第2章       調査結果−青年海外協力隊富山県OB会メンバーのライフヒストリー

 

本章では、本論文の調査結果である青年海外協力隊経験者のライフヒストリーについて触れる。なお、ライフヒストリー本文中のインタビュイーの年齢は調査当時(2005922日から20051226日)のものである。


1節 「後悔とか何もないですね」 MNさんのライフヒストリー

 

MN さん(男性、25歳)は2003年4月〜2005年5月までの2年間、ボツワナ共和国にソフトボールの指導員として派遣されていた。MNさんは、インタビュー当時(2005922日)、アルバイトで()不二越の研修生の通訳として勤務しており、翌月から富山県警察本部で勤務予定なのだということだった。

 MNさんの協力隊に参加するきっかけになった出来事は、学生時代に旅行でハワイに行き、そこで日系人の人に移住当時の話を聞いたことだった。「一番のきっかけが学生のときに計4回アメリカに行って、アメリカのその社会なりを見たときに、途上国行ってみたいなって漠然と思ったのがきっかけですね。(中略)ハワイって今でこそすごい観光地だけど、その人たちが行ったころってすごい田舎だったって話を聞いて、それで、今の発展に至るまでのその経験とか話を聞いたときに、あー、ちょっと面白そうだなって思って。まだまだ未開な部分も見ていきたいなって思った。」とMNさんは言う。こうして、協力隊に参加することを決意したMNさんは大学4年生のときに青年海外協力隊の春募集の試験を受け、試験に合格して訓練を受け、卒業と同時に協力隊員として派遣された。採用試験を受けたとき、MNさんはアフリカの別な国への派遣を希望していた。青年海外協力隊は採用試験に願書を提出する際に派遣国の希望を書いて提出する。しかし、協力隊の合格通知が来てみるとMNさんの派遣国はボツワナであった。協力隊では派遣国からの要請を受けて隊員を派遣するため、MNさんの場合のように本人の希望と派遣要請が違ってしまうこともある。MNさんはボツワナにソフトボールの指導員という職種で派遣されることに決まった。

 こうして、20034月にMNさんはボツワナへ派遣された。派遣された場所はボツワナの首都、ハボローネである。任国での主要な仕事はナショナルチームの指導であった。MNさんはここで、毎日ソフトボール漬けの日々を送った。その結果、2003年のアフリカ選手権では、ボツワナのナショナルチーム(男子)が優勝したり、(MNさんは笑いながら「(優勝) させましたって書いといてください。」とインタビュー中に語った。)ボツワナの人々ともすごく仲良くなったりと、毎日充実した日々を送っていたようである。

 2年間の派遣期間が終わり、MNさんは日本に帰国した。帰国後、富山県警に勤めることになったきっかけについて聞いてみると、MNさんは就職について次のような思いがあったのだと教えてくれた。「協力隊にいくきっかけにもなったんですけど、やっぱり人間を相手にした仕事がしたいなって、ずっと思っていて。どうせなら、やっぱり人の力になる仕事ができたらすごい理想だなって思っていて。(中略)人のためになって、自分のこの2年間の経験がいくらかでも生かせたらいいなって思っていて。」「(自分が学んだ)語学ってものも、生かせる仕事に就きたいなって思ったときに、この県警の仕事っていうのがすごい向いているなって思った。」このような2つの思いからMNさんは県警の仕事を選んだのだという。  県警の採用試験を受験したMNさんは、合格し、県警に就職することが決まった。採用試験の過程で「一応その、県警のほうもその2年間の(協力隊での)経験を評価してもらえたっぽいんで。はい、よかったな、と。」と自分の就職活動を振り返って語ってくれた。

県警での採用試験では協力隊での経験を評価してもらえたMNさんだが、一般的な就職活動での協力隊経験の評価、という点に関しては違った印象を持っているようである。MNさんに就職活動で苦労した点について聞いた中で次のように語っている。「よく聞くのが、僕たち例えば、新卒で行った場合ですけど、普通に大学で就職してれば、あ、学生時代に就職活動してれば、新卒採用じゃないですか。だから、すごいいっぱい採用があるんですけど、僕らみたいに中途採用とかになってしまうと、やっぱり、それだけでもう、若干就職口が減ってしまうっていうか、新卒しか採らないっていう企業もあったんで。僕の場合はそんなに、デメリットにはなっていないですけれど、そういうのをよく聞きましたね。」 帰国隊員の日本での就職についてMNさんは次のように語る。「帰ってきてからなかなか就職就けないって人間はざらにいますし。せっかくいい経験して帰ってきてるのに、なかなか就職できないのはもったいないなと思いますし。」現在、実際に協力隊の経験を帰国後の仕事で生かせない人はいるのではないか、とMNさんはいう。「生かしたいけど、生かせないって人はたぶんいっぱいいますね。それだけやっぱり、まだまだ、協力隊は何千人と今まで行ってていろんな人に知られているようで、実際のところまだまだ知られていないっていう部分が、たぶんでかいと思うんで。」このため、帰国隊員の日本での就職については、JICAがもっと積極的に関与すべきではないか、とMNさんは考えているようだ。「協力隊OBとかOGの進路、就職先も割合の大きいのにJICAっていうのがあるんですけど、やっぱりそういう部分に進む人が多いっていうのも、他の部分に進む人が少ないんだなって思いますし。(中略)やっぱり、もう少し、JICAにも就職の面で斡旋してほしいなっていうのは、誰もが思っていると思います。」と語ってくれた。

MNさんは現在、協力隊に行ったということをどのよう考えているのだろう。MNさんによれば、自分は協力隊に参加したことで大きな満足と達成感を得たのだという。そして、その経験を次のような言葉で振り返ってくれた。

「もう満足しかないですね。行ってよかったっていう。満足と達成感しかないですね。後悔とか(中略)何もないですね。」「自分自身も大学卒業して、2年間、漠然と社会に出ているよりは、すごい成長したな、と。大きくしてもらえたな、と思いますね。(中略)やっぱり精神面、精神的にも少し強くなったと思いますし、やっぱり忍耐力とかもついたなって思いますし、あと語学力とかもそれなりについたなって思いますし。(協力隊に参加して)自分のプラスになることは多多ありますけど、行ってマイナスになった部分はそんなにないような気がしますね。僕は行って良かったと思ってます。」とMNさんは現在の気持ちを語ってくれた。

 「後悔とか何もないですね。」私はこの言葉がMNさんのインタビューの中で一番印象的であった。この一言にMNさんのボツワナでの協力隊経験が凝縮されているように思ったからである。


2   「幸福って何なのか」 NNさんのライフヒストリー

 

 NNさん(男性、46歳)は1981年の7月から19837月までの2年間、ガーナに理科教師として派遣されていた。現在、とやま国際センターで職員として働いている。

 NNさんは大学時代に友人に誘われて協力隊の説明会に行った。そこで初めて協力隊について知ったNNさんはこのことが頭のどこかにずっと残っていたという。その後、4年生になったときにNNさんは就職活動をほとんどしなかった。それは、NNさんによれば「当時の、(中略)考えたらモラトリアム」だったという。NNさんはこの時のことを振り返って次のように語ってくれた。「要するに、今、ちょっと判断するの待っとこうと。ちょっと待って、すぐに就職するんじゃなくて、何をしたいかわからん時代やね。だから、(中略)したいことはあったんだけど、それですぐ食べていけるっていう自信はなかったしね。(中略)あとは(中略)自分が海外でやっぱり生活してみたいっていうのがあったし、自分を、(中略)もう一度別の環境のところでおいて新しくやり直すみたいな。そういったことができるのかな、と思ったね。協力隊でね。」

 こうしてNNさんは大学4年のときに協力隊隊員募集の試験に応募する。大学でサイエンスを専攻していたNNさんは、化学と物理学に関する知識を持っていた。そのため、これを生かして理科教師の職種で応募をした。

1981年の7月にガーナに派遣されたNNさんであったが、ガーナの首都から200キロほど離れた、ボルタ川のほとりのソガコフェという町にある学校に派遣された。NNさんはソガコフェで、セカンダリースクールと呼ばれる日本の中学生から高校生1年生ぐらいの年齢にあたる生徒たちに理科を教え始める。ガーナは教育も全て公用語である英語で行われるため、NNさんも授業は全て英語で行っていた。1クラスは大体20人ほどの規模で、週に12,3コマ自分の授業を担当し、主に向こうの学校のテキストを使って授業をしていたそうだ。

NNさんはガーナの人々との思い出がたくさんあるのだという。当時、NNさんはギターを持って、自分の任地以外の土地にも出かけていくことがあった。漁村へと出かけていったNNさんはそこで漁労長の家に泊めてもらい、23日間地引網漁を手伝ったりした。夜になって、月明かりの下でNNさんがギターを弾くと、村の子供たちが集まってきて、また楽しく歌を歌って盛り上がった。「歌1つで子供たちの心がつかめた」とNNさんは言う。また、滞在中に3回もマラリアにかかり、大変だったが、この時に同僚の先生たちがお見舞いに来てくれたりしたそうである。他にもNNさんはインタビューの中でガーナの人々との思い出をたくさん語ってくれた。

1983年の7月にNNさんのガーナでの協力隊任務が終了した。その後、NNさんは1ヶ月ほどかけて旅行をしながら日本に帰ってきた。ガーナに行くときは台湾を通って、スイスのチューリッヒを中継し、アフリカへ降りたったNNさんだったが、帰りはオランダのアムステルダムからイギリス、アメリカのニューヨーク、ニューオリンズ、サンフランシスコを回って、帰国したのだという。二年間かけて世界を一周してきた計算になる。それが、NNさんにとってはひとつの夢であったそうだ。

「協力隊に行く前は、飛行機の乗り方もわからんかった」と語るNNさんだが、協力隊での経験を通じて「どこでもいけるわっていうかんじ」「大概の事は世界中どこいったってできるんだなというなんちゅうか自信がついたね。(中略)それが一番変わったこと」と思うようになったと語ってくれた。

日本に帰国してからのNNさんにとって、「仕事どうするかが一番問題やった」という。帰国してしばらくの間は出身大学である富山大学の研究室でアルバイトをしていた。その後、大学院を受験し、結果合格して大学院に通い始めたNNさんであったが、そんな中で198411月にとやま国際センターが出来た。この国際センターでは毎週水曜日に日本人で海外に行った人を集めてミーティングを行ったりしていた。NNさんもこのミーティングに協力し、ガーナの話をしたりしていたそうである。翌1985年に富山県では国際青年年を記念して国際協力に関する論文を募集していた。この論文のコンクールに協力隊についての論文を書いて提出したNNさんであったが、この論文が見事1等賞を受賞する。このことを、当時の国際センターの事務局長に報告しに行ったNNさんは、そこで国際センターに協力してくれないか、と声をかけられた。この時、まだNNさんは大学院生であったため、このまま大学院にに残ろうか、それとも国際センターで勤めようか迷ったそうだが、結局、大学院はやめて、1986年の5月にとやま国際センターへと入った。

協力隊から帰ってきて、日本に慣れるには20年ほどかかった、とNNさんは言う。「最近だわ、慣れたの。ははははは。考え方の違いとか。」とインタビューでは語ってくれた。考え方の違い、という点についてNNさんは日本は「自分を主張するとだめな社会」だと考えていると言い、さらに次のように語ってくれた。「(自分を主張すると日本では)つぶされる、周りから。で、周りに合わせなくちゃいけない社会じゃない。でも、ガーナはみんなでわぁって盛り上がってるから、盛り上がったもんが勝ちなんやちゃね。楽しくやったほうが勝ちなんやちゃ。でも、日本はそうじゃない。日本はこうやって盛り上がると、なんじゃあの人はってね。それがねぇ、それに慣れるまでちょっと。それを、やり続けて、ちょっと踏ん張るまでねぇふふふふ。ちょっと時間かかった。」

 NNさんに今現在、協力隊での経験をどのように考えているか、ということについて聞いてみた。NNさんは「若いころはね、協力隊を体験してね、自分はこんなにもすごいことをやってきたとか実はね、思ってたん。いや、水も電気もないところでね、生活してね、マラリアに3回もなりましたよってちょっと自慢してた。」と言う。しかし、現在、NNさんは協力隊での経験はもっと時間をかけて評価されるべき経験なのではないか、と考えているようだ。「(協力隊から帰ってきたばかりの頃は) すぐに何かを求めたね、その成果を。これをこれだけやってきて、だから何とかしてよみたいなね。何で認めてくれないの、みたいなね。で、それは、変わったんね。で協力隊の2年間っていうのは確かに2年間すごい体験なんだけど、長い人生で見ておかなきゃいけない。長い人生で見て、この2年間は俺の人生を、例えば60とか70とかになったときに、協力隊の活動っていうのが、自分の人生に影響を与えているなぁってね、思えるんだ、とかね。だから、今みんなそうだと思うんだけど、1年とか2年とかやって、それですぐ答えとかを出してはいけんと思うのね。」と現在考えているのだ、とNNさんは語ってくれた。

NNさんは「幸福とは何なのか」ということを考えるようになった。「ガーナの子供たち、みんな要するに電気ないところだから、月の明かりだけで、みんなで楽しく歌ったり出来る。そういう明るさって持ってて。で、楽しく毎日を生きてるのね。で、日本は僕もそうだったけど、ずっとさきのこと心配してたりするでしょ。 (中略)でも、ガーナの人たちは今を楽しんでるのね。すっごい一生懸命。(中略)だから、子供たち幸せがなんなのかいうことが、ずーーと俺わからんかった。ね。ガーナが幸せなのか、物質的に恵まれてはいるけれど、精神的にはちょっと貧乏な日本のほうが幸せなのか。」とNNさんは言う。

「幸福って何なのか」ということを協力隊に参加することで考えたというNNさんだったが、この言葉がNNさんが体験してきた協力隊、そして帰国後の生活を一番特徴的に表現している言葉であるように私には思われ、インタビュー中も一番印象に残った。協力隊に参加したことでその後のNNさんの人生が大きく変化したことからもわかるように、その後のNNさんのライフコースにも協力隊での経験が色濃く影響を与えていることがよくわかる。


3   今の自分じゃないと考えると怖い。GTさんのライフヒストリー

 

GTさん(男性、37歳)は19937月〜19957月までの2年間、ホンジュラス共和国に理科教師として派遣されていた。現在は富山県の公務員である。

 GTさんは、大学を卒業し、大学院に進学した。大学、大学院とGTさんはずっと畜産を専攻しており、動物の研究をしていたのだという。GTさんは大学4年時にも協力隊の隊員採用試験を受験しているのだが、このときは合格することができなかった。その後、大学院に在学中に再び受けた協力隊の試験に合格し、隊員として派遣されることになった。実は、GTさんはこの時、製薬会社から就職の内定をもらっていた。しかし、そちらにはいかずにGTさんは協力隊に参加する道を選んだ。このことについて、GTさんには「このまま行くとたぶんラットに注射打つとかそういう暮らしがずっと続いていくのかなと思うとすごく寂しいような気がした」という気持ち、そしてもう一つ「やっぱり(就職は)決めてしまったら、怖い。(中略)ちょっと、その前にやっぱりなんかやって考えたかったし、先延ばししたかったっていうのもあったんだと思うんですよね。だから、決してその国際協力とか崇高な理念があったわけではなく、ま、行ってみたいなと思ったんですよね。先延ばししたいっていうのもあったし。それに、国際協力っていうのは、絶対の善っていうかね、誰も反対しないことじゃないですか。それでなんか、そういうことに憧れがあったっていうかね。(中略)ほんとうにその助けたいとかそこまでは考えていなかったと思います。イメージだけだったと思います。」という2つの思いがあったのだと語ってくれた。

 大学で専攻していた畜産でなく、理科教師という職種で応募したのは、「大学の畜産の勉強っていうのは現場ですぐに生きるものでもない」とGTさん自身が感じていたことと、「一番理科に興味があったのと、いけそうだから」という理由からだったとGTさんは言う。特に大学で教職課程をとっていたなどの経緯はなかったそうだ。そして、もともと教育にも興味を持っていたためにこの職種を選んだ。

 その後、派遣される前にGTさんは駒ヶ根で3ヶ月間の派遣前訓練を受けて、GTさんは実際にホンジュラスへ派遣された。

GTさんが派遣されたのはフティカルパという、首都から東にバスで23時間ほど行ったところにある、畜産が盛んな、田舎の都市である。当初、GTさんは、師範学校で理科を教えるために派遣されたのだが、現地の状況がわかるとGTさんは、いろいろな町の小学校を回って実際に自分で理科を教えるようになった。

GTさんは任地のホンジュラスの人々になじむことができず、苦労した経験があるのだという。ホンジュラスの人々はみんなとても明るい人が多かった。そして、GTさんが、何も言わずにいると、別に他意はなくても、どうして黙っているのか、という感じになってしまったり、なんでもきっちり決めたがるため、GTさんにもよく「イエスかノーどっちだ」といつも言っていたのだという。GTさんはそのようなホンジュラスの人たちについていくのが大変だった。旅行などで中南米を訪れた時は、人々がすぐに仲間で踊りだすところなど、とても合うと感じていたGTさんであったが、実際にそこに住むとなるとまた違った面が見えてきたようだ。そのため、最初のうちは逆にホンジュラスの人々に距離を置いてしまったり、精神的にもすごく不安定な状態であったとGTさんはいう。「最初その心開けなくて、すごくこう無理してたんですね。みんなに接する時。それはやっぱりしんどかったですね。」とGTさんはこのときのことを振り返る。

 当時フティカルパに、日本人はGTさん1人しかいなかった。そんな環境の中で「言葉もわからないし、ね、わぁーっとしゃべってくるし。最初はこうホームシックにはならなかったですけど、寂しかったですね。」とGTさんは言う。近所の子供たちや近所の雑貨屋でビールを飲みながら周りの人々と他愛のない話をすることは、全く問題なくこなすことができたが、「仕事に関係のある人ってやっぱり言葉が話せないとプレッシャーになる」のだとGTさんは当時を振り返る。どうしてもすみません、すみませんという感じになってしまい、言葉が通じないことのつらさを感じたのだという。

 「大学出て、すぐ行ったもんだから、何をするかっていうのがいままではある程度その、決められてきたようなとこにいたんだけれども、何してもいいよって言われると、逆にこう何も出来なくなってる。で、言葉も通じないしということで、最初すごい心閉ざしてましたね。」と当時のことをGTさんは語った

 1995年の7月に協力隊の任務を終え、GTさんは8月に日本に帰国した。帰国後、12月までは就職活動をしていた。しかし、就職活動の状況は非常に厳しかった。「バブル崩壊してて全然先がなかった」とGTさんは言う。「行く前は行ったら自分もね、なにかこう、目的も見つかって、どう生きるか決まるように思ってたんですけど、実際行ってみても別にね、変化もなく、やっぱり甘いままだったんで。」と当時のことをGTさんは語った。

民間の会社に畜産の知識を生かして就職しようと、考えていたGTさんは食品関係の会社や製薬会社に就職できたらと思う気持ちもあったが、それとは別に当時のGTさんには国際協力関係の仕事に関わりたいという考えもあったのだという。しかし、なかなか国際協力関係の仕事に就くことは難しかった。そして就職活動をする中で、GTさんは民間の会社への就職も難しいと感じ、公務員試験を受けようと思いたつ。このときのことを振り返ってGTさんは次のように語ってくれた。「何かすごく自分が甘えてたっていうかね、何とかなるだろうみたいな感じで。で、公務員試験しかなかったっていう感じはあるんですね。公務員試験受けようと。で、自分の気持ちとかやる気っていうのをかたちに表せないと誰も認めてくれないんだっていうのをすごく感じて。」とGTさんは言う。しかし、公務員試験を受けることを決意したあとのGTさんは、ひたすら目標に向かって努力をした。公務員試験の勉強のために12月から6月くらいまで、友達のところに居候させてもらい6ヶ月間みっちり試験に向けて勉強した。畜産という職種で国家公務員と富山県の公務員試験を受験したGTさんであったが、結果、両方とも合格することができた。国と県のどちらの公務員になるかGTさんは迷ったようだが、より現場に近い仕事が出来る方を、ということで県のほうを選んだ。「ですから、まず最初に、農業という私の専門があって、それを公務員って形にしたんだけれど、研究ではなくて、現場のほうに行こうっていうことで」現在の仕事についているとGTさんは語ってくれた。

就職活動の中で苦労したことをGTさんに聞いてみた。すると、GTさんは次のように語った。「それもみんなよく思うんですけど、やっぱ何かこう、自分が特別なことをしてきたように思うんですけど、(協力隊の経験に対して)社会的な評価っていうのはあんまりないんですね。かえってマイナスになるかもしれないぐらいの、うん、その分年喰ってますから。評価してくれるところもあるでしょうけど。」ということであった。

 GTさんは就職に関しては「誰かが何とかしてくれる」という気持ちが自分の中にはあったのだと語る。それまでもGTさんは、高校、大学、協力隊と順調にキャリアを積んできた。そのため「次も何とかなるだろう」という気持ちが自分の中にあり、それを切り替えるのに葛藤があったのだそうだ。このとき、GTさんは「すごい自分は甘いんだな」ということを感じたという。就職するときに同年代の仲間と一緒に就職しないで、2年たってから就職したGTさんであったが、それには「自分にパワーが無いと切り抜けていけない」のだ、と語る。「みんなと一緒に一段上がるんだと、こんなもんかなってかんじだけど、やっぱり、2年間みんなと違うふうに過ごして、それで1段上がるときっていうのは、自分でこう考えてあがんなくちゃいけないんですね。」とGTさんはいう。そして、当時の自分の心境についてGTさんはこう語った。「就職は、何でもいいんならあるんですけど、ただ、協力隊から帰ってきて、経験もあって、何か出来るはずだと思ってる自分が、なんでもいいっていうもう1段を登れなかったんですね。」 

 公務員に就職が決まってから、GTさんは北海道の方に酪農のアルバイト研修も兼ねて、4ヶ月ほど出かけていき、その後東南アジアに40日ぐらい旅行へ出かけた。その後帰ってきてGTさんは就職する。就職した当初、GTさんは「学生上がりでいったってことで、すごく自由な気持ちでいた」と言い、会社や社会で求められる「ルール」のようなものに対して「窮屈」だと感じたという。「公務員はすごくルールとかね、規則とか世間体とか気にするんですよ。そんなんいいじゃないか見たいな気持ちで最初いたんですね。だけど、今は昔やってたこと考えて、いや、恥ずかしいなって思うんですけど。」とGTさんは言う。「最初の2年間は、いい意味でこうなんちゅうか、明るかったというか、好き勝手やってたっていうふうな気がしますね。そうですね。私、畜産試験場っていうところにいたんですけど、Tシャツとジーパンで行ってたんですね。やっぱり、公務員やし、襟付きのものをね、着て会社行かなきゃいけなかったろうし。あとね、その物事の、予算の立て方にしても、形だけみたいなところがあったんですね。で、こんなん意味ないじゃんって、言ってみたりとか。やっぱりみんなもわかってて、ルールでやってる。そういうのをやっぱりわかったような顔で口出しするのは良くなかったかな、と思いますね。」と当時のことを振り返ってGTさんは語ってくれた。

 GTさんに現在、自分が協力隊を経験したということを、今現在はどのように考えているのかを聞いてみた。GTさんは、仮に自分が協力隊へ行かなかったら、たぶん自分は大学院を出て、製薬会社に入社し、収入もそこそこあったであろうし、もっと安定した暮らしをしていたかもしれないと思うのだという。協力隊に参加した事で、そういった可能性をGTさんは捨てたわけだが、「でも絶対行って良かった」というふうに思っているのだという。逆に、「(協力隊に)行かない自分ってすごく怖い、怖いっていうか、すごく世間知らずだし、とんとんと高校と大学、就職としただけの人間になっていた気がする。(中略)今の自分じゃないと考えると怖い。」とGTさんはいう。

協力隊を通じてさまざまな仲間に出会うことが出来た、というのもGTさんにとっては大きい財産となっている。普通は、小学校の友達、中学校の友達、高校の友達、大学の友達という人間関係が友達を作ることのできる範囲であろう。もちろん、就職してからも友達は出来る。しかし、「大人になるほど友達って出来にくくなる」とGTさんは言う。「特に就職してから友達ってうんと減るような気がするのね。でも、私はその間に協力隊があって、そこで、すごくいい友達がたくさん出来たっていうのはすごく財産だなって思ってますね。」と言い、さらに、協力隊に行く人には「変わった人」が多いから、「面白い」とGTさんは言う。「いろんな方面の人がいたし、看護士とか理科教師とか針鍼灸師とか、水泳とか、やっぱりいろんな人が集まっていろんなところに友達ができるっていうのはすごく財産だなと思いますね。はい。」とGTさんは語ってくれた。

GTさんのインタビューで、私はGTさんの協力隊の経験が連綿と現在まで続いているのが見えたような気がした。「今の自分じゃないと考えると怖い。」この言葉にはGTさんのこれまでが良く現れているように私には感じられた。

 


第4節「やっぱりいいほうに変わったと思う」 KKさんのライフヒストリー

 

KKさん(男性、44歳)は 19953月〜19976月までの2年間、モルディブ共和国に野菜隊員として派遣され、現地のムラクという島で、野菜の栽培指導に当たっていた。現在は、あわすのスキー場の近くで自らのロッジを経営するかたわら、夏場には立山ガイド協会で山岳ガイドをしている。その他、立山自然学校のスタッフ、富山国際大学での「国際ボランティアリーダーシップ論」という授業を担当している非常勤講師と非常に多くの顔を持つ。また、KKさんは青年海外協力隊富山県OB会の会長を務める人物でもある。

 KKさんは、大学を卒業後、スポーツ用品卸の会社に務めていたが、しばらくしてそこを辞め、山小屋で住み込みのアルバイトをしていた。その後、東京にある車のブレーキを作る会社に就職し、サラリーマンとして働いていたが、仕事に面白さを感じることができずにいた。「まぁ、その(仕事に対して)やりがいが感じることができなくって、なんか、自分を変えたいな、と。」KKさんは思っていたのだという。仕事へのやりがいを求める気持ちから、この頃、KKさんは以前から興味を持っていた農業に関わり始めた。土日を使って近所の農家で有機農業の手伝いを始めたのである。「で、そういうところに飛び込もうかな、自分も独立してやろうかなと思った一方、うまくいくんだろうかという不安な気持ちもあって」と農業を生業とし、サラリーマンを辞めることを思い切れずにいた。そんな時にKKさんはたまたま青年海外協力隊について知り、説明会に参加する。そして、「自分の、その、状況を変えたかったっていうのと、なおかつ人の役にたつことができればいいなぁと、そういうようなことで、協力隊っていうのはまさにそういうものだと。」と思い協力隊に参加することを決意した。もともと自分がやってみたかった農業の分野の野菜隊員という職種で協力隊に参加することにしたKKさんであったが、野菜作りに関する経験がない、ということが唯一不安要素であった。しかし、派遣前に「技術補完研修」として、事前の派遣前研修の他に4ヶ月間かけて東京農業大の農場で野菜作りに関しての専門技術を身につけることでこの問題は解決した。

 派遣されたモルディブ共和国では、2年間ムラク島という人口1000人ほどの島で、野菜栽培の指導を行った。もともと野菜を食べる習慣がないモルディブに、家庭菜園程度の現地の人々が自給自足できる畑を作ることがKKさんに対する派遣要請であった。キャベツやトマト、とうもろこし、そして現地産のなすびやスイカ、サツマイモなどを栽培していたそうである。KKさんが派遣されたことで、現地には新しい農業技術や栽培に関する知識が入ったことは有意義なことであった。

 2年後、協力隊での任務を終えたKKさんは日本に帰国した。KKさんの場合、協力隊での経験がその後の職業生活に大きく影響している。帰国した後、「日本に帰ってもやっぱり農業したいなっていう気持ちがあって」と語るKKさん。ある日、「草刈十字軍」を主宰する足立原貫(アダチハラ、トオル)氏の本を読んだことがきっかけで、農業に関わりたいとの気持ちを強く持ち、実際に足立原氏に会いに行った。そこで人と土の大学、という足立原氏の主宰する34日の農業合宿に参加した。ここで、参加者たちと農業について熱く語り合ったことがきっかけでKKさんは農業を自分の生業とすることに決める。当初、野菜作りをやってみようかと思っていたKKさんだったが、このことを足立原氏に相談すると米作りがいいのではないか、と米作を薦められた。その後、KKさんは足立原氏から知り合いの農家を紹介され、そこで給料をもらい、働きながら米作りを学び始めた。たまたま、その年の農閑期にKKさんは、お父さんの知り合いがそれまでやっていたロッジをやめる、というので、そこを譲り受け、スキー客向けのロッジの仕事も始めることになった。「(笑いながら)行動的になってましたんで、協力隊で。」と語るKKさん。ロッジの経営は冬の農閑期の間だけであったが、その後経営が上手くいき、2年後に買い取って自分のものにした。「最初4年間は、春から秋は米作り、冬はスキーロッジっていうかたちにして」しばらくは農業とロッジの二つを仕事にしていたが、「やっぱり自分でやるほうが面白い」と感じ、4年目からはロッジに専念することにした。KKさんはちょうどこの頃に立山山岳ガイドの仕事も始めている。

 現在、青年海外協力隊富山県OB会の会長も勤めているKKさんだが、その縁から富山国際大学で「国際ボランティアリーダーシップ論」という講義を担当する非常勤講師の仕事も引き受けている。現在は講義で協力隊での体験やモルディブでの話、地球温暖化、気候変動のことなどを教えているそうだ。その他、現在KKさんは立山自然学校でのスタッフの仕事もしている。

協力隊に行ったことで現在のKKさんの生活は大きく変わったと思うのだが、と尋ねると、KKさんは「あぁ、そうだね。」と言い、「そのきっかけとなった会社員生活しとるときは、なんかもう、つまんないなぁと思いながら生活していた点もあるんだけど、今はそういったつまんないなぁと自分の生活を思うことはあんまり無いんで、それは、やっぱりいいほうに変わったと思う。」と自身の現在の生活について語ってくれた。

 KKさんのインタビューの中で、私はこの「やっぱりいいほうに変わったと思う」というこの言葉が一番印象的であった。現在のKKさんの生活がこの一言に集約されているように感じられたからである。


第5節「成功、失敗いっぱいあっての話だけどね。OTさんのライフヒストリー

 

OTさん(男性、43歳)は199112月〜199412月 までの3年間、ネパール王国

に印刷という職種で派遣されていた。現在は自らが代表を務める広告代理店で働いている。

 OTさんは協力隊に参加する前、大学を辞め、地元の富山に帰ってきて印刷関係の会社に勤めていた。OTさんは、その新聞折込チラシを製作する印刷会社で製版を担当していたそうである。同じ頃、OTさんは地域の青年団活動にも関わっていた。「その間青年団活動ってやってたのね。(中略)いろんなそういう若者の交流とか、ボランティアもしたし」というOTさん。協力隊行く前の年には富山県の海外派遣事業、青年の翼に参加し、2週間ドイツとスペインへ行ったのだそうだ。そのときにOTさんは「海外にはすごく興味あったんだけど、そのときは先進国だけど、あ、何かやっぱりいいもんやな、と。どうせ行くんやったら、まとめて何年とか、そこに住んで、そこの人らと交流してなんかそういう仕事したいなーと思っとった」という。その後、協力隊の存在を知り、実際にOTさんは説明会へと出かけた。「(説明会に行く前は、協力隊に行けるとは思っとらんのね。雲の上の存在やと(自分では)思っとるから。大学卒業とかなんかいろいろレベル高そうなこと書いてあるし、自分にはまぁ縁ないとおもっとったけど、職種が結構あるわけよね。それで、たまたま俺は印刷やっとると。印刷で、こうあるから受けてみたら言われて、受けてみたら一発で受かってね。」とOTさんは当時のことを教えてくれた。こうして、OTさんはネパールへ地図印刷の指導をする職種で派遣されることになった。ただ、地図印刷の技術でネパールからの要請に応えるためにOTさんは派遣前に、技術補完研修を受け、派遣前訓練を経て協力隊員としてネパールへと派遣された。

ネパールでは、首都のカトマンドゥで、土地改革省 測量局 地図制作部という、日本で言う国土地理院のような機関からの依頼を受け、地図印刷の製版を指導した。現地の人々との関係も良好で仲良くなった、と語るOTさん。青年海外協力隊は普通2年間の派遣だが、協力隊員は派遣国が要請してくれば、最大で1年間の派遣延長をすることができる。OTさんも、当初は2年間の派遣の予定であったが、その後、1年間派遣が延長されて合計で3年間ネパールに滞在した。ネパールでは人とのつながりが豊かになったとOTさんは言う。「すごい親友って呼べる様な友達ができたことかね。ホームステイしてたうちのお父さんお母さんとかね、わが子のように可愛がってくれたとかね。で、仲間も、なんていうかな、単なる仕事っていう感じじゃなくて、身内のように付き合ってくれたとかね。それがうれしかったね。」とOTさんは言い、任地のネパールでとても楽しく過ごしていた様子を語ってくれた。

3年間の派遣を経て、OTさんは日本に帰国する。帰国後、OTさんは4年間、大阪で試薬や化学消耗品、化学機器を取り扱う会社で営業職として勤めていた。そして、1999年に実家である富山に帰ってきて、再び化学機器販売の営業職の仕事を5年間続けた。2004年の4月にOTさんはこの5年間勤めた会社をやめ、準備期間を経て2005年の5月に広告代理店を立ち上げ、独立する。この会社は製作は外部に委託している独立採算制の会社だそうで、OTさんは現在、この会社の代表を務め自ら営業活動をしている。

OTさんには、帰国後の就職活動の中で、協力隊での経験が就職に際しては評価されない現状を目の当たりにした経験がある。OTさんによれば、「(協力隊に)行ってきたよっていう。(就職の際にそのことを)言ったって、日本じゃそんな就職の評価のね、項目の中に入らないから」「(協力隊から)帰ってきたら(就職は)一般の人と一緒。だから就職に、有利とか、そういうことは、ない。ほとんど。」と感じた。

また、OTさんは就職活動の中で、自身の協力隊での経験が、協力隊を体験していない人々からは異なったイメージで捉えられるのだ、ということを感じた。「(協力隊に)行ってきたよって、言ったら、多分評価するとしたら、そういう厳しいところ行ってきて、耐え忍んで、一生懸命やってきたと。そういう風に、見るんだよね。ただ、そういうひどいとこ行ってきて、根性は座っとるだろう、と。(中略)でも、実際は、そんなんじゃ全然ないんだけれど、そういうところ自体が、何か、違うよって。感覚的にねぇ。だから、そういう感覚の違いだよね。こっちはほら、行く前はそりゃあ、多少、あのーしんどい、あの生活の面とかがあるんかな、とか思ったら、(実際に行ってみたら)慣れたら都ですよ。」とOTさんは語った。

自分が経験してきた実際の協力隊経験と、一般の人々が付与する想像の中での協力隊イメージとのギャップに苦労したOTさんであるが、現在はOB会活動などのきっかけを通して一般の人にも協力隊活動の実態について知ってもらおうと考えている。OB会ってそういう協力隊のPR活動とかもあるから、(中略)今度イベントもあるんだけど、そういう機会に伝えたりとか、きっかけはあると思うんね。」と語るOTさん。しかし、「普段の生活では、ちょっとそういうことは、ちょっと二の次、どっか置いとかなきゃあかんというのが辛いよねっていう。(中略)そういうこと思っていたら仕事できなくなっちゃうからね。」とも彼は言う。

 しかし、OTさんは協力隊に行ったことを決して後悔しているわけではない。協力隊に参加したことで「やっぱり世の中日本だけじゃないなぁって。自分の知らないこともたくさんあるなぁって身をもってわかったんだね。」と語り、さらに「精神的に、いい意味で言えば強くなったって言えるかねぇ。そうすると、今まで見えてなかったものが、見えてくるようになるし、お話できなかった人ともお話できるようになるし。だから人と人とのつながりの部分では、すごい、豊かにはなったよね。」と自己の協力隊経験を振り返り、「まぁ、成功、失敗いっぱいあっての話だけどね。それはね。失敗もいっぱいして。」と語ってくれた。

 わたしには、最後のこのOTさんの「成功、失敗いっぱいあっての話だけどね。」という言葉がインタビューを通して一番印象に残った。帰国後、特に就職に関しては多くの苦労を重ねてきたOTさんであるが、「成功、失敗いっぱいあっての話だけどね。」という言葉からもわかるように決してこの経験をネガティブに捉えているわけではないように思われた。このOTさんの言葉が、その後のOTさんの職業生活をよく表しているように思われ、ライフヒストリーの題名とした。


6節「次に進むためのきっかけですねHSさんのライフヒストリー

 

HSさん(女性、30歳)は20024月〜200210月までの半年間、コートジボワール共和国に看護師として派遣されていたが、内戦のため半年で帰国した。その後20034月〜20054月までの2年間、ニジェール共和国へ同じく看護師として2年間再派遣された。

インタビュー当時(20051010)は臨時採用で中学校で養護教諭として勤務していたが、20064月からは大学院に進学し、国際看護の分野で研究をする。

HSさんの場合、協力隊に参加する以前から国際協力に関わろうという気持ちを強く持っていたそうである。「高校のときとか進路を決めるときとかに、(中略)看護師として国際協力に携わってみたいなぁと思って、看護学部目指して看護学部に入って。」とHSさんは言う。看護学部を卒業した後、HSさんは病院で看護師として働き始めた。「それはそれですごい充実はしていたんですけど」と当時のことを語るHSさんだが、その間にも「働きながら、いろいろNGOのセミナーとかもやっぱり出たりとか」していたそうである。その後、HSさんはその病院で3年ほど勤めたあと、その職場を辞めて仕事を離れて海外へ行った。「そこで改めて国際協力に携わりたいなぁと思った」と言うHSさん。帰国後、別な病院で再び働いているときに採用試験を受け、合格し、青年海外協力隊員となった。派遣前にHSさんは仕事を離職し、協力隊に参加した。

コートジボワールでは都会に派遣されていたが、半年間しか滞在できなかったため、ほとんど活動らしい活動はすることができなかった。その後派遣されたニジェールは、3000人ほどの規模の村に派遣された。HSさんがここの初代派遣隊員だったため、好きなことをやってよかったのだが、HSさんは学校保健を立ち上げる活動を行い、小学校で保健の授業をしたり、衛生教育を行った。その他には、村の啓発活動として母子関係の栄養指導や、体重測定、予防接種などを行っていた。実際に活動の中で、小学校での保健の授業を受けた子供たちが、意識を変え、自分たちの村をよくしようとする意識を持ってくれたことがとてもうれしかったのだという。しかし、雨季には村でも多くの子供が病気で亡くなってしまい、それに対して何もすることができなかったのが辛かったとHSさんは言う。

 ニジェールでの2年間の活動を終えて、HSさんは日本に帰国した。HSさんは、帰国後、大学院に進学するために帰国後5ヶ月間ほどは受験準備や語学試験受験の勉強をしていたそうである。任地がフランス語圏だったため、英語とフランス語の語学試験も受けた。

 その間、併せて学校などで自分の協力隊経験を話す活動にHSさんは積極的に関わるようにしていたそうだ。旧富山医科薬科大学(現在の国立大学法人 富山大学 医学部・薬学部)で話をしたこともある、と言うHSさん。自分の経験を他の人に語る、ということについてHSさんは「自分が経験したことを人に伝えたりできるっていうことができるのは、すごいうれしいよね。ニジェールの人たちに、私はすごいお世話になってきてて、向こうですごいなにができたっていうわけではないけれども、こっちに帰ってきて人に伝えたりとかすることで、もしかしたら、彼女たちの役に立ってるのかもしれないのかなっていうのは」と語ってくれた。

 大学院では再び看護の勉強する予定なのだという。「国際看護系。(中略)日本でもできる事を、国際協力に対して。(中略)広く地域での看護を、国際と日本でっていう風に研究しようかと思っていて。」「ただ、どういう方向になるかはまだちょっとわからないけれど」とHSさんはこれからの大学院での研究の方向について語ってくれた。

 インタビュー当時(20051010日)、HSさんは臨時採用で中学校の養護教諭として勤務していた。この仕事をすることになったきっかけは、HSさんによれば「一応進学先も決まったし、4月まで半年何もしないわけにいかないから、今後の研究のテーマとかも考えて、地域でできるような医療系のことがないかなって探したら、結構すぐに見つかって」そして、勤めだすようにようになったのだと言う。

 HSさんにとって、協力隊はどんな意味を持っていたか聞くと、「きっかけだったっていうか。次に進むためのきっかけですね。」と答えてくれた。

「次に進むためのきっかけ」と自らの協力隊経験を表現したHSさんであったが、HSさんにとって、協力隊に参加する前、そして参加した後にもHSさんのライフコースに影響を与えていることを考えると、まさにそのとおりである、と感じられた。この言葉をHSさんのライフヒストリーの題名に選んだのもそのためである。


7節「特別なものだとは思っていない」 KHさんのライフヒストリー

 

KHさん(男性、33歳)は20034月〜20054月までの2年間、タイ王国にコンピューターという職種で派遣されていた。現在は、JICA北陸支部にて国内協力員として勤務している。

KHさんは協力隊に参加する前、東京でコンピューター関係の会社に勤めていた。協力隊参加のきっかけについてKHさんに聞くと、「知り合いがJICAの事業に興味があって、僕も付き合いで説明会に参加したのが、協力隊を知るきっかけであり、参加するきっかけだと思ってますけど。(中略) 特にですね、なんか情熱的な人とかいるんですけど、僕の場合はたまたま海外に興味があったのが原因かなと。」「海外は別に海外旅行とか好きで、海外に興味はあったですね。でも、ボランティアには興味はなかったボランティアに興味なかったし、JICAっていうのもよく知らなかったし、協力隊のこともよくわかってなかったですね。うん。ま、偶然ですかね。」と参加のきっかけについて語ってくれた。その後、試験に合格し、協力隊に参加することが決まった後でKHさんは勤めていた会社を辞職し、仙台で1ヶ月間技術補完研修を受けた。その後、派遣前研修を受けて、KHさんはタイに派遣された。

タイでは、首都のバンコクからバスで2時間ほどの所にあるチョンブリ県という工業地域で、日本でいう生涯学習センターのようなところに派遣され、KHさんはそこでタイの小中学校の先生向けに学校内でコンピューターを使うためのコンピューターのトレーニングを教えていた。コンピューターで学内の事務の軽量化や授業を良くするためのマルチメディアの使い方などを教えていたのだという。現地の人々との関係も非常によく、ごはんを一緒に食べに行ったり、行事に一緒に参加したり、と、とてもお世話になったのだとKHさんは教えてくれた。

タイでの2年間の協力隊活動を終えて、KHさんは日本に帰国した。そして、KHさんは帰国後にJICAの国際協力推進員のIさんからの誘いを受けて現在の国内協力員の仕事に就く。「(Iさんからも国内協力員を)やってみないかということでメールが来まして、まぁ5ヶ月ぐらい経ってたので、時間ももてあましてたんで、まぁ、やってみようかと、いうことを思って、今の仕事をやっています。」とKHさんは教えてくれた。KHさんの場合、帰国後に目立った就職活動はしなかったようだ。「就職活動はね、一応人材バンクとかに登録して、目を通していた程度で、特に何か訪問したとかね、そういうのはないんですけど。データとか求人票を目を通した程度はしてました。」とKHさんは語った。

 KHさんに現在、協力隊を経験してきたことをどう思っているか、ということを聞いてみた。すると、「特別なものとは思ってないんで、何とも思ってない。人が転職するようにたまたま2年間ボランティア行ってきたっていう…。特別なものとは思ってない。」とKHさんは語った。それよりはむしろ協力隊に参加したことで、協力隊OBとのつながりが出来たことが何よりも良かったという。「友達が増えたことですかね。(中略)変な友達が増えたことですかね。ふふふ。(中略)Iさんとか、MN(前出のMNさんのこと)とかもね、同期なんですけど。普通は日本にいたら、ああいう人たちとはまぁ関わらないんで、そういう人たちと知り合ったりとかね。ここも、JOCV(青年海外協力隊)のOB多いんですけど、そういう人たちがね、結構JOCVがらみの人たちが多いんで、ちょっとそういう人たちが面白いんでね。そういう人たちとのつながりが出来たことのが何か…、うれしい、楽しいことですね。タイに行ってきたことよりも。」と語ってくれた。

 KHさんはインタビューの中で殊更自分の協力隊での経験をアピールするわけではなかったが、協力隊に参加することで得ることが出来た人とのつながりを大切に考えているようだ。協力隊経験を「特別なものだとは思っていない」というKHさんの言葉には一種のそっけなさのようなものが見て取れる。しかし、協力隊に参加することで得ることが出来たKHさんの人間関係のネットワークは現在のKHさんの生活にも大きな影響を与えている。


8節「私の仕事ちゃこれしかないかな」 MYさんのライフヒストリー

 

MYさん(女性、31歳)は、200012月〜200212月までの2年間、ホンジュラス共和国に幼稚園教諭という職種で派遣されていた。現在は、富山ビジネス専門学校(小杉町)の福祉保育科の講師として勤務している。

協力隊に参加する前は6年ほど、幼稚園教諭として勤務をしていた。派遣前もボランティアなどでいろいろ外国の方に知り合うことも多かったというMYさんは、仕事以外で、通訳のボランティアしたり、観光のボランティアしていた。このときの勤務地が伏木で、港だったこともあり、MYさんはロシアの船員の人と触れ合うことが多かった。ある時、彼らから「日本からの援助受けて自分のところの国は良くなってる」と聞いたMYさんであったが、そのときに何も答えることができなかった。このことがきっかけでMYさんは「だったら(ロシアでの日本の援助の様子を)自分の目で見てみよう」と思いたち、協力隊に参加しようと決意したのだという。

実際にMYさんは2000年の協力隊の秋募集の試験を受験した。試験を受験するときに、結果はどうあれ辞めることを勤務先には伝えてあった。当初、試験を受験したときは、ロシアの近くのルーマニアやウクライナ、モンゴルを希望していたMYさんだったが、派遣国は中南米のホンジュラスであった。しかし、希望していた「幼稚園教諭」の職種は一緒だったので、特に問題は無かったそうである。

こうしてMYさんは200012月にホンジュラス共和国に派遣された。派遣された場所はラ・セイバというホンジュラスで3番目に大きな都市であり、貿易の盛んな地域だった。そこでMYさんは県の教育委員会の初等教育と幼稚園教育の事務所に派遣され、そこで、指導主事と一緒に働くことになった。だいたい毎日、午前中は幼稚園に行き、そして午後は教育委員会で、現地の先生たちに受けさせる研修やセミナーの企画をするという、コーディネーターのような仕事をしていたのだという。実際に自分が教えた手遊びや、セミナーで取り扱ったものが、半年ぐらいたってから実際に幼稚園で普及していた事が嬉しかった、とMYさんは言う。始めのうちは、MYさんが幼稚園を訪問すると、現地の保育師たちは手遊びの指導などをMYさんにやってもらおうとしていた。しかし、セミナーも何回か回を重ねるにつれて、歌のリズムが変わってはいたが、その手遊びが幼稚園で定着したのだという。この時、MYさんは「あぁ何かしら役にはたってるんだ」と感じ、嬉しかったと語ってくれた。

派遣された現地の人たちの多くはラテン系の「気さくといえば気さく」な人たちが多かった。初対面でも仲間に混ぜてもらえそうなそうな雰囲気で、ノリもよく、一見するとよい関係ではあったのだが、「本当に深い関係までいくかっていったら、時間かかりました」とMYさんは語る。MYさんに対してはいつまでたっても外国の人との接触、という感じの接し方で、MYさんは現地の人々と生活の部分に触れて話をしたくても話をすることができなかった。どうでもいい話だったら話にのってくるが、教育の話になると「あなたの国は豊かだからそんなこと言えるのよ」、とMYさんは言われてしまったという。それは、「やっぱり日本イコール援助してくれる、お金をくれる国。で、私がいることによって、お金くれるというか、ね、裕福になれるという望みもあって私を呼んだんだなという、それがもうありありと見えてて、技術うんぬんっていうよりも、私がいれば必ず豊かに(中略)ものをね、送ってもらえるとかそういうように捉えられてたっていうのが、一番なんか嫌な感じもしたし、そこで苦労しましたね。」とMYさんは語る。

 こうしてMYさんは2年間の協力隊任務を終え、日本に帰国した。しかし、その後、MYさんはしばらくしてから再び派遣国へ戻っている。「私帰ってきたのが12月で、で、地元に帰ってきたのがクリスマス前だったんですね。20日前後で。で、その後えっと、耐えられなくて、寒さに耐えられないのと、何しようも無い、ほんとにね。仕事を探す言うても、もう年末じゃんって言う感じで。で、ほんとに暇だったんですよ。で、もう一回ホンジュラスに行こうかなと思って。」と語るMYさん。実際にMYさんは赴任国だったホンジュラスへ約1ヵ月後に戻った。「そのときまた1月の下旬ホンジュラス行って、で、2月に帰ってきたんですけど、そしたら今度向こうが気候変わってて、一番暑い季節にさしかかってたんですね。(中略)もう、こっち(日本)に帰ってきて異常に寒くて、耐えられなくて、向こう(ホンジュラスに)行ったのに、今度向こうは暑すぎて耐えられない。」と語っているように、ずいぶんと日本と違う気候に苦労したそうである。そして、ある人からこんなことを言われた。「延長してね、残ってる同期隊員が、あのー、一人で歩かないほうがいいよとかって私に言うんですね。で、皮膚の色も普通に戻ってて、私の中ではそんなつもりなかったんですけど、日本人に外観はなってるから狙われるって言われたんですね。で、たった1ヶ月だけどそうで、で、それを知ったときに、あぁ私もうホンジュラスにいたいと思っても、ホンジュラスでも生きられない、日本でも生きられない、寒くて生きられない人になってるんだと強く感じて、で、そこでまず、未練もなく吹っ切れたんですね。」とMYさんは語った。

協力隊から日本に帰ってきても日本に慣れることができない、しかし帰国後再び向かった赴任国ホンジュラスにも生きることが出来ない自分自身についてMYさんはいろいろなことを考えたようである。この頃のことを思い出して、次のように語ってくれた。「慣れないと思って、実際(ホンジュラスから)帰ってきて、国際協力のほうも考えてみようかとか、あとNGOのほうとか(中略)興味持ってたんで、そこの分野ででも捜そうかなと、思っていて、で、帰国したんですよ。帰国と言うか、向こう側(ホンジュラス)にね。そしたら、もう、合わないっていうことがわかって、もう一回ゼロに、振り出しに戻ってたんだって。私はもう日本人なんだ、って思って、で、日本来て就職活動しよう、って思って。で、しました。」

ホンジュラスでの滞在後、日本に帰国したMYさんは就職活動を始めた。「まず帰ってきて、私はもう幼児教育業界には関わらないだろうと自分の中では思ってたんですが、帰ってきて、ホンジュラス行ってね、また戻ってきて、1月になったときにね、私の仕事ちゃこれしかなかなと逆に思ったんですね。」こう語るMYさんだったが、幼稚園教諭の職を探してみるとなかなかこれ、というものが見つからず、苦労したのだという。「自分が行きたいと思っている場所はもう採用がないと言われた、例えば12月の下旬に私帰ってきて、1月から就職活動してるもんで、もう11月の時点で採用決めたから言われて、お断りされたところがいくつかあったんですね。で、どうしようかなーと思ってて。で、3月になったら突然欠員補充は出てくるんだろうけれども、それを待ってたらやっぱり4月以降もないだろうしって思って。で、あ、なんか捜さないとなって、思ってたんです。その時に臨時の話ならあるって聞いてて、で、臨時かぁって思ってて、臨時だったら1年働いたら終わりになっちゃうからどうしようかなって渋ってたんですけど、臨時でも契約更新できるっていうことを知って、で、契約更新でまぁ、近いうちにまぁ、就職活動でもして、つなぎのつもりで気楽にやろうかなぁって思って、やったんですね。だからその気楽にやろうっていうふうに決めたのが1月の下旬、2月の上旬ぐらいだったかな。だからそのぐらいまでは、やっぱり、あぁー働かんなんなぁっていうふうには思ってましたね。」こうして見つかった臨時の幼稚園教諭の就職口であったが、当初MYさんは臨時採用である、ということに抵抗を感じていた。しかし、結局「つなぎのつもりで」その仕事についた。

1年後、臨時幼稚園教諭の契約更新の時機を向かえていたMYさんに現在の職場である富山ビジネス専門学校福祉保育科の講師として勤めないか、との話が届く。「(臨時幼稚園教諭として)働いていて幼稚園関係のほかの人とも、あー、久しぶりやね、(協力隊から)帰ってきたんやねっていう話になっていて。で、ここ(臨時幼稚園教諭の仕事)契約やから1年で切れるんですって…言う話いろんなとこでしてて。そしたら、切れるんだったら、こういう話あるんだけど、どうっていうことで、今の学園の話をいただいて、紹介でここへ来たっていうかんじですね。」とMYさんはその経緯について教えてくれた。

協力隊に参加したことをMYさんは現在どのように思っているのであろうか。「やっぱりこういったことをいろんな人に伝えたいっていう思いが出てきまして、GTさんやIさんとね、一緒にOB会のほうもほんとうにごくわずかな時間ですけど、顔出したりとか。あと、全国組織なんですけど、幼児教育ネットワークっていうその幼稚園の先生と保育士のOB会、OG会があるんですね。で、そこで活動するということもやっぱり励みにもなりますし(中略)いまそこの協会に遊びに行って、遊びにっていうか名前を置いて、いろんな話聞くのが一番楽しいですね」。こう語るMYさんだった。

「私の仕事ちゃこれしかないかな」と語ったMYさんの言葉から、私はホンジュラスから帰ってきて再び日本で生きていくMYさんの決意のようなものが見て取れた気がした。帰国直後に経験した苦労も語ってくれたMYさん。この言葉をMYさんのライフヒストリーの題名にしたのは、この言葉がMYさんの協力隊での経験や帰国後の日本での生活を象徴的に示していると思ったためである。


9節 「今まで自分の知らなかった世界を見てみたい」  NCさんのライフヒストリー

 

NCさん(女性、36歳)は19994月〜20014月までの2年間、タイ王国に日本語教師として派遣されていた。現在は専業主婦である。

 NCさんは大学を卒業後、民間のコンピューター関連の会社に就職をし、プログラマーやキーパンチャーとして働いていた。しかし、3年間勤めた後で、この仕事を辞め、オーストラリアに行く。ここでワーキングホリデーの制度を使いながら、現地のハイスクール(日本の高校にあたる)の日本語の授業で、オーストラリア人の日本語教師のアシスタントとして働いていたそうである。NCさんは高校生の頃から海外に対して興味を持ち続けてきた。「私が高校生ぐらいの頃っていうのは(中略)英語教育から受ける海外への興味っていうのしかなくて(中略)。で、私は、英語教育の中から、例えば英語圏に留学してみたいな、とかいう思いが芽生えてきて、で、ずうっとそれは(中略)思い続けていたわけじゃなくて、一旦高まったり、弱まったりっていう繰り返しで。で、ちょうど仕事をしていた時期にバブルがはじけた時期でもあって、リストラとかそういうのが騒がれだした頃で。で、私はそういうのにあたらなかったんだけども、やっぱりそういうのを近くでいろいろ見てきていて、なんか1つの会社にとどまってっていうのがほんとにその私の生き方なのかなって一旦考えた時に、ちょっと足を止めて、違う世界を見て、また帰ってきてからやっても、それはそれ、自分にとってもプラスになるんじゃないかなと考えて。」とNCさんはいう。「だから、退職するのに迷いはあったんですけど、一旦辞めるって決めたらそれはそれで。あの、やっぱり戻ろうとか後悔みたいのは全然なかったですね。」と当時、オーストラリアに行こうと決意した背景を語ってくれた

協力隊に参加しようと思ったきっかけはこのオーストラリア滞在中に、協力隊のことを知ったためであった。「オーストラリアにいたときに、(中略)ボランティアで、日本人の日本語の先生だったり、アシスタントだったりっていうのが周りに何人かいた中で、その協力隊の話をしている人がいて、そこで、協力隊っていうものを知って、で、あーじゃあ帰国したら協力隊に行こうっていう事を決めた」のだという。オーストラリアに1年間ワーキングホリデーで滞在した後、日本に帰ってきてNCさんは兵庫県西宮市のほうで、2年間、民間の子供英会話教室で受け付け事務をしていた。オーストラリアで日本語教師のアシスタントとして働いた経験からNCさんは日本語教師の養成講座に通い、資格を取ろうと決意したという。アシスタントとして、授業に関わるうちに教授法などの専門知識の必要性を感じるようになった、というNCさん。「自分の力の限界っていうのを感じてた」と言うが、この時点でNCさんは協力隊に参加することを決めていた。そのため、日本に帰国した後は、どんな仕事だとしても一旦仕事をしながら資金を貯め、日本語教師の養成学校に通う計画を立てていたそうだ。実際、NCさんはその後子供英会話教室の職場を辞め、協力隊に参加した。協力隊に参加するきっかけとして、次につながったという意味でも、オーストラリアでの体験はNCさんの中で「大きかったですね」と語った。その後、二本松での派遣前研修を経て、NCさんは協力隊員として任国のタイに派遣された。

タイでは、ソンクラーというマレーシアとの国境近くの町に派遣されたNCさんは、ここである大学の選択科目で開講されている日本語の授業を担当することになる。職場での人間関係も良好で、充実した日々を過ごしていた。NCさんによると、協力隊での任務が終わった2年後に再びこの大学を訪れたのだそうだ。このときに、再び訪れたNCさんの元職場の大学は全く変わっておらず、とてもうれしかったという。「生徒たちがみんな、なんか色紙とか…、自分たちの写真入の色紙をね、準備して書いててくれたりとか、あと…同僚の先生たちが、私の歓迎会っていうのかな、私のお帰りなさい会みたいなのを企画してくれてたりとか。なんかね、すぅっと入りこめたっていう…ほんとの里帰りみたいな感じですぅっと入り込めたのがすごいうれしかったですよ。」とNCさんはいう。

その後、2年間の協力隊任務を終え、NCさんは日本に帰国した。帰国後、NCさんは日本語教師の仕事を続けるかどうか悩んだという。地元である富山に残りたいという気持ちが強かったNCさんは、富山県内で日本語教師の仕事を探したが、これが思うように見つからなかった。「富山県内で日本語教師っていうとそういう道ってなかったんです、日本語学校の数自体少なかったし、当然先生の数もそんなにたくさんは必要なかったので、自分が群を抜いたレベルでないと採用してもらえないっていうのがもうわかっていたので、日本語教師を続けるよりは地元で何かしたいっていう気持ちのほうが強かった」のだと語るNCさん。「日本語教師をするならば、県外に出て例えば大学院なりに行って、もっと高い知識なり経験を積んで、資格を取るとかいう選択肢とか、あるいは国内じゃなくて、海外で日本語教師をするとかそういう道しかなかったんです。」とNCさんはいう。日本語教師続けようか、悩みながらも、インターネットでいろいろ情報収集をし、まず進学するか、海外とかで教えるかなどその先の進路をいろいろ考えいたそうである。しかし、その間やはりそれだけでは生活することができないので、富山県内の中学校で半年ほど英語の非常勤講師をしていた。そういったアルバイトや非常勤講師などの仕事をするにしても、NCさんの中には自分の中の線引きがあった。それは、「教育という分野からは外れないようにしよう」というものである。そのような状況でNCさんは情報収集したり、アルバイトのような仕事をしたりしていた。

そんなあるとき、NCさんの前任の国際協力推進員が退職することになった。このとき、後任を捜していた前任者はNCさんに近々面接があるんだけれども、やってみないかと声をかけてきた。これがきっかけでNCさんは国際協力推進員の面接を受け、その結果国際協力推進員として、働くことになった。しかし、そんな状況の中、県内でめったにない日本語教師募集が出ていた。それを見たNCさんは「その日本語教師の面接があるっていうのを知って、そのときはもう、国際協力推進員の内示が来てたんですけど、ここで二股かけるっていうのは私の性格上ちょっとできないので、実はこうこうこうで、こういう面接があって、今私、国際協力推進員になろうとしているんだけれども、実は私、当然日本語教師としての未練っていうんかな、そういうのもあるので、受けてみてもいいでしょうかっていうのをJICAのその担当の人に言っちゃったんですね。そしたら、国際協力推進員って3年間の任期しいかないんですよ。で、JICAとしても3年経った後にあなたを雇用しますと約束はできないから、あなたの人生だから、あなたが決めて、そっちに行きたいと思えば迷わず受けなさいっていうふうに言ってくれたんですね。で、もう私が腹割って話した分、向こうもやっぱり私のことを考えて、正直な気持ちで答えてくれたので、うん、それで、うん、その日本語教師のほう受けたんですけど、まぁ残念ながらそちらのほうは落ちてしまって、国際協力推進員のほうになったんですね。で、まぁそういう、その人生の中で何かを選択しなければいけないっていう場面って就職に限らずいろいろありますよね。」と語ってくれた。

NCさんは、その後、とやま国際センターでJICAの国際協力推進員として勤務した。国際協力推進員はJICA3年間の雇用契約を結んで働く労働形態をとっている。NCさんの場合はその後に結婚することになったため、その後に再び就職活動はしなかったようである。

NCさんは、現在自分が協力隊を経験したということをどう思っているのだろう。NCさんは「すごくよかったです。行って良かったです。(中略)経験と、帰ってきてからの…。うん、向こうでの経験が生きてるっていうことですかね。後悔したことはないですね。」と語ってくれた。

高校生の時から持っていた海外への憧れを実現させることで、自然と協力隊に目が向いたNCさん。私は、NCさんの言葉の中で、「今まで自分の知らなかった世界を見てみたい」というこの言葉が一番印象に残った。この言葉がNCさんのその後のライフコースに大きく影響を与えている言葉だと思ったためである。


10節「相互理解するなら、住んでみないとわからない」KMさんのライフヒストリー

 

KMさん(女性、36歳)は1997年7月〜19998月までの2年間、中華人民共和国に日本語教師の職種で派遣されていた。KMさんは、現在は富山ビジネス専門学校(小杉町)の日本語学科の講師として勤務している。

 KMさんは、協力隊に行く前はOLをして働いていた。KMさんは新卒で就職し、OLをしながらボランティアで外国人に日本語教師として日本語を教えていたそうである。KMさんによれば、「外国人の方と知り合って、日本語を見よう見まねで教え始めて、それから本格的に働きながらで勉強して、資格を取って、(中略)専門的に勉強して。勉強しながら教えていましたね。」という。日本語教師に関わることになったきっかけは、もともと日本語を教えていた日本語の先生の家で主催されたパーティーに行ったりするうち、「外国人の人たちと知り合いになり、「自分もそういう人たちに(日本語を)教えるようになったんですね。」とKMさんは言う。こうして外国人に日本語を教えているうちにKMさんは「日本語教えていて、日本で日本語教えるのもいいんですけど、やっぱり異文化の中で、実際に自分が異文化の中に身を置いて、仕事として、やってみたいな、と。そういう気持ちからですね。」と語るKMさん。KMさんはOLの仕事をしながら、協力隊の試験を受け始めた。何回目かの試験で合格して協力隊員となったKMさんだったが、職場にはこのことをずっと黙っていたという。試験に合格してから初めてKMさんは仕事を辞める意思を会社に伝え、仕事を辞めた。協力隊に参加するに際して、KMさんは自分の派遣希望国としては中国を一番に考えていた。それは中国と言う国にも殊更興味があり、隣の国なのに自分は中国のことを何も知らなかったからだったという。

 その後、KMさんは、中国の南昌市という地方都市に派遣され、観光専門学校の学生に日本語を教え始めた。ここでは日本語を、旅行社、それからホテルなどに勤めたい学生に対して教えていたので、もちろん基礎からも教えていたのだが、レベルが高い部分では観光日本語に至るまで教えていたそうだ。

KMさんには、派遣期間中に、ある忘れられない出会いがあったのだという。KMさんは、ある春休み中に旅行に出かけ、とある過疎の農村へと出かけた。この時は別にあてがあったわけではなくて、ただぶらぶらと一人で旅行に出かけたのだった。KMさんが村の中をぶらぶら歩いていると、「お前見かけない人だ、どこから来たんだ」と1人の村人から声をかけられた。KMさんは当初警戒していたが、自分は日本から来た、と言った。すると、その村人は日本人なんか見るのも会うのも初めてだったようで、「やぁ、よく来たよく来た、ようこそようこそ隣から来てくれた」と喜んで KMさんのことを家に招待してくれたのだという。KMさんには警戒心があったのだが、好奇心も隠しきれず、実際にその人の家にお邪魔することにした。家に行くと、村人はとうもろこしのつぶしたものや豚の血で出来たべっ甲のような料理などでもてなしてくれた。いろいろ食べさせてくれ、料理はとても美味しかったのだそうである。それまでKMさんが出会った中国人の中には、KMさんが日本人であるとわかると、とたんに「お前は金持ちだから何かちょっと(お金を)援助してくれ」ということを言う人もいたそうであるが、そういうことをこの村人は一切言わなかった。そこでひとしきり話をして「私そろそろ帰らなくちゃ」とKMさんがいうと、その人は、「ちょっと待て」と言って、一生懸命、先のつぶれたインクの出ない万年筆で手紙書いていたが、手紙を書き終えると「ま、大通りまで送ってやるから」と山のずっと向こうの大通りまでずっと送ってくれた。最後にバス停でその人はKMさんとがっちり握手して手を離さなかった。「ありがとう、ありがとう」、と隣から来てくれた友達に会えて嬉しかったということを、とにかく喜んでいた。そして、村人は別れの間際に、KMさんに手紙を渡した。そしてKMさんがバスに乗って、ずっと見えなくなるまでその村人は見送ってくれた。バスの中でKMさんがその手紙を見てみると、「とにかく会えて嬉しかった。」「日本と中国は、隣同士のいわば兄弟みたいなものだから、ほんとに会えて嬉しかったし、これからも仲良くしなきゃいけない」ということが書いてあったのだという。それを見たKMさんは思わずバスの中でぼろぼろ泣いてしまったそうである。「すっごい感動したんですね。うん。で、それまでね、やっぱり私は中国と日本の違い、あ、こんなとこが違う、とか、こういう、あの…だから異文化、ですよね。異文化を一生懸命見つけようとしていたんですけど、彼はそうじゃなかったんですよね。これが違う、あれが違うということではなくて、同じものをいつも…持っていたんですよね。何が違うかではなくて、何が同じかということをいつも見つけよう、と。うん。それでものすごくなんかこう、衝撃を、受けて。うん。異文化ではなく、同文化を、見つけることの、ことこそ本当に大事だ、ということに、気が付いて、嬉しかったですね。本当に。感謝の言葉がつづられていたという。それはほんとに今でも宝物ですけど。」とKMさんは語ってくれた。このことはKMさんの中では大きな出来事であった。「衝撃ですね。多分、今もう行けって言われてもどこかもわからないような、過疎の村なんで。覚えてもいないんですけど。あー、本当に会えるものならもう一度会いたいと思います。」とKMさんは語った。

 2年間の中国での協力隊での任務を終えたKMさんは日本に帰国した。そして、帰国後に国際協力推進員の紹介で現在の富山ビジネス専門学校日本語学科の講師の職に就いた。KMさんによれば就職については、「本当は商社にでも勤めたいと思ってたんですけど、で、まぁ帰ってきたとき、ものすごい就職難だ就職難だって脅されて。それはJICAのほうからなんですけど。(中略)一生懸命探せっていう感じだったんですけど。」という。当時、周りは困難な就職状況であったKMさんだが、自身の就職に関しては意外とあっさり決まったそうである。「家にいたら、富山の国際センターの人から電話がかかってきて、ある学校で、日本語教師探してるんだけど、そこで就職しないっていうことを言われて。で、日本語教師になろうとはあんまり思っていなかったんですけど、就職難だと言われているし、こりゃあ来てくれといわれているところに入ったほうがいいのかな、と案外安易に決めてしまいました。」とKMさんは当時のことを教えてくれた。

就職活動で苦労したことは何かあったかどうかKMさんに聞くと、「いや特にはなかったような。」と言う。ただ、KMさんはいろいろと提出する書類などについて彼女なりの工夫していたようである。「やっぱ履歴書だけじゃだめだろうなぁって思って、(協力隊経験を伝えるために)オリジナルで経歴書を書いて出したりはしました。」とKMさんは教えてくれた。

 協力隊を経験したことを、現在はどのように思っているのかKMさんに聞いてみると、KMさんは「良かったですよ。また行きたいです。」と言った。それは、外国に住み、そこで生活することでKMさんには大きな発見があったからなのだという。「やっぱ外国人の気持ちって、その外国に住んでみないと、わからないなぁって思います。いろんなね、気持ちが中国人にはあるんだなぁーと、わかったこと。それが一番ですね。よくね、いろんな国際協力とか相互理解とか言いますけど。でもやっぱり相互理解するなら、住んでみないとわからないんだなぁと思いました。だから住んでみてよかったなぁって思いました。」とKMさんは語った。

 「相互理解するなら、住んでみないとわからない」という言葉を語ってくれたKMさんだが、中国でKMさんが体験してきたさまざまなことが集約された結果、こんな言葉で自分の体験を語ってくれたのだと思う。そのため、この言葉をライフヒストリーの題名にした。