広がる遺児支援活動――恩返し・心のケアに着目して―― 0010010486 西島 靖治

 

 はじめに:問題意識                                                    P1                                                           

 

 第1章 遺児支援団体設立の流れ                    P2                                                                        

 

1節 1960年代〜70年代交通遺児支援団体発足前後交通遺児育英  P2

2節 1980年代:遺児支援団体確立までの展開                         P3

 3節 1990年代以降:災害遺児支援の始まり あしなが育英会の発足     P4

 4節 1998年以降:自死遺児支援の始まり                             P4

 5節 まとめ・考察                                                  P5

 

 第2章 「恩返し」という観念                                          P8

 

1節 「恩返し」とは:活動の広がりを支えた特徴的な理念        P8         

 2節 アンケート調査に見る「恩返し」の観念                          9                                   

 3節 まとめ・考察                                                  P10

 

 第3章 心のケア −変わる遺児達−                                    P12

 

1節 遺児の心理的特性                     P12

 2節 レインボー・ハウス                                            P13

 (1)設立のいきさつ                                                   P13

 (2)レインボー・ハウスという空間及びその活動内容                     P14

 3節 語り始める遺児達 手記から見る遺児達の心理                    P16

4節 まとめ・考察                                                  P21

 

 4章 遺児支援活動のさらなる発展に向けて              P23         

 

 

 引用・参考文献リスト                                                   P25


 はじめに: 問題意識

 

交通事故や地震などの災害、病気や自殺などで親を失った子供達(遺児)が近年急増し、遺児達が抱える問題が近年多く取り上げられるようになった。また、遺児達の側から自分達の苦しみ、心情、人や社会との関わりの中で自分がどのようにありたいかという事を手記にして公表する機会も多くなった。

 それに伴い、遺児支援団体も、以前は資金面での援助を中心に活動していたのだが、遺児達の心のケア(メンタル・サポート)を主とした内面的な援助の方にも力を入れていくようになってきている。

 また、遺児支援団体が各地で設立し始めるようになった当時(1970年代)は、交通事故の遺児に対する支援活動が主であったのだが、時代を経るごとによって病気や自殺などの遺児支援も増え、支援の需要量も供給量も増加している。

 これらの変化には、時代背景の影響や、きっかけとなる出来事、遺児の特徴の変化などがどのように関わっているのだろうか。卒業論文では主に、現在、遺児支援活動の中心を担っているあしなが育英会という支援団体を通じてそれを明らかにしていきながら、今後、遺児達、支援団体、そして社会がどのような関係を築いていく事が大切なのかを考えていきたい。

 第1章ではまず遺児支援団体設立時から現在までの流れについて。第2章では「恩返し」という観念から見た支援者側の変化について。第3章では心のケアに着目した遺児側の変化について。第4章では全体の考察について述べていく。

 調査概要は625日、1010日、1114日にあしなが育英会・神戸レインボー・ハウスで主に遺児達と職員の活動を見せてもらった事と談話室による元交通遺児で現在職員を務めているT氏・I氏とのインタビューである。

 


1章 遺児支援団体設立の流れ

 

 この章では1960年代の現在の遺児支援団体の前身となる交通遺児育英会設立当時から現在までの遺児支援活動の流れについて説明していく。

 

1節 1960年代〜70年代交通遺児支援団体発足前後、交通遺児育英会 

 

 1967年、共に無惨な交通事故で最愛の肉親を亡くした2人の青年の出会いが始まりとなった。1人は岡島信治さん(当時24歳)で、7年前の高校3年生の時、親代わりの姉と姪を酔っぱらいトラックにはねられ引きずられるという事故(日本初の殺人罪適用の交通事故)で亡くし、新聞への投書などを通じて「交通事故遺児を励ます会」づくりを進めていた。もう1人は玉井義臣さん(当時32歳)。その4年前、自宅前で暴走車にはねられ、1ヶ月余りの昏睡状態の末にボロキレのように死んでいった母親の事故で、賠償金は強制保険金を含めわずか50万円という、あまりにも人間の命をバカにした制度に憤りを抑えきれず、当時、最も立ち遅れていた被害者救済対策として、(1)脳外科医を増やす、(2)強制保険金を高額にする、を提言して、日本で第1号の交通評論家として「交通犠牲者」などの執筆で活動していた。

 196810月、2人の呼びかけに応じた勤労青年、学生、主婦らのボランティアと一緒に「励ます会」の旗揚げ街頭基金。12月、交通遺児作文集『天国にいるお父さま』の発刊。そしてさらに、衆議院予算委員会での「政府は交通遺児の育英財団づくりに手を貸し、助成せよ」という異例の決議と活動が広がり、19695月、財団法人交通遺児育英会が設立、永野重雄会長(新日鉄社長)、玉井専務理事という体制で船出した。

 また、貧乏でも東京の大学に行け、人づくりの場にもなるようにと、1978年に東京日野市に学生寮「心塾」を開き、暖かい心、広い視野、行動力、国際性を兼ね備えた人材育成を目指すカリキュラムを組んだ。この心塾の生徒の中から学生募金を引っ張り、災害・病気遺児の育英制度を誕生させた若者が何人も育った。現在、あしなが育英会の事務局や神戸・レインボー・ハウスで遺児達のケアに活躍している職員も、心塾出身の遺児だった人が多い。

 このように、1950年代半ばから70年代終盤まで続いた日本経済の高度経済成長は、大衆の購買力を大幅に引き上げ、豊かな社会を出現させた。その成長の中で、特に70年頃から自動車産業が主導権を握っていき、1960年から80年の20年間で自動車の生産力は28倍にも増えていく。しかし、その事が交通事故という国民生活、社会生活に大きな破壊的影響を及ぼすような社会問題を生み出していき、60年代の10年間では、実に約13万人以上の交通事故死亡者を生み出してしまった。またその成長は国民全体によって作り出されたものであったため、経済的支配階級と民衆との格差が収縮されるようになり、多くの人々が働きさえすれば豊かな生活を送れるようになっていった。そのため、交通事故によって家族の働き手を失ってしまう事は金銭的な面で多大なハンディを負わされる事となってい

た。また、当時、交通事故被害者を保護したり、賠償金の制度が確立されていなかったためにどうしても被害者の金銭面・生活面での問題を解決していく事を第一に考えていかなければならなかった。そのため、1969年の交通遺児育英会の創立以降、各地で交通遺児支援団体が設立されるようになり、奨学金を中心とした支援活動が盛んになっていったのである。

 

 2節 1980年代:遺児支援団体確立までの展開

 

 1979年度、交通遺児育英会はその年度初頭に深刻な財政危機に見舞われ、奨学金の貸し付けの仕事がそれまで通りに続けられなくなりそうになった。この財政危機を打開するために交通遺児育英会は国民各層に新しい資金寄付者を求めて、「あしながおじさん」制度を創り出した。これが決定的な成功を収め、交通遺児育英会は、財政危機から脱出して、収入の約35%をこの制度からまかなう事になる。

 「あしながおじさん」は匿名の学資提供者であり、申し込みを受け、登録される。申込者は、高校生に毎月15000円を3年間贈るか、大学生に毎月30000円を4年間贈るか、の意思表示をする。育英会は、この寄付者を、奨学金の貸与を希望している、特定の交通遺児の高校生か大学生に、遺児の名前を伏せたまま結びつける。交通遺児の奨学生の側から見れば、善意と自発性を持つ寄付者であるどこかの誰かによって、在学期間を通じて、学資を贈られ続ける。彼らは互いに匿名の存在であり、お互いに名乗り合う事は無い。

 この制度の魅力は「1人の遺児に愛情を注ぎ、卒業まで面倒を見る、という寄付者の大きな意志が加わっている事」「その奨学生と寄付者のお互いの性格や生活史や性格、意識について、あれこれと想像するための材料として会報や文集を送る事によって遺児と支援者の絆を深める事」である。(副田2003P2079

 また、この時代の交通遺児観のキー・ワードの1つとして「恩返し」がある。1982年の大学奨学生の集いで「あしながおじさん」は遺児を支える社会の象徴であるという位置づけが行われた。「あしながおじさん」の援助は遺児にとっての「恩」である。遺児はその「恩」を受けた以上、「恩返し」をしなくてはならない。「あしながおじさん」は匿名の人物であるため「社会」への「恩返し」である。遺児達の「恩返し」は、後の災害遺児募金運動、病気遺児育英基金を経て、後のあしなが育英会誕生の基盤となっていく。

 1980年代は現在の遺児支援活動の基盤となる制度や運動が起きた年代である。交通遺児支援団体が誕生して10年以上が経過し、これから新しい改革を行っていかなければならなかったちょうど分岐点に、非常に意義のある「あしながおじさん」制度が確立され、それに伴い、現在の遺児支援の柱となっている「恩返し」運動という新しい動きが起きた。この2つは遺児と支援者を強く結びつけ、社会が遺児に興味を持つ1つのきっかけとなり、それ以降の遺児支援活動に多大な貢献をし、多くの支持を得ている。

 

3節 1990年代以降:災害遺児支援の始まり あしなが育英会の発足

 

 1995117日、午前546分、阪神・淡路大震災が発生した。20001月現在で、公式資料では、死者・行方不明者6400人、負傷者41000人となっている。この出来事を受け、1995121日のあしなが育英会理事会により、震災遺児への奨学金特例措置、震災遺児激励基金などが提案され、当初は「会の財政基盤が負担になるのでは」とそれを危惧する声が強かったが、募金運動の充実を条件に全災害遺児支援の基本方針が決定する。それを受け、215日から震災遺児を探すローラー調査(阪神・淡路大震災の死亡者名簿により、死者の遺児の有無を確かめる調査)が行われ、震災遺児573人の氏名、住所が確認された。41日にあしなが育英会神戸事務所を設立。さらに遺児達がいつ来ても安心できるような心のケア・センターとしてレインボー・ハウスを建設する事を決定した。それに伴い、96年度のあしなが基金の全金額と64組の一流芸能人によるマザー・グース・コンサートによる収益金を建設資金として寄付する事が決定し、991月の竣工式時点で142千万の寄付金が集まっていた。レインボー・ハウスには、現在、震災遺児、その母親、父親を中心に年間を通じて延べ約2500人、ファシリテーターと呼ばれる心のケアのボランティアが約500人、集まってくる。主要なプログラムとしてグループ・タイムやレクリエーション活動が行われている。

 

 4節 1998年以降:自死遺児支援の始まり(1

 

 自死遺児に対する支援自体は90年代前半から行われていたのであるが、当時「自殺」という呼びかけはタブーに近い物があったので、一種の災害遺児として採用していたが98年に年間の自殺者の数が初めて30000人を超えたのをきっかけとして、副田義也教授(筑波大学名誉教授・社会学)の指導により人口動態統計などから自死遺児数を推計し、毎日約30人が親を自殺で亡くしていると把握し、(交通遺児の約4倍)99年秋のあしなが学生基金で初めて本格的な自死遺児支援が始まった。

 20022月、初の自死遺児ミーティングが開かれ、全国から11人の大学生・専門学校生が集まった。4月に、その時の事を綴った文集『自殺って言えない』を発刊すると、爆発的な反響や遺児への励ましの手紙が相次いだ。

 その結果、自死遺児学生達に小泉純一郎首相への自殺防止の陳情の機会が生まれた。また、発言に責任を持ち、訴求力を強めるために、記者会見時に実名と顔を公表する事が決定した。

 まだ、自殺に対するタブー・偏見・差別が無くなったわけでは無いが、それらの事によって自死遺児達を温かく受け入れようという動きは高まってきている。

 近年、自殺者数の増加が社会問題として取り上げられる機会が多くなっている。それ以前、自殺というものはタブーとして扱われ「自殺というものは弱い者がする」「自殺の元凶は鬱であり、子供もまた自殺する」などと言われていたために遺族も親戚もその事実を隠

し、話題にする事を禁じて、つらい思いを封印してひっそりと生きようという傾向が強か

ったため、心への重圧は鬱積する一方であった。また、支援団体の方も「申請のあった自死遺児をそっと支えてあげる事が遺児のためにいいだろう」と考えていたため99年秋までは、「災害遺児」として文書に記載し採用していた。

 しかし、自殺者急増のニュースをきっかけとして、そういった社会の偏見は変わってきている。TVでのドキュメント番組作りや顔の公表、文集作りなど社会が自死遺児を支援していこうという方向に変わってきている事もあり、遺児が自分の感情、死んでいった親への思い、社会への願望、将来への不安などを生の声としてカミング・アウトしやすい環境が整い始めてきている。

 自死遺児支援の活動が活発になって5年目を迎えているが自殺者数の数は全く減少する気配は見えてこない。それどころかヤミ金による借金や失業などを苦にした飛び込み自殺の激増、ネット自殺、集団自殺などが話題となり、解決策は見えてこない。

 現在、自死遺児達が政府に望んでいる事は、

 (1)新聞やTVによって、かつての交通事故防止のように自殺対策のキャンペーンを実施する事。(交通戦争の時、ピークの23000人から10000人前後に半減したという実績がある)

 (2)自殺防止対策を厚生労働省だけで進めるのではなく、膨大な自殺のデータを持っている警視庁など他の省庁と一緒に進める事。

 (3)与野党議員がもっと自殺問題を国会で議論する事などによって、多くの国民が自殺について考える機会を作る事。(自殺って言えなかったP225226

である。自死遺児達が自分達の力で社会の偏見に立ち向かい、打ち勝っていこうとする兆しが見えてきたからこそ政府も自殺問題について真剣に取り組んでいく姿勢を見せるべきである。自死遺児の急増は日本の政治、経済、社会などに様々な問題を投げかけている。

 

 5節 まとめ・考察

 

 遺児支援という活動が日本で本格的に行われるようになってから約30年の年月が経過した。現在、遺児支援活動には様々な形があるが、最初からそうであったわけではない。その時その時に合わせて,変わっていかなければならなかった事情があり、時代背景に影響され続けながら現在の形になっていったと言える。 

 遺児支援団体の約30年の歴史の中で形成された活動の柱として,「恩返し」という独特な特徴を持った活動が形成されていった事と「心のケア」を付け加えた事とが挙げられる。さらに、遺児だけでなく、遺児とその家族も支援する方針とした事と支援の対象を遺児の区別無く、全遺児を対象とした事も見逃せない。この節では、まず,この論文のテーマとなっている「恩返し」と「心のケア」という言葉について触れ、さらに,全遺児支援と家族の支援について説明していく。

 まず支援制度を確立させようとした時に、従来の街頭基金だけではどうしても乗り越えられない財政難に陥ったために、その対策として「あしながおじさん」制度という寄付制度を作った。その制度の特徴が支援者に匿名性を伴うものであったため、遺児達はその恩を支援者ではなく、支援者も含めた社会に返していこうという動きが強まった。その動きが年月が経ち、規模が拡大した。遺児が次の世代の遺児達なために支援活動を行い、支援制度を確立させようという機運は、マス・メディアの影響も受け広がっていく。この事は第2章で詳しく触れるが、全遺児支援という新しい活動方針の確立へと繋がっていく。

 次に「心のケア」である。これは、1995年の阪神大震災によって、深い恐怖心や心の傷を持った遺児達が現れた事や、90年代末に自殺遺児が増加したという時代背景を受け、経済的な支援だけではなく、精神的な支援が必要とされる様になった事に伴い、叫ばれるようになってきた言葉である。経済的な支援制度は「あしながおじさん」制度により確立されたが、精神的な支援ではまだまだ課題が多かった。しかし、それがしっかり確立されていかなければ,遺児の完全な救済にはならないという考え方が広がった。そして現在、「心のケア」を遺児支援の柱として、様々な変化や動きが遺児支援団体、遺児達に起こっている。第3章ではその事を中心に説明していく。

さらに、全遺児支援と家族の支援についても説明しておきたい。まずは、全遺児支援。遺児支援活動の主導権が交通遺児育英会からあしなが育英会に移ると同時に全遺児支援の方針が強調されるようになった。それには様々な要因があるが、順を追って説明していくと、交通遺児育英会の活動を通じて、遺児支援団体自身が自分達が熱意を持って行動を起こしていけば、交通事故防止キャンペーンのように国会も動いて交通遺児の数が減少するなど、何かが変わっていくという確信を得、手応えと余裕を感じられるようになった事がまず挙げられる。また「あしながおじさん」制度も安定期を迎えて、街頭基金なども含めて金銭面でのノウハウが確立された事も大きい。それによってその後の社会問題で遺児が多様化するようになった時も適切に対応できるという確信が得られた。さらに、あしなが育英会に携わる人達には自分が遺児であった経験を生かして働いている職員が多いのであるが、彼らはいろいろな訪問調査等を経て全国には他にもたくさんの遺児が存在し、様々な苦しみを抱えて、進学なども困難な状況になっている事を知る。また、後述するが、それ以前に交通遺児育英会の元奨学生達が各地で「恩返し」運動として災害遺児育英基金や病気遺児のための献血運動等の支援活動を行っている事がマス・メディアを通じて好意的に報道された。そして、初のあしなが育英会主催の夏の集いでは様々な遺児が参加を希望した。それを受けてあしなが育英会を遺児達の精神的な故郷にしていこうと、全遺児の支援・教育が組織目標として明確に掲げられるようになった。それは交通遺児育英会発足当時に玉井義臣氏が語っていた全遺児救済の理念へのようやくの到達であるとも言える。

次に家族の支援。1996年の4月に行われたあしなが育英会の会則の変更に伴い、支援の対象が遺児のみから遺児とその家族に拡大されている。現在、主に行われている活動は、レインボー・ハウスでの談話室を使い、職員と遺児の親が現在の状況を語り合ったり、「偲

び話し合う会」等の行事に親も参加できるようになり、そこで心情を話したりなどの「心のケア」や、奨学金の対象基準や額などの拡大、居住地の貸与などの経済的支援がある。これには、調査によって遺児だけではなく、夫や妻の死によって、遺児の親も心理的に深刻なダメージを受けているケースが多いという事と不景気の影響や片親である事が雇用のハンディとなり、金銭的に苦しんでいる家庭が多いことが明らかになったからである。調査は平成14年に行われたのだがその結果を見ていく。

 この調査ではあしなが育英会で把握している全遺児世帯の8501世帯に調査漂を送付し、実施したもので、有効回答数は2579世帯(30.3%)である。

 1.全遺児世帯の親の就業状況は「仕事をしている」77.8%、「失業中」8.8%、「無職で求職していない」7.1%となる。全遺児世帯の失業率は一般の1.63倍である。なお、母子世帯の母親の場合「失業中」は9.7%で一般の1.80倍に及ぶ。

 2.全遺児世帯の親の従業上の地位は「常雇い」41.9%、「パート」31.8%、「臨時・日雇い」6.0%となる。後2者は不安定就労と一括されるが、37.8%になる。母子世帯の母親の場合に限ると「常雇い」39.7%、「パート」36.5%、「臨時・日雇い」6,1%、不安定就労42.6%となる。

 3.全遺児世帯の親の勤労収入の平均は144400円である。これは、母子世帯では130600円、父子世帯では248700円となる。一般世帯(勤労者)世帯主の定期収入は364936円である。全遺児世帯のそれの39.5%でしかない。母子世帯では35.8%。

4.全遺児世帯の親の健康では、ここ2.3年の経験で「過労によって体調を崩した」31.3%、「不眠症になった」21.5%、「ストレスからくる病気になった」21.2%、「人と付き合いたくない、人前に出たくない」18.7%、「生きがいが感じられない」16.6%、「精神科の治療を必要とする病気になった」6.5%、「自殺・親子心中を考えた」5.4%、全体の66%が何らかの心身の不調を訴えている。

 5.全遺児世帯の66.6%が教育費に困っているという。主だった訴えは「子供の教育費が家計を圧迫している」33.3%、「子供の同級生に比べて、教育費が不足しているように感じられる」21.6%、「塾に行かせられないなど、子供が希望する教育費をかけられないでいる」19.0%、「希望していた学校に行く事ができず、高い学費を払う事になった」8.8%、「一家総出で子供の教育費の工面をしている」6.5%。

 現在、遺児家庭は非常につらい条件下で生活している。少しずつ彼らを受け入れていこうという体制はできつつあるが、支援制度の面では、まだ発展途上の段階であると言え、今後の課題は多い。

 こうして遺児支援団体の変遷・活動方針の変化を見ていくと、ある意味では社会を映し出す鏡となっている事が分かる。今後も新たな社会問題の影響を受け、遺児もより多様なものになり、新しい課題も噴出してくるであろうが、それに対応できるような支援をし続けていかなくてはならない。

 

2章 「恩返し」という観念

 

この章では、遺児支援活動の広がりを支えた特徴的な理念である「恩返し」について説明し、支援者側に対して行った調査データを基に考察していく。

 

 1節 「恩返し」とは:活動の広がりを支えた特徴的な理念

 

遺児支援団体の運動の中に「恩返し」と呼ばれる社会運動がある。それは1982年に始まり、現在まで続いている活動である。それは高校奨学生、大学奨学生が「あしながおじさん」の恩に対する恩返しを、社会に対する善行の形式で行う社会運動である。これは、「あしながおじさん」自身は匿名の存在であるため、彼らに直接恩返しをする事はできない、そこで「あしながおじさん」の恩を社会から与えられた恩ととらえ直し、その社会に対して奨学生達は運動を行う。恩返し運動の具体的な形態としては、献血運動、災害募金運動、病気遺児育英募金運動があり、それらが支援対象の拡大に繋がり、93年のあしなが育英会の創立に繋がっていく。

 恩返し運動の第1弾は、1982年から83年にかけての高校奨学生達の全国規模での献血運動である。「あしながおじさん」制度は1979年に始まり、育英会財政の全収入の4割近くをまかない好調であった。特に高校奨学生への支援が集中した。そこで、「あしながおじさん」募集のPR活動として高校生の遺児達が恩返しの社会運動を行うまでに成長したというイメージを形成する社会運動を企画した。その夏の高校奨学生の「つどい」で全国54都市で恩返し運動を献血運動として行うという提案がされた。2ヶ月に渡る運動は最終的に全国で9341人からの献血を得ている。この年の「つどい」参加者の高校奨学生は2000人であったから、彼らの5割が献血に参加したとしても、他に約8300人の献血者を動員した事になる。

 この年、日本では献血制度が預血献血制度から無償献血制度に変更され、献血者の減少が心配されていた。預血献血とは、手術の際に患者が輸血を受ける条件として、それに先だって患者自身が献血をしている、あるいは患者の親族、友人などが献血をしている事が要求され、それを献血手帳によって証明するという制度であり、輸血を受ける事ができるという実益を約束して、献血を誘導するシステムである。これに対して、無償献血制度は実益の約束無しで、自発的善意だけで献血を得ようとするシステムである。前者から後者へのシステム変更で、献血率の低下を招くのではないかと危惧された。この状況において、高校奨学生達の献血運動は、注目するべき有望な試みとして評価された。日本赤十字社は、血液事業部長名で、恩返し献血運動に対して感謝の言葉を贈ってきた。

 さらに、恩返し運動の新しい展開として、これは全遺児支援に繋がっていくのだが、この頃、秋田県の日本海中部地震、島根県の集中豪雨、長崎県の大水害、東京都三宅島での大噴火など災害が続発したため、被災者の中に交通遺児より困っている人達はいないか、彼らのために何かができるかと問いかけ、災害による被災者のための募金への動機づけを

行った。925日を統一募金日として、全国各地で高校奨学生が募金を集め、第1回では2284万円を集めた。さらに、災害遺児の高校進学をすすめる会や災害遺児育英基金運動を作り、街頭募金を行うなど自らの生活体験を生かし奨学生制度を作り現在の災害遺児支援の基礎を作った。

 さらに、89年夏に、交通・災害遺児合同の「つどい」で、共に病気遺児のための奨学金制度を作る事を提案し、91年に「1010日に10万人が10キロを全国100コースで歩いて10億円の寄付を募って病気遺児奨学金制度を作ろう」と「あしながPウオーク10」をスタートさせた。そして、934月に病気遺児奨学金制度が発足して、災害遺児の制度と合併して「あしなが育英会」の発足へと繋がっていく。「これらの活動は現在も続けられており、現在の遺児支援活動はこういった「恩返し」が基盤となっていると言える。20年近くも「恩返し」の動きが続き、さらに、その輪が広がっているという状況は日本だけであり、日本の遺児支援団体はその事を誇りであると感じている。

 

 2節 アンケート調査に見る「恩返し」の観念

 

1979年に交通遺児育英会によって「あしながおじさん」制度が発足して決定的な成功を収め、この制度の最盛期には「あしながおじさん」の寄付によって、会の収入の半分以上がまかなわれ、交通遺児育英会は民衆の自助団体としての性格を強めていった。

 あしなが育英会は、その前身である災害遺児の高校進学をすすめる会、病気遺児の高校進学をすすめる会の時代の分を合わせると、1999年度までに1459769万円の寄付金を集めている。そのうち、「あしながさん」の寄付は767485万円余りで、これは全寄付金額の約53%に当たる。この他では、一般寄付(街頭募金を含む)が428273万円、約29%、「虹の家」募金144811万円、約10%、震災遺児募金67044万円、約5%、ファイトがん遺児募金33894万円、約2%となる。「あしながさん」制度は、あしなが育英会の財政の機軸となっている。

 今回用いるデータは84年にあしなが育英会が調査した『あしながおじさんの体験と意見』と98年の『あしながさんの活動と意見』のデータの一部を見て、遺児支援と「恩返し」がどのように関わっているのかを見てみる。

 まず84年の調査を見ていく。この調査は交通遺児育英会が行い、事例調査と全国調査から構成され、事例調査で「あしながおじさん」24名にインタビューを行い、これに基づき調査票を作成し全国調査によって1567名から回答を得た。

 アンケートでは「あしながおじさん」になる事を申し込まれた時の気持ちはどのようであったかという質問とさらにその事について自由記述で書いてもらった。1、「今の自分の幸福に感謝して、その一部を分かちたい」68.9%、2、「他人に役に立ちたい」42.9%、4、「不幸な人に同情する」27.5%、5、「恩返し」16.0%となっていて支援者の6人に1人は「恩返し」を寄付の動機としていた。

さらに自由記述を見ると、「生まれて間もなく実母に死に別れ、養女に出されました。養母との出会いなくしては、今日の私はありません。その亡き母に対する恩返しの気持ちです。」「結婚二十年目で気づいた時、素敵な主人、私には過ぎたよい子供達に恵まれて、五人家族全員が病気もせず日々を暮らしています。この喜びを何かに感謝したいと思い、このことを思い立ちました」というように当時の「恩返し」は現在のように遺児だった人が支援を受けて成長し、後の世代の遺児達に対して行うというようなものでは無く、過去の戦争時代や不幸な体験をした後に他人の行為によって命を助けてもらったり、幸せを与えてもらったりした経験、一人前に育ててもらった親と死別して親孝行ができないため、遺児にその分の恩を返していこうという人が多かった。

 次に98年のデータを見ていく。現在の自分の生活が何によってもたらされたと思うかという質問では「どちらかと言えば、誰かに生かされてきたので、今の生活があると思う」48.5%、「どちらかと言えば、これまでの自分の努力があったので、今の生活があると思う」29.5%、「どちらとも言えない」17.3%。現在の自分の生活が成り立っている事について、他人からの恩恵によると見るものの比率が、自分の努力によると見るものの比率を上回る。

 また、助け合いについての質問では、「私は、周りの人たちに支えられてきたので、誰か別の人の支えになりたい」63.6%、「私は、特に誰かに支えられてもらった訳ではないが、誰かの支えになりたい」19.5%、「私は周りの人たちに支えられてきたので、その相手の支えになりたい」5.6%になる。69.2%の人が他者から恩を受けた事を自覚していて、その恩に報いたいと願っているという事である。

 

 3節 まとめ・考察 

 

この章で用いた84年と98年のデータから支援者の「恩返し」に対する意識を調べてみたが、どちらも「恩返し」が支援者の動機の1つとして重要な要素になっている事が分かった(質問の内容は若干違うが)これには3つのタイプがあり、1つは遺児支援団体が元来方針として掲げていた支援を受けた遺児が自分の受けた恩を後の世代を支援する事で返していくタイプ。2つ目は自分が不幸な体験をした時に助けてもらった事を社会に返していこうというタイプである。辛い体験をしたからこそ不幸な立場になってしまった遺児達の気持ちを理解しようとし、助けられたからこそ他人の優しさのありがたさも分かるのである。3つ目は他人の力によって幸福を与えられた事を感謝しその恩に報いようというタイプである。彼らは他人に幸福を与えられたからこそそれがどれだけ感謝の気持ちを芽生えさせる事ができるのかを知っていて自分の行為は巡り巡って自分をも幸せにする要素に成り得る事を理解しているために、遺児達を支援していきたいと考える事ができるのである。

 I氏はインタビューの中で「恩返し」という行為は「こんなに長い間、遺児達が次の遺児達に何かしてやろうという運動が続いているのは、日本が世界に誇っていい活動」だと述べている。

現在遺児達は「遺児ミーティング」を開き、遺児達が癒される場や、今後遺児支援がどうなっていくべきかという話し合いの機会を設けている。この動きは、自死遺児達の間で特に活発である。また、レインボー・ハウスで遺児としての経験を持つ職員達は「遺児のOBは自分の体験を対象としている子供達に話す事ができますよね。そうすると、非常に共感が得られやすいというか、同じ遺児の仲間っていうか、遺児の先輩、後輩の関係として話ができる」と言っている。自分達の経験を次世代の遺児達にも伝えていき、「恩返し」の活動の輪が今後も全国に広がっていく事が期待されている。

     

 

 

 

3章 心のケア ―変わる遺児達―

 

1995年の阪神大震災、ここ数年の自殺遺児の急増によって、心のケアというものが遺児支援において叫ばれるようになり、それに伴うレインボー・ハウスの建設や遺児達が自分達の現状を手記やTVなどのマスメディアを通じて公表していくようになった。この章では、それらの遺児の変化について詳しく書いていきたい。

 

1節 遺児の心理的特性

 

阪神・淡路大震災という日本中を震撼させるような大事件をきっかけに災害遺児(特に震災遺児)の支援というものにも社会の視点が一気に集まるようになった。震災遺児支援自体は以前からあるにはあったが、災害遺児は交通遺児に比較して、社会問題としての世論の訴求力が弱かった。交通遺児育英会では、交通事故は高度経済成長の負の産物であり、交通遺児達は変動する社会の犠牲者であり、その救済は社会の当然の責務であると主張できたが、災害は雑多な内容を持っているため、社会の責務という事が主張しづらかった。

 さらに災害遺児問題が世論に対する衝撃度が今ひとつ足りなかったために奨学金の出願者もあまり増えなかった。

 しかし、阪神・淡路大震災という事件が社会に与えた衝撃度は計り知れないものがあり、全国各地から遺児奨学生の支援団体や市民団体や一般学生のボランティアがやって来るなど日本中の注目を集めた。

 注目すべきは、1995年の震災被害者に対するローラー調査によって、家族の死に対する心理の特性が発見された事である。

 (1)震災による死は、直前まで普通にいた人間を不意に襲う死であったため、同じ死の危険に直面した家族のそばで起こった。そのため死別に伴う悲しみ、寂しさの一般的感情に加え、納得できないという感情、怒り、無力感が強い。また、自身が早朝であったため、子供をかばったり、気遣いながら死亡したという事例が多いという事が明らかになった。そのために、生き残った子供に、すまない、私のために親を死なせたという罪悪感、自責の念を持たせた。

 (2)生き埋め体験による暗闇や閉所に対する恐怖症、火の熱や炎の色に対する生理的嫌悪感、わずかな揺れに対する恐怖症が確認された。特に年少の子供に広く存在し、長年にわたって遺児を苦しめると予想され、2000年の調査(震災遺児家庭の震災体験と生活実態)でも、この感情が忘却されない例が多かった。

 (3)家族の死を一応認知はしているが、完全に現実として受容できない場合が多い。残された家族と震災についての話をする事が避けられている家庭が多いという事もその典型例である。

 これらの調査の結果、分析によって災害遺児(震災遺児)への支援の機軸は心のケア、心の傷の癒しであると考えられ、今までの遺児に対する資金的支援から内面的ケアに対し

て重点的に力を入れていくようになった。阪神・淡路大震災はこの点で遺児支援の方向性を決定づける1つの起点であったと言える。

19968月にあしなが育英会が行った調査を基に震災遺児の意識を見てみよう。この調査では震災遺児達の震災体験について親の死を機軸にして見ている。両親が共に亡くなった者15.4%、父のみが亡くなった者50.0%、母のみが亡くなった者34.7%、父のみが亡くなった者では19.2%が母がけがをしている。兄弟が亡くなった者26.9%、兄弟がけがをした者15.4%、本人がけがした者30.8%。

 これらの家族の死について、遺児達はどのような思いを持っているか。「助けてあげたかった」が61.5%で最頻値。次いで「私を助けるために死んだ」38.5%、「可哀想だ」30.8%であった。これらのうち、自責の念、罪悪感に通じる「私を助けるために死んだ」と「すまない」を双方あるいは一方を挙げた者は約半数になる。

 震災体験の後に残った恐怖感などについては「物音でびくっとする」61.5%が最頻値で、「一人でいたくない」「暗い所が怖い」がいずれも53.8%、「死ぬのが怖い」50.0%、「夜になると怖い」が34.6%となっている。震災後1年半以上が経ち、現在もその感情がまだあるか「今もある」61.5%、「今は無い」38.5%で恐怖感は遺児達の過半数で残っている。

 生き残った親が子供の目から見てどう変わったかは「疲れている」38.4%、「叱りすぎる」34.6%、「いらいらしている」26.9%、「辛そう」23.1%となっている。

 地震の事を思い出すかでは「いつも思い出す」7.7%、「時々思い出す」61.5%、「ほとんど思い出す」30.8%となり、地震の事を話すのは嫌かでは「嫌だ」65.4%、「嫌ではない」34.6%となり、地震で死んだ家族について、残った家族の中で話すかでは「いつも話す」7.7%、「時々話す」26.9%、「ほとんど話さない」65.4%となる。

 

 2節 レインボー・ハウスについて

 

1)設立のいきさつ

 1995年に起きた阪神大震災を受けて開設されたあしなが育英会神戸事務所が震災遺児を励ます集いを行った時に、遺児達の描いた絵に、月と星が散りばめられた夜空に緑、青、赤、黄色の4色の虹を架け、後に赤い部分を黒く塗りつぶした。その絵は、遺児の荒涼とした心理の特徴であった。この集いで遺児達の描いた絵のほとんどが心理的なSOSを発していると解釈されるものであった。

 あしなが育英会はこれを受け震災遺児家庭の震災体験と生活実態を調査し、170世帯の家庭で行われた。この調査は現在、毎年行われているが震災から8年経った現在でも、家族の死に対する悲しみ、怒り、無力感、生き埋め体験に基づく暗所、閉所に対する恐怖症、火の熱や炎の色への生理的嫌悪、わずかな揺れへの恐怖症が確認されている。

 この事実により、あしなが育英会は、震災遺児への支援の機軸部分は心の癒しであると認識し、集いの時に行った自分史語りに力を入れ、自分史は自己表現を通じて、心のケアにつながると考えた。

また、アメリカ合衆国に1982年に開設されたダギー・センターという親と死別した子供達の悲嘆教育施設での活動を参考に、年齢別、死因別によって子供達を10人位の集団に分け、親との死別の記憶や自分の気持ちを表現するための絵を描いたり遊んだりする時間を設ける事で、子供達を孤独から解放する事に成功しているという事を学び、遺児達からの心のSOSに応える事ができるデイ・ケア・センターを作るべきだと考えるようになった。

 そうして、街頭基金や「千円レンガ」という寄付の募集、マザー・グースコンサートなどのチャリティー・コンサートなどによって14億円というお金が集まり、991月にレインボー・ハウスが開設された。(あしなが運動と玉井義臣 2003年 P387395

 

 2)レインボー・ハウスという空間及びその活動内容

 レインボー・ハウスは神戸市東灘区の一角に建つ5階建ての建物である。設計に関する基本原則は、遺児達の「落ち着ける場所」・「安全で安心できる場所」であり、4つのゾーンで構成されている。第一は癒しゾーン。ここでは遺児達が遊んだり、学んだり、付き合いながら、傷ついた心を癒されてゆく「癒しのプログラム」のために12の部屋が用意されている。「火山の室」は、壁と床に赤いマットを敷き詰め、サンドバッグを吊し、それらを打ったり蹴ったりして、ストレスや怒りを発散させる部屋である。「おもいの室」は丸い小部屋で、天窓から光が差し込み、遺児や母親はそこで1人になって、死者の遺影や遺品と対話し、泣くことができる。「アートの部屋」は言語表現力の乏しい幼い子も絵を描いたり、粘土細工で心の内を表現したりできる部屋である。寝そべって描けるように床暖房を設置している。「ごっこ遊びの部屋」では小さな子供達が人形劇やごっこ遊びをして心の内を何かに象徴しながら吐き出しを行う。砂場子で埋葬ごっこをして親の死を受け入れる子供もいる。第2はボランティアゾーン。レインボー・ハウスの活動を支えるボランティアの養成、会合、休養、心の癒しのための4部屋がある。第3は学生寮ゾーン。25個の部屋があり、食堂と大浴室がある。第4は共用ゾーン。事務室、館長室があり、建物全体はバリア・フリーが徹底している。

 遺児達の心のケアのための主要なプログラムはグループ・タイムという小集団活動で自分史語り、家族史語りを機軸としている。遺児達は幼児のグループから中学生以上のグループまで年齢別・性別で7つにまとめられていて、それぞれの活動内容はかなり異なる。他に遺児達の学習活動、レクリエーション活動が集いや教室として行われている。また親へのアプローチが遺児の心のケアに大きく影響する事が明らかになったため、談話室を設けて親同士の交流なども行われるようになった。年間行事にはお正月のつどいが13日、追悼行事「偲び話し合う会」が117日、スキーのつどいが3月に34日で、海水浴・

キャンプのつどいが8月中旬に34日で、クリスマスのつどいが12月中旬に12日で行われている。(あしなが育英会の資料による)

 625日に私は、レインボー・ハウスに訪問を行った。時間は13001600であっ

た。最初に職員の人達の紹介があり、その日は78人の職員が事務室で仕事をしていて、2人が子供達(小学校低学年)と会話をしたり、遊び相手になったりしていた。職員の人の話では職員は10人いて、うち3人が自分達が遺児(交通遺児)であった経験を生かし、遺児支援団体に恩返しを兼ねて働いている職員で、5人が大学で社会学・心理学を専攻していてそれを生かすために働いている職員で、残りの2人が職員が足りなくなった時に採用になった職員である。その日は平日であるという事で子供達の数は10人位であった。子供達全員が阪神大震災の時の遺児であり、遺児達はもっと大人しい子が多いと思っていたが特に女の子の方が職員の人達に自分から挨拶をしたり話しかけたりしてくる子供が多く、会話の内容は、その日に学校であった面白かった事、最近の日常での楽しかった事、勉強で分からなかった事、異性の事などで、普通に明るい子供達が多かった。最初に「おしゃべりの部屋」という大きなソファーがある丸い大きな部屋に通された。子供達の顔が全員見えるのでこの部屋で子供達や職員がコミュニケーションを取っている。次に「アートの部屋」に通された。この部屋は粘土や絵の具などが置いてあった。それで遊ぶ事でストレスを発散できる子供達が多い。そして、談話室に通された。自分が通された部屋では1番大きかった。ここでインタビューを行わせてもらったのだが普段は保護者と職員が子供達の事やその家族の生活状況について話したりして、コミュニケーションを取っている。

 レインボー・ハウスに実際行ってみて感じた事は職員の人達が子供達が明るくなるように努力している事である。それは頑張っているというより、自然体で話しを聞いてあげるという感じであった。職員の人達が言っていたが、アドバイスや職員の人達側の意見を言うよりも遺児は自分の話を聞いて欲しがっているという事を頭に入れてやっているそうだ。訪れる前、広い部屋でみんなでグループ活動を行うものなのかと思っていたが子供達は完全に自由参加で、11つの部屋は子供達との距離が近くなるように、話がしやすいように狭い部屋をいくつも使っているという事が印象に残った(火山の室を除く)。また、もっと遺児達専用の施設という独特の雰囲気があると思っていたが、外観も含めてどこにでもある公民館を遺児達が入りやすいようにきれいにして広くしたという印象であった。

 遺児のほとんどが自分の気持ちを隠そうとしながらも、もし自分の事を理解し、信頼できる人がいるなら全て吐き出すようにしゃべりたいという気持ちを強く持っている。I氏が「自分の話をただ黙って聞いていてくれるだけでいいんですよ」とか「遺児達が一番求めている人っていうのはたとえ間違っている事を言っていても自分の事を否定せずにうんうん聞いてくれる人」とインタビューで語っているように、遺児達は他人から自分が受け入れてもらえるかどうかに対する恐怖感や不安感を持っている。自己を否定する気持ちを持っている。だから自分を肯定してくれたり、認めてくれる存在を求めているのである。

そしてその時代に合わせるように、遺児達の「心のケア」の拠点としてレインボー・ハウスが完成した。そこでは小学生低学年を中心に、職員達が「心のケア」を行っている。T氏は「子供達は大人が思っている以上にすぐに仲良くなれるし、心を許すものなんです。」と様子を語っている。このように、子供のうちに自分の気持ちを分かり合える仲間を得て、素直に人と関わっていける人間性を形成していく事が重要である。I氏は「心のケアっていうものに終わりはないんですよ。今後も今以上にもっともっと心のケアをしていかないといけない」と言っている。さらなる「心のケア」が充実していく事が重要である。

 

 3節 語り始める遺児達 手記から見る遺児達の心理

 

 ここ数年の遺児の1番の変化は、遺児達(特に自死遺児)が文集を編纂した事によって、その後小泉首相への陳情やTVを通じて自分達の意思を世間に開示するようになった事である。実際に遺児達が書いた手記を通じて、その変化を追いたい。

 

(1)親の記憶

 多くの手記は、亡くなった親の記憶を肯定的に語る部分から始まる。

 

私は中学3年生の秋に、父を自殺で亡くしました。父は生前、まじめを絵に描いたような人でした。私たちは、父と母と2つ上の兄の4人で、週末には家族旅行に行ったり釣りに行ったり、何をするにもみんなで一緒という、普通に仲のよい家族でした。 (自殺遺児編集委員会・あしなが育英会2002:P46

                  

 私の父は優しい人で、小さい頃から私をかわいがってくれました。

小学校2年生の夏に、海で私がつかまっていたビーチボートが風で飛んでしまった時、父は慌てて私のほうに走ってきて、「ビーチボートなんかまた買えばいいけど、みいちゃんは一人しかいないんだから、溺れたら大変だ」と言ってくれました。めったにそんなことは口にしない父の言葉にびっくりして、とても嬉しかったのを今でも覚えています。 (自殺遺児編集委員会・あしなが育英会2002:P76

 

 僕のお父さんは、あまりしゃべる人ではなかったけれど、家族の事をとても大切にし、

愛してくれていました。僕はそんなお父さんが大好きです。世界で一番尊敬に値する人です。だから、お父さんの自殺を恥ずかしいなんて思いません。お父さんが自殺していても社会の中で胸を張って生きていきたいと思います。社会が受け入れてくれるのかという不安はあるけど、僕は堂々と生きていきたいと思います。 (自殺遺児編集委員会・あしなが育英会2002:P74

 

 遺児達のほとんどが死んでしまった親ともう1度会って話をしたいと思っている。自殺しても親というのは代わりのいない存在である。これらの手記を書いた遺児達で本当に親について怒りや恨みを書いてあるのはほとんど無かった。親のいない寂しさをずっと感じているのである。もう親とは会えないからこそ手記の中で親との思い出や人格を肯定する

ような言葉を書いているのである。

 

 2)自責と後悔

 次に、自殺した親が出していた自殺のシグナルに気づけなかった自分への自責や後悔の気持ちを書いている手記が多い。

 

  父が亡くなる前日、私と父はあまり話をしませんでした。元気がなかった父に話しかけることができなかったのです。父は、けっして暗い人ではありませんでした。けれど、いつもニコニコと笑っていたのに、その日だけは、なぜか暗く下を向いていただけでした。 (自殺遺児編集委員会・あしなが育英会2002:P149

 

  思えば、1か月前の、僕が聞いた父の最後の電話の声は弱々しかった。

  「お父さん、もう自殺しなきゃいかんのかなぁ・・」

  いつも強い人だったので「何言ってんの〜?」と冗談で返し、僕は父の言葉をまともに受け止めなかった。誰にも自分の弱い部分を見せない父だったから、今思えば、それは僕へのサインだったにちがいない。けれどもあの時、僕は何もしてあげられなかった。勝手な理由をつけずに、ちゃんと父に会って話を聞いていれば、もしかしたら父は死なずにすんでいたかもしれない。その事を今でも後悔している。 (自殺遺児編集委員会・あしなが育英会2002P1516

 

 遺児達は、親の自殺について振り返ってみた時に親が自分に対して自殺のシグナルを出していたのではないかと考える事が多い。I氏が「心の傷が大きいよね、自責の念が大きいですよね、何故お父さんの悩みを聞いてあげられなかったのか、自殺する前に自殺するよっていうサインを出しているの、ちょっと優しくなったりとか最近の事を聞いたりとか、あるいは逆の事を言えば、鬱病的になっていたりとか、お話をしなくなっていたりとか、っていう風にサインを出しているんだけど日常の中で見つけ出すというのは至難の技で、見つけられないよね。」と言っているようにその時は気づく事が難しい事でもそれが原因で

親が自殺したと感じて親の自殺を止められなかった事への後悔や自責の念、罪悪感を遺児達は持ってしまう。また、自殺の現場を遺児達が目撃してしまう事も多く、それが心に大きな衝撃を与えてしまうのである。 

 

 次の手記は親の自殺が遺児にどのように影響を与えたか、また何をきっかけにして立ち直っていこうという気持ちになったのかという心情の変化について書いた手記である。

 

 3)語り

 そして、遺児達は「つどい」で自分達の事を語ることで立ち直っていく。

 

高校1年生の時に参加した「つどい」で初めてぼくは自分の体験を話しましたが、自殺という言葉、その言葉だけがどうしても言えなかった。その一言を言うだけで、どれだけの時間がかかってしまったか分からないくらい、言葉に詰まった。何も言えずに、ただ黙っているだけの自分がいました。周りの人に認めてもらえないんじゃないか、同じように親を亡くしているけれども、僕の事を分かってもらえないんじゃないか・・・・。

そういう思いがありました。しかし、その一言を口にして、自分史の時間が終わったあとには、何かこれまで胸の奥底にため続けていた思いがスッと楽になった事を覚えています。

  同じ体験を持った仲間がいない事での悔しさはありながらも、自分の居場所であるという実感はものすごく感じましたので、毎年、夏になるのが楽しみになりました。夏になれば自分の事を唯一話せる場所、何も隠さなくてよい場所に行ける、高校奨学生の「つどい」は普段は忘れなければ生活できない父の事が、はっきりと甦ってくる4日間だったのです。

  また、父の気持ちを考えるようになったのも「つどい」がきっかけでした。それまで、何かうまくいかない事があると、父への責任を転嫁してばかりいました。「お父さんが自殺なんかしなかったら・・・・」と。しかし、そんな時に、父が唯一残した手帳の言葉が、ふと頭の中に出てきました。兄弟3人の名前があって、ただ「ごめんね」とある4文字です。無くなった直後に見た時は何も感じませんでしたが、「つどい」を幾度か経験する中で「きっと他に言葉が出なかっただろう」と。

 そして、大学生になって参加した大学奨学生の「つどい」で、僕は初めて同じ様に自殺で親を亡くした大学生に出会いました。本当にそこで初めて「僕は一人じゃないんだ」と思えるようになりました。その後、自死遺児の仲間みんなで語り合い、同じ思いを抱えてきた仲間とともに原稿を書いて、「自殺って言えない」という文集を作りました。 (自殺遺児編集委員会・あしなが育英会2002:P8788

 

 自死遺児という存在は遺児の中でも特に自分が遺児であるという事、親が自殺したという事を周囲の人や社会に向けて公表する事が難しい存在であった。それは、自死遺児という事で社会的に「自殺は弱い者がする」「自殺者の子供も自殺する」という様な負の偏見を持たれてしまったり、田舎ではその事が結婚や就職に影響する地域があると言われるくらい社会的なハンディを背負わされる事となってしまったりしたからである。または遺児が                   

必要以上に自殺を恥ずかしい死、忌まわしい死であると感じてしまっているために、自分が自死遺児である事を他者に知られ、その事に対して理解してもらったり、受け入れてもらえる事ができずに、普通の人間関係まで失われてしまうのではないかと恐れて自分が自死遺児である事を隠そうとしたりするのである。

一方で反作用的に親の自殺について話したいという気持ちも持っていて、親の自殺や自分の心理的苦悩について語り、理解してくれる人を求め、心が解放される事を何よりも望んでいる。「つどい」によって「自分史語り」の機会が与えられ、自分以外にも苦しんでいる人がたくさんいるという事に気づいた事は遺児達にとって大きな一歩である。この著者は自分の変化を次のように語っている。

 

 (4)社会的なアクションへ

 そして、語りによって立ち直った遺児達は社会に自分達の存在を知ってもらうためのアクションを起こしていく。

 

  その文集に原稿を書いた事で、さらに多くの自死遺児とも出会いました。僕は父親を亡くしたけれども、両親とも自殺でなくして苦しんでいる人、母親が亡くなった人など、

様々な人と出会いました。そうする中で、世の中にはまだまだ自分と同じように苦しんでいる人、母親が亡くなった人など、様々な人と出会いました。そうする中で、世の中にはまだまだ自分と同じように苦しみながら生きている仲間がいる、という事を実感しました。だからこそ、その苦しみが分かる自分が力になってやりたい。1人じゃないと伝えたいと考えるようになりました。

 ただ、文集に参加した時は、名前や顔全てを隠しました。やはり不安があったからです。もし、自分が住んでいる周りの人がこの文集を読んで僕だと気づいた時に、どういう対応をするんだろう、僕に対してどのような声をかけてくるんだろう。それが怖くて自分の全てを出せませんでした。

  しかし、あれから2年余りが経って、僕は気づきました。自分自身の中に偏見があるからこそ、周りに対して恐怖心を抱いてしまうという事に。本当に周りの人たちは自殺に対して偏見を持っているのだろうか。もしあるとしても、それは周りが思っている以上に自分の中で偏見が大きいからではないか・・・・。今はその様な気がしています。

 そんな思いに気づいた時、「今のままでは、まだ声を出せない人たちの力になれない」「このままでは、僕自身が逃げ道を作ったままになってしまう」と、その様な事が次第に頭に浮かぶ様になりました。さらに、いつの間にか「もう逃げたくない」とも考えるようになりました。過去の体験を持ちながらも生きているこの姿を、堂々と後輩達にも見せてあげたい。そして、一緒に生きていこうと伝えたい。そうする事で、少しでも誰かに勇気を与えられたらと思うようになったのです。

  僕たちは文集を編纂した事で、同じような体験をした人達に対してボールを投げた。いや、同じような体験者だけでは無く、その周りにいる人達に対しても投げたのではないかと思っています。そして全国には、僕たちが投げたボールを投げ返してくれた多くの人達がいました。直接に、またはお手紙を通じて声を届けてくださいました。」 (自殺遺児編集委員会・あしなが育英会2002:P8890)                

 「つどい」によって自分以外にも心の傷を抱えている遺児がたくさん存在する事に気づいた自死遺児達は、自分達が苦悩し続けた経験を生かし、全国にいる勇気を出す事ができないでいる遺児達に自分達の存在を知らせ、1人じゃないと伝えたいと考えるようになった。そして社会の偏見に対して自分達が動き出さなければ何も変わらないと感じるようになった。そこで親との死別後の悲しみ、苦しみに耐えた日々から「自分史語り」によって癒され、立ち直るまでの心の変化を文集にして世間に問いかけようとする。ちょうどその時期に年間の自殺者数が30000人を超え、自殺が社会問題としてメディアにも大きく取り上げられた事もあって、遺児以外の自殺に関係の無い人達、夫を自殺で亡くした人達、鬱病の経験がある人達、自殺未遂の経験がある人達、友人知人が自殺をした人達からも1500件もの手紙や電話が殺到して12万部が発行された。この事を受けて初めての試みである自死遺

児ミーティングが開かれ、参加者達はこれらの手紙を読んだ。おそらく、遺児達は自分達がやった事が正しかったという確信を得、自分達が動き出せば世間の人達は自分達の活動を後押ししてくれるのではないかという感触を少しずつ感じられるようになったのだろう。自死遺児達の文集作りという活動は誰もがそういう状況に成りうるし、自殺は個人の問題では無く、社会全体の問題であるという事を世間に考えさせる契機となった。

 

 次の手記は、文集での反響を受け、何かアクションを起こしていこうとしている遺児の心境を綴った手記である。

 

 その後、自死遺児の活動は転換期を迎えることになります。私の仲間が実名と顔を公表して、テレビのドキュメント番組に出演することになったのです。あの時の彼の悩みや苦しみ、恐怖のすべては、共に活動してきた私にすら理解することはできませんでした。けれど、私たちの活動にとって、彼の行動は前進するための大きな一歩になったことは事実です。

  このころ私たちは社会に向けて「自殺防止の提言」を出していました。そして、ついにその提言を持って、小泉内閣総理大臣へと陳情する機会をいただいたのです(2)。

  この陳情で、私たちは大きな壁と向き合いました。今では名前と顔を隠しながら活動を続けてきましたが、そこから脱して実名と顔を公表しようという考えが仲間達から出てきたのです。一国の首相に会える。当時の小泉政権は支持率80%以上の絶大な人気を誇っていました。自分達が新しい挑戦をするには、絶好の機会です。

 何日も何日も、今まで共に活動をしてきた仲間達と悩み続けました。家族と向き合い、自分自身とも向き合いました。学校にいってもアルバイトをしていても、そのことばかりを考えていました。

  そして長い時間悩んだ末に出した結論は「実名と顔を公表しよう」という答えでした。もちろん、公表できない学生達もいます。だからこそ、あくまでも個人の考えを尊重し

て、みんなで話し合いました。 (自殺遺児編集委員会・あしなが育英会2002:P259260

 

 文集での反響に後押しされ、遺児達は自分達が何かアクションを起こす事によって自殺者が1人でも減らせる事ができるのではないかと考えるようになった。そこで、TVやメディアを通して自分達の存在をアピールする作戦として、ドキュメント番組出演(クローズアップ現代“お父さん死なないで”)と小泉首相への陳情を決意する。そして、その時実名と顔を公表する事によって自分達が先頭に立って自死遺児達に勇気を与えようという考えに行き着く。いくら、世間の後押しがあったとは言え、今まで自分の事を話す事さえできなかった遺児達がそれを実行する事は想像を絶する不安と恐怖があった事であろう。まだ、自殺の問題について具体的な解決は見えていないが、彼らが起こした行動は、次のス

テップに進むための大きな一歩となっている。

 

4節 考察・まとめ

 

今回、この章を書くために自死遺児達の手記を読み、活動の順序を追いながら、自死遺児達の気持ちの変化等を分析・考察していき、遺児支援のキー・ワードである「心のケア」についてまとめていこうと考えた。まず、最初に気づいた事は、遺児達が親の自殺について振り返ってみた時に自殺の直前に引き金となるような出来事や何らかのSOSがあった例が多く語られているという事である。そのために「あの時気づいていれば」という遺児達に後悔の気持ちを持たせてしまっている事である。そして、その事が、親の自殺の事を誰にも知られたくない、絶対に話したくない、人に対しての恐怖感を持ってしまうというような気持ちを生み出してしまうのである。インタビューの時に応えてくれた職員の人達も親を子供の時に亡くした経験を持っている(交通遺児)が、I氏は「友達が自分の前で父親の話をわざとしないようにしていると感じたし、親の話にすると『あ、しまった』っていう雰囲気を感じた」と語っている。また、T氏も「親の話にならないようにした」と

語っているように、遺児達が他人に親の死についての話をする事は相当なプレッシャーを伴うのである。また、特に自死遺児はI氏の場合、「自殺をした人は、その人自身が弱いとか、その人自身に原因がある」という社会的偏見に怯えなければならないし、極端な場合には「残った人の結婚や就職、履歴書にまで影響が出る」事さえある。さらに、「例えばお父さんが亡くなった時、子供が2歳とか3歳とか小さい時は、お母さんは子供にお父さんとか亡くなった理由を病気とか事故とか嘘をついている」と言っていた。

そういった遺児の心を解放するために、あしなが育英会では「心のケア」の重要性を訴えるようになった。そして、毎年夏に全遺児を対象に「つどい」を行うようになった。その時に「親との死別体験」を語る時間が一番忘れられない事だったと書いている手記が多かった。「ずっと1人で背負っていた重荷が軽くなった気がした」「自分と同じ体験をしてきた人に出会って、初めて父の死に対して目をそらさずに考えられるようになった」「初めて人に受け入れられたような、理解してもらえたような気がした」という変化を多数の遺児に与えている。元来人は自分の話や悩みを聞いてもらいたいという願望を持っている。恐怖心という鎖を振り払った遺児達の中には、あしなが育英会の活動に携わったり、「私にできる事は、自分の体験や思いを率直に伝えていく事」「自死遺児達の現状を訴え続けていきたい」というように遺児達の偏見を振り払うために、社会に存在をアピールしようとしたりしている。

現在、遺児達が望んでいる事は、全ての人がこの問題に温かい心を持って接してくれる優しい社会を築く事、自殺をしてしまった人も、遺された人も否定される事の無い、そし

て何よりも人を自殺に追い込まないですむ社会を築く事であると言えよう。遺児達が、社会に向けて勇気を持って出した声に社会全体が自殺予防、遺児へのケアなど対策を持って応えていかなければならない。

 

 

 

4章 遺児支援活動のさらなる発展に向けて

 

この卒業論文で遺児支援について研究し、あしなが育英会と深く関わってきて、様々な発見があった。それを交通遺児育英会の出身者であるI氏、T氏のインタビューの言葉を交えながらまとめていく。まず、自分が一番印象に残った言葉であるのが、遺児支援団体からも強調された心のケアである。元々金銭的な支援は30年近くの遺児支援活動の歴史の中で交通遺児育英会の時期からある程度は確立されていた。しかし、精神的なケアという面で日本の支援団体は他の国よりもやや立ち遅れていた。物心両面での支援が進まなければ、本当に遺児が救われる事は無いという事に阪神大震災遺児の支援活動や訪問調査、自死遺児支援を通じて感じ、「心のケア」という指針が明確に掲げられるようになった。親を失った心の傷は長い年月を経てもなかなか消えるものでは無いのである。それまで、遺児達は他人に自分が遺児である事を隠そうとする傾向が強かったため、心のはけ口を見つけ出す事が困難であった。しかし、その反面、分かってくれる人がいれば自分の事についてたくさん話したいという気持ちがあるという事を調査によって知る事ができたため、「心のケア」の中心となる活動として「つどい」が行われるようになった。それは、毎年夏に合宿形式で行われ、多数の遺児が参加している。I氏は「何の話か覚えていないんですけど、夜みんなで親との思い出をしゃべったんですけど、親が34歳の時に死んだんで何かあんまり思い出とかなくて、でもその時の事を何か覚えているんですよね」と語っている。このように遺児達は「つどい」で自分の心情、感情を吐露する場所が設けられる事で癒されている。そして、神戸には遺児達の心のケアの拠点としてレインボー・ハウスが完成した。そこで、震災遺児達を中心に職員達が「心のケア」を行っている。このように日本の支援団体も精神的な面でも充実してきているが、遺児というのは一人一人が違う存在であるためにどのやり方が正しいという答えは無い。状況に応じて方法を変えていかなければならない。心のケアの輪を拡げていこうという思いが大切になってくる。

遺児支援の運動の特徴に「恩返し」がある。これは遺児支援団体にとって元遺児だった人達が次の世代の遺児達に対して支援を行っていこう、社会的な立場を強めていこうという重要な社会運動として認識されている。その運動は災害遺児・病気遺児・自死遺児というように遺児支援対象の拡大に繋がっている。また、遺児経験者が広い意味で社会に貢献できる人材に成長していこうという意味も含まれている。その事と関連するが、現在、支援団体が課題としているのは全国各地にレインボー・ハウスのような遺児達の癒しの場が形成されていく事である。I氏は「自助グループって言うんですけど、各地で夫をガンで亡くした母親の会とか犯罪被害者の会とか幾つかできてきてますよね、そういう支援制度がだんだんできてきました」と語っている。このように各地に散らばっている自助グループを通して、遺児出身者や支援団体経験者が「恩返し」によって、癒しの場を確立していく必要性がある。2005年には東京にあしながレインボー・ハウスが完成する予定である。これを機に全国各地でそのような動きが活性化していく事を期待したい。

 また、遺児達の社会に対する姿勢の変化というものもこの研究での新しい発見である。特に自死遺児は、深い心の傷を抱え、自分が遺児であるという事を世間に隠そうとしなければならない状態であり、社会の偏見とも闘わなければならなかった。また、親の自殺のシグナルに気付く事ができなかった事への自責の念に苦しむ遺児も多かった。しかし、自殺が社会問題として取り上げられるようになり、第3章で書いたような手記の文集が反響を呼び、遺児達に社会の関心が向けられるようになった。それを受けて遺児達は小泉首相への陳情やTVのドキュメント番組作りなどを通して、社会に訴えていくようになった。その結果、政府が自殺防止有識者懇談会を作り、自殺の問題が国会で取り上げられるようになった。まだ具体的な解決策は見えていないが、遺児達が起こした活動には一定の反応が起き、成果が現れつつある。だからこそ遺児達は鉄の熱い内にどんどん新しいステップを踏み出していくべきである。

 T氏はこう述べている。「遺児であるという事は時代が変わろうとも、非常に大変なわけですよ。心の傷は深いわけですよ。ただ今は同じような境遇の人が声をあげてくれたりと

か支援してくれる団体ができたりしたから社会にも出やすくなったし、前向きに生きられやすくなった」。しかし、T氏は続けて遺児達の変化も、あくまでも機会を提供されて初めて可能になったのであり、背後には、未だに変化をしたくてもできない遺児達が数多くいるだろうとも述べている。ただ、社会がそれを受け入れてくれる環境さえ整えてくれれば、たくさんの人達が救われるという事を現在の状況は示している。今後、遺児達とそれ以外の人々が関わっていく機会は増えていくであろう。遺児達が何のためらいも無く飛び込んでいけるような社会が形成されていくべきである。本論文が明らかにしたのは、現在そのフィールドはできつつあるという事である。

 

 

 

<注>

(1)    自死という言葉は、自殺と特別に意味的な区別は無いがあしなが育英会では遺児という言葉に、自殺ではなく、自死という言葉をつけるのでそれに従った。

(2)    自殺防止の提言

1.     自殺者統計の早期発表と実態調査の実施

2.     働き盛りの自殺防止のためのセフティネットの確立

3.     すべての医療機関が連携して鬱病対策を

 

<引用・参考文献>

あしなが育英会(1996) 黒い虹

自殺遺児編集委員会・あしなが育英会(2002) 自殺って言えなかった

社団法人 家庭養護協会(1996) 阪神大震災・問われた大人の力

 副田義也(2003) あしなが運動と玉井義臣

 <参考資料>

 交通遺児育英会二十年史 交通遺児育英会二十年史編集委員会編

 震災復興史編集委員会(2003) 阪神・淡路大震災復興史

 あしなが育英会会報