点が多いように思う。このような理由から、ここで詳細に取り上げたい。

 

 20109月現在73歳。中学卒業後、父親が洋箔を打つ材料となる洋澄を打つ職人だったこと、戦後であり家計が苦しかったこと、をきっかけに洋箔の勉強を始め、15歳で洋箔職人として箔の道に入った。それから156年程は10人〜15人もの職人が共同で作業する共同工場で仕事に励んだ。多くの職人が働く共同工場で、あの職人は箔打ちの腕が良いと聞くと、職人の世界は手や口で技術を教えるのではなく、見て技術を盗むものなのでその技術を学ぼうとその職人に付きっきりになり技術を取得するなど、修行も兼ねて共同工場で働いた。

そして26歳で有名な箔の問屋の娘さんであった今の奥さんと、周りからの反対がある中で結婚。結婚後23年は箔の道を離れ違う仕事を行っていたがうまくいかず辞めてしまう。その後、奥さんの実家との関係が良好になったことをきっかけに箔の道に戻る。356歳で一人前の職人として周りから認められるまでに成長した。

 しかし、20数年前から洋箔の仕事が暇になってきたことをきっかけに方向転換を図る。仏壇屋で3年間縁付金箔の修行を行う。その後、修行では縁付金箔を学んでいたが、年齢も考え縁付金箔よりも工程が少なく、作業効率が良い断切金箔を50歳ごろから始め、今に至る。

 断切金箔は洋箔の技術から生まれたものであるので、同じ洋箔職人の仲間の中には修行をせずそのまま断切金箔に移行する人も少なくなかった。しかしSさんはそんな職人に「金のなんちゅうか、このどういう風にしたら伸びる、どういう風にね、どんだけ熱入れたら、どんだけ伸びるとか。こういう湿り気でもったら色が変色するとか。こういう勉強をしたことあるんかって」と言ったことがあるという。金の本質を学びこれからの職人としての仕事に生かしていこうと3年間修行を行った。

 縁付金箔に比べ、工程が少なく作業効率が良い断切金箔に移行したSさんであったが「人と同じ仕事はしたくない」とはっきりと語るように仕事に対する情熱を強く持っている。現在も他の職人が打てない三号箔(他の箔よりも大きい)という少し特殊な箔を打つことを研究し、得意としている。それが奈良のお寺で認められ、そのお寺の装飾のためにSさんの箔が全面的に使用されたこともある。このように日々どうしたらもっと良い箔を打つことができるだろうか、ということを考え仕事に励んでいる。

 1人の職人は1つの問屋からの仕事を行うことが多い。よって問屋に工賃や仕事量に対する意見を強く言えないでいる職人が多い、というのが実情である。しかしSさんは奥さんの実家も箔の問屋をしていることから、奥さんの実家の問屋の仕事も行っており、2つの問屋の仕事を行っている。2つの問屋の仕事を行っていることにより、仕事が減る心配が他の職人に比べて少ない。よって問屋に対しての意見も言いやすい立場にあり、組合での話し合いの席や、この調査のインタビューの中でも問屋がもっと職人、金沢箔業界のことを考えてもらわなければこの先金沢箔業界はどうにもならない、ということを強く訴えていた。

 さらに、昔は紙屋も箔を打つためだけの紙をわざわざ探して仕入れてくれていた。しかし、金箔の需要が減り、それに伴い使用する紙の量も減っており、箔屋に関心を持ち、良い箔が打てる箔打ちのための紙を、わざわざ仕入れてくれるような紙屋もいなくなっている。箔打ち機械の整備を行ってもらう鉄工所にしても、昔は少し機械の調子が悪いと一日付きっきりで工場に一緒に入り、調整をしてくれた。しかし、現在では箔打ち機械に詳しい人も少なくなってきている。また、問屋にしても昔は社長でも箔を打つことができる人が多く、箔の善し悪しを良く理解してくれる人が多かった。しかし、今は昔のような社長も減り、作業環境の悪化をあまり理解してくれない。このように職人の腕がいくらよくても紙屋、鉄工所、問屋など周りの協力がなければどうにもならない。二人三脚でここまでやってきた金沢箔業界は、今まで協力してもらってきた方との関係が薄れてきたことも業界の不振に大きな影響を及ぼしている、とSさんは考えている。

 

 Sさんはこのような職人としての人生を歩んできた。Sさんのライフヒストリーが示していることは3つある。まず1つ目は、Sさんが断切職人になったということである。Sさんは父親が洋箔に関係する仕事を行っていたことから、洋箔職人として箔の道に入った。その後、断切金箔の誕生を経験した。そして、洋箔金箔の仕事が暇になり、金沢箔の歴史と対応するかのように、修行後、断切金箔職人へと転向した。縁付金箔ではなく、断切金箔を選らんだ理由としては、年齢が若くはなかったこと、また、工程が少なく、縁付金箔に比べ生産性が高いことをSさんは挙げている。

 2つ目は、技術としての断切金箔についてである。断切金箔は、戦後日本における時代の流れの中で生まれた技術であるので、「伝統」というには縁付金箔に比べ歴史が浅い。しかし、Sさんのように、大きな箔を打つ技術を習得し、日々研究を行っている職人もいる。断切金箔は、歴史は浅いが、Sさんの例からもわかるように、技術としての奥深さはある。このように、断切金箔は「伝統」と近代的合理性の間のいわば、グレーゾーンにある技術なのではないだろうか。

 最後に3つ目は金沢箔業界の産業構造である。金沢箔業界では、1人の職人は1つの問屋からの仕事を行うことが多い。現にTさん、Kさんも1つの問屋からの仕事のみを行っている。職人が1つの問屋の仕事だけを行うことが多いことにより、問屋に対して職人が意見しづらい現状がある。そんな中Sさんは、2つの問屋からの仕事を行っている。よって他の職人とは異なり、問屋、組合に対して意見を言いやすい立場にある。このように、金沢箔業界を探っていくにあたって、問屋と職人の11という関係、産業構造はとても重要になってくる。