5章  考察

 

 1節  絆の実践

 

ペットと一緒に暮らしているときは、散歩やえさの用意など毎日やらなければならないことがたくさんあった。ペットが亡くなるということはそれらの日課も急に無くなるということを意味している。習慣的にえさの用意をしてはっと気づいた、散歩に行っていた時間に何もやることがないといった瞬間に寂しさがこみ上げてくる。そうしたときにどうすればよいのだろうか。それらの習慣に代わり、供養はペットを失った家族にとって新しい習慣になるのである。自宅でお花を供えたりお水を交換したりすること、自宅に飾ってある写真を眺めることも新しい日課となる。そしてペット葬儀社が提供する供養も新しい日課となる。

しかしそこには頻度によるヴァリエーションも存在するようだ。第3章第2節のGさんの場合、インタビューをした日が亡くなってから49日とそれほど時間が経っていないにも関わらず、すでに5回もやすらぎの里に行っている。その一方で第4章第3節のHさんは普段のお参りは思いたったときに来ているということであった。ゆるやかな習慣化である。ここには亡くなった年月によるところもあるが、2つの葬儀社の違いも影響しているのではないだろうか。A社では毎月第二日曜日だけやすらぎの里にある納骨堂が開放されている。月に1度というある意味限定された中で家族が「A供養の日」を強く意識するのではないだろうか。A社でインタビューした家族のほとんどが、毎月必ずお参りに来ていることからも言える。B社は毎週水曜日以外は納骨堂が解放されている。お参りに行きたいと思えばいつでも行けるという安心感を家族に与えているのではないだろうか。

ペット葬儀社による多様性を見てきたが、個人のなかにも多面性は存在する。第4章第3Iさんの事例を見てみる。Iさんの妻はペットが亡くなってから49日までは毎日のように花や水を供えていた。しかしその習慣や日課も年月とともに弱くなっていった。しかし、ここで絆も弱くなったと考えるべきではない。習慣がゆるやかになっても命日はしっかりと記憶しているのである。この点から言えることは見る部分によってその人の絆の持ち方が変わっているということである。従ってお参りに来る頻度が高い、低いということで絆を判断することは不可能なのである。

ここで「A供養の日」に話題を戻す。A社の場合、毎月「やすらぎの里」に足を運ぶという行動だけの意味ではない語りもしばしば聞かれた。

 

   F:だから第二日曜日になると、ちゃんと予定組んであるんですよね。丸つけちゃうんですよね、カレンダーに。今日はテリーの会える日だねっていう感じ。

 

   D:月の初めに、もう2週間したら行けれるねーとかさ。そういう話は絶えずしてるね、早いなー、2週間あっという間だねー言うて。

 

 日常の中で家族は「A供養の日」を心待ちにしている。「もうすぐ会える」という思いがペットがいない寂しさを紛らわし、楽しみを与えていると言える。ここで第3章第2Eさんの語りを見てみる。Eさんはモアの亡くなった年齢など答えがわからなくなると、周りの家族に聞いていた。インタビューがきっかけとなって絆の想起が行われている。ここから普段は特に家族で会話せずに絆を共有している気分を味わっているのかもしれない。またEさんはインタビューの最後をこの言葉で締めくくった

 

    E:余韻に浸っとんがかなみたいな。

 

 この言葉からも家族で同じ時間を共有することで絆も共有しているのではないだろうか。 

A供養の日」の調査からは、お参りに訪れる家族に特徴的な行動が見られることもわかった。ひとつは「骨壷を抱く」というものである。第3章第2節のCdさん、Fさんがそうであった。骨壷を抱いて、外に出たり椅子に座ったりして一緒の時間を過ごしている。その光景は実際にそこにペットが存在するかのようである。

もうひとつは「話しかける」ということである。お参りに来た家族はペットの写真や骨壷に向かって話しかけている。

 

D:いつもね、あらいい子してた?と私ここに来て言うの。お友達と喧嘩しなかった?言うてばかみたいにね。そういう言葉はすぐ交わしたくなる。

 

Dさんはスパンキーの写真に向かって毎回このように語りかけている。それは昔の思い出を振り返るというものではない。そこに新たな物語が作られ語られているのだ。これらの行動もやはりペットがそこに存在するかのように感じられるものである。またDさんは写真に向かって語りかける行為について、「ばかみたいにね」と言いつつも、「でもみなさんしておられるし。私ばかりでないわと思う」と付け加えている。実際、観察していても多くの家族が写真や骨壷に話しかけていた。私にとって初めは特異に見られたこれらの行動も何回か観察していくことによってごく当たり前のように感じられてきた。

 

 

 第2節  絆の語りと悲しみの語り

 

 第1節から見えてくることは、ペットが亡くなってからも新しい存在として家族とペットとの関係は継続しているということである。つまり第2章第1節で述べられた、「故人との間に発展的な関係を築き、故人は遺された者が望めばいつでもアクセスできる存在として、その身近に留まり続けるものである」という部分の実践であると言える。納骨堂という新たなペットの居場所を作り、そこにお参りに来る、つまり会いに来るという形でペットとの間に発展的な関係を作りあげているのであろう。しかし家族は絆の実践をしているだけではないのだ。

 ここでインタビューでの家族の語りを見てみる。それぞれどんな語りをしているのだろうか。

 

  Cd:頭おかしくなって、もし、そのおらんいうことがわからんようなるがやったらなりたいと思った。

 

  Fもうペットを飼う気はない。

 

 これらは「悲しみの語り」である。Cdさんはリュウがこの世に存在しないという事実を頭ではわかっているものの、いないというつらさからこのような語りが出たのではないだろうか。Fさんはテリーと過ごした14年はとても長く、他のペットを飼う気にはなれないというものであるが、やはりまたペットを失うという悲しみを味わいたくないという思いもあるようだ。

 

  H:死んでもかわいい。

 

  Cd:私たちはつながりを切りたくないから毎月ここ(やすらぎの里)に来ている。

 

 これらは「絆の語り」である。Hさんは現在のペットへの気持ち、どんな存在かという質問に対してこのように語る。死んでもなおかわいいというのは生きているときの気持ちが継続しているということを表している。Cdさんの場合は、「悲しみ」も語るもののこのような発言も聞かれた。「毎月やすらぎの里に来る意味は何ですか」という直接的な質問に対しての語りだが、これはまさに「絆の語り」である。

ここで興味深い事例について紹介する。「B合同慰霊祭」で2人で語っていたJさん、Kさんへ、追加調査を依頼しお互い話し合った経験についてどのように思うかという質問を行った。それに対し、2人とも「話ができてすごくよかった」と語っているが、それぞれの語り口に少し違った特徴が見られた。

 

  Jペットを大切にしている気持ちをみんな持っているのだということを感じた。命を大切にしたいものですね。

  

  K:話すまでは私だけがとっても悲しくて不幸だと思っていたけど、Jさんのほうがつらかったのではないか。私だったら、Jさんのような体験をしたら耐えられなかっただろう。

 

 Jさんの下線部は絆を重要視するような言葉である。つまり「絆の語り」である。一方Kさんの下線部は悲しみを表現する言葉である。これは「悲しみの語り」と言える。同じ経験を語るのに「絆の語り」と「悲しみの語り」という対照的な言葉を用いているのだ。しかし会話としては両者にとって違和感なく成立している。Kさんに至っては対照的な語りをしているJさんをモデリングして、自身の悲しみを表現しているのだ。調査から「絆の継続モデル」を用いてペットロスの悲しみに対処している家族が多い結果となったが、決してそれだけではない。その中に「悲嘆モデル」を用いている家族もいる。そして両者は対立するのではなく、共存していると言えるのではないだろうか。 

 

 

第3節   供養の場における他者

 

 ここまではペット葬儀を挙げた家族の側から供養を見てきたが、ペット葬儀社側から供養を考察してみようと思う。

 第2章第3節で述べた通り、ペットロスの問題点は「悲しいのに悲しめない」というところにあった。これは日常生活の中で周囲に悲しみを理解してもらえないことから、その悲しみを表現することが困難になっているということでもある。これがペットロスによる悲しみの強化であった。しかし今回調査を行った家族にはそのような語りは多くは見られなかった。それは供養の場が悲しみを表現する場となっているからではないだろうか。

 

 D:ほんとに、みなさんどなたも一緒だわ。

 

 この言葉は写真に話しかけたりすることについて語られたものである。Dさんは「A供養の日」にお参りに来た際、他の家族と多少話をすることがあると言っていたが、その他の家族の場合、他の家族との交流はほとんどないように見えた。それにも関わらず、このDさんのような語りはしばしば聞かれた。「みなさん、同じ気持ち」「みなさん、優しい人だと思う」というものである。会話を交わしたことがないのにどうしてわかるのか。それはペットへの愛情が供養に反映され、悲しみを表現するような行為が周りに受け入れられていると感じるからだろう。

 多くの家族で葬儀社に訪れることによってペットとの思い出、悲しみを家族の中で共有している。1人でお参りに来ていたJさんやKさんもそれらの思いを自分の中でどのように処理すればよいのかわからずにいたのではないか。そうしたなかで2人が語り合うことが同じような役割を果たしたのであろう。

 ペットロスの悲しみを乗り越えるのは最終的に自分自身の気持ちと一見すると思えるが、誰かと語らうこと、思い出を共有することも必要なのであろう。本論文が調査したペット供養の場は、他の家族との交流が不在であっても、あるいは同伴する家族が不在であっても、そうした「誰か」(他者)を供給していると考えられる。