第3章 S村では
私は福野町S村(48区)に住んでいる。民泊家庭や民泊協力会の例として、このS村を例に挙げ、参与観察・インタビュー調査を行うことにした。
「お父さん」「お母さん」と以下に出てくるが、これは各民泊家庭で中心となってお世話をしてくれる人のことである。普通「旦那さん」「奥さん」と言えばその家の当主とその妻、「息子さん」「お嫁さん」と言えば若夫婦のことだが、「旦那さん」と呼ばれる人が第1世代であったり第2世代であったりと、各家庭で異なるため、統一して民泊家庭で中心となる人を「お父さん」「お母さん」と呼ぶことにする。(第1世代とは私から見て祖父母ぐらい、第2世代とは父母ぐらいのことである。また福野町は3世代家族が多い。)
第1節 民泊家庭の決定まで
S村の民泊家庭はA宅とB宅の2軒で、この2軒を決めるまでの経緯は次のようだった。
1年半前の時点でS村の区長はAさん(お父さん)だった。区長会で民泊の話を受けてから、早速村の寄合で民泊家庭を募ったのだが、2章の2節<民泊家庭の募集・決定>にも述べたように立候補する者は誰もいなかった。村の委員会でどの家庭が良いか相談し、そこで挙がった家庭にA区長はお願いに行ったのだが、2軒3軒と断られた。やっとのことで、1軒目が決まった。B宅には現在小学5年生の双子がおり、彼女らは町のなぎなたスポーツ少年団に入っていたので、比較的すぐに決まったようだ。しかしながら、2軒目を引き受けてくれる家庭がいっこうに見つからないでいるうちに、町の国体事務局が指定した民泊家庭の選出の締め切りが迫っていたため、当時区長をやっていたA宅に決まったのである。
当時A宅には1歳半と生まれたばかりの孫がいたため、お母さんも「きっと選手の邪魔になるし、子供に手がかかって満足なことをしてあげられないだろうから」と引き受けるのを渋っていた。逆にB宅のお子さんはすべて小学校にあがっていたため、また、末っ子の双子がなぎなたスポーツ少年団でなぎなたをしていたため、「やってもいいかな」と思っていた。
また、国体事務局からは「民泊家庭の2軒が100メートル以上離れてはいけない」といわれてもいた。私の自宅もこのBさん宅から100メートルほどにあり、なぎなたもやっていたため、年も近いし、選手のよい話し相手になるだろうと、当初から何度となくA区長が出向いて来られた。しかし、私は強化指定選手になっていたため、もしかすると、選手になる可能性があった。また、選手になれなかった場合は競技役員をしてもらうと常々言われていた。A区長が私の家にお願いに来た時、母はなぎなた連盟からの依頼で、競技役員になってしまった後だった。このため、我が家は民泊家庭を断った。
同様に「競技役員を先に引き受けてしまったから」といって断った家庭もなぎなた関係者の中にはあったと思われる。
また「村の人の手前、引き受けることが出来なかった」という家庭もあったようで、大家次長は「今となっては笑い話だけど・・・」と教えてくださった。
実際、多くは当時区長だった人の家庭が多かった。
後日(慰労会の時に)、Aさんは「民泊家庭を決めるのが一番大変だった。」とホッとした口調で言っていた。
第2節 歓迎の準備
S村民泊協力会はD県少年・成年の2チームを受け入れた。Dチームを歓迎するために、民泊家庭の家の前の道路に「歓迎 がんばれDチーム」の横断幕が張られた。当初、町の中心の方から見えるように張られていたのだが、送迎バスのルートが裏側から表へ抜けるようになっていたため、急遽選手がやって来る1週間前に裏表を逆にした。このため、送迎バスに乗っている選手から見ると表だが、この横断幕の近くを通る人達は「なんで反対側をむけているのかしら」と思うことである。
民泊家庭の家の入り口(玄関ではなく)に杉葉のアーチを作った。これは7、8日に民泊協力会の歓迎装飾部が中心となって杉葉を調達したり、「田植えの時の尺」を調達したり、見本としてアーチを1本作ったりした。「田植えの尺」とは農家であればわかる、田植えグッズである。昔田植機がなかった頃、苗を田んぼに一定の間隔でまっすぐに植えていくことは困難だった。尺とは長さ2メートルほどの6角形の形をした筒で、それを転がすと節と筋の跡がつく。その節のところに苗を植えていくのである。(下図3−1)
アーチ
尺を使った様子
→
図3−1
今回はこの「尺」に網を巻き付け、「尺」の内側にはウレタンとニカを詰め、その網目に何軒かに協力してもらって切り出した杉葉を差し込んだものを4本(1民泊家庭に2本)作り、門とした。
このアーチ作りは村の人の発案によるものである。このアーチは戦時中、出兵する人のために作られた、いわば赤紙のようなものだったそうだ。その人は大会に出場する選手達の姿を兵士と重ねたのだろうか。
このアーチ作りを民泊協力会の人は村のイベントとして企画した。村民全員で杉葉を差し込んで準備に携わることにより、歓迎ムードを高めようとした。
このアーチ作りのイベントの一週間前、Aさんは「(アーチを作るという案は)いいこと考えただろ。でも『普通に来られる人は来てください』と言っていたのでは、全然人が集まらないだろうから、例えば『杉葉を差すと幸せになれる』とか言わないとダメだろうなあ。」と言っていた。
また後日行われた村の慰労会の時にBさんは「思ったよりたくさん杉葉が必要だったよ」と笑っていた。この杉葉は村の何軒かに頼んで切り出させてもらった。もし足りなくなっても周りは散居で、屋敷林を構えている家ばかりであるため、心配はいらないのだが。
各家庭には歓迎費用として、国体事務局から民泊協力会に1軒につき5万円支給されている。しかし道路にかけた「歓迎 Dチーム」の横断幕の費用にその10万円をほぼ使ってしまったので、その他のアーチや看板、応援団ののぼり、歓迎会の時のケーキ等、すべて民泊協力会の基になっている村の会計で賄った。これについては9月15日、20日、28日などの協力会の役員会で話し合い、承認を得ている。
第3節 歓迎会について
D県選手が来町した10月13日午後7時半から9時まで村の公民館で歓迎会を催した。会館に集まった人数はざっと70人ぐらいだった。皆、回覧板で今日の歓迎会のことを知り、応援にやってきた。半分はどんな人がD県から来たのか見に来たのだが。
この歓迎会の打ち合わせのために歓迎装飾部部長が何度もD県チームの監督に連絡をとった。国体事務局の方から「次の日総合開会式で、その次の日が試合だから、あまり選手を疲れさせないように」と言われていたのもあって、どんな風に催したらいいかや終わる時間が少し遅くなってもいいかなど確認した。すると、D県チームの監督は「どうぞどうぞ、どれだけでもやってください。少年は総合開会式で休めばいいし、成年は明後日からだから。」と意外な返事が返ってきたそうである。
他にも事前に、民泊家庭へは自家用車で来るのかそれとも大会会場からの巡回バスで来るのかなど確認し、当日は食事の準備や歓迎会の準備をするために、監督会議・計量後電話してもらった。が、会場近くのショッピングセンターに立ち寄ったらしく、30分遅れて歓迎会は始まった。
プログラムは次頁(図3−2)の通りである。
選手が会館に到着すると、集まった村人は一斉に町で配布された小旗を振って出迎えた。
そして照明で明るくなった会館前で村の獅子方若連中によって獅子舞が舞われた。
獅子取りは手に各々鎌、棒、なぎなたを持っている。初めは珍しげに選手達は見ていたのだが、なぎなたの獅子取りになったとき、「同じ技を使っている!」ととても興味深げに見ていた。
この日は晴れていたのだが、もし雨天だったらどうなっていたのか。
この疑問を持った人もいたのだが、「雨が降ったから祭りをしないと言うことはないだろ。」と村の年寄りに一括されてしまったらしい。
図3−2 S村民泊協力会の歓迎会プログラム
@獅子舞の演舞(会館前) 獅子方若連中 A歓迎の言葉 A婦人会長 B選手団代表の挨拶
少年チーム監督 C選手の自己紹介・今大会の抱負 D激励の言葉
民泊協力会会長(現・S村区長) E色紙の贈呈
村の有志Mさん F選手代表のお礼の言葉 G記念写真撮影 |
獅子舞が終わって会館の中に入ると大広間の上座に一列に選手席が設けられており、相対して、私たち村人が座するようになっていた。はじめ、順番に座ろうとしている人が多くなかなか座ろうとしないので、結局中に入った人から前から詰めることになった。お陰で私は1列目に座ることができた。この順番とは「家の大きさ・家の伝統・収入の多さ・年齢・男女」などが暗黙の内に作った順序である。
すべてが座ったところで会は始まった。
歓迎の言葉はA婦人会長が述べた。AさんはA前区長の奥さんで、今回民泊家庭の「お母さん」でもある。
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D県の皆さん、第55回国民体育大会とやま県大会にようこそおいで下さい ましの福野町は先頃350周年の記念式典も催された歴史ある町でございます。 この福野中でもこのS村は開発と自然が共存している、最も美しい村でなかろ うかと自負しております。
最初、D県の方が来られると決まった時に、私は非常に親しみを覚えました。 主人の弟やいとこ達がM市などにおります。
どうか皆さん、この村におられます間は、男性はお父さん、お兄さん、又は愛 する恋人と思ってください。女性はお母さん、お姉さん、または可愛ーい妹だと思 っていただいて、ゆっくりお過ごし下さいますようお願いします。
私は民泊をしている関係上、会場へ応援に行けないかもしれません。ここで応 援させてさい。フレー、フレー、D県。 「あいの風 夢のせて」のスローガン通り、さわやかな演技を期待いたします。 と言いたいところですが、どうか○○のど根性で大きな花を咲かせて頂きますよう
お願いして歓迎の言葉とさせてください。ありがとうございました。 | |
「愛する恋人」と出たところで皆にどっと笑いがおこり、緊張が少しほぐれたようである。
次に選手・監督を代表して少年の監督が挨拶をした。
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こんなに歓迎されてびっくりしております。 民泊も少し久しぶりで、なかなか引き受け手がないと聞いていましたので、す ごく感動しました。ありがとうございます。
是非、頑張りたいと思います。が、勝負はわかりませんよ。今言っていただ いたように、勝負には厳しく、普段は可愛くやっていきたいと思います。あり がとうございました。 | |
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D県チームの監督は挨拶をしなくてはならないことを全く知らなかったようである。
この後、進行役が「少しリラックスして、お茶を飲みながら進めたいと思いますので、選手の皆さんもお集まりの皆さんも足を崩して、楽な体勢でお願いします。」と、それまで正座をしていた人達に気持ちでも身体でもリラックスするよう求めた。選手の方には紅茶とケーキが配られたが、民泊家庭で、夕食を食べた後だったので、結局最後まで食べていなかった。
私とD県チームの選手・監督とは遠征や合同練習会などで顔見知りだったため、「なんでそっち(民泊)側にいるの?こっち(選手)側じゃないの?私たちもうお腹いっぱいだから、このケーキ食べない?」と声をかけてくれた。
選手達の自己紹介ならび今大会の抱負や決意を1分間程度でしてもらった後、質問会となった。
Q.こうしてみると優勝候補と聞いていたのですがイメージよりも優しそうで、かわいらしいですね。実績として優勝経験はあるのですか。
Q.今までの成績はどのくらいですか。
Q.いつもどのくらい練習しているのですか。
監督→国体選手で練習するのは週2回です。しかしどの選手も仕事が終わってから、授業が終わってからの練習になり、また、それぞれ自分の所属チーム(部活)での練習を終わってからになるので、ほとんど家には寝に帰るだけの生活になります。だからこれだけ練習しているのだから、何かおみやげ(入賞)をもって帰らないと、その費やした時間が無駄になってしまうんです。
私は監督なので、選手に「練習しろ」と言うことしかできないので、3か月前ぐらいから日頃の行いを良くして、少しでも運が近づくようにしてます。
Q.なぎなたを嫌いになったことはないですか。
選手→ついさっきまで嫌でした。練習の後に歓迎会だったので、「臭いし、汗だくだし、いやだなあ」と思っていましたが、ここに来て会館の前の出迎えを見て、さっきまでの気持ちをさっぱり忘れ、「がんばるぞー」という気持ちになりました。
逆に選手側からも質問が出た。
監督:先ほどの獅子舞はいつやるものなんですか。
監督:小学生の頃(監督が)、家の中に獅子が入ってきたのを覚えているのです。
監督:私の知っているものは獅子が1人、太鼓が1人、笛1人でした。
→S村の獅子は獅子に6人、太鼓が1人、笛が2人です。
1週間前に秋祭りがあったばかりだったので、いつもより練習が多くてうまく舞えたようです。
民泊協力会会長の挨拶の後、村の有志Mさんが奥さんと共作した色紙を選手に渡した。
その色紙には1人ずつ「不動心」「金剛力」「克固心」などといった言葉が書かれていた。選手達は大喜びだった。その色紙を手に写真を撮ってもらっていた。そのまま、会は写真撮影に入った。そのMさんを中心とし、選手達が1列目に座った。そして、村人もすべてが入っての記念写真を3枚ほど撮って会は終了した。が、その後も選手達は村の人と何枚も写真を撮ってもらっていた。この写真は後日選手の方に郵送することになっている。
「疲れさせてはいけない」と言われていたので気をまわしたのか、会が終わったからか、村人は割と早くに選手達を見送った。
4節 食事について
2章でも述べたように、調理実習は地区にいる食生活改善推進員(以後「食改)の指導のもと行われた。N地区には食改は12人おり、S村の食改はAさんだった。
Aさん(以下、Aお母さん)はこの年、婦人会支部長と食改、そして民泊と3つの役が重なっていた。
調理実習は地区ごと、村(区)ごと、協力会ごとに行われた。Aお母さんは食改だったこともあり、毎回1つの食事例につき4回、家族の人数分作って実習の予習をしていたそうである。
9月24日に町の農協「エレナ」の調理室で村の調理実習を行った。その時参加した人は男性7人、女性24人(うち婦人会員22人)で、この男性は味見係だったそうである。
これまでに調理実習に参加したことのある人を優先的に3等分(民泊家庭2軒と転用施設)した。なぎなたの協力会の方に18人、バスケットボールの協力会の方に25人の食事手伝いの人を要するため、足りない人員は婦人会員の中からと、各班から非会員を推薦してもらった。
転用施設の方は3区(S・T・U)で、1食ごとに交代することになった。S村からは婦人会の1、2班の班長を中心に担当してもらった。
民泊家庭では各家庭に3人3班づつ設け、1日ごとに交代することになった。(表3−1))こちらの班長は婦人会の班長が3人、現区長の奥さん、前の前の区長の奥さん、前の前の婦人会の支部長となった。(前の区長の奥さん=Aお母さん、前の婦人会支部長は私の母で、競技役員のため協力できなかった。)
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A宅(少年) |
B宅(成年) |
1日目 |
1班 |
1班 |
2日目 |
2班 |
2班 |
3日目 |
3班 |
3班 |
4日目 |
1班 |
1班 |
5日目 |
2班 |
2班 | |
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10月1日、転用施設担当の食事係は実際にそこの調理場を使って調理実習を行った。同じ日、民泊家庭担当の食事係は「今まで何度となく調理実習をやっているから今更しなくてもいいだろう。」ということで調理実習を行わなかった。しかし当日になってから、「鍋はどこにあるの?」とか「塩が足りない!」ということにならないように各班長が集まって確認することにした。私はこのことを9月28日にAお母さんにインタビューしたときに知り、参加させてもらうことにした。
10月1日午後2時、私がA宅に行くとまだA宅担当の班長が揃っていなかったので3人が揃ったところでAお母さんを含め、5人でB宅へ移動した。B宅ではすでに集まっており、どの食事例の順などを話し合っていたが、私たちが行ったところで中断し、B宅の台所チェックとなった。
チェックのポイントは次の通りである。
@ガスは2口以上あるか。
A冷蔵庫や瞬間湯沸かし器、電子レンジがあるか。
Bまな板は3枚あるか。包丁は2本以上あるか。
Cフライパンや鍋など数はあるか。また、それを片づけてある場所はどこか。
D調味料はどこにあるか。E食器類は人数分あるか。どこに片づけてあるか。
E他に足りないものはないか。
B宅のチェックが終わると次にA宅に移動し、同じようにチェックをした。そこにはAさんの家のお嫁さんも一緒にいて確認した。
A宅のお母さんもB宅のお母さんもお互いの台所がどの程度片づいているかも気にしているようであった。
この台所チェックが終わると、次はその日の流れなどを申し合わせた。
内容は以下の通りである。
・タイムスケジュール(協力会副会長、作成)
→朝食は午前5時に集合し、食べてもらうのが7時、夕食は午後3時に集合し、6時半に食べてもらう。
・献立はどうするか。(どの日に第何例をつくるか。)
・使う材料の確認。
・買い出しはどうするか。何時に行くか。現地集合にするか、1回家庭に集まってからいくのか。2軒一緒に行くのか。
・買い出しの時、原則掛け売りをすること。
→農協「エレナ」にもショッピングセンター・アミューの「サンキュー」にも掛け売り用のレジは1ずつしかないため、混雑が予想される。特に開店時(10時)やお昼は「空いているのではないか」と予想した協力会で混みそうである。
事務局に掛け売りでないとダメなのか尋ねると「現金買いをしても良いのだけれども、食費は後日回収・配布になり、転用施設の方は代金を立て替える人がいないため、掛け売りをするので、別に伝票でなくとも領収書があればよい。」と答えられたそうである。
また、この混雑を避けて、生活センターに注文する協力会もあるし、民泊と転用施設一緒に買い出しする協力会もある。
・国体事務局から配布されたマスク・キャップを着用し、盛りつけ時は手袋をつける。 ・毎食後の食器の熱湯消毒はしない。
→食改では食器は使った後と新しく使う食器に熱湯消毒するように言っているのだが、それでは前日の担当者に「この食器使った?」と確認しなければならず、また朝の忙しい時間での熱湯消毒はコンロも時間も人もとられてしまって非合理なので、普通にボイラーの(瞬間湯沸かし器の)やけどしない程度の湯と洗剤で洗うことに決めた。
・畑で取れる食材はわけあう。
・手伝いの人の食事は民泊家庭で民泊家庭のご家族と一緒にとる。
→選手にとって4人分であっても普通の人には多すぎる量であるので、A宅は4人分多く作り、8人(A家族と手伝いの人3人)で食べることにした。B宅も同様。
手伝いの人が自分の家に帰ってからまた家族の分を料理するのは面倒という理由からである。
これによって、もし選手が遅く帰ってきても「温かいものは温かいうちに」食べることができるようになった。
女性の集まりであったため、話がいろいろ飛んだり、戻ったりしたのだが、一見どうでも良いと思うようなことでも真剣に、かつ和やかに話し合っていた。途中まで6日目の夜の食事もあると誰もが思い違いしていたので、「増えたのでなくてよかった。考えたら、2日だけだね。」と、1日減ってホッとしているようだった。
話の途中で「他の町は民泊しなくていいのに」という意見も出て、口々に「井波町は〜」「小矢部市は〜」と言っていたのだが、結局「福野町にホテルないしねぇ」というところに落ち着いた。
「起きるだけで精一杯だからノーメイクで髪の毛ボサボサでもいい?」と言えば「キャップかぶってるし、マスクもしてるから大丈夫」と言う。民泊家庭のお母さんも「もし起きられなかったら裏口を開けておくから、皆さん勝手に入ってきて料理を作り始めてくださいね。」と言い、「キャップとマスクを着けたところを写真に撮らなきゃね。」と言う人もいて、みな覚悟を決めたことによってこの状況を楽しんでいるようであった。
第5節 慰労会について
国体が終わり、選手達もすべて帰郷した10月22日に村の会館の2階で行われた。
司会は歓迎装飾部部長で、民泊協力会会長が簡単に挨拶し、村の人の労をねぎらった。
その後は自由な酒盛りとなったため、いろいろな人に今回の民泊の感想を尋ねて回った。
Aお父さんやBお父さん達が私の卒論のことをこの慰労会の席で周りの人に言ったお陰で、多くの人が「私の話を聞いて欲しい」「協力してあげる」と私のところへやってきた。
ここでは国体の民泊をやってみてどうだったか、どうして国体が成功したのか、もしまた国体があって、民泊をやって欲しいと言われたらどうするかといったことを中心に尋ねた。
・民泊協力会会長(現区長)談
はじめは村人も3割くらいが「なぜ(民泊や歓迎を)しなきゃいけないのか」、7割が「何かはしなきゃいけないと思うけれど、そこまでしなきゃいけないのか?」と考えていた。私はせめてこれだけはしなくては、少しでも良い状態で迎えたいという気持ちが強かった。
また、上に立つ人間が誰であるかをはっきりと区別するために、寄合で集まった時には決して民泊のことには触れなかったことが、選手達を受け入れ易い、応援し易い雰囲気を作ったのではないかな。適材適所がうまくいった。区長交代後すぐだったので、国体の民泊についてよく知らなかったのもあったので、他の指示を出せる人間が上に立ったのも良かった。やっぱり上からの押さえつけだけではうまくいかないし、盛り上がらなかっただろう。これだけの村人が総出で何かをするというのはもうないだろうから、みんなが集まる機会になってよかった。こんな感激を味わえるのは滅多にないこと。大変だったというよりもよかった〜という気持ちだ。
・歓迎装飾部長談
大変だということはなかった。どれだけの人で、どれだけのことができるかというのが一番頭を使った。どこまで貢献できるかというのもあったし。協力会会長が表に立って事務局と連絡をとってくれたお陰で、私は裏で、組織部長として自由に指示を出すことができた。今回は上から下まで上手い具合に流れ作業で進めることができたから、いろいろなことがうまくいったのだと思う。
・青年会会長と会員談(15歳から35歳までの男性の集まり)
夜警を担当していたけれど、選手達は女の子ばかりだったから、全然苦にならなかったよ。バスケットボールの選手達は夜も障子戸を開けっ放しにしていたので、外から丸見えだった。目が合ったように思うのだけど。変質者とまちがわれていないよね?(笑)
応援の方はなぎなたはルールがよくわからなかったけど盛り上がった。応援席では競技開始時間の1時間程前から場所取りをして、応援中は「おれらはS村の応援団だ!」と言うと他の協力会は静かになったり場所を避けたりした。応援席は応援席でケンカみたいになっていた。後で考えると「どうして同じ町内でケンカしなくてはならないのか?」と思ったけれど。それぐらい盛り上がっていた。
バスケットボールは試合終了まで得点差があまりなかったから、すごくドキドキした。よかった。
・Aお母さん談(少年チーム)
国体が終わってヤレヤレ、ホッとしている。一仕事終えたさわやかな気持ちだ。前は国体や民泊がどんなものかさっぱりわからなかったけれど新聞に他の家庭のことも書いてあって、いろいろなもてなし方があったのだなと思った。
普段しないことをしたのと緊張で、民泊が終わった日は体中が痛かった。またほとんど家から出なかったので日にち感覚もなくなっていた。でも楽しかった。
選手の部屋に置いた小さい冷蔵庫はコンビニで買ったものなどを入れて利用していたようだ。
少年は1日目で演技も試合も負けてしまったので、すごくショックな顔をしていた。家の若い人が「なぎなただけが人生ではないさ」と励ましていたようだ。選手達は国体も民泊も初めてなので緊張していたし、こちらも食中毒にならないか、あんまり話しかけて、試合に差し支えないかなと緊張していたので、お互いに余裕がなかった。もっと楽な気持ちで親戚を泊めるような感じでできたらよかった。成年の方が大人だから話すのにも余裕があるだろう。残念会を開いてあげた。お別れの時は色紙をあげた。洗濯物が干してあったのだけれど、夕方になったら取り込んでたたみたくなった。また防具袋も干していたのだけれど、選手がいない間にこっそりと裏返しにしたり、石鹸の粉が吹いているところをふき取ったりして、選手が帰ってくる前に元に戻しておいた。
家のお姉さんも「話をしているのを聞くと国体選手と言ってもやっぱり高校生だね。」と言っていた。
事前に台所を調理担当班長に見ていたおかげで、だいぶんスムーズに準備することが出来た。また、調理担当者の中には全然知らなかった人や転入してきた新しい人、婦人会をもう卒業した人(60歳くらいの人)などがいて、話すいい機会になった。
・Aお父さん談(少年チーム)前区長
一番大変だったのは民泊家庭を決めることだった。村の委員会で推薦された家庭には全て断られてしまった。その上2軒が100メートル以上離れてはいけないと事務局から知らされていたし。家庭が決まってしまえば後は何も大変なことなどなかった。
少年選手の父母が応援に駆けつけていて、出会いの輪も広がった。選手達は国体も民泊も初めてだったので、とても恐縮・緊張していたみたいだった。監督もテレビや飲み物等に厳しかった。せっかくテレビを買ったのに、すぐに選手用の部屋に入ってしまって、あまり話せなかった。監督も「負けてすいませんでした」と恐縮して謝っていた。
選手達が帰るときには「今度はなぎなた抜きで遊びにおいで」と言った。
・Bお父さん談(成年チーム)
小学生の娘(2人)がなぎなたをやっていたので、(民泊を)やってもいいかなー、ぐらいの気持ちでやったのに、得るものが多かった。演技競技で負けたときに、「民泊しているから関係者だ」と勝手に選手控え室に入っていくと監督が「負けてすいませんでした」と言うので、「試合で挽回しろよ。おまえ達はもっと堂々とやれば勝てるのだから」と一人一人に励ました。選手達は素人の言うことなのに目を見て真剣に聞いてくれた。
また民泊初日に刺激になるだろうと娘に稽古着・袴で出迎えさせた。選手達はそれを見て、「なぎなたやってるんだね」と喜んでくれていた。別れる日、選手が「○○ちゃんの机みつけたよ。学校に行ったら、机の中を見てね」と言ったので見てみると、選手達から娘達への手紙が入っていて、「10年後に国体で会いましょう」と書かれていた。娘達は以前にも増してなぎなたへの意欲を持ったようだ。
選手aの1人の誕生日が期間中だったため、村の1人がケーキを持って行くと、監督が選手bに「ごめんね、小さいケーキで」と謝っていた。選手bはリハーサル大会の時に誕生日があった。その時はチームでお祝いしたので今回に比べて、小さかったそうである。今回はろうそくが全部のるようにと大きいケーキを買ってきていた。
今回は成年チームだったから気が楽だった。もし富山とD県が対戦していたら、富山が勝って欲しいのはもちろんだけど、きっとD県を応援していただろう。富山が負けた後は更に勝って欲しいと思った。
・食事係班長のお母さん達談(cさん、dさん)
朝起きられるかなと心配だった。だけど若い人に元気をたくさんもらった気がする。身体の調子も以前より良くなった。落ち込んでいる選手を励ましたりして交流する内に、前よりも応援したくなって応援していた。実りある感じだ。はじめはどういう風に歓迎すればいいかもわからなかったけれど、みんなで協力したから成功したのだと思う。組織図を班を作ったのが良かったのだと思う。
また婦人会には若い人も年上の人もいて、普段ではできないよい世代間交流になった。
終わってホッとした。特に食中毒がなくて良かった。村の新しい人(転入してきた人、若い人)ともふれあえた。お別れの日に一緒に写真をとれていい記念になった。(写真を見せながら)
どの人もよかった、感動したと嬉しそうに話していた。国体成功・民泊成功は「若い人と年上の人の協力の賜」と答える人、「S村は元もともと結束力が強いから」と答える人、「S村には(いい意味で)変人が多いから」と答える人が多かった。
もしまた国体が開催され、民泊を依頼されたら協力しますか、と言う問にもどの人も是非、当然協力すると答えていた。
また民泊家庭を今回引き受けた家族の人も皆民泊家庭を引き受けると誇らしげに答えた。