第四章 指導経験者へのインタビューから

 

 この章では、学校現場に赴いて、児童生徒たちの指導を担当している外国人相談員、講師の経験を持つ4名の方に行ったインタビューの結果をまとめたものである。インタビューは、学校現場でどのような指導を行っていたのか、指導にあたる上で気をつけていた点、学校現場に入って感じたことを中心に指導経験者の視点から、語っていただいた。

 

第一節 Hさん

 Hさんは、200010月から2003年まで外国人相談員、支援指導員として学校内での学習支援に携わっていた。学校での指導の以前に大人の外国人を相手に日本語指導を経験がある。Hさんは、小中23校を担当しており、人によってはより多くの学校を担当していた人もいたそうだ。一人で複数の学校を担当するため、曜日や時間などでいく学校が決められていた。

Hさんは当時を振り返り、問題点として、まず指導に充てられる時間が少ないことを挙げた。週に12日しか学校にいられず、その中で取り出し授業を行える時間を児童生徒の時間割との間で調整しなければならず、翻訳などの業務があるため、児童生徒と接する時間はより少なく、Hさんは、指導時間の絶対量が少ないと感じていた。

また、他の問題点として、学校側が外国籍の児童生徒の現状をしっかりと把握できていないことをHさんは挙げていた。学校として現状を把握していないため、学校としての方針が定まっておらず、外国人相談員、支援講師、もしくは外国人児童生徒専任の教師に丸投げに近い形で任されてしまうため。学校ごと先生ごとにその指導は、まちまちになってしまっている。

さらに、Hさんは外国人相談員、支援指導員同士の横の繋がりが乏しかったことにも触れ、相談員、指導員同士の交流がないことで、情報の交換、共有、蓄積ができなかったという。そのためHさんは、自ら相談員、指導員の横の繋がりを築いて、情報交換の場を設けようとしたが、お互いに忙しかったため、あまり効果が得られなかったようだ。

また、この仕事の難しい点についてHさんは、児童生徒の話し相手となって、ストレス発散の機会を持つことと、勉強をしっかりと教えなくてはいけないという二つの仕事のバランスを取ることを挙げた。そして、Hさんは実際に受け持った2人の生徒の例を挙げている。ひとりは、勉強はある程度出来るが、クラスや学校になじめずに学校にあまり登校してこなくなってしまった生徒。もうひとりは、友達とは仲良くやっているが、同じ学年の生徒と比べると学力にかなりの差が見られる生徒。前者には、話し相手、相談相手としての支援指導員が必要であろうし、後者のような生徒には、『先生』としての役割が強く求められる。しかし、両者の見極めと時間的な配分バランスは簡単なことではない。

 

第二節 Iさん

 日系ブラジル二世のIさんは、平成45年に市の教育委員会からの依頼で土曜日に市内のブラジル人生徒を一つの学校に集めて、日本語の指導を開始した。指導を始めたいきさつは、近所に教育委員会の方が住んでいて、その人の紹介で始めることになった。Iさんはそれ以前に日本語指導を行った経験がなく、当初は何を教えればいいのか分らなかったそうで、ひらがな、カタカナを教えたり、童話や紙芝居を読み聞かせたり、日本の習慣やあいさつやお祭りなどを教えていた。Iさんは、34年間、土曜授業を続けたが、人数が増えてきて負担が大きくなってきたため辞めた。

その23年後、富山県の方で指導員の事業を開始したそうで、その翌年高岡市でも、指導員の事業が開始され、Iさんが指導員をつとめた。当初は、一週間に56校を午前、午後に分けて「忙しく、動き回った」そうで、時間がないことを痛感したそうだ。学校では、取り出し授業を行っていた。担任も生徒の状況をよく把握していなかったそうで、何をどこから教えればいいのか分からず、ひらがな、カタカナの読み書きから教えていた。また、子どもたちの親が、すぐにブラジルに帰るから、日本での勉強に熱心でなかったこともあり、先生の方もすぐに帰るなら、真剣に教えなくてもいいというような雰囲気があったという。

Iさんも、子ども達がストレスを溜めていることを指摘しており、ある学校の生徒は、Iさんが来るたびに、大声をあげてストレスを発散していたことがあったと語った。また、Iさんが不在の時は、養護学級に入れられていたこともあったそうで、それもストレスの一因になったのではないかとIさんは語っていた。そのため、Iさんは、授業は正味10分ぐらいで切り上げ、「これだけやったら、遊んでいいよ。」という風に指導を進めていた。

当初、指導員はIさんを含めて2人だけだった。Iさんは、もうひとりの支援員がいることは知っていたが、会ったことはなかったという。Iさんが、やめる頃になると、次第に指導員の人数も増えていった。指導員を辞めた現在、Iさんは、地域の公民館で週に1回、ブラジル人労働者向けに日本語教室を開いている。

 

第三節 Jさん

 Jさんは、平成9年頃にブラジルに約1年間ポルトガル語留学し、その後国際交流協会の相談窓口で2年間、通訳として週1回勤務していて、協会の紹介でポルトガル語が話せることもあり、外国人子女支援講師(県)として1年間勤務。日本語指導の経験はまったくなかった。しかしながら、協会に勤務していた時期に、個人的にブラジル人の年少児、年中児の子供たちに日本語(言葉遊び)を教えていた。Jさんは、はじめTeam TeachingT.T.)の形で分からないところの補助通訳を行っていた。

一年間、支援講師を務めた後、Jさんは、育児に専念し、活動をやめる。そして、3年前から再び、外国人相談員(県)として活動を再開。また、昨年の7月ごろから外国人生徒支援講師(市)も務めている。現在、3つの中学校、2つの小学校を担当している。また、市から依頼があった時には、そのほかの学校にも手伝いに行っている。

小学校ではT.T.や取り出し指導補助を行っている。手書きの教材を使って実際に見せて示したり、物を使って一致させたりする授業を行っている。中学校では、ほとんどT.T.は行われておらず、取り出し授業を行っている。もっぱら教材を使っての授業が主だそうだ。共通の仕事としては、翻訳作業、保護者来校時の通訳を行っている。

指導をするにあたって気をつけていることは、笑顔で接すること、日本で暮らす上で必要な挨拶などをしっかり身につけさせることだ。特に、小学生には、学校は楽しい場所だと感じてもらえるように努めている。時間の無さについては、学校でやらなければならない仕事が多くて、次の日の学校で使う教材を作るのはどうしても家での作業になってしまうそうで、時間は足りないと感じている。

この仕事の難しい点については、教師と子ども、学校と保護者、親と子どもの間に立って双方の懸け橋になることが多いので、その時にお互いの意思疎通をしっかり伝えていくことが難しいと語った。

7年前と比べると、最近の教師の対応は変わったかという質問に対して、Jさんは、始めたころの7年前に比べて、リラックスして対応していると語った。現在では、保護者会や、学校祭などのお知らせのポルトガル語版の定形文があるそうで、日にちなどを打ち込めば、プリントが作られるということだ。また、言葉はあまり通じなくても、普段からのあいさつや、声かけ、簡単な会話を通して、生徒とのコミュニケーションを図る教師が増えてきているそうで、生徒の方も、安心できるのではないかと、Jさんは感じている。

支援講師のどうしのつながりに関しては、Jさん自身も必要性を感じており、担当の学校が変わる際に、生徒に関する情報の引き継ぎができていないので、引き継ぎや連絡できるようになればいいと語った。Hさんとは、3年前ポルトガル語の通訳を行っている方向けの研修会で知り合い、情報交換をするようになる。

 

第四節 Kさん

 Kさんは、今年度からこの仕事を始めた。日本語指導の経験は、Hさんの日本語教室で半年ぐらいボランティアとして教えていた。Kさんは、上記の3人とは異なり、児童生徒の母語を喋れるわけではない。現在、Kさんは小学校と中学校2校を担当し、2日ずつ学校に指導に行く。取り出し授業は、11もしくは、12といった形で行っている。特に中学生は、複数になるとしゃべり始めて指導ができなくなるため、ほぼマンツーマンでの指導となる。

日本語指導で心掛けていることについてKさんは、分かることを増やしてあげること、ゆっくり進めること、繰り返し行うこと、そして、褒めることを挙げている。Kさんは、日本語指導を進めていく中で話す能力と書く能力、読む能力はそれぞれ一致しないと感じるようになった。日本語を教える一方で、Kさんは母語を忘れて欲しくないという思いから子どもたちに彼らの母語を教えてもらったりしているそうだ。

漢字の書き取りについてKさんは、「正直、漢字を完璧にするのは難しい。」と語っており、読み方の多い漢字、送り仮名が多い漢字は、繰り返し、繰り返し教えなければならないと考えている。

学校内で他の曜日を担当する指導員相談員には、メモや日報を通じて連絡を取っている。Kさんは児童生徒への対応のスタンスは小学校と中学校とでは違うと感じている。小学校では温かく子どもたちを見守ってやろういう雰囲気を感じるのに対し、中学校では、受験もあり外国人生徒だけにかまっていられないという。