第1章 金沢の文化事業と増加するアートプロジェクト

1節 空洞化の進む金沢の中心地

石川県金沢市は、江戸時代に加賀藩の城下町として栄え、現在は石川県の県庁所在地として、北陸を代表する地方都市として知られる。400年以上戦災や大きな自然災害を受けることがなかったため、市街地には藩政時代の街並みや歴史的建造物が多く残る。加賀百万石の豊かさを背景に、九谷焼・加賀友禅などの美術工芸や、能楽などの伝統芸能も盛んである。

 市の中心地は、日本三名園の一つである兼六園や金沢城址などの観光地と隣接する香林坊・片町周辺地域で、地元の買い物客や観光客でにぎわう。しかし、全国的なモータリゼーションの進展、中心商業地の地価高騰などにより、かつてほどのにぎわいは失われつつある。金沢の中心地の空洞化は、1989年から2005年にかけて行われた金沢大学の移転事業や、2003年の県庁舎の郊外移転などをきっかけとして、徐々に問題視されるようになってきた。

 

第2節 金沢21世紀美術館

そうしたなか、市は199512月に「金沢世界都市構想」を策定した。世界の中で独特の輝きを放つ都市づくりを目指して、都市基盤の充実を図っていく姿勢が示された。空洞化対策としては「都心部の空洞化を土地利用の誘導により未然に防止していく」方向性が定められ、兼六園と香林坊のちょうど間に位置する金沢大学附属小中学校跡地での、美術館を核とした文化的複合施設の整備が明記された。翌年4月には美術館建設準備事務局が発足し、美術館新設に向けた取り組みが始まった。

金沢21世紀美術館初代館長の蓑豊によると、美術館の建設を提案したのは山出市長であったという。市長は、「金沢は伝統文化の街だが、そこから一歩出る新しい試みを絶えずしなければならない。進取の気象を刺激するためにも現代美術を対象にした庶民派美術館を作りたい」(蓑 2007:27)という思いのもと、美術館新設が提案された。

21世紀美術館は、200110月に設計が完了し、2002年4月から着工された。20048月にすべての工事が終了し、同年10月9日に開館した。円形ガラス張りで、四方に入口をもつ開放的なつくりが特徴で、開館前の2004年9月にはヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展展示部門の金獅子賞を受賞した。前評判は高く、開館すると2ヶ月で目標の年間入館者数の30万人を達成し、開館1年目の入館者数は157万人を記録した。地方都市の美術館の年間入館者数の平均が5〜6万人だといわれていることからすると、人口46万人の金沢で157万人の入館者があったというのは驚異的なことであった。

 中心市街地活性化の担い手として建設された金沢21世紀美術館は、美術品を収集・展示するという従来の美術館の仕事だけでなく、学校や商店街を巻き込むイベントを多数実施している。代表例は、金沢市内の全小中学生を招待した「ミュージアム・クルーズ」である。21世紀美術館には子どもたちに楽しんでもらえる体験型の展示がたくさんあり、美術と接することで豊かな感性を磨いてもらおうと実施された。子どもたちでにぎわう21世紀美術館は、真面目な顔をして静かに名作を鑑賞する権威的・伝統的な美術館とは違い、誰もが自然に足を運べる明るい公園のような美術館であることを人々に教えてくれる。順路に従って鑑賞するという制約が放棄された美術館には、レストラン、ミュージアムショップ、アートライブラリー、キッズスタジオなどの展示空間以外の施設が無料ゾーンとして積極的に併設されており、まさに市民のための美術館として機能している。

 

第3節「まちづくり」の核となる美術館

開放的で、展示以外のスペースを多くもつ21世紀美術館であるが、このように美術館を市民交流の場や地域文化の担い手として活用する傾向は、地方の公設美術館では近年増えている。

並木・中川(2006)によれば、公共施設として設置された美術館は、文化行政を担うものとして位置づけられ、とりわけ東京への一極集中が加速する1980年代以降、地方文化の疲弊とともに、そのまま美術館はまちづくりの中核施設として位置づけられるようになっていったとしている。単純な作品の展示ではもはや人は集まらなくなっていたこともあり、体験型の展示や「地方交流センター」などの交流施設と関連付けて設置されるなど、美術館は、美術品の展示・収集という枠を超えた活動も期待される存在となっていったのである。

そうした動きの中で、まちづくりと連動したアートプロジェクトも増加していった。例えば、直島で1998年から始まった集落を作品の舞台にする「家プロジェクト」や、かつて娯楽の街として栄えた神戸の新開地を再生するため、2002年から公園や商店街を舞台としてさまざまな芸術活動が展開された「新開地アートストリート」などである。これらはどれも、街の生活空間全体を場として、言ってみれば、一つの地域がまるごと美術館として想定されている。近年こうした「地域まるごと美術館」という着想に基づいた事業が、空洞化する中心地の有力な活性化策として各地で試みられるようになってきている。(並木・中川 2006:178

 

第4節 現代美術の流れから生まれたアートプロジェクト

美術館の役割が拡張されるなかで、まちづくりを目的とするアートプロジェクトが生まれた。その背景には現代美術の特性も関係している。ここでは、日本現代美術の現在までの流れについて、岡部(2005)の記述によって説明したい。

海外で日本の現代美術として具体的に知られ始めたのは「もの派」の流れであった。「もの派」は、1970年前後からの、作者と造形物のヒエラルキーをなくし、石や木材などをありのままに提示して、物体そのものに語らせる表現動向である。

80年代から始まる、ポストもの派世代の代表者川俣正は、インスタレーション(展示空間全体を作品とする手法)が行われる土地、家屋、住民にまで介入し、社会性をもつ外部空間への、通路としての空間概念を発達させた。アルコールやドラッグ依存者が病院でのリハビリに遊歩道を作ったり、旧炭鉱の筑豊でボランティアと鉄塔を作ったりする、川俣のこれらの試みは、時空間の流れとともに進展するコミュニティ・プロジェクトの歩みといえる。

その後、80年代後半には、地味で自然な素材を使う主潮に対して、派手で人工的な傾向とハイテクなメディアを駆使したインスタレーションが台頭した。この期の代表者が、森村泰昌と宮島達男で、ともにアートとメディアの親和を成し遂げ脚光を浴びた。

森村・宮島世代の次にあたるのが、村上隆と中村政人である。90年代前半、当時韓国に留学していた村上と中村は、ソウルで2人展を行い、都市環境に潜む記号や日常品への反応を通した制作活動と同時に、脆弱な日本アートのインフラ整備への意欲を燃やした。

帰国した中村政人は、アートのインフラを革新するために、日本特有の貸し画廊システムを俎上にあげた「レンタルギャラリー」や「美術と教育」のインタヴューシリーズを手がけ、意識改革を試みた。また路上でゲリラ的に活動する「ザ・ギンブラート」や「新宿少年アート」の脱美術館イベントを組織し、コンビニやマクドナルドの広告サインをグローバリズムの身近な表象とする作品を制作した。1999年からは秋葉原を拠点に、「コマンドN」の活動を開始。そこでは、市民、学生、商店組合、民間企業、大使館、自治体等を結びつける新たな社会参加型アートプロジェクトを企画、制作、実現し、現在でもその活動は続いている。(岡部 2005:9

 1970年代から、インスタレーションという表現手法が確立していくなかで、展示することだけがアートの価値ではないという認識が広まっていった。90年代以降は、特にそうした空間との関わり、人々との関わりを追求する現代美術の風潮が強まり、美術館やギャラリーの外で活躍する作家が増えていったといえる。アートプロジェクトは、こうした現代美術の流れから、作家たちがまちのなかで、まちの人と関わりながら行うアート活動として成長していったと考えられる。

 

第5節 オルタナティヴ・スペースとは

現代美術によるアートプロジェクトを語る上で、「オルタナティヴ・スペース」という言葉がよく使われる。                                           

林(2004)によると、オルタナティヴ・スペースとは、「本来アートスペースとして建てられていない建物、例えば倉庫やレストラン等のalternative(もう一つの)な使用方法としてアートスペースとして使っているもの」で、「革新的・実験的な作品を制作するアーティストを支援し、若手アーティストの発表の場として先端的な場」(林 2004:141)であるとしている。

1970年代に欧米から始まったとされるオルタナティヴ・スペースであるが、日本では80年頃から、美術館でもギャラリーでもないアートスペースが登場していった。岡部(2005)によると、日本のオルタナティヴ・スペースの草分けは、1986年に開始した小池一子主宰の「佐賀町エキジビット・スペース」である。そこでは、「主宰者が経営する事務所や個人支援、民間企業、財団、大学などからの援助や助成で、古い食糧ビルを展示空間として2000年まで活動が行われた」(岡部 2005:169)。

 現在、オルタナティヴ・スペースは日本全国に点在する。原 久子は、オルタナティヴ・スペースが設立される場に関して、「首都圏や関西など、アーティストたちが多く住む地域に数多くあることは言うまでもない」が、「画廊や公的な文化施設が少ない地域にこそ、作品発表などのコミュニケーションをとる場が必要とされ、そうした切実な欲求からオルタナティヴ・スペースが設立されることもある」(『オルタナティヴス―アジアのアートスペースガイド200572-23の原 久子の記述より)としている。

オルタナティヴ・スペースの多くは、社会貢献をベースとする非営利団体として活動しており、NPO化する団体もある。1998年に成立したNPO法により法人格を取得した団体は、行政から文化事業を委託されやすくなるなど、いくつかのメリットを得た。しかしながら、オルタナティヴ・スペースを運営する資金の捻出は、常に困難を伴っている。林(2004)によると、日本は「オルタナティヴ・スペース発祥の地である欧米と異なり、そのような新しい試みに対する助成のシステムが圧倒的に不足している」(林 2004:144)という。芸術文化を振興する場として、オルタナティヴ・スペースの意義を広く発信し、行政や企業、個人などからの助成を募っていかなければ、活動の継続は難しい現状であるといえる。

 

第6節 まとめ

地方文化の疲弊とともに、まちづくりとしての機能を備えていった地方の公設美術館。アートをまちづくりに利用する動きは、そのまま、空洞化の進むまちや商店街の中で展示や活動を行うアートプロジェクトへと発展していった。アートプロジェクトの増加は、一方で、社会的な事柄と積極的に関わろうとする現代美術の動向としても、必然的な流れであったといえる。

現代美術を扱う公設の金沢21世紀美術館が、まちを舞台にした展覧会「金沢アートプラットホーム2008」の開催を決定した。それは、美術館からの要請として、また現代美術からの要請として生まれたプロジェクトであるといえるのではないだろうか。