2章  ペットとの死別に関する先行研究

 

1節  ペットロスの心理学

 

 ペットロスとは文字通り「ペットを失うこと」である。ペットが行方不明になることもそうであるし、様々な事情でペットを手放さなければならないこともペットロスである。その中で多くの人が経験することとして、ペットとの死別が挙げられる。愛情を持ってペットと一緒に暮らしていた人であれば、ペットが亡くなってしまうことはつらく、悲しいことである。しばしば抑うつ状態に陥ったり、何事にもやる気が起きなかったり、食欲不振になってしまうなど人によって異なるが様々な症状を訴えるケースも出てくるようだ。このような悲嘆反応はごく当たり前のことである。人々はその悲しみを自分なりに乗り越えていくのであろう。ではどのように悲嘆に対処すればよいのであろうか。ここでペットロスに関して様々な論文や書籍が発表・出版されているが、その中からいくつか参考にしてみようと思う。

 ペットロスは1980年代、アメリカを中心に話題となった。日本では1990年代に少しずつ「ペットロス」という言葉が聞かれるようになる。概念としてはまだ浅いようにも思われるが、多少の変遷も見られる。

 ペットロスが言われ始めた段階では、個人主義的な西洋社会の風潮もあり、ペットロスによる悲嘆の対処法として、「伝統的な悲嘆モデル」が用いられる。(これについては次節で詳しく説明する。)つまり、死んだペットとの絆をきっぱり断ち切るというものだ。アメリカ・ニューヨークの病院でグリーフ・セラ−専門のサイコセラピストとして務めるハーバート・A・ニーバーグも、著書『ペットロス・ケア』の中で、喪の期間に成し遂げなければならない作業として「死が既成の事実であり、死んだものとの関係が終わったことを認めること」と述べている(Herbert A Nieburg Arlene C Fischer 1998)ここでは事実を受け入れやすくするために、ペットと結びつくさまざまな出来事を繰り返し辿り直すことが効果的であるとしている。

 悲嘆を最終的な「回復」に至るまで、第一段階を「無感覚」、第二段階を「苦痛の感情」としている(Herbert A Nieburg Arlene C Fischer 1998)。第一段階の「無感覚」はショックのあまりその出来事を信じまいとすること。喪失の直後、ぼーっとした状態になるのはこの段階だといえる。第二段階の「苦痛の感情」というのはいくつかあり、「怒り」「罪悪感」「抑うつ」「悲嘆の激痛」が紹介されている。「悲嘆の激痛」というのはペットを失ったことを非常に寂しく感じ、強い不安の時期に泣くのを抑制できないという形で表れるものである。これらはごく自然なことであり、その感情を素直に受け入れることで混乱した感情がなくなり「回復」へと向かうのである。

 こうした考えも現代社会の現実に合わせるように新しくなり、多様化していくこととなる。1990年代に入り、日本でも次第に「ペットロス」が定着してきた。西洋で唱えられたペットロスの様々な解釈に日本の文化や風習に沿った日本なりの解釈が与えられるようになるのである。

 香取(2004)は「悲嘆の仕事」として四つの課題を提案している。一つめは喪失の事実を受容する。二つめは悲嘆にきちんと向き合う。悲しみから逃れるのではなく、苦痛を苦痛としてしっかり受け止めなければならないとしている。三つめはペットのいない環境に適応する。そして四つめは亡くなったペットの居場所を心の中につくることとしている。課題の一つめと二つめはこれまでの西洋的な解釈に当てはまるが、三つめ四つめは少し趣が違っている。ペットがいないという現実を受け止め、ペットのいない環境に慣れる。ペットがいたときの日課がなくなってしまったら、そこに新しい日課をつくる。そして心の中にしまったペットを思い出したいときに思い出せばよいといった立場を取ったものである。「伝統的な悲嘆モデル」を踏襲し、絆を断ち切るものをペットロスにおける西洋型心理理論とするならば、「伝統的な悲嘆モデル」と「絆の継続モデル」という2つのモデルを曖昧に折衷させたものが日本型心理理論といえる。

 またキューブラー・ロスの「悲嘆のプロセス」(2)を引用し、ペットロスの悲嘆の段階も五段階に分類されるとしている。第一段階のショック状態から最終段階の現実の受容へと「回復」へは向かっているものの、最後に「悲しみが消えてなくなるわけではない」(香取 2004)と付け加え、回復とは言っていてもどこか曖昧な感じを残している。

 

 

 第2節  悲嘆モデルと絆モデル

 

 故人との絆を継続することで悲嘆に対処するという「絆の継続モデル」について、鷹田(2005)は、具体的な事例分析を通じ明らかにしている。鷹田は論文の中で前節の後半に登場した「伝統的な悲嘆モデル」と「絆の継続モデル」について次のように説明している。

 死別研究において「伝統的な悲嘆モデル」というものは、故人との絆を切断しなければならないと主張するものである。死別体験者が悲嘆に対処するためには、愛する人がもはや存在しないということを確認することによって、故人に向けられていた感情的なエネルギーを段階的に引き離し、それを新たな対象や活動に再投資しなければならないというものである。これを「喪の作業」(Freud 1917=1975)と呼ぶ。その際、故人との絆を継続することは病的な悲嘆としてカテゴリー化され、故人への思いをいつまでも放棄できず、過去に固執している死別体験者への治療的介入が積極的に試みられていくことになる。この点から「伝統的悲嘆モデル」は心理学的な視点をもつことになる。

 1980年代半ばに行われた数々の調査研究で、故人との間に発展的な関係を形成している死別体験者も一方にいるということが明らかになった。故人は遺された者が望めばいつでもアクセスできる存在として、その身近に留まり続けるのである。このような事例に基づいて、故人との絆を継続することは正常な悲嘆プロセスの一部であると主張するのが「絆の継続モデル」である。死によって愛する人は物理的には存在しなくなってしまうのであるが、それによって故人との関係性までが消失してしまうわけではなく、以前とは違ったやり方で継続していくのだ。

 鷹田(2005)は子どもを癌で亡くした(または現在も闘病中の)親によって結成された会を調査することによって故人との絆をいかにして継続しているかを他者との関係性という視点から考察している。結論では会の参加者が一定の制約された状況下で故人との絆を共同で維持していることを明らかにしている。しかし最後にはKlassWalterの共著論文を引用し、「複数の死別体験者が共同の物語を構築することが必要な状況もあれば、それが不可能であり、それぞれが他者と共有不可能な異なる物語を携えて生きていかなければならない状況や、それぞれの死別体験者が全く異なる物語を有することがほとんど問題にならない状況がある」ということを付け加えている。

 また故人との関係は決して一定不変のものではなく、時間の経過や死別体験者の成熟、外部環境の変化に応じて常に変わっていく。したがって、「絆の継続モデル」においては、これまでのように悲嘆を「解決(resolution)」や「回復(recovery)」といった最終目標に向けて段階的に進んでいく直線的な心理プロセスとして想定されることはない(鷹田 2005)。

 

 

3節  まとめ

 

 これまで見てきたように、ペットロスに対する解釈は緩やかな変遷を辿っている。とはいえ、昔から変わらず唱えられていることも存在している。それはペットを失ったとき「悲しいのに悲しめない」(香取 2004)ことにペットロスの問題点があるということである。これはペットが死んでしまったくらいでどうしてそんなに悲しむのかというような周囲の無理解から起こる事態を意味している(3)

 ペットロスが知られるようになると同時にペットの葬儀や供養一切を取り仕切るペット葬儀社も全国各地にできる。ペットロスの文献を見ても「お通夜やお葬式をすることはペットロスからの回復をスムーズにさせる」(山崎・鷲巣 1998)と肯定的に述べられている。このペット葬儀社をペットロスの観点から解釈するとどのようになるのであろうか。

 欧米では心のケアとして電話相談や地域社会でのカウンセリング・グループといったシステムが発展している。日本でも社会的にペットロスが認知され、そのようなシステムが構築されつつあるが、まだまだ十分とは言えない状況にある。そこでペット葬儀社は自覚的に家族の心のケアを担っているのではないだろうか。つまり心のケアを意識したサービスを提供しているということである。それがペット供養なのだ。他方、ペットロスで論じたところによれば、ペット供養の場は悲しみだけに集約されたものではないのかもしれない。そこに絆を求めている人もいるはずである。ペット葬儀社のサービスを受け取って供養をしている家族はどのように感じているのだろうか。その答えを導き出すために本論文では家族へ直接のインタビューを行った。このようなサービスを認識した上で、供養への期待や供養することの目的について語り、絆を意識するような言葉を「絆の語り」とする。一方、絆とは違いペットを失った悲しみを表すような言葉を「悲しみの語り」とする。ペットを失った人々はどちらを語るのであろうか。インタビューの語りから読み取っていこうと思う。