第二章 先行研究

第一節 ペットブームの訪れ

 ペットフード工業会によると平成20年度の犬猫飼育頭数は、犬が1,310万1千頭、猫は1,3738千頭で、その合計頭数は昨年より約130万頭の増加になった。1994年の第1回の調査結果に比べると、犬の飼育頭数は約1,4倍、猫の飼育頭数は約1,8倍となった。(ペットフード工業会 2009 )(1)

ペットブームと言われている現代ではこのようにペットの飼育傾向が年々上向きになっているが、このような「ペットブーム」という言葉は二本松(2006)によると、1980年代後半にマスコミから広まったという。ちょうどバブル期に重なり収入が増え、ペットにお金をつぎ込む余裕ができたということと重ねることができる。ペットブームの初期は、ハスキーブーム・ゴールデンブームと続き、近年では金融会社のCMをきっかけにチワワなどの小型犬が愛玩用として飼われ始めるようになり、小型犬ブームとして広まった。最近ではペットを飼い始める人が増え始めると共に、そのペットに対して飼い主の考え方にも大きな変化を生じてきた。ペットの健康志向の高まりや癒しを求めることが増え、ペットに対して家族的な考えの人が増してきているのだ。しかし、我々がペットによって癒しや安らぎの恩恵を授かる一方で、ペットブームの到来は動物側にとっては必ずしも幸せなものではない。安易な飼育欲求は安易な飼育放棄を呼ぶこととなり、殺処分される犬や猫が増えることとなったのだ。

 

 第二節 生じるズレ

 香山(2008)は激化するペットブームの背景にあるのは「心のゆとり」ではなくむしろ「心のすきま」であるとした。ペットに対する過剰な愛情を示す人間は、何か愛すべき者の喪失によってその余りある愛情を埋めるべくペットにその代理を求めていると考えられ、宇都宮(1999)は「飼い主は、自らが喜び、幸福になるために、ペットを子供や家族のように扱っている」とした。だが、これらはいずれもまず人間に対して愛情を持つ事を前提とされていた。しかし実際は「本来、人間に注がれる愛情を動物に向けている人」が増えているという。その中には一人暮らしの高齢者のような愛情を向ける対象がいなくなったからその代償としてペットを可愛がるタイプや、人間に対する愛情よりも対ペットへの愛情が上回ってしまうタイプが挙げられている。しかし、近年目につくのはペットを人間以上のパートナーと考え、愛情の対象を人間に求めることなく「最初からペット」のタイプがいるということである。我々人間にとって現代社会での希薄な人間関係からの寂しさやストレスを「無償の愛」で癒すペットは「言葉は話さないが、あたかも言葉を一部、理解しているかのように反応してくれる」最高のコミュニケーション相手として非常に都合が良いものとされている。このように動物に対しての愛情は金銭的、時間的に余裕ができたことによる「心のゆとり」によって向けられるのではなく、何らかの空虚感や煩わしい人間関係からの逃亡心を動物へ向けることでペットを心の拠り所にしているのではないかと香山(2008)は述べている。

また、香山(2008)はこれら「人間に注がれる愛情を動物に向けている」立場の人とそうでない立場の人との間には「たかが動物」観念が働くことから複雑な問題が起こるとした。

 

≪団体と市民との間に生じる“ズレ”

 これまで日本は動物愛護運動とは犬好きや猫好きの人々が集まって地域で活動しているという穏やかなイメージが主であった。しかし、近年では活動の過激化が進み、中には活動を行うボランティアと市民との衝突も見受けられるという。2007年に滋賀県で起こった動物愛護団体「アーク・エンジェルズ」と市長を含んだ市民とのぶつかり合い(2)においても動物愛護派とそれに対する反対派がすれ違いを見せ徐々にお互いの動きがエスカレートしていった。このように動物愛護団体側の主張は時には住民には理解されず諍いを生むこともある。

また、譲渡においても団体と個人の間に大きなズレを生じさせるともある。動物譲渡に従事する人からの動物の受け渡しは、一種の「面接」のようなものが行われ、譲渡成立後も度々近況を報告するなど、これは犬や猫を譲り受けた時の「お作法」であるようだ。しかし、このような「ボランティアの世界のルールや価値観は、世間一般のそれとはやや違っていることもある」とし、これが大きな“ズレ”として多くの問題が起こるという(香山2008:124)

 

第三節 飼い主の無責任の複雑化

第一項 飼い主のモラル論

 堀(2008)はペットブーム到来の問題として「悪質動物業者や無責任な飼い主の横行」を挙げている。その背景にはまず、ペットをペットショップに「供給する側」に問題があるとする。利益を目的に悪質な環境で機械的な子犬の交配や繁殖が行われ、ストレスにさらされ病弱なままで出荷されるケースもある。しかし、このような問題は2006年の改正動物愛護管理法(第三章参照)の施行によって改善の余地が見られるようになった。だが、「無責任な飼い主」の存在においては未だ、保険所や富山県動物管理センターに多くの動物たちが持ち込まれているという現実がある。ペットを「供給する側」が、移動販売などのペットの衝動買いを誘う形式を取ることで、安易に犬や猫を飼う飼い主が増えてしまい、結果、都合が悪くなると捨ててしまうという無責任さを持つ飼い主を招くこととなった。このような「需要する側」の問題の原因を二本松(2006)は、「理性の欠如」であると述べる。CMやメディアの影響によって我々が少なからず流行りの品種に飛び付いてしまっていることは、事実として考えられている。ペットを飼いたいという欲求に従い、そのことが後々どういう結果を引き起こすか、社会にどのような影響を及ぼすかを考慮せず、浅はかな考えのもとペットを飼うことで捨てる羽目になる命を作っていることにあるのだ。

このように堀(2008)と二本松(2006)はペットが捨てられる現状についてその原因を一つに飼い主のモラルの欠如によるものしている。しかし、ペットの放棄問題に対し全てを飼い主のモラル間の問題として語るにはいかないだろう。というのも、ペットの放棄問題に関して浅はかな衝動買いや安易な飼育観によるものだというステレオタイプが横行すると、後で述べる「無責任」の複雑さを捉えそこなうからである。

また、そうした一部の飼い主への道徳的非難ばかりに関心が集まり、問題の解決に関わる取り組みや課題を検討することが背景に退いてしまいがちにもなる。したがって、このように殺処分を受ける動物の行く末について全てを飼い主のモラルとして語ることは、必ずしも問題の全容を明らかにすることに繋がらないと考えられる。


 第二項 「理想の家族」としてのペット――「無責任」の複雑さ――

飼い始めは単純に欲求のためにペットを飼い始めたという動機であっても、飼い始めるに従ってペットを家族同然と思い始める人は多くいる。山田(2004)は彼の調査結果から「真剣に飼っている人はそのようなブームとは無縁」とし、純血種であろうと雑種であろうとペットを大事にしているとした。ペットを飼うきっかけが偶然の人もいれば、望んで飼った人もいるが、そこに大きく飼い方が異なってくることはなく、いつの間にか家族同然の存在としていることが自然であるとした。

また、山田(2004)は人々がペットを飼う背景には「理想の家族」を重ねていることを示した。ペットは飼い主を裏切らず、気を使うことも必要ない。世話を焼くことでなつき始め、愛着も湧いてくる。そして、いつの間にかペットを子供や恋人の位置付けに置く傾向があるとした。

だが、ペットを一度は家族として扱い、時には「理想の家族」として位置付ける状況下にありながらもペットの放棄問題が出てきている。飼い主のモラル論のような安易な飼い主の無責任さとはまた異なる無責任さの複雑化が「家族ペット」と言われる現代では起こってきているのだ。家族と同等の扱いにありながらもなぜ、ペットの放棄問題が起こるのか。一つには家族の状況下の変化が考えられる。私の調査においても、ペットを捨てる理由として、「赤ちゃんが生まれたから捨てる」「子供の世話で手いっぱいになりペットの面倒まで見きれない」という事が実際に挙げられた。ここでは赤ちゃんが生まれたことで家族間に夫婦が描いていた「理想の家族像」が成立することとなり、今まで重ねていたペットに対する赤ちゃん象が不要のものになってしまった。家族間の状況は変化が起こるものである。以前はペットを家族と同等に扱っていたということから、第二節の安易な飼育欲求による無責任さとは異なる無責任さがここでは見て取れる。また、避妊去勢の在り方による無責任さも加わってくる。家族同然と思うが故に、我が子、あるいは恋人であるペットに手術を受けさせることに抵抗を抱くケースが多い。手術によって怖い思いをさせるだけでなく、傷も痛々しく思えてくる、人間に置き換えて想像してみると避妊去勢手術は生殖機能を奪うことであり、とても耐えられないと感じてしまう飼い主が少なくないのだ。しかしその結果、飼っているペットに野良との子を作らせることとなり、殺処分される動物を増やす可能性に繋げてしまっているである。

このようにペットブームによる安易な購買欲求の無責任さから、現代に至る「家族ペット」の背景に存在する無責任さへの複雑化が生じている。いずれにしてもペットを捨てること、動物が放置されていることは社会的にも問題である。それにも関わらず、現代ではペットを捨てることに値するに適した言葉が社会に出回っていることはない。ペットロスやコンパニオンアニマルのように人間に近い存在としてペットを肯定的に捉えた造語は多く作られるようになった。だが捨てられる、野良に関する類の言葉は見当たらない。もしあるとしたら当然議論されるべき問題なのだが、どうも社会問題としての捉えられかたが甘いように思えてならない。私は、理性の欠如のみならず、「理想の家族」を投影する人間の行動の結果として、それら生きる場のない動物たちがあらわれていると認識できる以上、何らかの社会的な対応が必要だ、という立場を取りたい。飼い主の無責任さが複雑化しているからこそ、我々はさらに新たな責任を持つべきだと考える。人間は無責任によって生まれてきた動物や元ペットに対して「新たな生存の機会」を与えるべきであり、その機会を最大限にする責任が我々人間社会にはある。そういった「新たな生存の機会」の場として「譲渡」という取り組みが考えられる。以後、本論文では動物たちの新たな生存のチャンスとしての譲渡について詳しく見ていくこととする。