第七章 考察

 この章では、第一節にブラジル人児童生徒が直面している日本語学習について、第二節では、学校現場での問題について、第三節では、日本語教室の役割と限界についてそれぞれ考察をしていきたい。それらを踏まえて第四章では、今後の日本語指導、ブラジル人児童生徒をはじめとする外国人の子どもたちへのサポート体制について考えていきたい。

 

第一節 日本語習得における困難

 調査を通してまず、見えてきたことは、ブラジル人児童生徒たちがさまざまな形で言語の困難に直面していることである。

<「社会生活言語」と「学習思考言語」について>

 第六章では、「社会生活言語」と「学習思考言語」のギャップが見て取れると思われる部分が2点あった。ひとつは、Bの事例である(第六章<分らない算数>参照)。

 Bは、学校で起こったことや家での話を上手に日本語で話していたのに、算数の文章題を解く場面になると、文章を読んで計算式を作ることができなかった。この文章題の解法は、文章以外に意味内容を理解する手掛かりがない学習思考言語能力が必要な場面といえるだろう。

さらに、Fの事例では(第六章<答えは「3本」>参照)、Fは挿絵が描かれている問題では答えを導き出していたにもかかわらず、挿絵が描かれていなかった同じような問題では計算式を作ることができなかった。また、「花壇に赤い花と白い花が全部で、31本あります。赤い花が14本あります。白い花は何本ありますか。」という問題では、Fは、横の挿絵に白い花が、3本ぐらい書いてあったので、それを見て「3本」と答えていた。Fの算数の解法は、文章理解よりも挿絵のような非言語的な情報から答えを導き出しているようである。

インタビューを行った、4人の相談員、指導員経験者たちは、程度の差こそあれ、この2つの言語のギャップに直面しているようである。Jさんは、「小学時代からいる子どもは、とても話すことは上手なんですね。じゃあ、だからって学習についていけるかってなると、そういった能力は低いですね。」と語っており、最初にそのような場面に直面した時は、どうしてできないんだろうと感じたそうだ。また、Hさんは、学校の教師がこのような、子どもの状況を理解していないことが、問題であると語る。

 

<「漢字」という難しさ>

また、漢字の存在がブラジル人児童生徒にとって大きな壁となっているようである。そのような場面は第六章の日本語教室でのEとFの学習の様子からも伺えた。

漢字の理解が早いと思われるEであるが、「生」という漢字のような「生きる」「生まれる」「たん生日」「一年生」など読み方の多い漢字や、音読み訓読みにてこずっているようだった。

また、Fは漢字の穴埋め問題では例えば、「今日はいい()だな」という問題があったとすると、読みの「ひ」だけを見て「火」と書くような感じで文脈を見ずにその漢字の音だけを拾って、漢字を答えているようだった。

 Mも漢字の習得の難しさについて、学校内だけでの学習では足りず、覚えた漢字の8割ぐらいは、日本語学校などの学校外での学習で身につけたと語り、漢字の習得には時間と何より個人の努力によるところが大きいようである。

 読み方の多い漢字を覚えるのは、ブラジル人児童生徒にとっては、難しいようである。また、読み方の同じ漢字群の中から文脈に沿った漢字を選択するといった作業は、ポルトガル語話者である彼らにとっては、全く初めての作業でその作業のルールを理解することが難しいのかもしれない。Kさんも、読み方の多い漢字は、読み方によって送り仮名も変わってしまうものがあるので、覚えさせるのも、覚えるのも難しいと感じているようだ。また、漢字は子どもたちの親にとっても教えてあげたくても、教えられないものでもあるようだ。子どもたちの宿題を見ているSは、漢字について、自分が分らないものを教えるのはとても難しいと語っており、ブラジル人家族にとっても漢字は大きな壁といえるだろう。

 

第二節 学校現場での問題

 

時間的な制約について>

 時間的な制約についても、インタビューイたちは、それぞれ学校だけでは足りないと感じているようだ。次の日の学校での教材作り、学習進度がバラバラな生徒の指導などがあり、時間が足りないという感覚は、どの指導経験者も感じているようである。さらに、週に数回の頻度で行われている取り出し教室では、前回指導していた部分を覚えていなかったり、忘れている場合があるという。

 

Jさん:繰り返しというか、やってった事をどんどんステップアップするんではなくて、やってたことからまた振り出しに戻って、また同じことをやるんですね。

 

Kさん:3つ進んで、もう一回2こ戻って、また進むとか。本当に毎日繰り返し、何回も繰り返しておんなじことを繰り返す。

 

週に数回程度の指導では、生徒の学習の定着度は低いようである。指導経験者たちが、時間の無さを感じさせる背景には、生徒の日本語学習にあたる絶対的な時間の不足による学習進度の停滞を身近に感じていることがあるのではないだろうか。

 

 

教師の対応について>

教師の対応については、Hさんは、当時を振り返り、「私たちに丸投げの状態だった」と語っている。また、Iさんは、教師に対して冷たいという印象を持っており、学校内での疎外感を感じることもあった。

 

Iさん:だから、たまに給食食べに来ただけみたいな感じが、あったんですよ。ある学校で、取り出し教室も必要じゃない子しかいなくて、取り出し教室もしないから、職員室に行って、先生からなんかやってくれって言われないまま、そのままずうっとそこにいて、用があったら(プリント等を)訳するというのがあったんで。

 

しかし、Jさんによれば、政策が開始されたころに比べると幾分改善されたようである。その様子をJさんは「教師のほうにも余裕が出てきた」と語っており、教師のほうから子どもに挨拶や、「最近どう」といった声かけをするなどコミュニケーションをはかる機会が増えているようである。こういった教師の対応の変化には子どもの様子や学習進度などを日報としてまとめ担任教師とのコミュニケーションを積極的にとっている支援指導員からの働きかけによるところが大きいようである。

Kさんは、小学校と中学校では状況が異なると感じている。小学校では、比較的声かけやコミュニケーションを取る時間があり、学校が楽しいところであるという雰囲気づくりに取り組んでいることが多いそうだが、中学校では、高校受験を意識しなければならないためもあり、生徒に対する声かけやコミュニケ―ションは少ないという。

 

支援指導員どうしの繋がりについて>

 支援指導員どうしの繋がりについては、Hさんはその必要を強く感じており、以前に教師向けのセミナーに、知り合いの支援指導員数名と参加した。セミナーの内容自体は、満足のいくものではなかったようで、一緒に行った支援指導員は「行かなくても良かった」と言っていたそうだが、Hさんは、セミナーの内容はともかくセミナーや研修に支援指導員たちが集まったということ自体に一定の意義はあったと考えている。

Jさんもまた、支援員同士が繋がりをもつ必要性を強く感じているようである。Jさんは、担当学校が変わる際に、引継ぎができない状況に以前から疑問を感じていた。今年に入ってはじめて、指導員数名と連絡が取れるようになり、実際に連絡を取る、取らないに関わらず安心感ができたという。また、実際にある生徒についてのことで学校に資料が不足しており前任者に連絡を取って相談したこともあるそうだ。

Kさんは、担当する曜日が違う相談員、指導員とは日報などを通じて連絡を取り合っている程度だそうだ。Iさんが相談員を務めていたころには相談員の数が少なく、存在は知っていたが学校を回るだけで精いっぱいで連絡を取ったことはなかったという。

現在のところ、支援指導員どうしの繋がりは、Hさん、Jさんのように指導員自らがそれぞれ能動的に努力して形成しなくてはならない状況といってよいだろう。引継ぎのことも含め、情報の共有・指導法の蓄積のためにも指導員どうしの繋がりを作っていくことが必要だと思われる。

 

第三節 日本語教室の役割と限界

 日本語教室の役割について坪谷(2005)は、活動の内容は一様ではないとしながらも、学校での勉強の補習、日本での進学を目指す場、家庭でも学校でも居場所が見つけられない子どもたちの居場所づくりといった役割を挙げている。そして、外国人の子どもたちの学びのサポートには欠かせない存在であると述べている。

子どもたちを日本語教室へ通わせているPさんは、日本語を覚えるのは学校だけでは不十分で、日本語学校に通って繰り返し、繰り返し勉強して日本語を覚えていったと語っており(第五章第一節参照)、日本語教室は子どもたちの日本語習得にとって重要な役割を果たしていると評価している。また、日本語教室のOさんが、「子どもたちの話し相手になることが多い」と語っていたように、子どもたちの居場所づくり、ストレス発散の場としても機能を持っているといえるだろう。Hさんが学校で指導をしていた際に、学習と息抜きの時間のバランスをとりながら、指導をしていると語っていたが、日本語教室においても、子どもたちのキャラクターを見ながら、学習と息抜きのバランスを取っている(第六章参照)。

 しかしながら、学校での不足部分を補い、子どもたちに居場所を提供する日本語教室にも問題点はあると坪谷は述べる。まず、外国籍の子どもの就学をサポートする地域社会やボランティア組織等の基盤が弱い点。このことは、今回調査した日本語教室でも見ることができた。教える側の人数が少ないために教室を開く頻度が少なくなっている現状を見ると日本語教室を支える基盤が弱いことがうかがえる。

子どもによっては複数の教室に参加している子どももいるようだ。日本語教室の使い分けとはいかないまでも、複数の日本語教室に参加することは、サポート体制が整わない中での日本語習得への一つの戦略といえるだろう。

 

 

第四節 今後考えなければならない問題

 第一節から第三節を踏まえた上で、今後の日本語教育について考えなければいけない点をいくつか挙げていきたい。

まずは、公的な支援の問題、平成19年度より高岡市ではブラジル人児童の集住地区を校下に持つ2校を日本語指導の拠点校にし、講師を常駐させる取り組みをスタートさせている。その拠点校に子供を通わせているPさん一家、Rさん一家は、拠点校に母語を話せる先生が常駐していることには一定の満足を示している。子供よりも、言葉の通じる先生がいつも学校にいることは、子供よりもむしろ親のほうに安心感を与えているようであった。しかし、日本語指導者たちの間には厳しい見方がある。Jさんは、予算や、支援講師の人数が限られている中で、どのような指導体制(巡回指導型、拠点校設置型)をとることが子ども達にとっていいのかを考えなければいけない、と語っており、Kさんも拠点校に通えない子どもたちのことを考えると、拠点校に子どもを集めるのか、講師が学校を巡回するのがいいのか難しいと語る。この指導体制をめぐる問題は今後も検討しなくてはいけないだろう。

 次に、今後日本語指導が進むにつれて考えなくてはいけないのが母語教育の問題であろう。第五章では、RさんSさんがTの日本語能力ついては現在のところ心配してないのに対して、母語であるポルトガル語での会話、書き取りの方が心配だと語っていた。また、Kさんも、子どもたちの母語を忘れてほしくないという思いから、「母語ではなんていうの」と時折聞いたりしている。また、子どもたちのアイデンティティ形成の観点から、母語指導の重要性を重視し、母語指導を行っている自治体もあるようである。

 Jさんは、年度が変わる際の引継ぎのないことを問題に挙げていた。この問題を解決に導く一つの手段として、CEFRの日本語版の作製、導入を提案したい。CEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)とは、欧州域内の言語において、言語学習する際にその学習進度を判断するために設けられた統一された尺度である。人の移動が頻繁に行われる欧州においては国が変わるたびに、学習していた言語もその国の学習システムに合わせなければならないという弊害があったが、CEFRが導入されたことにより、その弊害が解消され言語学習がスムーズに行われるようになった。CEFRは、言語学習を聞くこと、読むこと、やり取り、表現、書くこと、に分類し学習者がどのレベルにあるのかを自己評価する共通の尺度である。(真嶋2007)これにより、これまで地域や評価する者によってバラバラだった習熟レベルの評価が、CEFRという一つの指標を築くことで、統一されたものになり学習者の習熟度が能力ごとにより明確になる。このCEFRの日本語学習版、平易な文章で構成された子供版を作製し日本語指導を行う際の一つの指標として役立ててみてはどうか。この参照枠を利用すれば、指導者同士の引継ぎの際に円滑な情報伝達が可能となり、自主学習の際の目安となるだろう。

 

 

 今回の調査を通して、在日ブラジル人児童生徒が直面している日本語習得の問題、学校内での指導体制の問題、日本語教室の問題に接することができたと思う。ブラジル人児童生徒たちが抱える問題は、本人や家族そして、日本語指導を担当している指導者たちの間で留まっていることが多く、一般の間では問題視されることは少ないといえるだろう。今回は、在日ブラジル人の児童生徒の学習面について調査を行ったが、調査を進めていくうちに、この問題は在日ブラジル人を取り巻く問題の一つに過ぎないとの思いを抱いた。彼らは、労働の問題、住居の問題など多くの問題を抱えて生活している。今後は、これらの問題を複合的な視点でとらえ、解決策を見出していかなければ、真の意味での問題解決にはならないだろう。