終章
 
「国体の成功、民泊の成功は若い人と年上の人との協力の賜だ」と多くの人が答えていた。
 S村歓迎装飾部長や彼らが言う協力体制とは村の組織を基本としている。
 
 この協力体制=連携・ネットワークがうまく活用できた要素として、1つはS村民泊会長が言っていた「適材適所」で、指示を出す人間と実際に動く人間とが上手くかみ合ったことである。
 
 2つ目は、村の組織である。各村には児童会・青年会・寄合・婦人会・老人会等があり、これらは以前は強制加入だったため、今も名残で多くの人が加入している。特に男性に限って言うと、中高生になった時から40歳前後まで青年会に加入し、青年会卒業後は寄合に加入、そして老人会へとシフトしていくのである。このため、男性は「幼なじみ」という一本の線で常に繋がっている。このことが指示を出す側の言葉にも「勝手にやれば」という気持ちではなく、「じゃあ、手伝おうかな」という気持ちにさせたものと思われる。この連携・ネットワークが他の町よりも民泊の良さを引き出したのではないだろうか。
 
 この連携・ネットワークはある時は封建的・保守的ともいわれ、よそ者には冷たいといわれたりするのだが、今回のように民泊という方法を採ることで、身内・仲間・身近な存在と意識され、「自分たちが守って・応援して」あげなければいけない存在と確認されたのではないか。見も知らない土地で自分たちだけが味方である。そう思ったからこそ、その観客席での応援合戦や、歓迎合戦にもなったのだと思う。
 
 3つ目は国体事務局があまり何も言わず、民泊協力会の独自性に任せたことにある。上から「あれをやってください。これをやってください。」と命令調で押さえつけられたのでは、きっと「なぜ自分たちが大変な思いをして、ここまでやらなくてはいけないのか」と多くの反発を買ったことだろう。しかし、常に命令ではなく「お願い」という形で地域の住民に協力を求めたことによって「少人数の事務局員でこれだけのことをやっているのだから何か手伝ってやろう」と協力的な姿勢、「こんなことをしたらどうか」という自発的な歓迎ムードへと発展することができたのである。
 
 国体開催前に斉藤幸子県な連理事長に、「民泊家庭には、本当に親切にしてくれる家庭と通り一遍のことしかしてくれない家庭とがあって、あったかーい家庭はずっと記憶に残っているけれど、通り一遍の家庭は申し訳ないけど、どんな家だったかさえも思い出せないくらい。」ということを私は聞いていた。
 4章のアンケートの自由回答の記述を見る限り、確かにホテル・旅館がよいと答える人も多かったのだが、今回の民泊はどの家庭も選手達の記憶にずっと残るような民泊だったようである。また、そのもてなしや歓迎、応援が民泊側・地元側の自己満足だけのものではなく、選手も喜んでいたことは選手と町とが一体になっていたと言える。そしてそれは県の事務局や町の事務局が目標として掲げた「県民総参画・参加」の成功だったと言えよう。
 
 今回この論文を書くに当たり、多方に協力していただいた。(財)全日本なぎなた連盟をはじめとし、福野町なぎなた連盟の皆さん、国体なぎなた競技の選手・監督・大会競技役員の皆さん、大坪亮子先生、斉藤幸子先生、民泊家庭の宅さんとそのご家族、B宅とそのご家族、S村民泊協力会の皆さん、そして、参与観察をさせていただいた福野町国体事務局の事務局次長はじめ局員の皆さん、ありがとうございました。