第二章 岡田宏介「イベントの成立、ポピュラー文化の生産―『(悪)夢のロック・フェスティバル』への動員はいかにして可能か」

 

 

 ロック・フェスがイベントとして「騒ぎ」から「文化」へと成長していった過程について、岡田(2003)は、メディア言説をもとに、分析、考察を行なっている。

 

岡田(2003)は「フジ・ロックは最初から、現在のような高い評価とホスピタリティをあわせもった『音楽文化の祭典』として登場したわけではなかった」(岡田 2003: 104)とし、「『悪夢のイベント』として、一般メディアに表象されていたこのイベントが、その後いかなる文化的意匠のもとに意味づけられ、ロック・イベントとしての真正性(authenticity)を獲得して、次第に『ポピュラーなもの』になっていったのか。」(岡田 2003: 104)ということについて、フィールド調査とメディア言説の分析を行なっている。ロック・フェスという文化生産に携わる産業とメディアの働きかけの役割の大きさに一つの焦点を当て、人々が「オーディエンス」としていかに主体化/動員されてゆくのかというメカニズムについて考察を進めている。

 

岡田(2003)の論文でのオーディエンスに関する考察について整理しておく。

 

この中では、フジ・ロックを1997年から1999年ごろまでを第一期、1999年以降2002年にいたるまでを第二期と便宜的に二つの段階に分けてとらえている。「大まかに第一期では=略=(欧米輸入の)新しいイベント・スタイルの定着と、その文化的真正性の獲得とが主要な焦点となった。それに対して第二期は、フジ・ロックの成功を機に『夏のロック・フェス』イベント市場が拡大・浸透し、それが『ポピュラーになる』ことの効果が様々な形で表れてゆく段階として特徴づけられる。」(岡田 2003: 105)として、イベントの担う社会性やそれをとりまくメディアのありようをそれぞれ異なった把握の仕方をしている。

 

 

 

第一節 第一期フジ・ロック

 

1997年「日本で最初の本格的野外ロック・フェス」と銘打ち富士山麓スキー場において二日間にわたって行なわれるはずだった第一回フジ・ロックは、開催初日に会場区域が台風の直撃にあって病人・負傷者が続出、予定された二日目が中止に追い込まれるという、音楽興行イベントとしてはほぼ最悪の事態にみまわれた。台風の影響のみならず、主催者側の対応の不備、観客のマナーの悪さ、観客の無防備な軽装ぶりなどの諸々の要因も手伝い、事態は予想以上に悪化したのだ。さらにこの「惨状」はロック系の音楽誌を超えて、一般の新聞・週刊誌にも数多く取り上げられ、結果「フジ・ロック」の名は一つの「騒動」「悪夢」の記号として、社会的流通をすることになる。

 

しかし第一回フジ・ロックの波紋は、その後のイベントの性格をかなり決定的に方向づける。翌年以降の開催に至るプロセスの中で、岡田(2003)は、〈音楽誌メディア空間の主導性〉に着目し、第一期フジ・ロックの成り立ちを、一種の「メディア・イベント」(Dayan & Katz [1992=1996])のそれとしてとらえてゆく。音楽誌メディアは、キース・ニーガス(1992)のいう「文化仲介者」としての役割を果てしてゆくのだという。

 

 まず一つに、こうした斬新なスタイルの音楽イベント(=フェスティバル)への参加に適応しうる、より「成熟」したコア・オーディエンスの主体化がある。フジ・ロックの出演ラインナップに反応するような都市部のロック・ファンたちを、郊外のフェスティバル参加に見合う新たなオーディエンスとして、集合的に主体化していく必要性があり、その要請に対し、既存のロック系音楽雑誌メディアは巨大な役割を果たした。メディア各誌は、イベント開催の数ヶ月前から盛んにその詳細をプロモート、読者に対しイベント参加へ向けた心構えや持参すべき持ち物、そしてとりわけ会場でのモラルに関する呼びかけ盛んに行なっていく。さらに、当時の音楽誌メディアの働きかけは、それにとどまらず、主催者側の熱意や企画の意図をさかんに代弁し、イベントを楽しむための「オーディエンスの理想的モデル」を構築してゆく積極的な役割も引き受けている。

 

 メディアによるこれらの言説とイメージの付与によって、読者は「ロック・ファン」「フジ・ロックのオーディエンス」としての自己アイデンティティと見出し、自らそれを構築していく。岡田(2003)は、1999年・2000年・2002年の三回にわたり会場内でオーディエンスに対しアンケート調査を行い、主要な音楽誌メディアに接している回答者が全体の54%にも上ったということから、ロック系雑誌の読者たちがフジ・ロックのコア・オーディエンス層の多くを占め、また、メディア空間の主導的役割があったことがいえるとしている。

 

 

 

第二節 第二期フジ・ロック

 

 イベントとしての成功を継続させ、「ポピュラー化」したフジ・ロックをはじめとした野外ロック・フェスは、既存のメディアへの依存を脱して、それ自体が人々の耳目を集める力をもつ、すなわち〈メディア〉化していく。

 

1999年以降、会場を苗場に移してからのフジ・ロックは高い評価を得、多くのリピーターをうみだし、その規模を拡大させていく。フジ・ロック成功のもっとも端的な余波として、日本各地に同種の野外イベントの相次ぐ登場・乱立をもたらした。それとあいまって、フジ・ロックやこれらの後続の野外ロック・フェスを、夏のポピュラーなイベントとして紹介するメディアの範囲も一般情報誌系のメディアへと拡大し、フェスへの参加がより広範な層へ浸透・一般化していく。

ロック・フェスは音楽誌メディアへの依存性を低下させ、イベントが自律化、それ自体が一つの〈メディア〉としての機能を持つ。オーディエンスにとっては、新しい音楽発見の場として、レコード会社にとっては契約アーティストのプロモーション機会としてロック・フェスは有効に機能するのだ。

 

そしてオーディエンス主体化のメカニズムは、インターネットをはじめとする従来とは異なる形をとって行なわれるようになる。以前のようにメディア関係者から直接発信されるというよりも、すでにリピーターとなっているコア・オーディエンスから「初参加」の人々へといった、より自主的な経路をとるのだ。「文化仲介者」の担い手がより多様で広範へと拡散していったといえる。

 

 最後に一般の新聞メディアにおけるイベントの取り上げられ方にも変化が見られる。1997年の「失敗」が、「騒動」という負の記号性をもたせた新聞での記事の扱われ方が、劇的に変化する。2002年の記事では、「騒ぎ」としてではなく、今年も例年通り開催された「文化」イベントとして扱われ、評価の対象とされるようになるのだ。

 

 

 

第三節 まとめ

 

ロック・フェスが「騒ぎ」から「文化」へと成長していった背景には、1997年FRFの失敗を受けてのロック系雑誌による「オーディエンス教育」があり、それによりイベントとして成功、後継のフェスも乱立する中で、それまでの音楽誌の役割に変わり「コア・オーディエンス」が「初参加者」へと文化を仲介していくメカニズムがあった。また、文化への成長の過程は、音楽雑誌から一般情報誌系の雑誌へというメディア範囲の拡大、新聞記事での「騒動」から「文化」へという扱われ方の変化からも伺うことができるのだ。

 

岡田氏の論文から、ロック・フェスが成功を収めていった背景にあるものとして、コア・オーディエンスの存在が一つの重要なポイントとしてとらえられる。本論文では、コア・オーディエンス構築の過程、そして成熟したコア・オーディエンスたちが果たす役割について、さらに詳しく分析を進めていこうと思う。

 

 ただ、岡田(2003)はフジ・ロックの過程を第一期・第二期と区分してとらえたが、これは執筆当時(2002年)の便宜的な区分であるため、本論文ではあまりこの区分は用いないことにする。以下の章では、岡田氏の論文を参考にしながら、メディア分析、そしてオーディエンスの役割についての分析を進める。

 

 

 

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