現代の祭りにおけるYOSAKOIの流行

―富山の事例からの考察―

人文学部 社会学コース 村田 志穂
(平成15年度卒業)

目次

第一章 本論文の問題関心――YOSAKOIと出合って

第二章 YOSAKOIとやまの歴史と運営
 第一節 よさこいからYOSAKOIへ
 第二節 運営組織
 第三節 YOSAKOIのルール、約束事
 第四節 YOSAKOIとやま講習会
 第五節 YOSAKOIとやまの特徴――他のYOSAKOI祭りとの比較考察
   一項 事務局の努力――非営利団体と行政
   二項 参加者負担の原則
   三項 観客の応援体制
 第六節 まとめ

第三章 YOSAKOIと関わる人々
 第一節 YOSAKOIチームの事例
   一項 韋駄天HANA-BI(いだてんはなび)
   二項 越中夢創隊(とやまドリームメーカーズ)
   三項 よっしゃKOI(よっしゃこい)
 第二節 メンバーの入会過程
 第三節 人びとを惹きつけるYOSAKOIの魅力――参加する意識
   一項 YOSAKOIの手軽さ
   二項 地域性の意識
   三項 パフォーマーとしての高揚
   四項 協同と自己実現

第四章 考察
 第一節 差異と協同――YOSAKOIとやまの特徴
 第二節 「行政主導型」の利点
 第三節 地域と関わるYOSAKOIへ――これからの展望

引用文献、参考文献
資料

第一章 本論文の問題関心――YOSAKOIと出合って

近年YOSAKOIという文字を新聞やテレビで見るようになっていた。どのメディアでも多くの参加者がいると報じられ、鮮やかで個性的な衣装が印象的だった。
2002年8月4日、私は富山市総曲輪という富山市の中心的な商店街でアルバイトをしていた時、初めて「YOSAKOI」というものに出くわした。どんどん自分の働いているお店に近づいてくる低音が効いたリズミカルな曲。多くの人が声を合わせてかけ声を出している。そしてお店の前を通っていく姿は、上に飛び跳ねたかと思えば、地面に張りつくように腰を低くし、手にシャモジのような物を持って、今まで見たことがある民謡の街流しとは全く異なる不思議な動きを繰り返しながら通り過ぎていった。原色を多く用いた鮮やかな衣装は舞う動きと連動してたなびき、踊っている人の顔には赤や白で歌舞伎のように隈取りされて、一種独特な雰囲気を醸し出していた。私が見てきた踊りの中でも異色を放っていたこのYOSAKOIに、「怖いもの見たさ」のような興味を確実なものとして抱いた。そして惹きつけられるように祭りを見に行ってみた。
YOSAKOIとやまのメイン会場は富山駅から徒歩10分ほどの場所にある「富山城址公園」に設けられていた。公園内の「自由広場」にYOSAKOIのステージはあった。ステージはその自由広場の約半分の広さを使っており、幅15m、奥行き20m、高さが1mほどあって、照明が高さ8mぐらいの位置に設置されていて、そのスケールの大きさに驚いた。ステージ両側には乗用車の大きさ程のスピーカーが積まれ、ステージ正面向かって左側に音響の操作卓(PA)が設置されていた。観客席は400人ほどが座ることができる長椅子があって、ステージ前にはブルーシートが敷かれていた。また会場外には4m四方のスクリーンもあって、そこでもYOSAKOIが見られるようになっていた。
闇が完全に空を覆い尽くす前の午後7時。パッとステージに照明が点き、アナウンサーが開幕を告げる。実行委員会のAさんが今年の見どころなどの話を含めた開会の挨拶をされた後、とうとう演舞が始まった。アナウンサーがチームの紹介をしている間に色鮮やかな衣装をまとった出演者がステージに並び、チームを代表した人が「口上」と呼ばれる各チーム独特の登場用の台詞を語った後、一斉に照明と音楽が全開になる。光を浴びた衣装はさらに鮮やかに、人は音楽につられて躍動し、出演者全員の掛け声が会場に響く。爆音にも似た体を突き抜ける重低音は見ている者に強い臨場感を与える。オリジナル曲で演舞するチームもあれば、YOSAKOIとやま実行委員会が提供する「TOYAMA FOREVER」という曲を使うチームもあった。大漁旗のようなカラフルで大きな旗を振るチームや、R&Bと和楽器の祭囃子とを融合させた新鮮な音楽を提供するチーム、サンバとフラメンコを基本としたダンスをするチームなど、個性豊かなチームの演舞が見られた。観客は3000人ほど居た。ブルーシートや長椅子には座りきれずに、人の輪が幾重にもなっている。一緒に手を動かす人、掛け声をかける人、団扇をリズムに合わせて振る人、拍手だけする人。参加する形はさまざまだ。出演者はステージ上から観客に対して一緒に楽しめるよう掛け声や踊りを指導する姿も見られた。すべての演舞が終わると表彰式が行われた。会場の至るところでどよめきと歓声、一喜一憂が起こる。そして優勝チームの演舞のあと、出演者全員がステージに上がり「TOYAMA FOREVER」を演舞した。YOSAKOIとやま実行委員会の提供曲だけあって出演者全員が踊ることができる。上がり切れない人がステージの袖でも踊っている。観客の中にも見様見真似で手を動かしたり、一緒に掛け声をかけたりする姿があった。そしてステージ真後ろから上がる大輪の花火が、祭りによって味わった感動を深く心に染み込ませる。9時半を少しまわった頃アナウンサーが閉幕を告げ、ステージから流されるBGMを背中に観客は公園を後にする。衣装を着たままの出演者たちがおもむろに観客席やステージの周辺を歩き、手で一つ一つゴミを拾っていた。
私は10時前に会場を後にした。高揚して熱り、鼓動も普段より早くなっていた。富山駅に向かいながら、不思議な満足感があることに気づいた。

近年の祭りにおいてめざましい業績を見せているのがYOSAKOIである。1991年、北海道大学の学生であった長谷川岳氏が高知の地で見た「よさこい祭り」に感銘を受け、北海道の「ソーラン節」と融合させ、札幌で「よさこいソーラン祭り」を発起した。2002年4月現在では、北海道と32都府県、中国、シンガポール、アメリカ、オーストラリアから参加者が集う祭りへと成長している。富山県へもYOSAKOIは波及し、1999年から「富山まつり」のメインイベント「YOSAKOIとやま」として県民にその名を知らしめることとなった。YOSAKOIが他の祭りと異なる点は、既存の民謡から歌詞を引用して新たな曲を生み出す点が挙げられるだろう。また、1つの曲を皆が共有するのではなく、YOSAKOIチームそれぞれがオリジナル曲を所有し、踊りも異なるという点も興味深いところである。

本論文では、「YOSAKOIとやま」をモデルに、現代の祭りにおけるYOSAKOIの特徴と優位性を考察する。まず第二章では、YOSAKOIとやまの歴史と運営について述べる。インタビューをもとにYOSAKOIとやまの運営を調査し、他のYOSAKOI祭りとの比較考察を試みた。YOSAKOIとやまはどのような特徴をもっているのだろうか。第三章では、YOSAKOIとやまに参加する県民へのインタビューをもとに、YOSAKOIが人々を惹きつける魅力について考察する。YOSAKOIとはどのようなチームを組織しているのだろうか。参加者はどのようにYOSAKOIに興味を抱き、どのような意識を持って参加しているのだろうか。そして第四章では、YOSAKOIとやまの特徴や、参加者が抱いているYOSAKOIへの魅力をもとに、現代のさまざまな“楽しみ”の中でなぜYOSAKOIが選択され流行しているのか、他の祭りとどこが違うのか、考察を試みた。現代、地域と住民の関わりは次第に希薄になりつつある。これは祭りにおいて重大な変化を与えている一因であるが、YOSAKOIによって地域と人々の関係に変化がもたらされている。

 

第二章 YOSAKOIとやまの歴史と運営

第一節 よさこいからYOSAKOIへ

よさこい祭りの歴史、およびYOSAKOIソーラン祭りの歴史については、2002年に発表された坪井善明・長谷川岳共著による『YOSAKOIソーラン祭り――街づくりNPOの経営学』から要約する。
よさこい祭りは、戦後1954年(昭和29年)に高知県で始まった。元々「よさこい節」という、1950年(昭和25年)に開催された南国博覧会にあわせて作られたお座敷唄があり、戦後不況が続く中で商店街の活性化を図るために「よさこい踊り」の案が出され、1954年に音楽家・武政英策氏の作詞、作曲、振り付けで「よさこい鳴子踊り」ができ上がる。そして各踊り子のグループが、よさこい節のメロディーを取り入れてテンポの速い音楽に編曲し、その音楽に合わせた衣装をつけて、鳴子を持ってモダンな踊りを踊るという、「和」の要素に「洋」の要素を組み合わせたそれまでの日本にはなかった祭りの形を創造した。
武政英策(1973)氏が当時を回想した記録の中に「会議所観光部会の浜口さんが来て『市民健康祈願祭で踊りのようなものをやりたいが、民衆にヒットするようなものを考えてほしい。ひとつ阿波踊りに負けんようなものを、歌詞も曲も一切おまえさんが考えておせ』と言われた。」と記している。また「歌詞の着想は当時、研究を進めていた『土佐わらべ歌』に、“高知の城下にきてみたら、じんまもばんばも、みな年寄り”という文句があった。また『郵便屋さん走りゃんせ』のなかに、“いだてん飛脚だ、ヨッチョレヨ”というのがある。――中略――さらに、よさこい祭りというからには、昔から伝わる『よさこい節』も入れた方がよいだろう。以前、私が作った歌に“ヨイヤサノサノ”という囃子がある。これも使ったらと、よさこい鳴子踊りの曲と歌詞は、このようにつまりデッチあげであって、作詞でも作曲でもない。」と語っている。武政氏が考える「郷土芸能や民謡は、どこの誰が作ったかわからないものが、忘れられたり間違ったりしながら次第にカドが取れ、シンプル化して伝承されてきたものであるから、これからどんなに変わっていっても構わない」という精神がよさこい祭りには受け継がれている(坪井・長谷川 2002:26-31)。

そして札幌の「YOSAKOIソーラン祭り」発起人である長谷川岳氏は、1991年に母の入院先である高知県で偶然によさこい祭りと出合った。闘病する母から「よさこい祭りをやっているから、見に出かけなさい」と声をかけられ、当時大学生だった長谷川氏はその街中に響き渡るよさこい節と鳴子のリズムと、同世代の若者が「よさこい節」にあわせて鳴子を鳴らしながら躍動感あふれる踊りを道路一杯に広がって繰り広げている姿に鳥肌が立つ思いをしたと語っている。「『よさこい祭り』を見たとき、これがある限り人間は信用できる、気持ちが洗われて自身をきれいにしてくれるような思いになりました。こういうすがすがしい気持ちにしてくれるものを自分の住んでいる北海道にもつくりたい」という思いを長谷川氏は強く湧き上がらせたのだった。
1991年11月30日、長谷川氏が企画書を作って友人を自宅に集め、ただ一個人の興味に友人たちが力を貸すという、最もシンプルな形で第一回よさこいソーラン祭り実行委員会は最初の一歩を踏み出した(同:17-22)。
1992年6月13、14日。第一回よさこいソーラン祭りは10チーム1000人の参加者、20万人の観客動員を記録し、大成功をおさめた。高知県のよさこい祭りと北海道のソーラン節がミックスされて生まれた新しい祭りとしての話題性と、参加者の創意工夫と自主性を最大限に発揮させる祭りとして、よさこいソーラン祭りは大きな反響を呼んだ。よさこいソーラン祭りは、第二回から「YOSAKOIソーラン祭り」へとロゴを変える。理由の一つ目はより国際性を持たせる意味と、二つ目はルーツであるよさこい鳴子踊りとは違うよさこいをするという意味、三つ目は「よさこい」と「ソーラン」という二方向の文化が「YOSAKOIソーラン」となることで何か新しいことを結び付けやすい容器になるのではないかという期待からであった(同:22-33)。
「街は舞台だ」を合言葉にYOSAKOIソーラン祭りは急成長し、北海道・札幌の初夏を彩る風物詩として定着した(同:56-58)。2003年第12回YOSAKOIソーラン祭りでは330チーム、4万4000人が参加し、観客動員数は過去最多の202万人を数えた。(表2−1)また、北海道以外の場所でもよさこいとYOSAKOI祭りが開催されるようになり、以前の期待通り全国へ新たな文化を創造する容器として広がっていった。「2002年版 日本全国よさこい鳴子祭り・イベント一覧表」によると、徳島県・愛媛県・鹿児島県・山梨県を除いた42都府県で開催されている(YOSAKOI NET,2004:「全国よさこいマップ」)。

YOSAKOIソーラン祭り開催規模の推移 (表2−1)
参加
チーム
参加者
(百人)
観客動員数
(万人)
道内参加
地域数
道外参加
地域数
会場数
第1回 10 10 20 4 2 3
第2回 26 25 44 5 2 6
第3回 25 30 58 9 2 6
第4回 48 48 76 17 4 7
第5回 108 100 107 55 5 12
第6回 183 180 138 107 11 16
第7回 280 290 180 137 11 22
第8回 333 340 193.5 168 18 30
第9回 375 380 182.5 174 24 30
第10回 408 410 201.3 187 32 33
第11回 340 440 151 190 32 27
第12回 330 440 202 190 36 25
注.yosanet,2004,「参加規模の推移」(http://www.yosanet.com/yosakoi/outline/index.html)より

本論文では、高知で開催されるよさこいに限り「よさこい」と平仮名で表記し、札幌のYOSAKOIソーラン祭りないし、全国に広がったYOSAKOI祭りについては「YOSAKOI」とローマ字で表記する。
このように全国に波及する中で富山にもYOSAKOIが伝わってきた。1998年、富山市役所のイベントコンペティションでイベンターが、高知のよさこい祭りのビデオを持って来て、それが富山市役所観光振興課のAさんの目に止まったことがきっかけだった。Aさんは富山市で1961年から現在まで43回続いている「富山まつり」の担当をしていて、富山まつりの企画としてYOSAKOIをやろうと決意する。「第一回YOSAKOIとやま1999」は県内の民謡団体やジャズダンスのサークル、2000年国体準備室や富山市役所チームといった行政団体、テレビ局など、既存の団体に参加を依頼して7チームの参加からスタートした。第五回の今年2003年は47チームが出場し(表2−2)、県外からは石川県と北海道からの参加があった。

YOSAKOIとやま出場チーム数の推移 (表2−2)
  第一回
(1999年)
第二回
(2000年)
第三回
(2001年)
第四回
(2002年)
第五回
(2003年)
チーム数 17 24 41 47
注.Aさんへのインタビュー調査による

 

第二節 運営組織

「YOSAKOIとやま」は、8月の初旬に開催される「富山まつり」の一つのイベントとして催されている。そのため運営している組織は、YOSAKOIとやまだけのものではなく、富山まつりすべてをとりしきる「富山まつり運営委員会」である。
富山まつり運営委員会は、森富山市長が会長を務め、商工会議所青年部や富山市中央商店街などの協力団体代表者によって組織されている。実際の働きは、富山市役所の観光振興課で考えられた富山まつりの運営方針や内容について承認する決定機関としての役割である。富山まつりは「官民一体」、つまり市役所と民間が一緒に作り上げる祭りとして位置付けられているため、決定機関に民間の方々が含まれているのである。
では主体的な運営を行っているのはどの組織だろうか。YOSAKOIとやまの運営を担っているのは富山市役所商工労働部観光振興課であり、事務局の役割を果たしている。富山市の平成15年度予算において、富山まつりは3,300万円の予算が計上されており、所管が観光振興課となっていることからも、行政主導の祭りであることがうかがえる。またYOSAKOIとやまは参加者から参加費や登録料を一切徴収していない。このような行政主導型の運営をしているYOSAKOIは全国的に見ても稀なケースである。
実際にYOSAKOIとやまはどのように運営されているのだろうか。調査に協力いただいた担当者のAさんは、1998年高知のよさこい祭りのビデオを見たのをきっかけに、1999年の第一回YOSAKOIとやま開催から携わっている。富山まつりの目的は、夏のその日に市民が一堂に介して楽しめる祭りを提供することであり、YOSAKOIとやまには市民が観客として訪れるだけでなく、参加者として一緒に祭りを作り上げることができるという点で期待されている。
祭りの準備段階としてAさんの仕事は、祭りそのものの企画からマニュアル作成、広報活動、総踊り曲の制作、YOSAKOIとやま講習会の開催などがある。YOSAKOIの企画について、Aさんはインタビューで「今の時代は娯楽に対する価値観が多様化しているだけではなく、日常的にも刺激的な出来事がけっこう多いですよね。ところが、役所が行うイベントや祭りは、前年踏襲主義といった傾向から、盛り上がりに欠けることが多く、マンネリ化から参加者数や観客数は伸びるどころか減少することだってありうるわけです。へたをすると、よっぽど日常の方がおもしろいことが多く、東京ドームやコンサートへ行って、いろんな人がワーとやっている方が祭りらしいのかな思うことがあります。」と、コンサートを例に挙げて日常の刺激に劣らないよう心がけていることを強調した。

また市役所単独で祭りを企画するのではなく、市民の意見を聞き入れるリーダー会議を設けている。リーダー会議は元来、YOSAKOIとやまへ参加するにあたってのルールや注意事項の説明、そしてタイムスケジュールの共通理解の場として、県内のYOSAKOIチーム代表者が集うものであった。現在では祭りそのものに対する反省や要望だけでなく、YOSAKOIすべての取り組みに関するさまざまな事柄について話し合われる場として活用されている。このリーダー会議によってこれまでさまざまな変化があった。例えば「YOSAKOIとやま講習会」(第二章第四節で紹介する)の運営については、ここで協議された結果、市役所職員が講習会の講師を務めるのではなく、各チームが持ち回りで講師を引き受ける形へと変わった。またチームの枠を越えて「YOSAKOIソーラン祭り」へ参加することを目指す「オープングループ」(第三章第一節で紹介する)の結成も、このリーダー会議がきっかけである。細かい点では、ステージの高さや横幅といった毎年の改良も、この会議によって要望が出された結果である。このように参加者自身が直接、担当者と協議することによって要望がかなえられ、市民のニーズにあった祭りとしてYOSAKOIとやまは作り上げられている。

マニュアルは、祭り当日の会場を分刻みに整理し、それぞれの参加チームがどの場所で演舞を行うか、また警備員や備品の準備と配置と撤去、駐車場の管理、緊急時の対応などが厚さ10cmほどのファイルにとじ込んである。広報活動はポスター、チラシ制作の他、市報への情報掲載やホームページの管理である。
富山まつり運営委員会では、2002年YOSAKOIとやまから総踊り曲を提供するようになった。それまでは札幌のYOSAKOIソーラン祭り総踊り曲である「さぁさみんなでどっこいしょ」などを使用していたが、これによってYOSAKOIとやまオリジナルの曲ができたことになる。2002年は「TOYAMA FOREVER 〜翼を広げて〜」、2003年は「TOYAMA BIG STORM 〜嵐を巻き起こせ〜」と「剱山2003」を制作した。このことによって金銭的理由などでオリジナル曲を作ることができないチームが総踊り曲を使用して参加することが可能となったのである。またYOSAKOIとやまへ参加する市民を増やすため、2001年の春から「YOSAKOIとやま講習会」を市内の公共施設で催している。(YOSAKOIとやま講習会については第二章第四節で詳しく述べる。)

大会当日の運営について、Aさんの仕事は会場責任者である。音響や舞台、照明などは業者に委託し、参加者への指示や会場内の清掃作業は各チームから数名ずつ協力してもらう「チームボランティアスタッフ」によって運営している。Aさんは、以前まで役所が行ってきた祭りの問題点として運営側が参加者を接待して、祭りに出てもらっているという姿は本来の祭りの姿ではないと考えている。動員による祭りへの参加ではなく、楽しいから参加する、自分の意思で参加するというのが本来の姿である。つまり自分たちの楽しみのために、自分たちのことは自分たちで協力する姿勢として、参加者はボランティアの役割を引き受けているのである。

またYOSAKOIとやまは審査制であり、賞が設けられている。審査員は商工会議所青年部の会長や青年会議所の会長、富山観光大使、県外招待チームの代表などである。第一回YOSAKOIとやまは最優秀賞と優秀賞のみであった。第五回を迎えた今年設けられていた賞は、大賞や準大賞、優秀賞といった実質の順位に関わるものと、審査員特別賞や商工会議所青年部会長賞、商工会議所女性会会長賞、『おしみず漁火賞』、『a la collette!? 4プラ。賞』といった審査員を務める方から与えられるもの、そして『祭り魂賞』や『a la collette!? 4プラ。ベスト・ドレッサー賞』といった、事務局が「祭りがこのように変わっていったら良い」と考える方向に沿うチームに与えるものとがある。毎年演舞を見ながら審査基準を改編している。

 

第三節 YOSAKOIのルール、約束事

今日、全国でよさこい祭りやYOSAKOIソーラン祭りを模倣したイベントが数多くなされているが、そのようなイベントのことを「YOSAKOI方式」と呼ぶ人がいる。YOSAKOI方式と呼ばれる所以は共通するルールと約束事があるからである。
まず一つとして、手に鳴子を持って踊ることが挙げられる。これは最初に高知のよさこい鳴子踊りを武政氏が発案した頃から変わらないルールである。伝統あるお隣徳島県の阿波踊りに対抗するため、素手では駄目だと米を二期作する土佐の風土から、鳥などを追い払う鳴子を鳴らすことを考えた。この手法はそのままYOSAKOIソーラン祭りでも取り入れられ現在に至っている。その結果YOSAKOIと名のつくものには、必ず鳴子が用いられるようになった。鳴子の基本色は「赤・黒・黄色」であるが、チームによって鳴子の形や色は異なる。チューリップ型やだるま型、中には50cmほどもある鳴子を持っている人も見たことがある。しかし木製かプラスチック製で、しゃもじのような形で、両面に木片がくっついていてカチカチと鳴ることには変わりない。調査の中で、鳴子はYOSAKOIにとってパスポートであると語られていた。県外へYOSAKOIの祭りへ参加しに行っても、鳴子を持っている人を見ると仲間意識がわいて交流しやすいそうだ。YOSAKOIと鳴子は切っても切れない関係にある。

ルールのもう一つに、地元の民謡の一節を曲に取り入れるということがある。高知では「よさこい節」を取り入れ、札幌では「ソーラン節」を取り入れた。この二つを例に、全国ではその土地の民謡を取り入れる方式が広がっていった。YOSAKOIとやまの場合、富山県には数えきれないほどの民謡があるため、一つに絞らず富山県内の民謡であれば全て使ってもよい。これまで「越中おわら節」や「こきりこ節」、「麦や節」、「新川古代神」、「せりこみ蝶六」、「といちんさ」などが使用されている。曲は民謡の一節さえ取り入れれば、それ以外の部分はオリジナルの歌詞を入れても良いし歌詞を入れなくてもよい。多くのチームが毎年こだわりを持って使用する民謡を選んでいることを考えると、曲はチームに個性を与えチームカラーを作り出す重要な役割を担っている。

手に鳴子を持って踊ることと、地元の民謡の一節を曲に取り入れることは、YOSAKOIの二大原則として守り継がれているが、それ以外にも運営に関わるいくつかの約束事がある。
まず人数の制限である。YOSAKOIとやまの一チームの員数は、20人以上150人以下である。YOSAKOIとやまでは札幌に次いで本州では最も大きいステージを提供しているが、2002年に180人で出場したチームはステージに乗り切らずに審査対象外となった。上限は150人以下としているが、実際舞台上で動くことを考えると120人が限界ではないかとAさんは語っていた。また20人以上というのは、チームの数だけが多くなると祭りの運営ができなることと、大きなステージに少人数だと見栄えがしないことが理由となっている。
またYOSAKOIとやまの場合、一チームの競技時間は出入りや準備、前口上、演舞を含めて4分30秒以内と決められている。これは試行錯誤の末、収まりの良い時間が4分30秒だったためである。第一回YOSAKOIとやまの際、YOSAKOIソーラン祭りが4分30秒と定めていたのをうけて4分30秒で運営してみたが、全てのチームが4分半も演舞をできなかった。その反省から第二回には4分と定めたが、今度は2年目になりYOSAKOIに慣れてきたため、4分を越えてしまうチームがほとんどであった。そして第三回からは4分30秒以内となったのである。他県のYOSAKOIについても4分半がほとんどである。

このようにYOSAKOIには大まかなルールしか存在しない。その真髄には、実際には格好の良いチームが自然と手本となり、基準になっていくYOSAKOIの伝統があるからである。札幌では、高知から手本となるチームがYOSAKOIソーラン祭りに参加したことをきっかけに、チーム同士がすれ違う際に鳴子を鳴らすというチーム間の交流方法や、謙虚で礼儀正しい姿勢やマナー、隈取りなどのメークが広がった。富山では挨拶や立ち振る舞い、後片付けといった慣習がまだできあがっていないのが現状である。県外のYOSAKOIへ参加した経験がある人は特にそのように感じているようだ。

YOSAKOIには二本柱としての決まりと、運営に関わる規定、そして格好の良いチームが見本となる約束事がある。その他、YOSAKOIとやまにはない運営規定には、音響設備を載せて走る地方車に関することや参加費に関することがある。

第四節 YOSAKOIとやま講習会

2001年春、YOSAKOIとやまへ参加する市民を増やすために「YOSAKOIとやま講習会」が始まった。内容としては、富山市報で講習会参加を呼びかけ、平日の夜や休日の午前中を利用し、富山市内の公共施設を使って、1時間半でさまざまなYOSAKOI踊りを教えるというものだ。一回あたりの講習会参加人数は、多い時で2002年は約250人、2003年は約300人であった。
1年目は、YOSAKOIソーラン祭りの総踊り曲「どっこいしょ」を教材に、2000年に大賞を受賞した「越中夢創隊」が指導を務めた。2回目は2001年の冬から始め、Aさんを含めた富山市役所職員が指導することになった。2002年の総踊り曲ができるまでYOSAKOIとやまと交流があった札幌のチームの曲を教材とし、できあがった3月からはYOSAKOIとやまが初めて作った総踊り曲「TOYAMA FOREVER」を指導した。2002年の祭りが終わって、県内のYOSAKOIチーム代表者が集うリーダー会議の中で、市役所職員が昼休みや休日を返上して講習会の講師を務める負担をなくそうという意見が出されたため、2003年の今年は指導者の担当をチーム持ち回り制にした。「今週は越中夢創隊さん、来週は風神さん、再来週は韋駄天HANA-BIさん」というふうに、毎週教えに行くチームが異なる担当方式になり、そのチームの中で総踊り曲を踊れる人が講師を務めるようになった。
今年のYOSAKOIとやま講習会は、今年の総踊り曲ができた2月から火曜日は19時から20時半まで、日曜日は10時から12時までの毎週2回、場所は富山市民芸術創造センターで開かれていた。芸術創造センターは、音楽や演劇、ダンスなどの創作活動を市民が気軽に行うために造られた練習専用施設である。今年は総踊り曲を2曲制作したので、1時間半を前半と後半に分けて、前半は「TOYAMA BIG STORM 〜嵐を巻き起こせ〜」を、後半は「剱山2003」を講習した。8月にYOSAKOIとやまを終えると、講習は毎週金曜日の19時から21時までの週1回になり、会場も市内数カ所で行った。11月から約2ヶ月は行われず、新年から新たな総踊り曲での講習会が始まる。
YOSAKOIとやま講習会は、YOSAKOIとやまへ参加する市民を増やす役割のほかにも、いくつか意味を持っている。まず、総踊り曲を学ぶ場としての役割である。YOSAKOIとやまでは祭りの最後に参加者全員が舞台に上がってその年の総踊り曲を踊る一斉演舞が毎年予定されている。チームそれぞれの演舞を競う以外の楽しみとして、一斉演舞に心奪われている参加者は多い。また、総踊り曲は演舞のレパートリーを増やすためにも一役かっている。このように、講習会には既にチームに所属している人も参加するのである。
もう一つは、チーム選びの場としての役割である。毎週違うチームが講師として講習会にやってくることで、まだどのチームにも所属していない市民は自分に合ったチームを実際に体験して選ぶことができるのである。調査では各チームも講習会をスカウトの場として活用していることがうかがえた。チームの年齢層や練習頻度、チームカラーなどを知るガイダンスの役割が講習会にはある。またチームに所属しないという選択肢も生まれている。「YOSAKOIとやまには参加したいが、生活が忙しくてYOSAKOIに時間が割けない」という人のために講習会を母体として祭りだけ参加する「お気楽かぶと虫」というチームが結成された。YOSAKOIを始めたい人にとって、気軽に始められるきっかけとなっている。

第五節 YOSAKOIとやまの特徴――他のYOSAKOI祭りとの比較考察

YOSAKOIとやまは他県のYOSAKOI祭りと比べ、独特の運営をおこなっている。札幌のYOSAKOIソーラン祭りを運営している長谷川氏は、しっかりと祭りを運営していくにはどこにも頼らない、独立した祭りの経営が必要であると述べた上で、「事務局の努力」、「参加者負担の原則」、「観客の応援体制」、「業界の分担」が重要であると挙げている。これら4つの項目を長谷川氏は資金確保という観点から挙げているのだが、私はYOSAKOIとやまと他のYOSAKOIを比較する着眼点として、これらの内から「事務局の努力」、「参加者負担の原則」、「観客の応援体制」の項目を用いることとする。YOSAKOIとやまはどのような特徴をもっているのだろうか。

一項 事務局の努力――非営利団体と行政
YOSAKOIソーラン祭りを運営しているYOSAKOIソーラン祭り組織委員会は、予算を約2億円と発表している。その内、札幌市からの補助金は300万円で全体の2%弱である。自主財源が80%を超えて補助金率が2%以下という、非営利団体が運営する形式をとっている。一般的な祭りの運営として例を挙げると「札幌雪祭り」の総予算1億4,000万円の内、行政の補助金は5,000万円で約35%を占める(坪井・長谷川 2002:142-143)。
また石川県のYOSAKOIソーラン日本海の場合、YOSAKOIソーラン日本海組織委員会を立ち上げて運営している。押水町商工会会長が組織委員会の会長を務め、温泉女将や押水町助役、新聞社事業局長などによって組織されているが、事務局業務を担っているのは小売業を営む民間会社の社長である(YOSAKOIソーラン日本海組織委員会 2003:「YOSAKOIソーラン日本海オフィシャルサイト」)。
一方、「富山まつり」の予算は2003年度富山市予算において3,300万円であった。第二章第二節でもふれたように、YOSAKOIとやまは「富山まつり」の一イベントとして催されているので3,300万円すべてがYOSAKOIとやまに費やされるとは言えないが、YOSAKOIとやまの運営を市の予算で賄っていることや、YOSAKOIとやまの事務局業務を市役所が行っていることを考えると、行政主導型という特徴をもっているといえる。また事務局の努力として、市役所職員が日常業務のほかに、ボランティア的な活動を引き受けていることも外せない。現在はYOSAKOIとやま講習会の講師を毎週チームが交代して受け持つようになったが、2002年は事務局のAさんが1年間講師を務めた。市役所職員が作曲家へ総踊り曲の依頼を行ったり、講習会の会場を手配したり、また県外のYOSAKOI祭りへ手伝いに行ったりなど、YOSAKOIを発展させていくために費やしている一個人の努力は計り知れない。

二項 参加者負担の原則
どの都道府県においてもYOSAKOI方式の祭りを運営するにあたって、会場設営は主催者側で責任を持ち、踊りの中身の音楽や衣装、振り付け、演出などについては参加チームで責任を持つという役割分担がなされている。このような参加者負担の原則の中には参加費も含まれる。
札幌YOSAKOIソーラン祭りの場合は、参加要綱に定められている参加形態によって参加費が異なるが、「一般チーム」は15万円(5万円)、「企業チーム」は25万円(20万円)、「子どもチーム」は4万円(無料)である(カッコ内は99年まで)。この内訳には運営協力金として、一人あたり年1200円の年会費も含まれている。組織委員会では年会費を拠出することによって一人一人が祭りの運営に関わっていることを確認する手段であると考えている。またお金を払って参加することにより、祭りに対する熱意が向上するとも考えている(坪井・長谷川 2002:108-110)。
石川YOSAKOIソーラン日本海についても参加費を徴収している。一般チームを例に挙げると、YOSAKOIソーラン日本海加盟費として年会費は1万8,000円。それ以外に年5回開催される大会参加費が一回につき2万円。音響機材を載せて走る地方車を借りる場合、大会ごとにその準備費として2万円が徴収される。
一方YOSAKOIとやまの場合、参加費は無料である。運営協力金も加盟費も徴収しない。YOSAKOI祭りにおいて参加費が無料というのは全国的に稀である。また、YOSAKOIとやまは参加チームが地方車を準備しなくても良いことも特徴である。他都道府県の地方車は、トラックの改造費や装飾、音響機材、大型免許を保有する運転手の確保が含まれるため、一チーム毎に相当の資金が必要である。しかしYOSAKOIとやまのパレードには、運営委員会が準備した地方車を各チームが交代で利用するため、チーム独自の地方車が必要ないのである。さらに地方車に対する負担金も発生しない。
YOSAKOIチームはオリジナル曲の制作や衣装などの出費はあるものの、他のYOSAKOI祭りと比べると経費は非常に少なく、祭りに参加しやすい条件が備わっている。

三項 観客の応援体制
YOSAKOIソーラン祭りの場合、全ての会場ではないが4時間2,000円の桟敷料を徴収している。道外からYOSAKOIソーラン祭りを目当てに札幌に来る観光客には確実に見物できると好評を得ているようだ。これは組織運営の経済基盤を築くのに役立っており、観客から祭り運営に対する応援体制である。また観客が携帯端末を利用し、投票によってファイナルコンテスト進出チームを選出する「観客審査」というシステムも取り入れている。第12回YOSAKOIソーラン祭りでは、観客審査において総投票数35,657票のうち、2,512票を獲得した一チームがファイナルコンテストに出場した。一般審査員を観客の方から選出するのではなく、幅広い観客の「声」を集約できる方法として実施している。もう一つ、「観客メダル」という試みも始まっている。パレード会場で一人一人の観客が魅力的だと感じる踊り子に対して個人賞のメダルを贈呈するというものである。
このように札幌ではさまざまな形で観客が祭りを支えていることがうかがえるが、実際に富山県から県外のYOSAKOI祭りに参加した調査者は次のように語った。「札幌は、良い時間に踊ることはないし、ネームバリューもないチームだから、観客は閑散としていた。東北は、祭りが街に溶け込んでいて、毎年楽しみにしているお客さんもいて、会場も観客でいっぱいだった。名古屋のような都会は、YOSAKOIを見るために来るのではなく買い物の序というような人が多かった。石川県は観客より参加者の方が多くて、踊り子がお互いに演舞を見合っていた。」
YOSAKOIとやまの目的は「市民が一堂に介して夏のその日を楽しむ」ことであり、主要な観衆は市民である。富山まつりは税金を支出して催されている祭りであるから、その意味で市民は祭りを支えているといえる。祭りの予算を確保できる条件は、毎年YOSAKOIとやまへの参加者が増加することであり、祭りが民意で続いていることを示す必要がある。実際に平成14年度に行われた行政サービスに関する「生活環境の満足度」調査では、「チンドンコンクールや富山まつりなどのイベントの開催」に対する満足度は5点満点中3.2点であり、72項目中1位の「水道水のおいしさ」、2位の「下水道などの生活排水処理」に次いで3位であった(富山市役所企画管理部企画調整課 2003:「平成14年度『富山市民意識調査』の結果について」)。この調査結果を踏まえてさらに言えることは、富山の人は他のYOSAKOI祭りと比べて見ることが好きな人が多いということである。YOSAKOIとやまに参加した北海道のチームが「北海道で踊るのと富山で踊るのは全然違う。お客さんの反応が良い」と感想を語ったように、YOSAKOIとやまの観客は反応が温かい。
このようにYOSAKOIとやまにおける観客の応援体制は札幌のように前面に押し出された体制を整えているわけではない。しかし行政主導型という特殊な基盤を最大限に活用していることに加え、市民は祭りを見に来る役割を充分に果たしているといえる。観客の単純にして最大の役割であるパフォーマーを高揚させ得る反応を示すという応援の手段がYOSAKOIとやまにはある。

第六節 まとめ

YOSAKOIとやまは、1961年から現在まで毎年8月初旬に開催されている「富山まつり」の一つのイベントとして、1999年から行われている。
YOSAKOIとやまの主導的運営は富山市役所で行われており、富山市役所観光振興課が事務局の役割を果たしている。富山まつりは富山市の予算によって運営され、参加者からは参加費を徴収していない。このような行政主導型の運営は全国的なYOSAKOI祭りと比較しても特殊なケースである。
しかし市役所が単独で祭りを進めているわけではない。YOSAKOIとやまには、参加者の反省や要望、意見を聞き入れるリーダー会議が設けられている。これまで、このリーダー会議によって舞台の改良や「YOSAKOIとやま講習会」の運営方法、「オープングループ」の結成などが議論された。リーダー会議は、市民が直接担当者と協議することができるタウンミーティングとしての役割を担っている。
YOSAKOIとやまへ参加する市民を増やすため、2001年春から「YOSAKOIとやま講習会」が毎週富山市内の公共施設で催されている。YOSAKOIとやま講習会は、市民がYOSAKOIを気軽に始めるきっかけを与えている他に、既にYOSAKOIチームに所属している人も毎年制作される総踊り曲を学ぶ場として活用している。また毎週違ったYOSAKOIチームが講師として踊りを教えるので、まだチームに所属していない市民は自分にあったチームを体験して選ぶことができるガイダンスの場としての意味も果たしている。逆に、YOSAKOIチームはメンバーをスカウトする場としても利用している。
YOSAKOIとやまは、行政主導型という特殊な基盤をもち、一種の行政サービスとして市民に夏の楽しみを与えている。高知県と北海道に次ぎ、3番目に大きい規模のステージを設営したり、祭りの参加費が無料であったり、またYOSAKOIを練習する公共施設を安価で借りることができたりというメリットは、YOSAKOIとやまが行政主導型であるという理由に尽きる。行政主導型という祭りの運営は、予算や企画の面で一見不利なように見受けられる。しかし新しいYOSAKOIという祭りを行政が運営したことによって、市民は身構えることなく祭りを受容することができたといえる。YOSAKOIとやまは毎年新しい催しを企画し、市民に楽しんでもらえる祭りを、そして魅力ある祭りを目指して開催されている。

第三章 YOSAKOIと関わる人々

第一節 YOSAKOIチームの事例紹介

一項 韋駄天HANA-BI(いだてんはなび)
調査協力者 Bさん・女性
第1回YOSAKOIとやまを開催する際にテレビ番組の企画としてチームを結成。後に一般のチームとして存続し現在に至る。人数は約35人前後。年齢層は高校生から30代の主婦までが所属し、平均年齢層は20代後半。イベントへの出演ペースは月に一度で、他のチームと比べると少ない。
Bさんは30代前半で、チーム結成時からチームに所属している。富山県八尾町に生まれ「おわら―風の盆」の踊り手として幼少の頃から踊りに親しんで育った。

二項 越中夢創隊(とやまドリームメーカーズ)
調査協力者 Cさん・女性
第2回YOSAKOIとやまから参加しているチーム、通称「ドリメ」。大賞受賞回数が3回あり、YOSAKOIソーラン祭りへの出場経験をもつ。人数は約70人前後で、高校生から60才までの年齢層があるが、最も多いのは20代である。練習が週に3回あり県内チームの中では最も頻度が高い。
Cさんは20代後半で、第3回YOSAKOIとやまから参加している。YOSAKOI以外にも「富山市チンドンコンクール」やボランティア活動など、さまざまな事柄に興味をもち取り組んでおられる活動家である。

三項 よっしゃKOI(よっしゃこい)
調査協力者 Dさん・男性
2001年、新湊市青年会議所主催の祭りでYOSAKOIソーラン祭りの「どっこいしょ」を踊ったメンバーが中心となって同年11月にチームを結成。YOSAKOIとやまへは第4回から出場。富山県のチームでは珍しく、石川県の大会「YOSAKOIソーラン日本海」へ加盟している。現在のメンバーは50人程度で、小学生から40代女性までの新湊市民が中心となって所属しているが、主な年代は20代前半である。
Dさんは現在23才、チーム結成時から参加している。

チームの運営について共通する特徴を述べる。
まず、ショッピングセンターや自治体などで開催されるイベントに出演し、その謝礼金をチームの収入として財源化していることが挙げられる。主な支出内容としては曲制作費や衣装代の補填として用いられる。県外の大会へ出場する場合は交通費の他、大会出場料が徴収されるためさらに支出が増える。

次に、オリジナル曲を所有しており、毎年新たな曲を制作していることが挙げられる。各チームは曲に取り入れる富山県の民謡を選択したのち作曲家に曲を依頼する。曲が完成するとチーム内の振り付け班が振り付けを作成する。また衣装班が衣装デザインを考え業者へ発注する。

そして、年間を通じてスケジュールが周期的に組まれ運営されている。表4−1には3チームの年間スケジュールを表記した。いずれもYOSAKOIとやまを軸とし、準備期間をオフシーズン、本格的な練習を開始した時点からシーズンは到来し活動をはじめる。曲が完成しないと振り付けも衣装も作り始められないことを考えると、いずれのチームも曲の発注を新シーズンの取り掛かりとしていることがうかがえる。

(表3−1)

〜2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月

オフシーズン

シーズン

韋駄天HANA-BI 練習頻度
(週2回)
本格的な
練習開始
(週3回)
衣装製作
YOSAKOIとやま

オフシーズン

シーズン

越中夢創隊 イベントに参加
(毎週1回)
練習頻度(週1回)
曲発注(9月)
振り付け考案
衣装発注
本格的な
練習開始
(週3回)
札幌YOSAKOI
ソーランへ出場
YOSAKOIとやま

オフシーズン

シーズン

よっしゃKOI イベントに参加
(毎週1、2回)
練習頻度(週2回)
曲発注(11月)
振り付け考案
衣装発注
本格的な
練習開始
(週2回)
YOSAKOIソーラン
日本海へ出場
(11月まで
  毎月1回)
YOSAKOIとやま

もう一つは、どのチームも男女の割合が男性約15〜25%に対して女性約75〜85%となっており、ヨサコイ参加者の比重を女性が占めていることが挙げられる。Dさんのチームでは練習時間が平日の夜7時から9時と決まっていることで、専業主婦やパートタイマーなどある程度時間に融通がきく女性がYOSAKOIに参加しやすいのではないかと語った。YOSAKOIの参加者には専業主婦やパートタイマーのほかに、フリーターや変則勤務者、福祉施設従事者が多いと言う人もいた。実際私が練習を見学に行った韋駄天HANA-BIの場合は、7時からの練習にも関わらず皆が集まるのは8時頃で、9時を過ぎてから駆けつける人もいた。仕事とYOSAKOIの両立は思う以上に難しいといえる。しかし多忙な男性も少なからずYOSAKOIに参加していることを考えると、「YOSAKOIは女性の踊り」だという先入観は持つべきではない。その先入観が男性を入会しづらくさせている一因とも考えられるのである。

YOSAKOIに参加するチーム形体は編成の方法によって、「地元地域型」、「学校型」、そして「婦人部型」に分類できると坪井・長谷川が紹介している(坪井・長谷川 2002:72-76)。事例で紹介した3チームはすべて地域のリーダーの提案と努力によって誕生した経緯をもつ地元地域型である。学校型は、学校を母体としてその構成者(生徒、教員、父兄)によって組織されている。婦人部型は、主婦のみなさんや商工会婦人部がチームを結成し、地域のお母さんたちがリーダーとなっている。
またそれらのチーム編成とは別に、富山にはオープングループと呼ばれる組織がある。オープングループは、YOSAKOIとやまに出場する際「オープン参加」として審査対象外となるが、チームにとらわれずヨサコイをやっている多くの人との出会い、交流を目的に結成されているグループであり、趣旨に賛同する個人がチームという枠を越えて参加している。オープングループの一つである「楽笑」は、県内のさまざまなチームから参加者が集まり、目標を設定した方が交流しやすいという考えからYOSAKOIソーラン祭りへの出場を主眼として活動している。もう一つのオープングループである「お気楽かぶと虫」はYOSAKOIとやま講習会を母体として成り立っている点が特徴で、チームに所属するほど生活にゆとりがもてない人にとって気楽に祭りに参加することができるグループである。

 

第二節 メンバーの入会過程

Bさんは、第一回YOSAKOIとやまを開催するときにBさんの職場へ出場依頼が来たので参加することになった。Bさんによれば、韋駄天HANA-BIのメンバーは当初、友人、知人の繋がりによって募集していた。元々奥さんがヨサコイをやっていて、それを見に来た旦那さんが入会するケースもあった。近年では、友人の繋がりの他、YOSAKOIとやま講習会で声をかけ、スカウトをするケースもある。また、ホームページを通じて広く募集を行っている。
Cさんはチンドンをやっている仲間が先にヨサコイを始めていて、「私もチームに入れてください」と入会を希望した。越中夢創隊の一期メンバーは、友人、知人の紹介で集まった。そのあと大賞を受賞したこともあってイベントへ行くたびに「入れてください」と声をかけらてくる人が現れた。結成1年目から2年目にかけて地元情報誌などを用いてメンバー募集の広報活動を盛んに行っていたので、それらを頼って入会するケースがあった。またホームページからメールによる問い合わせができるようになり、そこから入会するケースがある。
Dさんは、獅子舞をやっている仲間に、青年会議所主催のイベントで踊りを踊るので参加してほしいと誘われたその踊りがYOSAKOIソーラン祭りの「どっこいしょ」だった。それをきっかけに、YOSAKOIを踊るチームを結成しようという話が起こり賛同する。よっしゃKOIが仲間を集める広告媒体として一番活用したのは地元情報誌と近隣市町村の広報だった。1年目は多くのイベントへ出てチームを知ってもらうと同時に、踊りが終わると会場で何千枚ものメンバー募集のチラシを配布した。現在では友人の紹介からの入会が最も多い。ホームページからの入会は有名なチームになれば可能性はあるが、無名のときは無いとしている。

メンバーの入会過程についての流れを図式化した(図3−2)。きっかけは、既にYOSAKOIをやっている友人や知人から誘われて入会する“知人による勧誘”と、地元情報紙やイベント会場で配布するチラシ、YOSAKOIチームが管理しているホームページを頼りに入会する“メディア”からがある。チームを結成した初期の頃はどのチームも友人、知人の繋がりを頼りにメンバーを増やしていった。その後、イベントへの出演機会が増えてチームの知名度が上がったり、YOSAKOIとやまで受賞したり、チームの規模が大きくなるにつれて、“知人による勧誘”だけでなく“メディア”からの入会へときっかけが多岐にわたっていった。
YOSAKOIにこれから参加したい人にとって“知人による勧誘”は自分を導いてくれる頼もしい存在であるが、近年、“知人による勧誘”にとって新たな変化を与えているといえるのが「YOSAKOIとやま講習会」である。YOSAKOIとやま講習会は、YOSAKOIとやまへ参加する市民を増やそうと富山市内の公共施設を利用して行われているYOSAKOIの講習会である。毎週異なるYOSAKOIチームが踊りを指導する「持ち回り制」で運営されている。YOSAKOIチームにとっては、今までは先輩や後輩、職場の同僚といった限られた知人関係からメンバーを集めることしかできなかったが、講習会によってYOSAKOIという興味を共にする集団の中からメンバーを募集できるようになった。実際に韋駄天HANA-BIでは、講習会によって知り合った市民がメンバーとして加わっている。一方、まだチームに入会していない側から考えれば、さまざまな特徴をもつチームの中から自分の目標や生活に合ったチームを選択することができるのである。また、今まではYOSAKOIチームに所属しなければYOSAKOIを踊ることができなかったが、講習会の開催によってチームを所属せずにYOSAKOIを楽しむという選択肢も増えたのである。
メンバーの入会とは逆に退会していくメンバーもいる。理由としては、仕事とYOSAKOIの両立が難しくなった事や、妊娠・出産・育児といった生活の変化、チームが目指す方向性と自分が目指す方向との不一致などが調査では聞かれた。しかしどのチームもメンバーは極端に減ることはなく、毎年入会する人と同数の人が退会していく程度であるということであった。

 

第三節 人びとを惹きつけるYOSAKOIの魅力――参加する意識

YOSAKOIに参加する人々はどのような意識をもって参加しているのか。参加意識に対する調査の中からさまざまな魅力について語られたものを、四項目に分類し、それぞれが持つ意味について考察する。

一項 YOSAKOIの手軽さ
Cさんは、YOSAKOIと他の芸事との違いについて、「民舞のようなものをやりたいと思っても覚悟がないと始められないという点で敷居が高い。でもYOSAKOIはそれを少し降ろしてあって手軽に始められる。」と語った。またYOSAKOIは「何歳からでも始められる。そんなにルールや資格がないから誰でもできる。」と年齢や難易度のハードルがないことにYOSAKOIの手軽さがあると語った。Dさんは、YOSAKOIを始めやすさについて「ダンサーとは見えない普通の市民でもやっているから」と語った。YOSAKOIを見た人は自分にもYOSAKOIができるのではないかという理想をすぐに抱くことができる。また「特別な靴や服を購入する必要がない」と始めようと思いたったら特別な準備をせずに始められる点にも気軽さがあると語った。「CDやビデオといった教材があり、振り付けもヒップホップや社交ダンスに比べると簡単である。」と他の踊りとの違いも語られた。

YOSAKOIと他の習い事を比較した場合、先生に習いに行くわけでもなく、揃える道具も鳴子だけという点は参加者だれもが感じている手軽さである。練習に参加する服装はスポーツウエアや動きやすい普段着などで、靴も履きなれた運動靴である。踊りはチームによって異なるが、リズムに合わせて手足を動かして鳴子を鳴らしたり、飛び跳ねたり体の重心を上下に移動させたり、場面転換でフォーメーションの移動をしたりなど、日々の練習によって身に付けることができる程度である。年齢に関係なく資格もなく、ルールも簡単で踊りも簡単。この手軽さはYOSAKOIの魅力を語る上で欠かせない要素である。

二項 地域性の意識
Cさんは、YOSAKOIを「富山を大事にできる」祭りと捉え、「富山で生まれてきて私はすごく富山が大好きだと思っていたので、何か恩返しできる活動をしたい」と思いYOSAKOIに関わっていると語った。また、「私が生まれた地域は新興住宅地だったので伝統芸能や祭りがなかった。隣の町内は獅子舞があって、小学生ぐらいから祭りがあることが羨ましかった。自分の所にないのだったら作るしかないと思ってYOSAKOIを始めた」と参加したきっかけを語った。第三章第一節でふれたYOSAKOIのオープングループ『楽笑』の設立に関して「チームを立ち上げた時に札幌を皮切りに東北、大阪、名古屋、高知へ行けたらいいねと語っていた。全国に富山県の人みんなで富山を発信しに行こうというコンセプトもあった。」と振り返り、YOSAKOIを全国へ富山を発信する手段として捉えられていることがうかがえた。
Dさんは、「新湊がすごく好きなので、他のチームよりも全面に新湊市を押し出しています」と語り、その方法の一つとしてYOSAKOIの舞台で振る旗に大きく「しんみなと」と描かれている。「新湊を有名にしたい」という一心な気持ちが現れている。また曲作りに関して、「新湊市で喜んでほしいから新湊市に伝わる民謡を入れました。その民謡は『のじた踊り』というのですが、ほとんど原曲で入っているので小さい子からお年寄りまで楽しめると思います。新湊で踊った時は皆さん「のじーたぁー」って歌われます。曲の賑やかなところは、新湊に80ぐらいある獅子舞の歌を作曲される方に渡して作ってもらいました。だからとても新湊市、地域を意識していますよね。」と地域性へのこだわりがうかがえた。

Dさんが参加しているよっしゃKOIでは、地域で伝え継がれている「のじた踊り」と獅子舞を曲の中に取り入れ、さらに応援団旗のような大きな旗には「しんみなと」と書いてある。YOSAKOIのルールの一つである「その土地の民謡を取り入れる」という要素を用いて、地域の魅力を発信している事例である。生まれた地域に祭りがなかったCさんはYOSAKOIに出合い、地域に恩返しができる活動としてYOSAKOIと関わるようになった。「その土地の民謡を取り入れる」という規定は“こだわり”として捉えられ、地域の良さを再発見して、地域を全国へ発信する有用な手段となっているのである。

三項 パフォーマーとしての高揚
Bさんは、YOSAKOIに参加する目的を「単に楽しいから」と語った。その楽しさは「アホみたいに熱くなれるし、賞が取れなかったとしても達成感や感動が味わえる」ところにある。また「ステージに上がってライト浴びて、みんなの視線浴びて拍手を浴びる。そういう環境で踊るというのは、普通の人はあまり経験しない。」そして「出番までは『ドキドキする』と言いながら、ステージに一度上がったらまた上がりたい、意外と気持ちいい」とパフォーマーが病みつきになっていく心理を語っていた。また「本番までに一生懸命練習して大変な思いをしてその成果を出せて拍手をもらうから、達成感と観客の反応があいまって、余計に気分が高揚するのかもしれない。」と、努力の積み重ねと観客の反応が高揚に起因していると考えている。その観客に対しての思いは、「自分たちが楽しいのは当たり前だけど、見てくれている人も楽しくなきゃ、それは本当の楽しさじゃないだろうと思う。この楽しさを分かち合いたくて、その民謡を聞いたことがないお客さんも歌のフレーズを口ずさめる曲を作りたい、必ず耳に残るフレーズを使いたいと思って曲を作った。演舞を通してYOSAKOIの良さを一人でも多くの人に味わってもらったり、楽しんでもらったりできればいい」と、積極的に観客が楽しめるよう工夫を凝らしている。
CさんもYOSAKOIはパフォーマーと観客の相乗効果があると語っていた。「“こっち(演舞者)も楽しい、あっち(観客)も楽しい”(:引用者)みたいなものがお互いに高まってゆくのが感じられたら楽しいです。」と観客の反応があってこそ楽しさが感じられるとしている。また「見てくださった方々に感動を与える演舞をすることが大きな目標で、そのための手段としてYOSAKOIとやまの優勝が入ってくる。」と受賞が主眼ではなく、感動を与える演舞ができたときに自ずと賞が与えられるものだと考えている。Cさんは調査の中で今まで自分の住んでいる地域に祭りがなかったことにふれ、「祭りを知っていたら獅子舞の方が楽しいという人もいると思うけど、私は祭りを見る楽しさは知っていても、やる楽しさは知らなかった。だからYOSAKOIとそれらの祭りは意味合いは違っても通じるところがあると思う」と語った。YOSAKOIとやまのさまざまな場面の中で「祭りの最後に入り乱れてドッカーンと騒ぐあそこが本当に祭りだなと思う。(中略)最後の総踊りのところは『あー、祭りをしているな』と感じられるので大好きです。」と祭りの最後に行われる総踊りに魅力を感じていることもうかがえた。
DさんはYOSAKOIを始めて「人の前で踊る楽しさを覚えた、ハマった。」という。人の前で踊る機会について「ヒップホップなどの大会は本格的な大会しかイメージできないが、YOSAKOIだったらそこまでの大会じゃなくてもスーパーマーケットやイベントなど、どこかで踊れるというような気軽さがある。」と、YOSAKOIは発表の機会が恵まれていると語った。またYOSAKOIを踊る中で「強い願望としてはお客さんがニコニコしている顔を見たい。最後に“ワー(拍手する)”と拍手喝采になるようにしたいという思いは絶対あります。」と、Dさんもやはり観客の好反応を期待している。

祭りに参加したことがなかった人はYOSAKOIによって参加する楽しさを知り、既に知っていた人もYOSAKOIによってまた違った祭りの楽しさを享受している。素晴らしい演舞をしたい、そして見てほしいという思いを全ての人が抱いている。パフォーマーは拍手や一緒に掛け声を出すといった観客の反応によって、さらに高揚を高めていることが読み取れる。第一章のフィールドノーツにも記したように、一緒に手を動かしたり、掛け声をかけたり、団扇をリズムに合わせて振ったりといった観客の反応が観察できた。ステージから幾重にも重なった人の輪と、好反応を示す観客を目の当たりにした参加者は、さらに高揚し病みつきになるのである。またYOSAKOIとやまの最後には、参加者全員が舞台に上がり、その年の総踊り曲を演舞する一斉演舞が催されている。この一斉演舞は観客にとっても圧巻である。YOSAKOIは、大会に限らず発表の場がスーパーマーケットやイベントなど年間を通じて多く提供されている。踊る楽しさを覚えたパフォーマーは、さまざまな場所へ出かけ、多くの人に素晴らしい演舞を見てもらい、欲求を満たすことができる。

四項 協同と自己実現
Bさんは、学生時代と社会人の違いとして「例えば学校だったら、クラスだったり運動会のチームだったりサークルだったり一括りがあって、同じ目標に向かって物事を作り上げていこうとか進めていこうということがわりと多くあるけど、社会人になって“一つのことを作り上げていく喜びみたいなもの”を経験する場がなくなった。一つのことに没頭できることって少ない」と語り、社会人になって経験することがなくなった“協同”をYOSAKOIに見出した。そして「私にとってのYOSAKOIはライフワークの一つになりつつある。生きがい。」と自己の中でYOSAKOIが占める割合が高いと語った。また「自分たちも楽しみたいから毎年曲を変える。毎年曲を変えないとメンバー自体みんなが飽きるから。」と、YOSAKOIに飽きないように、“一つのことを作り上げていく喜び”が継続されていくように、毎年楽曲を作る工夫がある。
Cさんは大学を卒業してから、「長く続けられるものをもちたい、人と集まって何かを作り上げたい」と考え、いろんなことをやってみてYOSAKOIに至っている。YOSAKOIを自己実現の手段と捉え、仕事とか家の生活だけだったら「もっとこんなことできるのに」って燻ってしまう部分を全部一気に発散できる、力を発揮できるところにYOSAKOIの魅力を感じている。YOSAKOIに取り組む感じを「いっぺんにギュっとドッと出して搾りきって、またステップアップするぞと思える」と表現している。また「仕事をしているからこそYOSAKOIをしてほしいと思う。」と語り、「仕事だけだとどうしてもいきづまったりするから、違う場所もあるといいと思う。」と、YOSAKOIを息抜きの場としても捉えていた。
DさんはYOSAKOIチームを結成した経緯について、「毎年それ(=どっこいしょ ※YOSAKOIソーラン総踊り曲)ばかり踊っているとつまらない。踊るほうも見るほうも飽きてしまう。そこから外れて面白い何か『YOSAKOIをやろうじゃないか』と『もうちょっといろんな曲を踊れるようにしようじゃないか』ということで、チームを作った。」と語った。YOSAKOIには次々と新しい踊りにチャレンジできる土俵が備わっている。そして「最初はやっぱり自分の中でYOSAKOIが楽しいから始めたのだと思います」と単純にYOSAKOIと自分がつながったと語った。

日々の生活の中で自分に刺激を与え、向上し、表現していく場所を見つけることは難しいことである。そのような場所は人それぞれであるが、調査協力者はYOSAKOIという場所を見つけて自己実現の場として携わり、そしてライフワークとして共に歩んでいる姿がうかがえた。時間と情熱を傾けるその先に、仕事の息抜きを求めたり、社会人になってから経験することがなくなった達成感や感動を求めたり、あるいはみんなで一つのことを作り上げていく喜びを求めている。毎年新たな曲ができて踊りのレパートリーが増え、メンバーも入れかわっていくYOSAKOIは、いつでも新鮮で意欲をかきたてる。YOSAKOIはあらゆる人の自己実現を可能にしている。

 

第四章 考察

第一節 差異と協同――YOSAKOIとやまの特徴

祭りが時代の流れと共に変容を遂げたことは先行研究によって知られている。
古代、村落の実生活を形成する枠組みである「政」とカミによる共同の枠組みである「祭」とは、表裏の関係になっており、祝祭は社会統合のための必須の装置として機能してきた(閉鎖系祝祭)。しかし現代では、祭礼は「カミへの共同祭祀」としての本来の意義を失っている。人々が居住する地域空間は、日常生活を構成するたくさんある生活空間のうちの一つであるにすぎず、人々の生活を全的に囲いこむものではなくなっているからである(松平 1990:9-10)。
現代の祝祭は、個人の自由意思にもとづいて、あらゆる時間の中からその一部を切り取って、楽しみとしての祝祭を選びとる対象となっている(開放系祝祭)。これは祭りを見る側に限らず、する側も同様であり、過去の地域社会や企業、学校といった「選べない縁」で祭りの参加者を構成するのではなく、都市生活者が新たな祝祭の中で独自のコミュニケーションの在り方を発見し、個人同士がネットワークを作り出す「選べる縁」で祭りに参加している(同:344-347)。
YOSAKOIとやまは、第一回こそ既存の団体に参加を依頼して祭りをスタートさせていったが、その後YOSAKOIを踊ることを目的としたチームが多く結成されていった。第三章第一節で紹介したチームと参加者は、すべて個人が自由意思でYOSAKOIを選択し、「選べる縁」によってチームを形成し、祭りに参加している事例である。
しかし現代はYOSAKOIに限らず、日常の中でエネルギーを爆発させようと思えば、日常の灰色生活とは違う世界がたくさん広がっている。週末の繁華街やコンサート、カラオケや映画など、刺激的な世界が日常には開かれている(松平 1994:18)。
ではYOSAKOIに参加する人々は、なぜ他の刺激的な機会ではなくYOSAKOIを選びとったのであろうか。
まず一つ目にいえる点は、「パフォーマーとしての高揚」が得られることである。第三章第三節三項でBさんが語ったように、普段ステージに上がってライト浴びて、みんなの視線と拍手を浴びて踊るということは経験しない。YOSAKOIのステージには鮮やかな照明と身体を突き抜ける音楽という日常体験しない装置が備わっている。そこに気持ちよさを見つけ、祭りを“する”楽しさを発見している。加えてさらに重要な点は「観客に見られる」という行為である。Bさんは「本番までに一生懸命練習して大変な思いをしてその成果を出せて拍手をもらうから、達成感と観客の反応があいまって、余計に気分が高揚するのかもしれない。」と、努力の積み重ねと観客の反応が高揚を起こすと考えているし、Cさんも観客の反応があってこそ楽しさが感じられるとし、Dさんも人の前で踊る楽しさにハマり、観客の好反応を期待しながら演舞している。
一方の観客はというと、第一章のフィールドノーツに記したように、会場に設けられた長椅子やブルーシートには座りきれないほどの観客が、幾重にも人の輪を作ってステージを見つめている。さらに一緒に手を動かしたり、掛け声をかけたり、団扇をリズムに合わせて振ったり、拍手を送ったりといった反応を示す。祭りが終わり帰る頃には観客も高揚し、満足感を得る。
YOSAKOI以外の、例えば盆踊りやカラオケなどにも“見る”―“見られる”関係が発生していると考えられる。盆踊りでは櫓を中心に踊る人が取り巻き、さらにそれを取り巻く観衆がいる。カラオケもマイクを持つ人がパフォーマーとして見られ、その人以外はパフォーマーに注目する。しかしそれらには「見る人々が、単に見る立場に固定されず、する立場への逆転が激しく行われる」(松平1990:351)“見る”―“見られる”関係の揺れがある。そして盆踊りもカラオケも“見られる”ことが第一の目的になされているとは考えにくい。しかしYOSAKOIの場合、ステージと観客席という舞台装置によってしっかりと“見る”―“見られる”関係は分かれており、さらに調査から演舞を“見られる”ことが重要な目的とされ、個人の楽しみの指標も観客の反応によって測られている。このようにYOSAKOIは、“見る”―“見られる”関係が際立っているからこそ日常感じられないパフォーマーとしての高揚を得ることができ、その点が重要なのである。
楽しみの選択肢からYOSAKOIが選びとられるもう一つの特徴は、YOSAKOIが「差異」と「協同」の両方を感じることができるという点である。
まず差異という点では、YOSAKOIは各チームがオリジナルの曲を所有し、それに伴って振り付けも衣装もチーム毎に異なっている。盆踊りや獅子舞は、地域によって踊りや曲調が違っていても、その地域においてそれぞれ違う踊りを演舞するということはまずありえない。しかしYOSAKOIは、各チームで制作した曲と踊りを披露する。
これを空間的な横軸の差異と表現すると、さらにYOSAKOIにはこの差異に加えて、時間的な縦軸の差異も備わっている。それは第三章第一節のチームの運営で記したように、各チームは毎年新たな楽曲を制作するということである。曲に取り入れる富山県の民謡をチーム内で相談したのち、作曲家に曲を依頼する。曲が完成すると振り付け班が振り付けを作成しはじめ、衣装班が衣装デザインを考え業者へ発注する。年々チームが継続していくにつれて、所有するオリジナル曲が増えていくことになる。第三章第三節四項でBさんが語ったように、毎年曲を変えることによってメンバーは飽きることなく楽しみを継続できる。またDさんは、実際に毎年YOSAKOIソーラン祭りの総踊り曲ばかりを踊っていて飽きてしまったところから、YOSAKOIチームを発起した。YOSAKOIには、他のチームと異なる演舞をすることによって味わう差異と、毎年新しい楽曲を作ることによって惰性的に繰り返されないようにする差異が備わっている。
もう一つの協同という点では、第三章第三節四項でBさんは学生時代と社会人の違いとして「例えば学校だったら、クラスだったり運動会のチームだったりサークルだったり一括りがあって、同じ目標に向かって物事を作り上げていこうとか進めていこうということがわりと多くあるけど、社会人になって“一つのことを作り上げていく喜びみたいなもの”を経験する場がなくなった。」と語り、YOSAKOIでは社会人になって経験することがなくなった“協同”を曲作りや振り付け、踊りの練習から体験することができるとしている。またCさんも、「人と集まって何かを作り上げたい」と考え、社会人になってからいろんなことをやってみてYOSAKOIに至っている。このようにYOSAKOIには“協同で創造する喜び”を経験することができるのである。
第二章第二節で運営側のAさんがコンサートを例に挙げて、YOSAKOIと日常の刺激との差別化を図ることを強調したように、現代の日常には刺激があふれている。そして祭りは“楽しみ”の一つとして選び取られる時代になった。YOSAKOI参加者は自己充足的な価値によってYOSAKOIを選び、関わり、“楽しみ”を見出している。日常の中にある多くの“楽しみ”の選択肢からYOSAKOIが選ばれている理由としては、第三章第三節で述べた「YOSAKOIの手軽さ」や「地域性の意識」といった魅力があることに加え、さらに日常感じることができない「パフォーマーとしての高揚」がYOSAKOIにはあり、“見る”―“見られる”関係が特に際立っている点が特徴としていえるのである。またYOSAKOIには、毎年新しい曲と踊りを制作するという差異と、各チームが異なる演舞をするという差異がある。これは人が持っている“人と違ったことをしたい”という欲求を満たす魅力であるが、対向する欲求である“人と一緒にしたい”という欲求も満たすのである。それは、曲作りや振り付け、練習から体験する、“協同で創造する喜び”を味わうことができるという部分である。YOSAKOIは、人が持っている二大欲求である“人と違ったことをしたいという欲求”と、“人と一緒にしたいという欲求”の両方を兼ね備えており、現代社会に生きる人々にとって選びやすい選択肢を提示しているのである。

 

第二節 「行政主導型」の利点

祭りが、生活共同の社会の崩壊によって、地域社会統合のための機能を果たさなくなったことは先に述べた。そのきっかけを明治政府による中央集権化とみる論者は多い。
市制・町村制にみられる国家の地方政策によって、祭りは地域社会の共同認知を再確認するために重要な祝祭行事でありながら、国策に対応した地方行政の支配関係を基礎として目的的につくりだされた社会的行事へと意味付けを変える(松平 1990:330-332)。また地域の教育機能が祭りから国家へ移行した点も挙げられる(竹沢 1998:69)。直接的なものでは中央政府が地域社会の結集と高揚の機会を国家管理するべく祭禁制の県令を出した地域もある(同:66)。
このように祝祭は社会システムの変化によって祭の主体が変更され、いつしか地域社会が主体である祭りから、行政や商工団体が運営、管理する祭りへと引き渡されていったのである(竹沢 1998:71)。
松平誠は、日本の都市祝祭を「閉鎖系」祝祭と「開放系」祝祭に分類したのち、さらに「開放系」を「合衆型」と「管理志向型」に分類した。合衆型とは、祭りを“する人々”と“見る人々”は画然と区分けされているのではなく、祭りを構成する全体として両者の区分が稀薄化している型を指す。“見る人々”は単に見る立場に固定されず、する立場への逆転が激しく行われる。個人を単位として祝祭を構成するために集合するところから、松平は「合衆型」と分類した。もう一方の管理志向型は、“見る”―“する”関係は開放系と同じでありながら管理社会的な圧力が加わった祭りのかたちを指す。つまり、祭りの計画や企画を行う者が独立し、“する人々”は企画者と行為者とに分解される。祝祭の計画団体や企画専門会社のどの事業者が祝祭の主役となり、本来の“する人々”である出演者は主役の立場から転落し、“見る人々”と一括りにされる。そして企画者・事業者の目的意図に従属し、当該事業の遂行に奉仕しているかたちとなる。合衆型では祝祭の主体となっていた個人の集合は不在となり、その部分がそっくり管理的な企画の中に吸いあげられている点から「管理志向型」と呼ぶ(松平 1990:350-357)。
現代の祝祭において、個人は自由意思で祝祭の場を見出して自己充足的な価値を追求しているはずが、実際にはその祝祭は企画事業者が自己充足できる共同の場を意図的に作り出している管理志向型祝祭が多い。松平は「企画専門会社の手でつくりだされている多彩で華麗な一過性のイベントがその代表的なもの」(同:357)とした上で、「行政や商工団体によって各地の都市で行われているイベント行事にもそのようなものが多い」(同:357)と述べている。また森田三郎も同様に、「何々祭りとよばれている行政主導型の祭りは、本当の祭りではないという批判がなされることがよくある。――中略――行政当局者は住民に連帯感をもたせられるようなイベントを企画する。住民は行政によるおしきせのイベントに自分たちの本音を表現する場をみいだすことができない。何々祭りの企画者はそのイベントを祭りにしたいのだが、その何々祭りの参加者は単なるイベントとしてしか受け取れない。企画者と参加者の意図のくい違いが起こる。」(森田 1990:120)と指摘している。
これらの主張は、「行政主導型」が祭りに対して不利に働くことがあると示唆している。第二章第二節で触れたように、YOSAKOIとやまが催される「富山まつり」は戦後1961年に始まり、祭りの発生当初から行政主導であった。しかし、YOSAKOIとやまを調査する中で、行政主導型が必ずしも管理志向型にはなりえないことがわかった。そして第二章第六節で述べたように、「行政主導型」は不利な面だけではなく有利に働く両面性をもっているのである。
行政主導型の利点として一つ目にいえるのは、お金がかからないという点である。祭りは富山市の予算によって運営され、一種の行政サービスとして提供されているため参加者は参加費を徴収されない。また、富山まつり運営委員会が準備した地方車を交代で各チームが利用するため、他県のYOSAKOIでは莫大な費用を必要とする地方車を準備する必要がない。
二つ目にいえる利点は、市民が祭りの運営に関して言いたいことが言える回路を備えている点である。富山まつりは「官民一体」の祭りとして市役所と民間が一緒に作り上げる祭りとなるべく、決定機関に民間の方々が含まれている。さらに第二章第二節で述べたように、県内のYOSAKOIチーム代表者が集って反省を出し合い、祭りに対する要望をくみ取る「リーダー会議」が設けられている。市役所単独で祭りを企画するのではなく、市民の要望や意見を聞き入れる回路が備わっている。つまり、リーダー会議はタウンミーティングの役割を担っているのである。
そして三つ目の利点は、「YOSAKOIとやま講習会」の開催によってYOSAKOIチームはメンバー獲得の回路が整備されているという点である。第二章第四節でYOSAKOIとやま講習会について詳細を記した通り、毎週違うチームが講師として講習会にやってくることによって、まだどのチームにも所属していない市民は自分に合ったチームを実際に体験して選ぶことができる。インタビューの中でも、各チームが講習会をスカウトの場として活用していることがうかがえた。行政がセッティングした機会を市民側はうまく活用しているといえる。
このようにYOSAKOIとやまは「行政主導型」でありながら、金銭的優遇やタウンミーティング機能、メンバー供給回路の提供など、行政が市民の立場に歩み寄って祭りを築いている姿がうかがえる。これらの取り組みが行政主導型を管理志向型に変容させない要因につながっていると考察する。また、行政主導型によって危惧された企画者と参加者の意図のくい違いも、YOSAKOIとやまの場合、参加者はリーダー会議というタウンミーティングの場の獲得によって打破している。それだけでなく市民の側も、YOSAKOIとやま講習会の講師を引き受けたり、祭り当日にチームボランティアスタッフとして運営を助けたりと、行政の立場へ歩み寄っている。つまりYOSAKOIとやまは、第六節で記した「事務局の努力」と「参加者負担の原則」の関係の中で、相互に意図をくみ取り、支えあうことによって祭りの運営がスムーズに進むよう取り組まれているのである。
個人が祭りへ抱いている自己充足的な価値を、管理志向型によって変容させられている場合が多い今日、YOSAKOIとやまは行政主導型という基盤を有効に活用し、行政が市民の立場に歩み寄って祭りを築くことによって、自己充足的な価値を享受できている。そして市民と行政が互いに意見をすり合わせ、参加者と運営者の互助関係をも成立させている。「行政主導型」は必ずしも「管理志向型」になりうるのではないし、「行政主導型」は不利な面だけではなく有利に働く両面性をもっているのである。

 

第三節 地域と関わるYOSAKOIへ――これからの展望

YOSAKOIは年齢や地域に関わらずだれもが参加できる祭りである。インタビューでCさんが語ったように、自分が生まれた地域に伝統芸能や祭りがなかった人がYOSAKOIによって祭りに参加するようになった。また、地域の祭りや獅子舞に参加していた人も新たな楽しみをYOSAKOIに見出して参加している。YOSAKOIとやまに訪れる市民も定着してきている。祭りに参加するという、今までは限られた地域でしか行われてこなかった文化を、YOSAKOIは壁を壊し、祭りに参加したい多くの市民のニーズをすくい上げた。YOSAKOIとやまは「市民が夏のその日に一堂に介して楽しむ」祭りとしての役割を充分に果たしているといえる。
またYOSAKOIを新たな催し物の起爆剤として考えている人は少なくないようだ。実際、自治体主催の祭りやショッピングセンターの催事にYOSAKOIのチームが呼ばれるだけに限らず、地域の運動会や公民館まつりの出し物としてなじまれてきている。また、城端町で古くから伝わる「麦や祭」では、麦や節をYOSAKOI調にアレンジして踊りを楽しむといった、既存の祭りの新しい形として用いられる例も多くの地域で見られるようになった。調査によるとYOSAKOIチームのイベント出場頻度は、月に一度のチームから、毎週一、二回のチームとさまざまである。一チーム当たりの謝礼金は2万円から3万円であるが、参加者も「YOSAKOIを呼ぶと謝礼も安く済んで、ある程度盛り上がるから、良いと思われるみたい。」と感じているように、地域の活性役を進んで引き受けている。
YOSAKOIが普及する前、地域の祭りでは民謡やカラオケが披露され、ショッピングセンターでは芸能人を招いていた。YOSAKOIが浸透したことで予算と規模に合わせてチームを手配するようになると、なによりYOSAKOIの参加者自体が祭りの消費者としての役割を担うようになったのである。50人余りのチームがいくつか祭りを訪れるだけでも、経済効果は計り知れない。YOSAKOIによってチームと地域社会との繋がりは確実に強くなってきている。
YOSAKOIをライフワークとする人々は、その良さを多くの人に伝えようとさまざまな取り組みを初めている。チームの枠を越えた出会い、交流を目的としたオープン型チーム「楽笑」の運営はその代表的な例であるが、彼らはYOSAKOIを受け継がれる文化にしようと、次世代を担う子どもたちの育成に力を入れ始めている。
大人と子どもが一緒にいるチームでは子どもが表に出ることがなかなかない。そこでジュニアのチームを結成することにより、いろんなチームから子どもが集い交流し、自己実現をして良い刺激を与え合いたいと考えている。そしてYOSAKOIとやまが長く続くためには次世代を担う層を育てなければならないという意識もあり、子どもの頃からいろんなことに触れさせてあげられたら、その子たちが大きくなった時に盛り上がるのではないかと期待している。

 

引用文献・参考文献

竹沢尚一郎,1998,「祭りの変容」島薗進・越智貢編『情報社会の文化4 心情の変容』東京大学出版会,49-77

坪井善明・長谷川岳,2002,『YOSAKOIソーラン祭り――街づくりNPOの経営学』岩波アクティブ新書

富山市役所企画管理部企画調整課,2003,「平成14年度『富山市民意識調査』の結果について」
http://www.city.toyama.toyama.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=TC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::2581&TSW=upqqbef

松平誠,1990,『都市祝祭の社会学』有斐閣

松平誠,1994,『現代ニッポン祭り考――都市祭りの伝統を創る人びと』小学館

森田三郎,1990,『祭りの文化人類学』世界思想社

株式会社yosanet(かぶしきがいしゃ よさねっと),2004,「YOSAKOIソーラン祭り公式サイト」
http://www.yosanet.com/yosakoi/index.html

YOSAKOI NET,2004,「全国よさこいマップ」(http://www.yosakoi.net/joho/map/yosamap.html

よさこい祭り振興会,1973,『よさこい祭り20年史』

 

資料

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http://www.geocities.jp/junkbeat2/index.html

韋駄天HANA-BI,2004,「韋駄天HANA-BI」(http://idaten98.hp.infoseek.co.jp/

越中夢創隊,2004,「越中夢創隊ホームページ」(http://www.toyama-dreammakers.net/

よっしゃKOI,2004,「よっしゃKOI」(http://yossyakoi.web.infoseek.co.jp/

YOSAKOIソーラン日本海組織委員会,2003,「YOSAKOIソーラン日本海オフィシャルサイト」
http://www.ys-nihonkai.com/