3章  A社の調査報告

 

 1節  毎月一度の「供養の日」について

 

 A社がやすらぎの里で行っている「A供養の日」の調査は200558日、612日、20061112日の計3回行った。A社専務のYさんに紹介していただき、「A供養の日」にお参りに来ていた家族にインタビューも行っている。インタビューした家族の詳しい内容は後でふれる。

 「A供養の日」は毎月1度、第二日曜日にやすらぎの里にある納骨堂が開放されて、そこで眠るペットの家族がお参りに来るというものである。神通川沿いの山に囲まれた場所にやすらぎの里は建っている。富山市街地から車で30分ほど。緑も多く家族が休憩できるようにベンチや石のテーブルなどが敷地内に用意され、自然に囲まれた静かな環境の中で家族は好きな時間に来て思い思いの時間を好きなだけ過ごすことができる。やすらぎの里についてYさんは次のように語る。平成元年にはまだやすらぎの里はなく、お骨も呉羽のお寺に納骨していた。しかし数も多くなり、2箇所に納骨しなければならないという状況になり、いよいよ自分たちの納骨堂が必要となる。そして今の場所を買う。初めはなんでそんなに遠いところに行かなきゃいけないのだという家族の声も聞かれた。納骨堂として確立するまで10年はかかった。現在の納骨堂もだんだんと納骨スペースを広げていった。今ではそれでも足りなくなってきた。

 納骨堂は午前10時から午後4時まで開放されている。2階建てになっていて、部屋一面に20cm四方くらいに区切られた棚が並び、その中に小さな骨壷とペットの写真、お水やお供え物がたくさん置かれている。家族は水を換えてやり、生前ペットが好きだった食べ物などを一緒に供えて供養する。また1階に1体、2階に3体お釈迦様が祭ってあるので、そこへも線香を立てるなどしてお参りをする。ただ手を合わせるだけではなく、ペットの写真に向かって話かけたり骨壷をそっと抱いたりする家族も多い。

納骨堂に何年か納骨していた家族の中には棚の更新を辞退し、納骨堂横の愛玩塚へ散骨するものもある。午前中はその作業にあてられる。納骨堂横の愛玩塚は十三重の石塔で、塔の前には「愛玩塚」と書かれた石碑も置いてある。そこに花や線香、ろうそくがたくさん供えられている。みな散骨後愛玩塚へ手を合わせているようだ。散骨を終えたばかりの家族に話を聞いてみると、平成13年に亡くなった犬の遺骨を今回土にかえした。もともと5年間をめどに納骨棚を借りていた。このことについて家族は「(納骨は)きりがないこと

なのでね」と話す。区切りは決めていたもののその間は来れる限りお参りには来ていた。

午後2時には納骨堂向かいの建物で「納骨供養式」が行われる。これから納骨する家族が集まって住職による読経の間、家族はA社社員のアナウンスに合わせて順番に焼香していく。建物内には祭壇が設けられ、そこには朝から骨壷が並べられている。式開始の1時間前から何人か家族が座っている。入ってくる家族は受付を済まししばらく待機している。すると社員がきて「○○様、○○様」と名前を呼ぶので呼ばれたら立ち上がり納骨堂へ案内される。この人たちは読経が始まる前にこれから納骨する棚を決めておく。開始30分前には建物が家族でいっぱいになる。2時になるとYさんがマイクで開式を知らせるアナウンスを行う。この日(11月)の「納骨供養式」は10分早く開始される。天候も時々雨が降り、建物内の人数が多くなって待っている家族がイライラしてくるといけないので早めに開始したと後にYさんは語る。お客さんを待たせないよう流れるように、スムーズに行うよう心がけている。また、お客さんへのこれらの配慮に気をつかっているということであった。Yさんが式の流れを大まかに説明して読経が始まる。A社では「般若心経」が読まれる。20分ほどで受付を済ませた家族の名前の読み上げが終了する。その後しばらく焼香の列は続くが、それが終わると住職の説法が始まる。住職が退場するとYさんが話し始める。内容は「(ペットとの)お別れの時の悲しさは忘れようにもなかなか忘れられないものである。普段の楽しかった生活は忘れなくてもいい。(やすらぎの里へ来てお参りすることも供養だが、)自宅でふっと思い出すことも供養である」というものだった。そして式は終了となる。

 ここで式に参加した家族は4つに分かれる。まず合同納骨をする家族は、「合同葬」と書かれた旗を持った社員に誘導され最初に建物を出て行く。合同葬の場合、お骨はすでに納骨堂前に立っている観音様の裏にある2つの合同納骨堂に納められている。合同納骨堂は円柱状で、それぞれに観音開きの扉がある。月ごとに左右交互にお骨を入れていく。このお骨は3年経ったら愛玩塚へ移され、永代供養される。建物を出た家族は一列に並び、一旦納骨堂一階に入ってから合同納骨堂前に出る。すると合同納骨堂につけられた小さな扉は開いた状態になっていて、家族はその中に向かって合唱する。合同納骨堂の中には合同火葬したペットのお骨が交じり合って入っている。

他の家族はまず祭壇に並べられていた骨壷を社員から手渡しで受け取る。個別納骨で式が始まる前に納骨棚を予約していた家族はそのまま納骨堂内に入って納める。今回初めて納骨した家族で20代くらいの若いカップルがいた。式が行われた建物内の受付横で販売されている造花、線香を置き、ペットの写真も一緒に納めていた。最後に納骨棚の様子を携帯電話のカメラで撮って帰って行った。初めて「B供養の日」を訪れた際、Yさんに「今月初めて納骨する人はペットが亡くなってまだ日も浅く、つらい気持ちを思い起こさせるようなインタビューは遠慮してほしい」ということを言われていたので、話を聞くことはできなかったが、2人とも泣いてはおらず、寄り添ってペットの写真を見つめていた。

 この時点で建物に残っているのは、個別納骨でまだ納骨棚が決まっていない家族とすぐに愛玩塚に散骨する家族である。しばらく建物内で待機して個別納骨の家族は、納骨堂2階に案内され、Yさんから棚の種類やそれに応じた値段、1年ごとに更新しなければならないことなど詳しい説明を受ける。同じころ愛玩塚に散骨する家族は「愛玩塚」という旗を持った社員に案内され、愛玩塚へと向かう。先にも述べている通り、十三重の塔が中心に建っている。その周りは玉砂利が敷き詰められているのだが、ここに散骨される。今回は塔の右奥に直径50cmほどの穴が空けられ、家族は骨壷からお骨を取り出しその中へ入れる。散骨の場所も毎月少しずつずらしているということである。

家族は自分たちのお参りが済むとそれぞれ帰る。午後3時にはほとんどの家族が帰って行った。社員は祭壇に飾られた花などを片付け始める。

 

 

  2節  家族の紹介

 

C親子

 

 C親子はA社納骨堂の2階に用意されている椅子に座っていた。そしてCdさん  はペットの骨壷を大切そうに両手で抱えていた。初めて見るその光景は私にとってとても印象的であった。話をしている間も骨壷をテーブルにすら置こうとせず、赤ん坊をあやすようにゆっくりと体を揺らしている。時々骨壷にかかっている白い紐を撫でている。Cmさんも骨壷に視線を送りながら話している。まるでペットがそこにいるように感じられた。

 ペットはシーズーのリュウ。平成8年に8才で亡くなった。それから毎月「A・供養の日」に来ている。毎回来ると12時間ほど骨壷を抱いてリュウと一緒の時間を過ごしている。リュウが亡くなってから3年間は犬が出ているコマーシャルも犬のぬいぐるみも見れなかった。写真を撮ったら寿命が短くなると一切リュウの写真を撮らなかったC親子だったが、偶然リュウが写ってしまった写真は今でも見ることができない。自宅でも毎日お水とお花を供えており、今でも会話の中にリュウの話題が頻繁にのぼる。話の最後にCdさん は「私たちはつながりを切りたくないから毎月ここに来ている」と語る。

 6月のフィールド・ワークでもC親子と会う。Cdさん は手を額の前で合わせ、観音様にお参りをしている。Cmさんも手を胸の辺りであわせるお参りをしてい。お参りが終わった後、二人に「おはようございます」と挨拶し後ほどインタビューの約束をする。手にはリュウちゃんのお骨を抱いていた。その後、二人は桜の木の下のベンチに座った。前回と同じようにCdさん がリュウの骨壷を抱き、軽く揺れている隣でCmさんはサンドイッチを食べ時間を過ごしていた。そこでインタビューを開始した。

 始めに家族構成を聞いた。両親とCdさん 3人家族。同時に全員の年齢を聞いた。すると最後にCmさんは「リュウちゃんはおったら16才ね」と付け加える。リュウとの出会いはペットショップであった。シーズーを探していたが、Cdさん Cmさんもお互いが「目が合った」と主張する。その瞬間に決めてしまった。家に来てからはCmさんにとっては子供、Cdさん にとっては兄弟が彼氏のようにリュウと接していた。

 Cdさん はリュウを連れてよくドライブに出かけた。春には毎年お花見に連れて行き桜の花を見せていた。だから今も桜の木の下にいる。リュウが亡くなってからはCdさん はぴったりと出かけなくなった。自分でも「完全な引きこもりや」と笑っていた。亡くなってからはCdさん は時間感覚をなくしたと表現する。3年ほど経ってやっとリュウの体はもうないのだと考えるようになった。それを認めなければ戻ってくるのではないかと考えていたからだ。Cdさん は次のように続ける。

  

Cd:頭おかしくなって、もし、そのおらんいうことがわからんようなるがやったらなりたいと思った。

 Cmさんの「リュウちゃん戻ってほしいんやろ、あんた」という言葉にCdさん は「魂ちゃどんながかほんまに教えてほしい」と語る。

  

Cm:ここにお骨あるもんにね。

  Cd :うーん、感性と物体と、これ(お骨)が物体という感覚のとこもどっかにあってー、心臓なくても物体としてのリュウちゃんいうとこがある。そう思いながらも、いつも感覚として日常おるような感じもする。

 

 現在でもCdさん 1日に1回はリュウの名前を口にしている。口癖になってしまったとCdさん は語る。いまだにリュウの服を持っている。リュウの匂いがするらしい。それだけでなく、遊んでいたボールやガムもリュウが寝ていた場所に置いたままにしてある。Cdさん はリュウの爪を抱いて眠る。日常にリュウの面影が溢れているのだ。

 Cdさん はリュウが好きだった獣医のいる動物病院への道はいまだに通ることができない。そして他の犬も触ろうとはしない。「存在として今でもリュウを一番にしとかんなんな、というところがある」と語った。

 スカートの上に座るのが好きだったリュウのことを考えいつもロングのスカートを着てくる。Cdさん の中ではリュウは存在しているのかもしれない。物体としてリュウはいなくても、いつも感じているリュウの面影とリュウへの思いにより感覚としてリュウはそこにいるのだ。

 

Dさん家族

 

 6月も前回と同じ時間にお参りに来ていたDさん夫婦を発見し、インタビュー開始。ペットはシェットランドシープドックのスパンキー。平成16年の5月に10才で亡くなった。ペットを飼うきっかけは犬好きだった娘 の強い勧めであった。娘 が学生のとき、友人の家から犬をもらってきたが、そのときはもともと犬が好きではなかったDさんが猛反対して飼うことを諦めた。しかし娘 が勤めに出るようになり、さみしくないよということで家族みんなでシェルティ(シェットランドシープドック)を飼うことに決めた。ペットショップで犬を選んでいる時点ではまだ少し犬が怖かったDさんもスパンキーを飼うようになり大好きになったという心情の変化が、「気持ち悪い」という言葉と「かわいい」という言葉が入り混じったインタビューの語りからも伺える。

  

D:だけどね、ちょうどねー、もう今日わんちゃん来ますよいうことでペットショップから電話あったの。見に行ったらそのチビちゃんがね、車に揺られて来たんだと思うがだけど、おめめ開けて、2匹いたのよ。同じシェルテーでもちょっと顔の違うシェルテーだったの。だけど、そのチビちゃんのかわいい、かわいい顔した子がね、もー、すっごく飛びつくのよ、私。わんわんわんわんいうて。やーだ、この飛びついて気持ち悪い思っとったのよ。

 

 家に連れてきたものの何日間かはやはり好きになれなかった。しかし深いダンボールに手をかけ、わんわん飛びついてくるスパンキーに愛くるしさを感じるようになる。

  

D:あー、こうゆうことかわいいのかなぁ、でだんだん、やっぱし、毎日そういうことするもんで、かわいいねーちゅてお水やったり、まぁお食事もちゃんとやったりすると、すっごくまたなつくの。ほんで、だんだんかわいさ増して、やっぱし、家族だわーと思てね。

 

 ここからインタビューでは怖いや気持ち悪いという表現が出なくなる。犬好きに変身したDさんだったが、近所の人にはDさんが犬嫌いなのが知られていた。それなのに犬を飼ったということを知られるのが嫌で何ヶ月も散歩に出ず、家の庭にしか出さなかった。1年たってやっと外に散歩するようになった。そのときにはDさんはスパンキーなしでは生活できないまでになっていた。そこでまた近所の人が登場する。どうしてあんなにかわいがっているのかしらと不思議がって、近所でも評判になっているという話しがDさんの耳にも入ってきた。しかしそのときには、「家のアイドルよー言うて大意張り」だった。

 Dさん夫婦も亡くなってから毎月「A供養の日」にお参りに来ている。Dさんの場合、第二日曜だけでなく月命日にも来ている。

 

  D:もうずーっとねー、雨が降ろうが、嵐が降ろうが、雪があろうが、もう必ず、ずーっと来てるの。第二日曜と、15日がほんとの命日なもんで、あれ2時10分頃だったの。だから2時10分にここに、着くようにして、外からだいたいこの辺だね、あの子がいる(スパンキーの納骨棚がある)のはこの辺だね言うて、鍵閉まってるからね、普段は。ほんで外からお参りしてくの。

 

 月の初めには「もう2週間したら行けれるね」という話を自宅でも絶えずしている。「A供養の日」をとても楽しみにしている。

 お参りに来ることを「会いに来る」と表現し、写真に向かって「いい子にしてた?」とか「お友達と喧嘩しなかった?」というような言葉をかける。「ばかみたいにね」と笑いながらもうれしそうだ。まわりの家族も同じようにしているのを見ると私だけではないのだということを実感すると語る。ここではごく自然のことなのだ。自分だけではなくみんな同じ思いでいるのだということがわかると、結局仲良くなるとDさん。話し好きのDさんが他の家族に話しかけている様子が想像できる。

 

  D:知らない人とでも仲良しなったり、あんたたちみたいなお嬢さんとも仲良くできたり、ね、やっぱり出会いも大事だから、わんちゃんのお陰で、素敵な人と出会えてうれしいなー思ってる。私はそう。

 

 インタビューの最後はこのような言葉で締めくくった。

 

  D:ま、わんちゃんのことで少しでもさ、なんかお話聞いてもらっただけでもうれしいからねぇ。

 

 スパンキーに会うことが一番の目的であるにしろ、Dさんにとっては「A供養の日」で出会う人との交流も楽しみのひとつなのだろう。

  

Eさん家族

 

 6月のフィールド・ワークで一番始めにインタビューした家族である。納骨堂の外に置いてあるベンチに座って休んでいる若い女性二人とおばあさんに声をかけてみた。女性2人は姉妹で、私の質問には主に次女のEさんが答えてくれたが、姉妹で話し合いながらインタビューは進んだ。この日は親戚も合わせ家族8人でお参りに来たようだ。途中、ペットの亡くなった年齢などで答えに詰まると近くに座っていた家族に「何才だったっけ?」と聞くシーンも。家族は「二重インタビューや」と笑っていた。

 ペットはゴールデンレトリーバーのモア。平成14年に9才で亡くなってからA社納骨堂で眠っている。モアとの別れは突然だった。当時Eさん家族はマンションに住んでいて、ペットを飼うことができなくなっていた。そこでモアを親戚の家に預けていた。親戚から連絡をもらったときにはすい臓に水が溜まり、破裂してしまっていた。Eさん家族は急いで駆けつけ、病院へ連れて行ったがモアは意識が朦朧としていて手遅れの状態だった。「最後一緒にいた時間はすごく短かった」とEさんは語る。そのときを「きつかった」と表現する。現在の心境を質問すると「なんか受け止めてはおる。自分なりに」とEさんは語る。親戚のペットもA社納骨堂で眠っているので「一緒にしてあげられてよかった。さみしい思いせんでいいし」と明るく答えてくれた。

 Eさん家族は毎月お参りにくるというわけではない。個別で葬儀を挙げたが、今回お骨を合同に移すために家族でやって来た。インタビューはお参りも一通り済んだときに行われた。ただ時間を過ごしているということであった。

 

  E :余韻に浸っとんがんかなみたいな。そう、もうちょっとね、もうちょっとおって。あまりにも早く終わったからね。うん、ちょっとね、このままはい終わった帰ろうって、さみしいね。

 

 ゆっくり時間を過ごし、自分たちの気の済むまでいれるというのがA社納骨堂の特徴のひとつといえる。

 

Fさん家族

 

 ペットはシェットランドシープドックのテリー。テリーは金沢の知り合いの薦めで飼うことになり、生後1週間でFさんの家に来た。それから14年共に過ごし、平成10年に亡くなった。テリーは病気がちで手術も2回した。また近所にも迷惑をかける「きかん子」であった。手のかかる子ほどかわいいというが、テリーはまさにそんな感じでFさんにとっても思い出深いものとなった。病気もあったが最後は老衰で亡くなった。だんだん死に近づいているという感じはしていた。次第にえさも食べられなくなり、付きっ切りだったFさんも「いよいよ来たか」と感じた。最後にテリーが横たわったので、明かりを消してあげた。少したって明かりをつけるともうテリーは息を引き取っていた。それは本当に一瞬の間だった。Fさんも夫 もこのときの気持ちを「つらかった」と語る。テリーと過ごした14年は長く、もうペットを飼う気はない。テリーが亡くなったとき毛を切って今でも保存している。

 

  F:してないけど、あの、亡くなった時の、あの、えーと、かみを少し切って、保存してます。

  郷:あー。そうなんですか。

  F :えぇ。かみっていうのか毛っていうんですか。ねえ。

 

 Fさんは毛のことを最初まるで人間のように「かみの毛」と表現していた。しかしすぐに笑いながら「かみの毛って言うんですかね」と訂正している。テリーを人間と同じように捉えているが、それを周りの人に提示することは少し恥ずかしいのだろう。一方でテリーを子供と一緒と断言し、「むしろ子供よりかわいい」と語る夫 に対し、Fさんは明言を避ける。

 

  F :ペットという感じだけど、子供みたいなも一部ありますよね。あのー、子供には代えられないもんだけども、やはり、子供に近いっちゅう感じか、、家族ていう感じだからね。

 

 テリーが亡くなってから、A社社員が箱(棺)を持ってFさん宅を訪れ、家の玄関でテープレコーダーでお経を流した。その後A社できちんと葬儀を挙げ、納骨堂に納めた。人間と同様の葬儀に初めは不思議に感じ、ちょっと「商売」かなという気持ちはあったとFさんは語る。しかし、「ペットをかわいがっていた人の気持ちってそんなもんかな」と思い、自然に受け止めた。それからはなるべくどちらかが毎月「A供養の日」に来てお参りしている。

 Fさんは毎月の「A供養の日」に来ることについてこのように語る。

 

  F :別にもう亡くなって、ほんとはね、もうね、納めてもいいんだけど、土ん中に埋めても、かえしてもいいんだけど、お骨ここにあるだけで、こう来るっていうだけでね、なんかほっとするんです。

    だから、なるべく来るようにしてるんですけどね。

 

 お骨のあるA社納骨堂がテリーのいる場所、このような気持ちがFさんに安心感を与えているのだろう。これは毎月お参りに来ることを「会いに来る」という表現を使って語られることからもわかる。

 

  F :そうそう。だから第二日曜日になると、ちゃんと予定組んであるんですよね。丸つけちゃうんですよね、カレンダーに。今日はテリーの会える日だねっていう感じ。

 

 自宅の庭に埋めるのではなく、A社納骨堂に来たいという気持ちがFさんにはある。生活のリズムの中に「A供養の日」を組み込み、その日を楽しみに日々を送っているということが伝わってくる。

 

Gさん家族

 

 ペットはハスキー犬のメイ。5月生まれだからということでGさんの娘 が名付けた。メイとの馴れ初めは、娘 の中学生時代の友人の家が、シベリアンハスキーのブリーダーで、子犬が産まれたら譲ってくれるという約束をしていた。娘 が高校1年生になって子犬をもらうということ忘れかけたころ、子犬が生まれたのでどうかという話が出た。そして飼うことを決めた。娘 は大学時代金沢に下宿し、現在は結婚して神戸に行ったので、メイの世話は家に居るGさん夫婦と息子さんがしていたが、メイは娘 のことを主人と思っていただろうとGさんは語る。

 メイは平成17年の4月に亡くなった。12才と11ヶ月であった。高齢であるしだんだんと具合が悪くなり、ひどいときには月に45回病院へ通うようになる。しかし病院から帰ってくるときは、そのつど元気になった。亡くなる23ヶ月前病院にいったところ、肛門に腫瘍があることと、肝機能がおかしいことが判明した。高齢であり手術の麻酔で命を落とすこともあるので、様子をみるという形になった。娘 夫婦も様子を見に帰ってくる予定だったので、注射などでなんとか命を延ばそうとしていた。しかし平日の昼間、Gさん家族が仕事で誰も家にいないとき、メイの鳴き声がいつもと違うと感じた隣人が様子を見に行くと、小屋の横の柱にもたれるようにしてメイが倒れていた。連絡をもらったGさんは急いで戻ったが間に合わなかった。それは娘 が帰ってくる4日前だった。メイの病状を知ってはいたが、やはりショックだったと夫 も語る。朝起きて気配が無いというのがさみしい。

 今は、犬小屋に毎日お花と水、そして線香を供えている。

 

  G:仕事行くとき必ず首輪触ってね、メイ最後まで身に付けとったもんだから、触って、メイだと思ってね。行ってくるから留守番しとってねって言って、おったときと同様に言って、帰ってきたらただいま言うて。気休めだけどね。

 

 メイの葬儀は合同葬で行った。その理由を「私らは思い出だけでいいから」とGさん。夫 も「いずれはみんな土に還るのだから」と語る。合同葬を挙げた後お骨は他のペットと一緒に納骨堂横にある円柱状の合同納骨堂に納められる。合同納骨堂は2つあり、月ごとに交互に納められるのだが、どちらの合同納骨堂に納められたかを知らない娘 が「こっち側におる気がする」と言ったところ、「納骨供養式」の後のお参りで娘の言ったほうの合同納骨堂の扉が開けられていた。Gさんにとっても不思議な体験であった。

インタビューを行った日はメイの49日であった。まだ亡くなってから日が浅いが、やすらぎの里にはもう5回も来た。Gさんの自宅はここから車で1時間もかかるところにある。しかしGさんはそれを苦とは思わず、「メイのおかげで、縁があってここまで来ることになった、メイのおかげ」とうれしそうに笑いながら話す。

大型犬の寿命は10年ほどという話を聞いていて、メイはもともと体が丈夫ではなかったけれど、それでも10年以上生きてくれた。本当に癒されたと笑顔で語るGさん夫婦はとても穏やかであった。