はじめ

 

 富山県には2000年現在、3,729人のブラジル人(1)が居住している。全国的に見れば、この数は決して大きなものではないが、富山県のような地方の都市にもブラジル人の生活する領域は広がっていることが分かる。ブラジル人の存在はもはや、10年前のような限られた産業都市に集中し、そこで働く出稼ぎ労働者というようなものではなくなり、日本での生活者としての側面を強めている。

 しかし、そうは言っても、私たちが生活する上でブラジル人と接する機会は少なく、実際どのような生活をしているのかはあまり見えてこない。

 彼らの多くは日本人移民とその子孫であり、日本人と血縁関係をもっている。これは、彼らが日本での自由な滞在と就労を許可された所以でもあり、多くのブラジル人が日本に居住するという状況を生みだしたものでもある。しかし、ブラジル人の世代が代わるにつれ、ブラジルの習慣と文化を身につけていて日本語も話せないという人が多くなり、日本人とブラジル人の間では、お互い「外国人」という認識の方が強くなっているのではないかと思う。そのため、両者が交わる機会は少なく、同じ日本にいながら別々の社会にいるような印象をもつ。このように、両者はつながりの深い存在であるにも関わらず、実際は両者の間に壁が隔てられているようであり、その関係は複雑であるように思える。

 この卒業研究では、富山県をフィールドにして、このように日本人との間に複雑な関係をもっているブラジル人が実際どのような意識をもって、どのように生活しているのかということを見ていきたい。その中で特に私が注目しているのは、現在多くのブラジル人が日本語を話せないという事実(2)であり、主な問題意識としては、ブラジル人は自分が日本語を話せないことをどれくらい問題としているのか、その意識にはどのような生活背景があるのか、日本で生活する上で日本語が必要となる場面とはどういう時であるのか、またそのような時どのようにしてやり過ごしているのか、どのようにまわりの日本人と意志疎通を行っているのか、それぞれの日本語能力において日本人とどのような付き合いをもっているのかということなどがある。

 本論においては、1章、2章、3章で文献と資料によっておおよそのブラジル人の様相、ブラジル人が抱える問題などを把握した上で、4章ではブラジル人自身やブラジル人の生活に関わる人達にインタヴュー調査を行い、その人達の意識や生活状況などを詳細に見ていき、現在のブラジル人社会の姿を書き表すとともに、それに対し考察を加えている。5章においては、1〜3章と4章のインタヴュー調査の結果を総合的に検討し、現在のブラジル人社会がどのようなものであるか、また、前述の問題意識に関して、どのような結果が見て取れたかをまとめている。

 



(1) ブラジルから来日し、日本で就労、生活する人々を包含する名称は定まっておらず、一般に用いられる「日系ブラジル人」の他に、「在日ブラジル人」、「日系人」、「ブラジル出身者」などの名称が用いられることもある。池上は、「日系」という語句から連想される日本社会・日本文化との同質性や親和性よりも、ブラジルの文化的背景を有することに起因する異質性に着目し、世代や日系・非日系を問わずブラジルの文化的背景をもつ人々を指す言葉として「ブラジル人」という名称を用いている[池上 2000  p.3]。本論文においても、このような意味合いでブラジル人という言葉を用いることとする。

 

(2)喜多川は、 1990年と1994年に群馬県大泉町でブラジル人の生活構造と意識を明らかにすべく、ブラジル人対象のアンケート調査を行っている。その中の日本語能力という項目では次のようなデータが得られた。

 1990年調査    N=不明

1,読み書きともに自由 17,3% 2,会話なら自由 26,3% 3,どうにか 35,2%     

4,聞くだけなら少し 11,7% 5,できない 9,5%

 

  1994年調査         N=158

1,読み書きともにできる 10,1% 2,会話ならできる 11,4% 

3,何とか意志疎通 48,7% 4,聞くだけなら少し 16,5% 5,ほとんどできない 13,3%

 

 日本語の能力は4年間で低下しており、2002年現在ではさらに低下していることが予想される。喜多川は、「何とか意志疎通できる」や「聞くだけなら少しできる」が増加しているのは、在日日数の長期化によって日本語に次第に慣れてきてはいるが、習熟には至っていないことを示しており、また、世代が進み、若年齢のブラジル人が多くなってきていることも日本語能力の低下を招いていると言う[喜多川 1995 p.174-175]。