第4章 インタヴュー調査

 

 これまで、1章ではブラジル人が増加した背景やその推移、また、ライフスタイルの変容を、2章ではブラジル人の抱える諸問題を、3章では富山県のブラジル人の様相を見てきた。しかし、これだけではブラジル人全体のおおまかな動向を把握したにすぎず、実際1人1人のブラジル人がどのような背景をもち、どのように日々生活しているのかということが見えてこない。また、「はじめに」で述べたように、多くのブラジル人が日本語を話せないという状況があるが、このことに関してブラジル人1人1人の状況や意識はどのようであるのかという私の問題意識の部分を見ていきたい。よって、富山県に在住するブラジル人と、ブラジル人の生活に深く関わっていると思われる業務請負業者とブラジル料理店にインタヴュー調査を行うことで、これらを明らかにしていきたい。

 

 

1.業務請負業者A社 Bさん

 

 まず、富山県のブラジル人の状況や問題を広くとらえるため、ブラジル人と深く関わっている業務請負業者の人に話をうかがいたいと思い、砺波市の業務請負業者A社のBさん(日系2世・男性)にインタヴューをさせていただいた。このインタヴューで特に問題意識としているのは、(1)A社の業務請負業とはどのようなもので、どのようにブラジル人と関わっているのか、(2)現在、富山県においてブラジル人の生活や労働の状況はどのようであるのか、(3)多くのブラジル人はあまり日本語を話せないというが、職場で日本人との意志疎通はどのように行っているのか、また言葉が通じないということで問題が起こることはあるのか、ということである。

 

 

(1)   A社の業務請負業

 

 A社の親会社はビルサービス業をしており、3つの子会社をもっている。1つは業務請負業のA社であり、あとの2つは建設業および通販の業務を取り扱っている会社である。

 A社が初めてブラジル人を雇用したのは1990年の5月である。現在A社の社員であるCHさん(日系1世・男性)が、その当時ブラジルで旅行社を開いていた。また、CHさんの親戚がA社の親会社に勤めていたので、その関係を通して、CHさんの紹介でブラジル人を雇用するようになった。初めはA社の社員として5,6人を採用し、1994年の一番多い時で300人くらい、現在は150人くらいのブラジル人を雇用、または、「お世話」している。現在、ほとんどの人が主に砺波、小矢部方面で、プラスチック整形やニット生地生産などの製造業に従事している。富山県内で、A社のような会社は富山市に2社、新湊市に1社、高岡市に5社、砺波市に1社(A社)あり、県外の会社で県内の企業と取引のある会社が他に2,3社ある。

 A社のブラジル人の雇用形態は二つに分かれる。企業の依頼で日系人を紹介し、企業がブラジル人を直接雇用する形態と、A社が企業から一つの職場を請け負って雇用したブラジル人にそこで働いてもらう形態がある。仕事量の関係で、雇用期間が短いと分かっている時、企業としては雇用している人を2,3ヶ月で解雇するわけにはいかないので、請負の形態にしてほしいとA社に頼むことがある。しかし、Bさんとしては、請負の形態であると、ブラジル人が長期間働けないし、A社もすぐに次の仕事を探してあげなくてはならないので、なるべく企業には直接雇用してほしいと思っている。現在、A社と取引のある企業は25社で、そのうち3社が請負の形態をとっている。

A社が行っている業務は、Bさんの言葉を借りて言うと、A社が雇用した、またはA社が企業に紹介した「ブラジルの人のお世話」である。その内容は、住民登録、保険の手続き、ビザの手続き、住居手配、仕事紹介、職場までの送迎、病院での通訳などである。住居に関しては、A社の寮2戸、A社が4年前に建てたブラジル人専用のアパート1戸、A社名義で不動産屋から借りたアパートなどを提供している。住宅手当はブラジル人が勤める企業によって有無が異なるが、現在はカットするところが多くなってきている。数年前は洗濯機、ガステーブル、炊飯器、食器などを提供していたが、知らないうちに物が持って行かれてなくなってしまうということもあり、現在は洗濯機と冷蔵庫のみをつけている。社会保険については、住宅手当と同じく企業によって加入しているかどうかは異なる。ブラジル人を直接雇用している大きな企業であれば、社会保険事務所の調査が入るので強制的に加入させている。また、家族を持つ人は自分から加入したいと言う傾向にある。現在、A社のブラジル人で社会保険に加入しているのは5割ほどであるが、A社は保険の代理店もしているということで、社会保険に加入していない人には必ず傷害保険に加入してもらっている。

 現在、A社がブラジル人労働者を募集する時、2,3軒のブラジル食品店にポスターなどを貼ったりもするが、友達同士の情報交換などによって、会社の電話やBさんの携帯電話に直接問い合わせの電話が入ってくるということが多い。7,8年前は、ブラジルの旅行会社を通じて採用したり、本当にブラジル人の需用が大きい時は、近々来日するブラジル人の情報をA社などの業務請負業社に流して、希望があればそこに人を紹介するということを行っていた会社から採用したりすることもあった。この募集方法の変化の理由として、〔1〕現在、多くの3世はすでに来日しており、世代が4世になろうとしているブラジルでは、日本で働ける人の数が少なくなっているため〔2〕以前は入国の手続きが複雑で、また初めて来る人が多く、ブラジル人は旅行会社に頼らざるをえなかった。現在は何回も行き来する中で来日の手順を把握しており、また、日本の知り合いを頼り、書類を準備してもらったりして本当の渡航費だけで安く来日する人が増えたため〔3〕日本で生活するブラジル人が増え、また、携帯電話の普及もあって、ブラジル人同士の情報交換が広く行われているため、などのことが挙げられた。

 業務請負業者や企業との面接の際に、雇用期間、賃金、残業の有無などの労働条件について嘘を言われたという経験をもつブラジル人は、これらの条件が提示される時、本当であるかということに不安をもつ。Bさんは、企業側に本当にその条件であるということを保証してもらい、ブラジル人労働者に正直に説明し、理解してもらった上で採用するようにしている。面接に関しては、必ずブラジル人と直接会って、その人がどういう人かを見るようにしている。今までの会社を残業がなくなったからとか、給料が少なくなったからという個人的な理由で辞めている人や、仕事内容などよりもお金のことをいきなり聞いてくる人はあまり仕事への定着率がよくないので、企業からの信頼を壊さないようにするためにも採用しないようにしている。また、面接時にはブラジル人に実際職場を見てもらい、そこで働くブラジル人から話を聞くなりした上で働くかどうかを判断してもらっている。

 

 

(2)富山県在住ブラジル人の現状況

 

 数年前の出稼ぎブーム時は、出稼ぎで来日しお金を稼いですぐに帰るというのがパターンであった。この短期で稼いで帰るというパターンはまだ一部にはあるが、現在のブラジル人の出稼ぎパターンはおおよそ次の3つに分かれる。永住は考えていないが、経済状態を考えるとブラジルで生活するのが難しいため、また、子供が日本の学校に行っているためなどの理由で、日本で働きながら過ごしているパターン、日本に永住しようと考えているパターン、日本で働いて、稼いだお金で遊びながら暮らすという若者に多いパターンである。

 富山県内で高岡市にブラジル人が多い理由として、ブラジル人が住居を借りやすい、他のところに比べて交通の便がよい、ブラジル食品店がある、企業団地が多く職場に住居が近いなどのことをあげている。一時期はアルミサッシ関係の企業においてブラジル人の需要が高かったようだが、現在、A社は高岡の企業とは取引がなく、砺波、小矢部、福光、福野方面の企業と取引している。

 富山のブラジル人が従事している仕事で多いものは、製造関係、食品関係、組み立て科の3つである。いずれも長時間労働で、残業が生じる仕事である。富山のブラジル人を年齢的に見ると、10代、40代の人が多い。これは、40代の人が家族を連れてきており、その子供が10代であるためである。2030代の若い人達は定着率が低く、また遊びが主であるため都会に行きがちであるから少なくなっている。

 ブラジルから、あるいは他の地域から富山に来るということについては、友達や親戚を頼ってということが大きい。また、富山で仕事を探す方法としては、ブラジル人同士の盛んな情報交換によって、仕事を見つける人が多いのではないかと思われる。

 ここ数年は不景気のため、残業が減り、土、日の休みが増え、ブラジル人の仕事量が減って人があふれてしまっている。それにも関わらず、富山のブラジル人は減っていないと思う。やはり富山には誰かを頼って来ているので、富山にいて、また仕事を探そうとするのではないだろうか。そして、このように不景気な状態であっても、ブラジル人の仕事が全くなくなってしまうということはないだろう。というのは、日本人はいくら不景気で仕事がないといっても、やはり仕事を選ぶので、日本人がやりたがらない仕事に就けるのは外国人労働者だからである。また、企業は今、在庫を持たないようにしているので、その時々の注文によって仕事量に波ができる。よって、忙しくなり残業が必要となる場合、例えば、日本人女性の場合だと夕方からは家の仕事をしなければならないというようなことがあり、日本人労働者ではこのような時の対処が難しいからである。景気のよい時は、企業も忙しく、とにかく人が必要なのでわがままは言えなかったが、不景気で企業側も経営が厳しくなると、雇用するブラジル人に何歳まで、日本語が片言でできる、この仕事の経験者であるなどというある程度の条件を求めるようになってきた。

 富山県において、ブラジル人による犯罪は増加しており、その件数は富山の人口から言って多いものである。これには不景気が関係しており、Bさんは富山県警のブラジル人に対する取り調べにおいて通訳を頼まれるそうだが、その時にも、お金に困っていたので犯罪を犯したと言う人が多い。また、都会の場合、このような犯罪はあまり分からないが、富山ではニュースや新聞に大きく出てくるので、すぐ評判になり、ブラジル人全体のイメージを悪くすることにつながっている。

 

 

(3)職場での意志疎通

 

 ブラジル人の中で日本語を話せる人は少ない。よって、職場で仕事内容の説明や作業の指示がなされる時、日本語ができるブラジル人がその職場にいる場合は、その人が日本語の分からないブラジル人に教えてあげている。しかし、そのような人がいない場合は、Bさんが最初の1週間くらいの間2時間おきほどに職場を訪れて、企業とブラジル人の間に入って両者の伝えたいことを聞き、伝えるということをしている。多くのブラジル人が従事する製造業の仕事はだいたい毎日同じで変化がないものなので、最初だけこのようなことを行えば大丈夫だと言う。この時、企業側からブラジル人への注意を伝える場合は、ブラジル人同士の関係が悪くならないように日本語のできるブラジル人を介することを避けてもらうようにしている。

 日本語のできないブラジル人が、職場で一方的に企業の日本人に怒鳴られて、何を言っているのかも分からないということで腹を立てて、仕事を放棄してしまうというようなトラブルも過去にあったが、そのような時もBさんが間に入って両者の意志を伝えることで解決してきた。

ブラジル人が働く職場においては、日本語が分からないというストレスや、習慣や考え方の違いによるトラブルが起こることがある。そのような時、Bさんは、ブラジルはブラジル、日本は日本という頭の切り替えをして、日本に来たら日本の習慣に慣れなくてはならないというアドバイスをブラジル人にしている。

 ブラジル人には人を頼るという習慣がある。そのため、日本で生活していて買い物や病院などで言葉の問題が生じることがあっても、日本語のできるブラジル人に通訳を頼むことができるので自分は日本語を覚えなくてもいいと考える人が多い。

 ブラジル人が日本語を学べる環境としては、個人が開いている日本語教室や日本の学校に通っている子供から教えてもらうというものなどがある。日本語教室は、1回1000円ほどで高岡市や大島町で開かれているらしい。Bさんもそのような教室を開いてみないかと頼まれたことがあると言う。

 

 

考察

 

業務請負業を行うA社は、企業とブラジル人労働者をつなぐ重要な役割を担っていることが分かる。まず、採用の際には企業の信頼を壊さないように、ブラジル人が不当な労働条件で困らないようになどとという両者に対する気遣いをもって雇用関係を築いている。そして、ブラジル人の就労後は様々な「お世話」をするとともに、企業とブラジル人労働者間の意志疎通を助けるなどのこともしており、日本企業でブラジル人が働く上での両者の負担を軽減させていると言える。

Bさんの話の中でブラジル人同士の情報交換が盛んであるということや、ブラジル人は親戚、友人を頼って富山に来るので仕事がなくなっても富山にいる傾向があるということが言われているが、これらのことからはブラジル人同士の結びつきの強さが感じられる。そして、この結びつきの強さが反映しているのか、ブラジル人には人に頼る習慣があり、日本語が必要となる場面でも日本語のできる他のブラジル人に頼ることで自分は日本語を覚えなくてもいいとする傾向にあることを指摘している。

 

 確かに、日本には多くのブラジル人が生活しており、家族、友人といったまわりのブラジル人に言葉の面で頼ることのできる環境がありそうである。では、実際、この頼る・頼られるという関係やブラジル人同士のネットワークがどのように存在しているのかということをブラジル人1人1人の場合に即して見ていきたいと思う。以下の4人のブラジル人に対するインタヴューでは、1人1人の生活状況や意識を詳しく描くとともに、前述の問題意識、すなわちブラジル人は自分が日本語を話せないことをどれくらい問題としているのか、その意識にはどのような生活背景があるのか、日本で生活する上で日本語が必要となる場面とはどういう時であるのか、またそのような時どのようにしてやり過ごしているのか、どのようにまわりの日本人と意志疎通を行っているのか、それぞれの日本語能力において日本人とどのような付き合いをもっているのかなどの点について見ていくことにする。

 

 

 

2.Dさん、Eさん母娘

 

 業務請負業者A社のBさんにA社と取引のある企業で働くブラジル人、Dさん、Eさん母娘を紹介していただき、インタヴューを行った。なお、このインタヴューの際にはA社のCHさんが同席してくださった。

 

基本属性

 インタヴューさせていただいたのは、Dさん、Eさん母娘。娘のEさんは23歳の日系3世で、夫と二人で小矢部にアパートを借りて住んでいる。現在小矢部でプラスチック製品の組み立ての仕事をしている。職場の従業員数は200人くらいで、ブラジル人数は20人くらい(うち女性は10人くらい)。お母さんのDさんは48歳のスペイン系ブラジル人で非日系人である。夫と二人で砺波の一軒家を借りて住んでいる。現在Eさんと同じ会社の砺波の別工場でプラスチック製品の成形の仕事をしている。職場の従業員数は100人よりは少ないくらいで、ブラジル人数は男性が10人くらいと女性が2人。Eさんには弟と妹がいるが、現在は2人ともブラジルで暮らしている。

 

現在に至るまでの経過と将来

ブラジルで銀行員をしていた日系二世のEさんのお父さんは1989年の9月、一人で日本に働きに来たが、一年半後の1991年半ばにブラジルに戻った。その際、お父さんは日本の教育レベルが高いのを見て、子供を日本の学校に入れたいと思っていた。その当時、Eさんは中学生、Dさんは文房具屋の商売をしていた。1992年1月、Mさんは勉強をするため、Dさんはお金を稼ぐため、来日し、京都に住んだ。来日後、Eさんは小学校四年生に入り三年間勉強した。初めは日本の大学に入るつもりだったが、飛び級することができないと分かり大学に入るまでに長い期間がかかってしまうと思ったEさんは日本で働くことにした。この時点で、Eさんの妹は大学を出たいという思いがあったのでブラジルに帰国した。

 その後一度ブラジルに戻り、人材派遣会社で家族全員同じところで働ける場所を探したところ、男の人も女の人も歳の若い弟も一緒に働けるのは富山県の食品会社しかないということで富山に決めた。それから氷見の食品会社で働いていたが、その会社で社会保険がうち切られた時にお父さんの提案で他に保険に入れる職場を探した。今の仕事は、友達からA社のことを聞いて一度面接に行き、紹介してもらった仕事である。現在それぞれの職場でEさんは五年目、Dさんは三年目。現在の仕事で満足している点は、長期的に雇用してもらえるので安定しているという点と社会保険に入っている点。不満な点は特にない。これからの生活で不安なことは日本経済が不安定なこと、日本の会社が最近中国の人やフィリピンの人を多く雇っているのでブラジルの人の仕事がなくなってしまうのではないかということ、そして今の会社がアメリカに輸出を行っているので、テロ事件でアメリカ経済が不安定になり仕事がなくなるのではないかということである。2人は富山県を住みやすいと思っている。家が広いし、東京などと比べたら家賃も安い。また、京都では、自分が車に乗るには怖いくらい車の数が多かったので、自転車と電車で生活していたが、富山では自分の車に乗れる。また、海も山もあるという環境も気に入っている。

 

 二人とも定住の意志はない。Eさんは家族と一緒に暮らしたいから、また自分の国でほとんど暮らしていないので暮らしてみたいから、Dさんは家族と一緒に暮らしたいからという理由をあげている。Eさんは現在、フラワーデザインと生け花の勉強をしていて、ブラジルで自分のフラワーショップをもちたいと思っている。この先三年ぐらいはその資格をとったり、ラッピングとテーブルコーディネートの勉強をしたりして、その間にお金も貯まるだろうから、それから帰ろうと考えている。Dさんはすでにブラジルに自分のビーチハウスを四軒建てていて、オンシーズンはそれを人に貸し、オフシーズンはサンドウィッチを売るなどの小さな商売をしようと考えている。それがずっと目的だったので、達成した今、もう少ししたら帰るつもりだと言う。

 

日本語能力と生活・意識

 Eさんは京都の小学校で三年間日本語を勉強していたが、その後は特にしていない。Dさんは、京都にいた時は日本語を勉強したいという思いはあったものの、仕事が忙しくてその暇がなかったと言う。しかし、富山に来て時間に余裕ができ、やはり日本語ができないといろいろ不自由な面があり、日本語ができれば生活、仕事に役立つだろうと思い日本語を勉強し始めた。氷見で三年前から二年間ほど一週間に一回仕事の後に日本語を教えてもらっていて、日本語能力試験の四級と三級(漢字200字、簡単な会話ができる)に合格している。

Eさんの日本語による会話能力は、インタヴュー時に私やCHさんと難なく意志疎通できたくらい高いものである。日本の新聞も読むことができ、CHさんは、富山県のブラジル人3500人くらいの中で日本に来て覚えた日本語がEさんほどできる人は10人ほどであると言う。また、他のブラジル人の場合と比べて、こちらの質問の意図をよく理解して、的確に答えてくれていたという印象がある。DさんのことでもEさんが答える場面が多く、インタヴューは彼女中心だった。そのため、最初はDさんは全く日本語が話せないのだと思っていた。しかし、インタヴューが進むにつれ、私たちが話している日本語の会話をだいたい理解しているようだと感じた。Dさんは、時々日本語を使って、単語やたどたどしい簡単な文で答えたり発言したりする場面があった。しかし、多くはポルトガル語でEさんに伝えており、発言回数自体も非常に少なかった。

Eさんには、今から学校に入ってもっと日本語を勉強しようという気はないが、生活していく中で少しずつ覚え、また漢字をだいぶ使わなくなってきたので漢字を練習しようという思いがある。Dさんは、日本に住む期間が長いと思っていた時はずっと日本語を勉強していたが、もう少しで帰ると思うと勉強しなくなってしまうと言う。

 

Eさんは自分の日本語を話す能力は仕事や生活の中では十分だと感じている。Dさんは仕事においても生活においても少し十分でないと感じていて、市役所や病院に行く時など話が難しくなると困ることがある。病院へはEさんは一人で行き、簡単な会話で説明してくれれば大丈夫だが本当に分からない時は辞書を引く。DさんはEさんと一緒に行くようにしている。Dさんは職場において日本語で説明や指示をされるので、他のブラジル人とコミュニケーションをとってお互いに言葉の面で助け合っている。

      日本語が必要となる場面において、辞書を引くなどして自分の力でなんとかしようとする人もいるが、一生日本に住むわけではないし、通訳をしてくれる人がいるからと全然日本語を覚える気のない人が多いことをEさんは残念だと言う。Eさんもブラジル人に通訳を頼まれることがあり、それは特に病院と市役所に行く時であることが多い。しかし、過去にマクドナルドでハンバーガーを買うために通訳を頼まれた時は、それぐらいのことは自分でしなさいと断ったと言う。一方、CHさんは市役所で国際アドバイザーをしているので、なるべくその日に通訳が必要となるブラジル人には来てもらうようにしている。その他で通訳を頼まれるのは、病院と交通事故を起こしたブラジル人からどうしたらいいのかというものが多い。病院の場合、病院までブラジル人に付いていくのではなく、電話で医者と話すことで通訳をしている。交通事故の場合は、近い時はすぐに現場まで行くが、遠い時は電話で事故の相手と話しその場を治めている。入国管理局に行く時は、紙にブラジル人の伝えたいことを書いてあげて、入国管理局でそれを担当者に見せても分からない時にはCHさんに電話をするように言っている。CHさんは、ブラジル人ができるだけ自分で何でもできるようにしてあげたいと言う。

 

Eさんの会社ではお別れ会などを開いており、そのような機会に職場の日本人と過ごすことがある。また三人くらい友達がいて、たまに食事に来たり、一緒に出かけたりする。職場のブラジル人の中で日本人と付き合っているのは二人くらいで、日本語ができなくても下手な日本語や物を指したりしてどうにかしてコミュニケーションをとっている人もいる。Dさんは職場が男の人ばかりだということもあり、日本人との付き合いはほとんどない。悩みや困ったことがある時、EさんはDさんと夫に、Dさんは夫とブラジル人の友達とEさんに相談している。また、生活する上で困ったことがあればA社に相談することもある。休日は二人とも家族や友達と過ごしており、日本語は使っていない。Eさんが日常生活の中で日本語を話す機会は、職場で仕事の内容について話す時がほとんどであり、あとは市役所、病院に行く時、買物の際に宅配を頼む時、道に迷った時などの特別な場合だけである。

CHさんは、Eさんの両親が子供たちに勉強をさせようという意志をもっていたから、Eさんは日本語を覚え勉強にも励んだのであるが、ブラジル人の親の中には、ただ子供を家においておくと危ないからという理由で学校に行かせたり、子供を学校に預かってもらえさえすれば、子供が学校で勉強をしなくても構わないと考えたりする人がいると言う。そして親がそのようにいい加減であると、子供はそのうち学校に行かなくなり、万引きやバイクを盗んで乗り回すということをするようになると言う。Eさんは、稼いだお金を遊びにばかりつぎこんでいる若者たちには目的がないのだと批判し、お父さんの教えとして、必ず目的をもっていなければならないということと、住んでいる場所の生活習慣やルールを尊重しなければならないということがあると話してくれた。

 

 

 考察

 

Eさんは就労目的ではなく、当初勉強するために来日し三年間小学校で勉強したということもあり、CHさんが言うようにブラジル人の中でも非常に日本語能力が高いようだ。Eさんが自分の日本語能力が生活や仕事に十分であると言うとおり、日常生活で言葉の面の不自由はほとんどないようだ。そのため、まわりのブラジル人から通訳が必要となる場面では何かと頼られていることがうかがえ、Dさんが病院に行く時に一緒に行くというように付いて行って直接通訳したり、携帯電話の普及も相まって、電話を介して通訳をしたりということが日常にあるようだ。しかし、CHさんもそうだが、あまりにも言葉の面で他人に頼りきっている人には否定的な思いをもっていて、できるだけ自分でできるようしてあげたいと考え、いつも頼まれたとおりにしてあげているわけではないようだ。

 Dさんは、日本語ができないことによる生活での不自由さのため、日本語の学習意欲はあったものの、京都では忙しくて勉強の時間が取れなかったと言う。現在は土、日の休みが増え、就労時間も以前より短くなっているようだが、数年前は仕事による多忙が日本語の勉強を阻害していたということもあったようだ。また、Dさんはあと数ヶ月で帰国する予定であり、そうなると日本語の勉強をしなくなってしまうと言っているが、短期間でお金を稼ぎ帰国していた人が多かった出稼ぎ当初の時期は、今よりももっと日本語を習得しようと考える人は少なかったであろうと思われる。Dさんの状況を考えてみると、夫や娘という日本語が必要な時に頼れる存在が身近にあるにも関わらず、日本語の学習意欲をもっている人もいることが分かる。やはり言葉の面で頼れる人がまわりにいたとしても、自分が日本語を話せない不自由さがなくなることはないのだろう。

Eさんは職場の日本人とお別れ会などのイベントで一緒に過ごすことがあり、また3人ほどの日本人の友達とたまに食事に行ったり、出かけたりしているが、Eさんの職場のブラジル人は10人中2人ほどの人しか日本人と付き合う人はいないと言う。Dさんは職場の日本人と一緒に過ごすことはほとんどないようである。これらのことから、職場の日本人と仕事以外で一緒に過ごす機会はそう多くないと思われ、日本の生活全般においても日本人と接する機会というのは少ないのではないかと思う。また同時に、Eさんが限られた場面でしか日本語を使わないと言っていたことから、日本語能力の優劣に関わらず日本語が必要となる機会自体も少ないことが考えられる。

 多くのブラジル人の中には、CHさんやEさんが話すような子供の教育に熱心ではない人や、日本で犯罪を犯す人や、目的なくお金を稼いで遊んでいる人などもいて問題視されているようだが、ブラジル人といっても本当に様々な価値観をもっており、生活の仕方も様々であることを思わせる。

 

 

 

3.Fさん

 

 A社のCHさんの奥さんCIさん(日系2世)は大島町で開かれている日本語教室の講師をしている。その関係で、その教室に通って日本語を勉強しているFさんを紹介していただき、CIさんの通訳を通してインタヴューを行った。

 

基本属性

 Fさんは35歳の女性で、日系3世である。現在、Fさんは夫と息子とFさんのいとこの4人で新湊市のアパートで暮らしている。アルミ関係の仕事をしており、そこでは35人のブラジル人が働いているが、職場全体の従業員数は多くの人がいるので分からないとのことだ。

 

現在に至るまでの経過と将来

Fさんが日本に来たのは1998年の5月である。それまではブラジルでレストランを経営していた。来日の動機には、すでに来日していた両親が娘に日本という国の文化を見せたかったということと、出稼ぎでお金を稼ぐということがあった。もともとFさんのいとこが富山に来ていて、そして彼女の両親も富山に来たので、Fさんも来日当初から富山に住んでいる。現在の職場は、来日してから3回目の職場で、人材派遣会社で派遣されたところである。現在の仕事について全ての点で満足していると言う一方で、仕事が忙しい時は日本人はとても親切だが、仕事があまり忙しくなくなると、ブラジル人をこき使うような形で意地悪をして、自分から辞めてもらうように仕向けることがあるということを不満な点として言っている。しかし、ブラジル人は辞めても他に仕事がないので、我慢してその仕事を続けている。これからの生活で不安なことは、仕事がないということ。現在あっても、いつ失業するか分からないことが一番の不安であると言う。

 

 Fさんに定住の意志はない。自分が立てた金銭的な目標を果たしたらブラジルに帰ろうと思っている。この目標に達成するにはあと5年くらいかかるだろうと予想している。しかし、17歳のFさんの息子は日本が好きになり、ブラジルに帰りたがらない。Fさんはブラジルに農場地区を2つもっており、そこにあるレストランの経営者であるので、帰国してからもその仕事を再びやっていくつもりである。Fさんが帰国するまでは、Fさんの両親に経営を任せている。

 

日本語能力と生活・意識

 Fさんは、今年の4月からCIさんが指導する日本語教室で日本語を勉強している。日本語ができる両親がいた頃は何でも両親に頼りきっていて、日本語は必要ないと思っていたが、両親がブラジルに帰ってからは様々な問題を解決するのに日本語が必要となり、そして日本にいるのだから日本の言葉を勉強しなければならないと感じて日本語を勉強し始めたと言う。CIさんの日本語教室は2000年の5月から始まったが、当初45人いた生徒が数ヵ月経つうちに2人になってしまい、成り立たなくなってしまった。ブラジル人がすぐに飽きてやめていってしまったのだと言う。しかし、2001年になって大島町長から頼まれ、再び教室を始めた。この時は、生徒は25人ほど集まったが、現在は10人に減っている。この教室は、毎週日曜日の9時から12時までの3時間で行われている。

 Fさんは、簡単な内容ならわりと日本語を聞いて理解することができる。インタヴュー時の最初の基本属性に関する質問の時は、直接Fさんに質問をして回答を得ることができた。CIさんによると、Fさんは聞く方ができて、話す方はあまりできないとのことで、平仮名と片仮名を読むことはできるが、言葉の意味があまり分からないらしい。Fさんには、日本語が全て話せるようになるまで勉強したい、話すことも、読み書きもできるようになりたいという思いがある。

 Fさんは、自分の日本語の能力について、仕事では十分であるが他の物事をする時にはいつも日本語が必要だなと実感している。職場では、説明や指示は日本語でされるが、Fさんはわりと日本語を聞き取ることができ、日本人が言ったことを理解できるので、現在の日本語能力で困ることはない。他の日本語ができないブラジル人に、日本人が言うことを教えてあげることもある。Fさんは、病院に行く時など通訳が必要となる場合は叔母さんに通訳を頼んでいる。

Fさんの会社の日本人は、Fさんたちブラジル人と付き合いをしたがらない。職場ではいろいろ話してくれるが、職場の外では全く関係がないというふうにして、近寄ってくれない。以前いた会社や両親が勤めていた会社の人たちはFさんの家によく遊びに来ていたらしい。同じ職場の他のブラジル人もあまり日本人との付き合いはないと言う。悩みや困ったことがある時は、ブラジル人の友達や家族、CIさんにも相談している。休日は、ブラジル人の友達と家で食事会をしたり、買い物に行ったりしている。日本人との交流も増やしていきたいと考えており、日本人も家に招待することがある。

 

 

 考察

 

Fさんが日本語を勉強するようになった動機は、言葉の面で頼っていた人がいなくなって困るようになったからというものであった。やはり、身近に通訳を頼める人がいるかどうかというのは、日本語を勉強しようという意志をもつかどうかに大きく関わっているようだ。また、Fさんの場合、両親の帰国後は叔母さんに通訳を頼んでいるが、このようにブラジル人のまわりには家族や親戚や友人といった複数の通訳を頼める人の存在がたいていあるのではないだろうか。日本語教室についての話の中で、日本語教室の生徒がやめていってしまうということが言われていたが、やはりブラジル人にとって、どうしても日本語を習得しようとする要因より、このような、通訳を頼める人が複数いるなどの日本語が分からなくても生活できると考える要因の方が多くあるからではないかと思う。

Fさんは、職場では日本語を聞き取ることができれば十分であると言っている。ブラジル人の多くが従事する製造業という仕事の中では、人と会話する機会は少ないように思われる。よって、少なくとも勤務時間内は、日本語を聞き取る能力があるか、他の日本語ができるブラジル人に助けてもらうことができるのであれば、それほど高い日本語の能力は必要とならないのかもしれない。

Fさんには日本人と交流をもちたいという思いがあり、日本人を家に招待するなどという日本人との付き合いに積極的な姿勢をもっている。しかし、積極的であるからこそ、なぜ日本人はブラジル人と交流したがらないのかという不満が生まれているようであった。

 

 

 

4.Gさん

 

 GさんもCIさんの日本語教室に通う生徒である。Fさんの時同様、CIさんに通訳をしていただき、インタヴューを行った。

 

基本属性

Gさんは32歳の男性で、非日系人である。現在、日系2世の妻、17歳と16歳の娘2人と4人で高岡市のアパートで暮らしている。Gさん夫妻の間にはもう1人15歳の息子がいるが、ブラジルで生活をしている。現在、氷見市のプラスチック関係の会社に勤め、携帯電話のカバーを作る仕事をしている。職場全体の従業員数は分からないが、95人ほどのブラジル人が働いている。Gさんのセクションの従業員数は30人ほどで、ブラジル人はGさんだけである。

 

現在に至るまでの経過と将来

Gさんは1999年3月に来日し、最初は群馬県の太田市で生活を送っていた。それまではブラジルで建設会社に勤めていた。来日の理由は、ブラジルで軽食屋を経営するための資金を稼ぐためである。2000年1月、富山の会社の方が給料が高かったため、富山で生活するようになった。富山に来てから5回ほど転職していて、今の職場は人材派遣会社で派遣されたところである。現在の仕事で満足している点は、Gさんが働くセクションの従業員がGさん以外全員日本人なので日本語を覚えることができるという点で、不満な点は何もないと言う。これからの生活で不安なことは、日本が不景気なことである。

 

Gさんはあと5年ほどでブラジルに帰り、軽食屋を経営するつもりである。しかし2人の娘は治安がよく、仕事の収入がよいという点で日本が好きなため、ブラジルに帰りたくないという気持ちをもっている。よって金銭的目標を達成したとしても、娘たちが帰るまではGさん夫妻も日本に滞在し、娘たちが帰らない場合は一生日本で生活することになると言う。

 

日本語能力と生活・意識

Gさんは、2,3ヶ月ほど前から日本語教室に通っている。生活に必要となるということで、妻と娘2人も一緒に通い、日本語を勉強している。Gさんが日本語を勉強し始めたのは、日本で通訳になって、困っているブラジル人を助けたいという思いからである。

GさんもFさん同様、年齢や住所を問う簡単な質問には通訳なしで答えることができていた。やはりGさんも聞くことはわりとできるのだが、話すことがあまりできないのだとCIさんは言う。またCIさんは、Gさんは知識を吸収するのは速いのだが怠けて勉強をしないのだともらしていた。

 Gさんは、日本語で話しかけられた時にその内容を理解して答えることができないという点で自分の日本語の能力は仕事や生活でまだ十分ではないと言う。職場において、日本語で説明や指示がされる場合、職場の日本人はジェスチャーをしながら話してくれ、Gさん自身も聞くことはわりとできるので、その内容を理解することができる。Gさんは、病院や市役所に行く時は、通訳の人がいるところに行っている。その他に通訳が必要となる場面でも、Gさんは辞書やジェスチャーなどを使うことで人に頼ることなく相手とコミュニケーションをとるようにしている。その理由として、あまり身近に通訳を頼める人がいないということもあるが、一番の理由としては、日本語を覚えて自分で生活していけるようにするためということがある。

 Gさんは、職場の日本人と仕事の後に飲みに行ったりすることがあり、職場の他のブラジル人もしばしばそういう付き合いをしていると言う。このような場面では、ポルトガル語と日本語の両方を使って、ジェスチャーを入れながらコミュニケーションをとっている。悩みや困ったことがある時は、妻に相談している。休日は、家でお酒を飲むなどして過ごしている。

 

 

考察

 

 Gさんには通訳になりたいという思いがあり、その思いが日本語の学習意欲につながっている。この日本語を身につけたいという気持ちは、Gさんの働くセクションには日本人しかいないので日本語を覚えることができるので満足しているという発言や、日本語を覚えるために通訳に頼らず自分で日本人とコミュニケーションをとるようにしているということに強く表れている。

 Gさんには職場の日本人との付き合いがあり、それは同じ職場の他のブラジル人にも言えることであった。職場の日本人と付き合いがあるかどうかというのは、ブラジル人の日本語能力の優劣などに関係しているのではなく、それぞれの職場の雰囲気などによって様々に異なっているものなのだと思う。

 Gさんには定住の意志はないようだが、Gさんの2人の娘には日本で暮らしたいという思いがある。Fさんの息子も、Fさんの帰国の意志に反して日本にとどまりたいという思いをもっていた。Gさん、Fさん親子のような世代間には母国や日本に対する意識にずれがあり、それが定住意志の有無が家族内で異なることにつながっているのかもしれない。

 

 

 

5.ブラジル料理店K店 CJさん

 

 近年、ブラジル人が日本での生活者としての側面を強めていることにともない、ブラジルの料理や食品、雑貨を提供するブラジル料理店や食料品店の数も増えてきている。このような店を利用することで、ブラジル人は慣れた味を口にし、日本にはないブラジルのものを手に入れることができる。また、他のブラジル人と交流する機会を得られたり、交流の場として利用できたりということもあるようだ。このように様々な面でブラジル人の生活に関わってくるブラジル料理店の実際の様子を知りたいと考え、CHさんの弟CJさんがオーナーを務めるブラジル料理店K店を紹介していただき、CJさんにインタヴューを行い、店内の様子を見せていただいた。

 

 CJさんは、1995年4月にK店を開いた。その当時、富山県内には多くのブラジル人が生活しているにも関わらず、ブラジル料理店などはなかった。そこで、CJさんは、やはりブラジル人は生まれた国の料理が恋しいのではないかと思い、この店を始めた。レストランも物販の方も同時にスタートし、現在に至っている。営業時間は朝9時から夜の10時までで、定休日は月曜日となっている。この店ではCJさんの家族4人と従業員4人が働いている。家族は、オーナーのCJさんと、妻、長女、長男である。従業員は料理担当の2人と、店の清掃や厨房のお皿洗いなどをする女性のパート社員と、様々な仕事をしているという男性の従業員からなっており、従業員の人達の年齢はだいたい30代だと言う。この店の客はやはりブラジル、ボリビア、ペルーなどの中南米の人が主であるが、日本人やアメリカ人、パキスタン人も来店するらしい。現在、富山県内にブラジル食料品店はK店を含めて5軒あり、高岡市に2軒、新湊市に2軒、大島町に1軒となっており、そのうちレストランもあるところは2軒だそうだ。

 

     食料品店

食料品や雑貨を販売している店内には、部屋の壁に沿って3面と真ん中に1列商品の陳列棚があり、ぐるりと一周すれば店内の全てのものを見ることができ、それほど広いわけではない。店の入り口を入るとすぐのところに大きなボードが設置してあり、そこには10数枚のポルトガル語で書かれた紙が掲示されていた。CJさんによると、子供をあずかります、車を売ります、パソコンを売ります、修理しますなどのことが書かれているらしく、日本語教室や楽器教室の案内などの掲示もあるそうだ。このボードには誰が掲示してもいいということで、例えば、日本語教室の案内は日本人が掲示していったものであると言う。昔は、企業などが求人の広告を掲示していたが、現在はないそうだ。店内には、ブラジル銀行への振り込み用紙が置いてあり、この店からブラジルに送金の手続きができるようになっていた。新聞はポルトガル語の新聞が2紙、雑誌は20紙ほどが置いてあり、毎週新しいものが入荷されているそうだ。どんな雑誌が置いてあるのかと尋ねると、男性誌や週刊誌、クロスワードの本など様々であるということだった。また、ブラジルのものと思われるCDが販売されていた。店内の一角の棚にはタイトルのステッカーが貼られただけのビデオが数百本並んでいるレンタルビデオのコーナーがあった。ビデオの内容は、ニュースやバラエティなどのブラジルのテレビ番組やポルトガル語字幕のあるアメリカの映画などであるらしい。その他の棚には食品と雑貨が陳列されていた。

食品は、肉、野菜、米、パン、豆、芋の粉、パスタ、チーズ、酒、調味料、お菓子、ジュース、コーヒー豆、粉ミルクなどがあり、これら以外にも多くのものが置かれている。パンはこの店で焼いているものである。食品の中でよく売れるものを尋ねると、ブラジルでは米と同じくらい主食となっているという豆やこの豆と一緒に煮込んだりするというキャッサバ芋の粉、パスタ、牛肉、コーヒー豆などがよく売れると言う。品物は、全てブラジルのもののように見えたが、お菓子の中には日本の会社が取り扱っている物や、タイ産、マレーシア産の物もあった。雑貨は、おもちゃ、洗剤、香水、ストッキング、薬、髪染、石けんなどが販売されていた。食料品店内の商品名や値段を示す札は全てポルトガル語で表記されていた。店の品物は、CJさんが売れそうだと思った物や、輸入業者がよく売れていると言う物を入荷しているが、お客さんの要望で品物を置いたりするケースもあるらしい。食料品店が混む時間帯はだいたい平日は午後5時から6時、土、日は午後2時から4時だと言う。ブラジル人は休日、家族と行動を共にすることが多く、家族で来店する人の中には子供にレストランで何か食べさせたり飲ませたりしている間に買い物をする人もいると言う。

 

     レストラン

 食料品店を通過し、さらに奥に入っていくとレストランがある。レストランは厨房とフロアに分かれている。フロアは食料品店に比べて割合広く、4人がけのテーブルが15席ほどあった。部屋の隅には小さなステージがある。これは、そこにブラジルのカラオケセットを置き、客に歌ってもらおうと思い作ったそうだ。壁に掛かっている小さなスクリーンでは客がいなくても常時、衛星放送でブラジルのテレビ番組が放送されており、時間帯によってドラマ、ニュース、スポーツなどが流れていると言う。

 レストランのメニューは全てブラジル料理で、だいたい10種類くらいあり、例えばブラジルの代表的な料理である豆、干し肉、ベーコン、サラミソーセージ、豚のしっぽなどを長時間炊き込んだものなどがあるそうだ。また、ブラジルの飲み物も置いてあり、アマゾン流域に生息しているガラナという植物の実を使ったガラナジュースという炭酸飲料水やマンゴー、パパイア、パッションフルーツ、パイナップルなどのフルーツジュースがよく出るらしい。

 レストランが混む時間帯はだいたい平日は午後7時から8時、土、日は午後1時から3時だと言う。平日は、仕事の帰りにちょっとお腹が減ったからというように、1人でまたは同僚と簡単に食べていく人が多く、週末は家族で来る人が多いらしい。

 K店では、現在、2週間に1回、土曜日にディスコを開いている。またクリスマスにはパーティーを開いて、ターキーやワインを出し、プレゼント交換の企画も用意している。大晦日にはカウントダウンのイベントもあるらしい。これらのイベントは、会費を払えば誰でも参加できる。その他に、この店を貸し切って誕生日のパーティーやブラジルに帰る人のお別れパーティーをする人もいるらしい。

 この店に来るブラジル人の中には、買い物などの用事以外で来る人もいるようで、この店に来れば他のブラジル人と会えたり、ポルトガル語で話すことができたりというメリットがあるから来るのではないかとCJさんは言う。また、この店で待ち合わせをして仕事の斡旋をしてもらいに行くというように、待ち合わせにも利用されることがあるらしい。

 

 

考察

 

 食料品店には、多くの種類のブラジル食品が置いてあり、ブラジルの人にとっては母国で口にしていた慣れた味のものを簡単に手に入れることができ、食生活の面での困難がかなり軽減しているのではないかと思う。雑貨については、日本にあるものでも、表示の見やすさや母国で使っていたものであるということで、このような店の品物を買うということがあるのではないかと思う。また、店員とのコミュニケーションや店内の表示を読む時に日本語の問題が生じないという面でも便利であると言える。

 食品・雑貨以外にもブラジル銀行への振込用紙やレンタルビデオが置いてあり、店側の、ブラジル人ができるだけ便利に暮らせるように、楽しく過ごせるようにという思いが感じられる。これは、ブラジルのカラオケを利用して欲しいとレストランにステージを作ったことやディスコ、クリスマス、大晦日のパーティーを企画していることなどからもうかがえた。

 この店に買物の用事がなくても、ブラジル人同士で集まったり、待ち合わせに利用したりすることがあるようだが、やはりブラジル料理店はブラジル人が多く出入りする場所であるし、店の人もポルトガル語が話せたり、ブラジル人の事情に通じていたりするので利用しやすいということがあり、様々な機会に使われているようだ。店側も様々なイベントを企画したりしていることから、自分達の店を交流の場として楽しく過ごしてほしいと考えているようで、このような両者の思いがあって、ブラジル料理店はブラジル人にとって重要な交流の場となっているのではないだろうか。

 このように、ブラジル料理店は、母国の商品が簡単に買える、仲間と交流しやすいなどのメリットによってブラジル人が多く集まり、大きく関わる場所となっているのだろう。