第1章 ブラジル人の増加とライフスタイルの変容
第1節 ブラジル人増加の諸要因
1980年代後半、好景気を迎えた日本では製造業を中心に単純労働力の不足が深刻化し、ニューカマーと称される新来外国人の流入がみられるようになった。それは、1985年9月のプラザ合意に基づく先進5カ国の協調介入によって円高・ドル安が進み、外国人労働者にとって日本での就労が経済的に魅力あるものと映るようになったからでもあった[池上 2001 p.18]。しかし、従来、日本で外国人の就労が認められていた資格は「商用(貿易、事業、投資活動など)」、「教授(研究、教育)」、「興業」、「技術提供(産業上の高度・特殊な技術・技能の提供)」、「熟練労働」の5つのカテゴリーのみで、あとは「法務大臣が特に在留を認めるもの」という資格の中で語学、教師、通訳、翻訳、医師、国際業務などが認可されていたにすぎなかった[渡辺 1995 p.19]。したがって、このように単純労働従事を目的とした外国人労働者の受け入れを認めない日本政府の方針のもとで、主として東南アジア、南アジア、中東の諸国から単身で来日して働く労働者の多くは、不法就労者として不安定な就労を余儀なくされていた[池上 2001 p.18-19]。
この、日本への外国人労働者の流入現象の一環として、南米諸国からの日系人の出稼ぎという現象がある。このうち、南米最大の日系人口をもつブラジルでは、1985年ころからこの現象が始まっている。ただし、この時期に来日しているのは、日本において単純労働を含むあらゆる職種に合法就労することが可能であった日本国籍を有する1世と日本とブラジルの二重国籍を有する2世が大半であった[池上 2001 p.19-20]。その当時、ブラジルでは、債務危機とそれに続く財政危機によってハイパーインフレーションが国民生活を圧迫し、長期不況と失業に国民は苦しみ、強盗・殺人が続発し、社会不安が増大した。こうした不安定な社会・経済生活から逃れるひとつの手段となったのが、海外脱出であった。北米やヨーロッパに出国するブラジル人が増加し、1985年にはブラジルからの出国者数が入国者数を上回った。こうしたブラジル人の海外流出現象のひとつとして、日本への「デカセギ」が出現したのである。このように、ブラジル人の日本への出稼ぎは、日本とブラジルの様々な要因が絡み合って起きた現象なのである。
このような状況の中で、1990年6月、「出入国管理及び難民認定法(以下、入管法)」の改定が実施された。この改定入管法には、単純労働者の入国および定住は認めないとする以前からの原則を維持し、不法就労者を雇用した日本人雇用主に対する罰則規定が盛り込まれた一方で、日系2世、3世やその家族の就労が合法化された。そのため、合法的な外国人労働者を雇用しようとする雇用主側の需要が高まり、ブラジルなど南米諸国から来日する労働者が急増したのである[池上 2001 p.19]。
ここで入管法の改定点のうち、ブラジル人増加に関連する部分を取り上げて確認してみる。改定入管法では、日系2世(南米などに移民した日本人の子として外国で出生した者で日本国籍を保有しない者)には「日本人の配偶者等」という在留資格が与えられ、その配偶者や子(3世)など、日系2世の者の家族には「定住者」という資格が与えられるようになった。すなわち、非日系の外国人であっても、配偶者が日系人であれば「定住者」としての在留資格が付与されるのである。「日本人の配偶者」ないし「定住者」の在留資格を持つ者は、「永住者」と「永住者の配偶者」同様、単純労働も含めてあらゆる職種に合法就労することが可能とされた[山田・黒木 1994]。こうしてブラジル人の単純労働就労への道が開かれたのである。
第2節 ブラジル人増加の様相
次に、ブラジル人の増加の様相に目を向けてみる。ここでは、各年版の『在留外国人統計』を参照しながら、全国規模の外国人登録者数の推移を概観したい。
表 1−1
ブラジル国籍外国人登録者の推移
年度 |
1985 |
1986 |
1987 |
1988 |
1989 |
1990 |
1991 |
登録者数(人) |
1,955 |
2,135 |
2,250 |
4,159 |
14,528 |
56,429 |
119,333 |
1992 |
1993 |
1994 |
1995 |
1996 |
1997 |
1998 |
1999 |
2000 |
147,803 |
154,650 |
159,619 |
176,440 |
201,795 |
233,254 |
222,217 |
224,299 |
254,394 |
各年版『在留外国人統計』法務省 より作成 各年末現在
表1−1は、1985年から2000年におけるブラジル国籍の外国人登録者の推移を表したものである。ブラジルからの日系人の出稼ぎは、1985年ころから日本国籍をもつ1世、および二重国籍をもつ2世から開始されたといわれる。当時の出稼ぎの実態については、彼らは外国籍ではないので、出入国管理統計ではその実態を把握することができない。また、外国人登録者は正式の在留資格をもつ者のみ登録可能なので、観光ビザで就労している不法就労者は含まれていない[渡辺 1995 p.21]。ブラジル人の登録者数は、1988年から増え始め、1989年に前年の3倍以上に増加し、14,528人となった。1990年も前年の3倍以上の伸びを示し、56,429人となっている。この急増は、入管法改正で、外国籍の日系2世、3世にも、「日本人の配偶者」「定住者」という資格が与えられたことによって、日本への新規入国者数が増加したためだけでなく、これまでは短期滞在の観光ビザのまま不法に就労せざるを得なかった者が、合法的な在留資格に切り替えたためである[渡辺 1995 p.22]。1年後の1991年末にはさらに倍増して119,333人に達している。その後、1990年代前半は毎年漸増が続き、1996年末には20万人を突破した。1990年代後半に入ってからは1998年に初めて減少が生じているものの、その他の年においては増加が見られ、2000年末、その数は25万人に達している。
第3節 生活環境の整備とライフスタイルの変容
ブラジルからの出稼ぎが開始された1985年以降今日までの短期間に、日系人の出稼ぎをめぐる状況は急激に変化した。ひとつは1990年6月の入管法改正という法制上の変化であり、もうひとつは日本経済が好況期から不況期に突入したことである。このような制度的要因と経済的要因のからみあいによって、渡辺は出稼ぎ者を取り巻く日本社会のあり方を次の3つの時期に分けている。T期(日本経済の好況期で、かつ急増してきた日本国籍をもたないブラジル人の就労が不法だった時期、出稼ぎ現象の初期の1985年〜1990年5月。特にブラジル国籍者が増加した1988年〜1990年5月)、U期(日本経済の好況期でかつ入管法改正によって日系人の就労が合法化された時期、1990年6月〜1991年末)、V期(日本経済が後退して不況に入った時期、1992年〜現在)である[渡辺 1995 p.32]。
また、渡辺はこの時期区分に沿って、ブラジル人の出稼ぎ状況、生活環境、ラフスタイルの特徴をまとめている[渡辺、アンジェロ・イシ 1995 p.609-612]。
T期の前半、出稼ぎの主体は日本国籍をもつ1世や二重国籍をもつ2世であった。後半から、ブラジル国籍者の数は増大し始めたが、彼らの多くは観光ビザで入国し、在留資格の変更のためには煩雑な手続きと厳しい審査資格を伴うため、そのまま就労している場合が多く、不法就労を余儀なくされていた。いずれも単身の男性の出稼ぎという形態であり、ブラジルに家族がいる彼らは、長時間労働をし、ひたすらお金を使わないようにして貯蓄し、生活の場面はほとんど職場と宿舎の往復であった。また、後半に増えたブラジル国籍者においては、不法就労という立場のために人権に関わるような問題が多発していた。ブラジルで聞いていた労働条件と異なるところに連れて行かれることも多く、宿舎の居住条件が悪い、仕事もきついなどのブラジル人にとっては「だまされた」という状況が多くあった。食べ物は口に合わず、家族との別離によるホームシックもあった。
U期では、入管法改正によって、来日するブラジル人の急増、ブラジル文化を内面化し、日本語能力の高くない男女青年層の増加、家族の呼び寄せによる学齢期の子供の増加が顕著になった。また、属性の面でも高学歴者、ホワイトカラー層を含むようになり、多様化していった。この時期は、就労の合法化要因と好況期の引き抜き合戦の中で、急速に彼らの労働・生活条件が改善され、また転職も頻発した。その頻繁な転職や労働観の違いをめぐって、雇用主側と葛藤が生じることもあった。ブラジル人が多数居住する地域では、迅速に様々な行政としての対応がなされた。労働の場面だけでなく、「生活者」としてのブラジル人が明示化されてきたのがこの時期である。ブラジルレストランなど、消費者としてのブラジル人をターゲットとした商売が出現し、ポルトガル語メディアなどによってブラジルの情報も容易に手に入るようになった。このように、日本にいながらにしてブラジル的生活様式を維持し、生活できる環境が急速に整備された。一方、親への仕送り義務をもたない青年層の中には、貯蓄をもっぱらとせず、消費生活を重視する生活エンジョイ型も出現した。また、家族滞在によって、既婚者もこれまでの貯蓄一点張りの生活から、生活の便利さ、居心地のよさも志向するようになっていった。
V期に入って、これまでの入国者の急増傾向はとまった。彼らの主要職場だった自動車・家電産業を不況が直撃し、解雇、契約不更新、残業の減少、時給の低下などが起こった。それに伴って、製造業の食品加工業や、旅館などのサービス業、運輸関係などの職種に移行するブラジル人も増え始め、さらに就労地域も拡大していった。また、残業の減少による時間を利用し、夜間や休日にアルバイトをしたり、ブラジルでの職業を生かした調髪やマッサージなどの副業をしたりする人も現れた。ブラジル人対象のビジネスはさらに多様化し、ブラジルの衣料品店、レンタルビデオ店、ブラジル直輸入品の通信販売などが開始された。
1994年以降は、不況の影響でかつてのように簡単に転職ができない状況となり、ある意味で落ち着いた状態となり、残業の減少によって余暇の時間が拡大した。このため、その時間を既婚者は副業やアルバイトに、青年層は趣味を生かす積極的な余暇活動に利用するという新たなライフスタイルが生まれている。例えば、青年層の中では、従来の遊びに重点を置いた生活エンジョイ型とは異なり、バンド、柔道、サッカーといった自分の趣味に週末を利用して積極的に取り組む人や、ディスクジョッキーやイラストデザインなどのブラジルでの職業を生かしたアルバイトをする人が現れた。