第2章 民泊について
 
第1節 民泊とは
 
 国体では、全国から参加する選手・監督が、ホテルや旅館などの営業施設に宿泊するもののほか、一般の家庭に料金を払って宿泊する「民泊」も実施されている。
 国体では一部の観光県や大都市を除き、どの開催県でも旅館の絶対数が不足している。ある県では、県内の旅館数は足りているけれども、会場地まで距離があり現実には使用できないと旅館もあり、程度の差はあるが民泊なくしては国体が開催できない状態にある。
 国体で「民泊」が大々的に実施されたのは昭和33年に開催された第13回富山国体が始まりであり、選手と県民との心温まる交流が大変好評であったため、モデル国体と言われ、その後の国体でも民泊が毎回実施されるようになったのである。
 
 今回の「2000年とやま国体」ではこの民泊に「ガンバッ亭」という愛称をつけた。「ガンバッ亭」は選手たちへの「頑張って!」というエールであり、また民泊で選手たちを受け入れる家庭や地域の方々へのエールでもある。
 2000年とやま国体では選手・監督の方々約9,000名を一般家庭や公民館等での民泊「ガンバッ亭」で迎える。これは最大規模の実施となる。
(『2000年国体富山県民運動GUIDE BOOK』2000年国体富山県民運動推進会議事務局
『国体を2000倍楽しむ方法』2000年とやま国体福野町実行委員会 1998)
 
 宿舎については次のように定められている。(基準要項第33項)
  @宿舎は、旅館を原則とするが、寮、寺院、民家等を利用できる。
  A1人の宿泊に要する広さは3.3平方メートル(2畳)とする。
 
秋季大会 富 山 県 福 野 町
 宿泊予想人数 37,776人   998人  
 旅館等仮配宿人数 28,114人 74.4% 324人 32.5%
不足数  9,662人 25.6% 674人 69.5%
    
      表2−1   県内の宿泊予想 H10.10
(『国体を2000倍楽しむ方法』2000年とやま国体福野町実行委員会 1998)
 
 表1の宿泊予定人数であるが、これには競技会役員、選手・監督しか含まれおらず、バスの運転手(県外バス約600台)、応援者の人数は含まれていない。
 平成12年8月の時点で、富山県内の期間中の宿泊予約状況は100%、金沢でもほぼ100%であった。国体が近づくにつれて各県から「応援に行きたいけれど、どこに泊まればいいですか」や「どこか泊まれるところないですか」という問い合わせが国体事務局に頻繁にかかるようになった。「県内は絶対無理なので金沢の方に問い合わせて下さい」と答えるしかなかったそうである。また県の国体事務局からもそう対応するように言われたそうだ。
 
 福野町ではこのような状況をふまえ、
で計画を進めた。
 さらに、転用施設(バスケットボール)は2部屋以上ある施設(監督用6畳以上、選手用30畳以上)、水洗化(簡易水洗含む)されている施設、女子トイレが2カ所以上ある施設−−を基準に平成10年8月に16施設を選定した。
 
 また一般家庭(なぎなた)も8畳以上(1チーム4人)の部屋1部屋か6畳以上の2部屋(男子監督が約1割程度)がある家庭−−を基準に92軒(富山県選手の2軒分を除く)の一般家庭の募集・選定を同じく平成10年8月に各区長にお願いした。民泊家庭の決定・配宿については第2節で取り上げることにする。
 
  町内旅館 転用施設 民  泊
 なぎなた役員等 177人     177人
 なぎなた選手・監督     376人 376人
 バスケ役員等  20人      20人
 バスケ選手・監督   280人   280人
  197人 280人 376人 853人
   
   表2−2 福野町の配宿概要(第4次配宿シュミレーション)
(『国体を2000倍楽しむ方法』2000年とやま国体福野町実行委員会 1998)
                    
 表2のなぎなたの選手・監督は376人で固定であるが、バスケットボールの選手・監督は1チーム最少12人で大体平均18人を予想しているため、280人なのである。もしかすると300人を超えることもあるのである。実際今回のとやま国体で福野町に来たバスケットボールの選手・監督の人数は278人である。
 
 
第2節 民泊協力会と配宿決定について
 
<民泊協力会について>
 
 今回の国体の民泊のために「民泊協力会」を新たに結成した。これは福野町で開催されるなぎなた競技会、バスケットボール競技会(少年女子)に参加する選手および監督の民泊に対して、十分に活躍できるよう快適な宿泊環境を提供するとともに、地区民との交流を深めるとともに、地域の連帯と意識の高揚を図ることを目的とする(『民泊協力会について』2000年とやま国体福野町実行委員会 1999 c)。
 
 この「民泊協力会」は原則として区ごとに設立され、、その中にはなぎなた民泊のみ担当の協力会、なぎなた民泊とバスケ転用施設兼ねる協力会、バスケ転用施設のみの協力会の3種類がある。転用施設のうち、複数の区で準備・運営に当たる場合は、関係する区で協力会を設立する。このため区によっては2つの協力会が存在するところもある。この設立について、平成12年3月中に設立するように平成11年12月14日に国体事務局が促した。
 
<民泊家庭の募集・選出について>
 
 福野町では、まず国体事務局で民泊家庭92軒をどういうふうに割り振るかの原案を作成した。この原案とは区ごとにチーム数を世帯数で比例配分するというものだった。(図2−3)
  
   原案

 

   チ ー ム 数
   世 帯 数   を比例配分
 

  図2−3
事務局作成の民泊配分の原案
 
          
「こういった案が事務局にあります」とまず自治振興会長さんたち(7名 元議員が多い)に提示した。すると「原案だと顔がつぶれる部落がある」といわれた。というのも現在は軒数が減ってしまった、もともとは大きな部落であったとか、開町当時からの旧家、部落としての伝統などが今でも部落のランク付けとして残っているからである。そのため割り振りが多すぎたり少なすぎたりすると−−この場合、その部落の格に対してである−−何も知らない私たちからみると公平であっても、不公平が出るのである。
 そこへこの自治振興会長さんたちが「割り振りは任せてくれ」とかって出てくれた。これは「もしそれぞれの部落から不満が出ても自分たちが対処してやるぞ」という意気込みを含んでいるのである。
 この「自治振興会長」は大変な名誉職で、普段は暇をしているのだが頼ったときには大活躍してくれる人々である。また普通の会議くらいでは顔も見せないようなえらい存在である。
 
 この協議された原案を連絡区長16名と自治振興会長7人で更に協議し、その後他の区長全63名(連絡区長を含む)に「こういう案が事務局にあります」と提示・協議した後、区長63名、婦人会会長、公民館館長など総勢80〜90名で構成される宿泊専門委員会にこの案を議題とし、承認を得た。さらに実行委員会(全区長込み)の総会に持っていき承認を得たことにより、正式手続きをとった。(図2−4)
 これによって、平成10年8月25日に区長会でこのように民泊をやるのでお願いしますと依頼した。このとき皆協力的で1回集まって決まった。このときにもやはり「なぜ自分たちが民泊をやらなくてはいけないんだ」「面倒なことは自分たちにさせて」「勝手に国体なんか引き受けて」といった苦情がでたが、利口な人がいて「文句があるなら言えばいい。でもホテルも旅館もないし、せっかく町をあげて盛り上げていこうと言っているのに、協力しないわけにいかないだろう。事務局の人達もこれだけ頑張っているし。文句を言って断れるのだったら、いくらでも言えばいいけど断れるものでもないだろう。結局やらなくてはならないのだったら、みんなで気持ちよくやろうよ。」と言ってくれたお陰で丸く治まったのだと事務局次長は教えてくれた。
 
             協議1      協議2          協議3            依頼
事務局で
原案作成

自治
振興会長

自治振興会長と連絡区長       宿泊専門
委員会

実行委員
会総会



各区長
非公開会議←    承認=正式手続↑
      

 
                            
            図2−4 民泊配分の承認までの経緯
 
 福野町の隣に位置するN町でもバスケットボール競技の民泊を行うために国体局が町内会長を集めて依頼したのだが、「勝手に国体なんか引き受けて」「面倒な事は自分たちに押しつけて」「なぜ自分たちが民泊をやらなくてはいけないんだ」という意見がほとんどで、1回目の説明会は文句爆発でぶち壊れてしまい、すぐにお開きとなってしまった。そこで「N町にはホテルも旅館もない」し、「他の市町村はやるのだから」とか「ほかに民泊のお願いを持っていくところがない」といってなだめすかして、仕切り直してお願いした。結果、N町では宿泊や入浴は民泊家庭で3〜4人ずつ、食事は公民館で行うことで納得してもらった。
 
 民泊の受け入れの説明でなぜN町ではなかなか受け入れてもらえず、福野町ではすんなりと受け入れてもらえたのか。
 それは事務局次長の言う「根回し作戦」(図2−4)が功を奏したのである。自治振興会長が関わっていることと、区長会に見せるまでは非公式会議として集まることによって、事前に何を聞かれるか知っておくことができたからだろう。大きな会議の時には何か難しい事を聞かれても、突然ではわからないとか焦って答えることができないかもしれない。しかし事前に何を聞かれるか知っておくことによって、他のところ(体協や自治会長さんなど)に相談に行くこともでき、なんとか対処できるのである。
 この「根回し作戦」の効果は偉大であった。
 
 またT市では、民泊や国体の説明のために、市の国体事務局の人間(約30人)が1週間ほど出ずっぱりで一軒一軒に出向いた。
 これはT市の国体事務局員が30人ほどいたから一週間でできたが、これと同じことを福野町でやろうとすると、当時町の国体事務局員は3人しかいなかったため、1か月もかかってしまう。
 そこで、いかに3人という少ない人数でやるか−−悪く言うと「非民主的」「手抜き工事」−−を考えた結果、この「根回し作戦」になったのである。一番最初に自治振興会長さんにお願いしたことで町内会長さんに「喝」を入れてもらえたのだ。これはいい意味で「もめたときに、頼りになる」のである。
 またこの「3人で」ということも理解してもらえた理由の1つだろう。少数で頑張っているというのが口先だけのお願いではなく本当に困っているというのが伝わって、同情をかったのである。
 
 区長会や民泊説明会の時、各民泊協力会の代表に1部ずつ資料冊子等(『民泊の手引き』『調理・献立について』2000年とやま国体福野町実行委員会 2000 d,g等参照)を配布した。すると「町内で説明するときに使いたいから、もう20部ください」「もう10部ください」「まだ冊子ないですか。」という区が多く、いつも冊子が足りなくなり、何度も刷り直した。
 
 また区長会では前述したように「なぜ民泊をしなくてはいけないのか」という人があったが、逆にある地区などはすでに婦人会等がいろいろ集まり、民泊をするつもり準備を進めている所もあり、その人達からすると、「国体がくるのは何年も前からわかっていたのに、今更何を言っているの」と言ったところだったそうだ。
 
 過去の民泊開催県では民泊家庭の決定の際、全軒対象で「民泊家庭として協力できますか」というアンケート調査を行っている。一回目は無記名で行うので何百軒と「協力できる」という回答が帰ってくる。これを受けて2回目を記名で行うとこれが一桁の数になってしまうのである。そして集めたい数になるまで何度もアンケート調査を繰り返すのである。
 これはどの開催県でもあまり変わりがないため、福野町では今回アンケート調査は行わず、区長さんにお願いした。これを事務局次長の言葉でいうと「手を抜いてやった」のである。この「手抜き」とは使える人を最大限に利用し、一番効果的と思われる方法で、着々と進むように下に下に回って作業したということではないだろうか。
 
 アンケート調査をしない代わりに、それぞれの区で民泊家庭を選出するときに、1回目は必ず公募にしてもらうように頼んだ。しかし周りの顔を見てか、なかなか立候補する人がいなかった。「昔からの大きな家・旧家を差し置いてできない」「でしゃばって」「自分の家は立派でないから」といった、「家のランク=家の人のランク」という考えが当然のようにあるようである。
 また、福野町国体事務局が設定した締め切りも間近にせまっていたため、「やる人がいないのなら、仕方ない、やるか」と半ば覚悟を決めていた区長さんの家庭に決まった区が多かった(前・現区長、町議員など)。
 今となっては笑い話だが、あとから「やってもよかったんだけど・・・」という人も多かったようである。特になぎなた関係者は必ず話がくるだろうと覚悟していたようである。中には民泊の話よりも先に競技役員の委嘱を受けていたので断ったという人もいた。また現在なぎなたスポーツ少年団に入ってる子供を持つ家庭で民泊家庭を引き受けたのは2軒だけだった。
 
 民泊家庭が決定したのは平成11年1月で民泊協力会設立(平成12年3月)まで1年2か月、国体開催(平成12年10月)の1年半も前だった。これは県の国体事務局が早く決めろと急かしていたためである。しかしあまりにも早く民泊家庭が決まってしまったため、中には改築した家庭も少なくない。「そろそろ改築しようかな」と思っていた家にはきっかけになった。逆に民泊を引き受けたいために2〜3年前に改装したという家庭もある。
 国体事務局からは原則、「現状のままで、お金の必要はありません」とお知らせした。また、最低8畳間1部屋以上か4畳半2部屋以上あって、水洗化された(簡易を含む)トイレのある家庭というのも付け加えておいた。だから、トイレが水洗化されていない家庭は選出から外してもよいことになる。
 
 またそろそろ風呂を改装しようと思っていた家庭にもちょうど良い機会だったようである。衛生上、選手が入浴するときには24時間風呂であっても家族が入った後や次の日には毎回湯を抜いて掃除してから使用することと、保健所の方に衛生について確認した。そのため、普段の家族分の湯量しかない(タンクが小さい)ところは北陸電力の協力で期間中だけ多くする器具を取り付けていた。
 
 この24時間風呂の設置や湯量増量のタンクの取り付けに関しては、国体事務局では希望家庭を確認した後、これらの設置に伴う使用電気料金の値上がりや工事費などについての説明を北陸電力にしてもらい、理解を図った。この設置について、24時間風呂の機械の費用・工事費は北陸電力が持ち、家庭は使用料金のみを払うことになっている。
 
<配宿抽選会について>
 
 配宿抽選会は平成12年9月17日に行われた。
 なぜこんなにも抽選会が遅くなったのか。
 一点目は、富山県チームの配宿である。結果、県なぎなた連盟理事長宅に配宿された。これは選手達が日頃から慣れている理事長宅の方が初対面の人のお宅に行くよりは緊張などの気疲れが少なく、試合にも影響が少ないだろうと配慮したのと、民泊協力会同士で富山県チームの争奪戦になるのを避けたためである。気分として、地元チームを応援したいのはどこも同じである。理事長宅なら誰もが納得するだろうと考えたのである。
 
 2点目は、なぎなたのN県の少年女子は2年連続欠場しているためである。早くに抽選会をしてしまって、もし今年も欠場となった場合、N県の少年女子が当たった家庭はせっかくの準備がすべて無駄になってしまうのである。そのため、「連続欠場のないように」と事務局の方から何度もお願いした。
 さらに全日本なぎなた連盟の方からもお願いしてもっらた。おかげで準備が無駄になることなく運営されたのだが、事務局では万が一欠場チームが出た場合、県なぎなた連盟理事長宅にお世話になる富山県2チームを2つに分けるとか、他のチームをさらに2つに分ける(4人で1チームを2人、2人に分ける)とか考えていた。が、取り越し苦労になってほっとしているようだ。
 
 3点目は提供できる部屋が1部屋しかないという家庭があったことである。これは「できれば女性監督のチームのほうがいいなぁ」という意味を含んだものでもあった。
 
 4点目はバスケットボールの選手と監督の人数と監督の男女によって宿泊可能な転用施設が限られてくることだった。
 
 以上の4点は9月14日の申し込み締め切りによってはっきりする。このため、配宿抽選会が国体の1ヶ月前と遅くなってしまったのである。
 
 9月17日の配宿抽選会には多くの人が集まった。各民泊協力会・家庭の代表、立ち会いに約70人、抽選者は福野町体育協会会長、宿泊専門委員長(区長会長)、助役(国体事務局長)の3人がくじを引いた。
 方法は、
・例えば「北海道3番」というと、3番北海道成年、4番北海道少年となる。
・奇数の割り振りになっている部落は隣の部落の一番近いところが当たる。 
・同じ県ができるだけ同じ区になるようにした。
・また、2部屋以上提供できる家庭で、先に男性監督のチーム10チーム(9県)分を抽選し、残った家庭と1部屋しか提供できない家庭を混ぜて残りのチームの抽選を行った。   
         (民泊家庭一覧表『民泊の手引き』2000年とやま国体福野町実行委員会 2000 g)
 
 バスケットボールの転用施設の場合は、下の4つのパターンに振り分け、抽選した。
         (転用施設一覧表『転用施設の手引き』2000年とやま国体福野町実行委員会 2000 h)
 
 抽選は1回のみ行った。その場での不平・不満はなかった。これは「みんなが見ている」ということと、「1つのところが不満を言ったら、他のところも言い出してきりがない」し、収集がつかないということを暗黙のうちに了解していたからである。
 どの協力会の人も抽選に真剣で、自分の担当の県だけわかればいいはずなのに、他の協力会担当の県まで全部記録するほどだった。
 
 その後国体事務局にきた不満は「同じ地区で1回戦の対戦相手同士というのは困る」というものだった。C地区に1回戦に対戦する、優勝候補の静岡県と地元富山県を引き当てたからである。
 C地区の人は「2回戦や3回戦で対戦するチームならいいけど、1回戦だと同じ地区なのに敵味方に分かれて応援するのはつらい。富山県はそのままに、静岡県を代えてくれ」と言いにきた。
 
 このため、9月19日にトレードに該当したパターンに含まれる転用施設の代表に集まってもらい、1時間ほど話し合ってもらったが、もともと「富山県チームの対戦相手を応援するのはやりにくい」というのが前提とした抽選であったということ。また、抽選会の場で決まったことをもうその民泊協力会にも区の人にも伝えているし、短い時間であっても覚悟を決めて「応援しよう」と思い、少なからず愛着を持っているので、今から代えるとなると「せっかく応援しようと思っていたのに」という人も出てくるので、今更代えられないということ。また1回戦も2回戦もいつ対戦しても同じだから、ということも加えてC地区の民泊協力会には納得してもらった。
 
 他県では半年前や3か月くらい前に抽選してしまうそうである。ブロック予選をしてくる場合なら、どの県が勝ちあがるかわからなくても、関東の1位,2位というように勝手に配宿してしまうそうである。これなら、実際にどの県かわかるまでに相当の準備をしてしまっているので、あとから1回戦の対戦相手になったとしても「抽選だだから仕方ない」「ぶつかって当たり前」「そんなこと、考えもしなかった」などで関係ないそうである。
 
 「弱いチームにして欲しい」や「強いチームにして欲しい」という民泊協力会があった。前者は「弱いチーム=さっさと負ける」からすぐに帰ってくれて楽という考えであり、後者はどうせやるのだから、決勝まで残って欲しいという覚悟を決めた考えである。
 
 事務局次長にバスケットボールの今年のインターハイや去年の成績を元にした下馬評を教えてもらったのだが、今回は大きく予想をはずれ、C地区では1回戦で負けると思っていた富山県が優勝し、優勝すると思っていたH県が1回戦で負けてしまったため、料理係の方で大パニックになっていたそうである。
 
 富山県チームの方は3泊4日分のローテーションしか真剣に組んでおらず、楽に考えていたので、勝ち進むたびに料理係長が近所のお母さんたちに電話して人数を揃えたそうである。(S村民泊協力会の人談)また、H県チームの方は気合いを入れて5泊6日でローテーションを組んでいたのだが、選手たちは残念会もせずに帰ってしまったので拍子向けしてしまったそうだ。(K会館民泊協力会会長談)
 これと同じことが各協力会で起こっていたそうである。
 表2−5 
  C地区の中の
    民泊協力会



 
なぎなた バスケットボール
S民泊協力会
T民泊協力会
U民泊協力会
V民泊協力会
W民泊協力会
X民泊協力会
K会館民泊協力会
( S,T,U )
富山県チーム
G会館民泊協力会
(V,W,X)
静岡県チーム
 
 
第3節 歓迎会について
 
 国体に参加すると盛大な歓迎を受ける。中でも歓迎会はどこも趣向を凝らして、より選手の思い出に残るよう企画側も一生懸命である。
 今回、福野町では近年の簡素化・効率化の流れにのって、原則として歓迎会をしないことにした。といっても「町国体事務局主催では」ということである。歓迎の気持ちを表したいという協力会は各々で歓迎会を開くようにという意味だ。
 
 バスケットボールでは地元主催の歓迎会をしてもらう方が多いが、なぎなたの場合、大抵旅館形式が多いため、歓迎会は町(実行委員会)主催がほとんどである。広島国体の時は民泊であったため、民泊協力会が主催した。それでも全県合同であったのだが、今回は協力会ごとである。これは前例のないことである。
 
 「事務局は一切手を出さない」といっても、歓迎会がどんなものかを知っている人はほとんどいないので、『民泊の手引き』(民泊家庭用)の中に「歓送迎会の実施について」という項目を設けて、説明している。
                                など
          (『民泊の手引き』『転用施設の手引き』2000年とやま国体福野町実行委員会 2000 g,h)
 
 上の『民泊の手引き』等への記入は「原則歓迎会をしない」といくら言っても1つのところがやると言えば全部のところがするだろうと予測した結果である。
 当初、1チームに対して民泊側が10人も20人も出てきたら圧倒されてしまって、気遣い・気後れするだろうから、協力会の人は役の人だけにするか、在所から何人かにして、こぢんまりとした歓迎会になるのではないかと事務局では予測していた。しかし、人数や進行方法など一切指定・限定しなかったので、すべてが協力会任せになり、結果、村対抗の歓迎合戦のようになってしまったのである。。
 
 事務局次長も各区長さんに「頼むから派手にするなよ、やりすぎるなよ」と釘を打ったといっていたが、実際は獅子舞をしたところ、御輿を出して選手達に担がせてあげたところなど、ほとんどのところが村総出で歓迎会をし、お祭り騒ぎだったようである。
 
 この歓迎会であるが、選手側の意見として2通りある。
 1つは「せっかく来たのだから記念に」「他県の友達に会えてうれしい」という交流・一体感を得ることができると言う意見。
 2つ目は「大会前に疲れる」「集中がとぎれる」という競技人としての意見。常に強化している県であればプライドや自信、実力があり、常に競技を意識しているのかもしれない。逆に前者の意見は後者からは「国体がお祭り感覚」と見えるかもしれない。
 
 4章で詳しく取り上げるが、どのアンケートの自由回答のところには「歓迎会が盛大で感動した」「地元の人が温かく迎えてくれてうれしかった」「多くの人とコミュニケーションをとることができた」というふうに書いていた。こう見ると自分たちだけなく、選手達も一緒に楽しむことができたようである。また、それくらいのお祭り騒ぎの方が民泊家庭とも打ち解けやすいのかもしれない。すると、より国体が、民泊が楽しいものになるのではないだろうか。
 
 
第4節 食事について
 
 富山県の国体事務局が設定した標準献立は選手達が最良のコンディションで活躍できるようにと栄養面・衛生面に配慮し、富山の特産物を盛り込んだ郷土色豊かなものになっている。この標準献立は朝・昼(弁当)・夕食のそれぞれ各6例18食あり、いつどの例を作るかは各民泊家庭の判断で決める。
 
 これに対して、福野町国体事務局では『献立・調理について』と言う冊子を作成し、平成12年5月12日に民泊家庭のお母さん達に配布した。
 これには@2000年とやま国体標準献立集の変更点等について、A調理する時に衛生面で気をつけることが掲載されている。
 @の中では、
「福野町の献立の考え方について」
 他、盛りつけ方、牛乳の常備、果物の出し方(会場に持っていけるように切り分けない)
 
「献立のエネルギー量について」
「後片づけについて」
   (『献立・調理について』2000年とやま国体福野町実行委員会 2000 e)
 
と言ったことが述べられており、ここで国体が始まって初めて、後片づけについて明記されている。
 
 4章でも取り上げるが食事の時、特に後片づけの時であるが、選手側と民泊側で「片づけの手伝いをします」「私たちがやるから座っていてください」と気の遣いあいになるのである。
 選手側の「手伝います」は食事を作ってもらっているという感謝の気持ちからのものであり、民泊側の「座っていてください」というのはお客さんはゆっくり休んでいて欲しい、大会で頑張ってもらうために私たちが他の事は全部引き受けるよ、という思いやりの気持ちからのものである。
 お互いそのこともわかるため、引くに引けない状態になり、「民泊は気疲れするもの」と思っている人も少なくない。
 
 この今までの「選手は何もやらなくていいよ」という考えから、「これだけをしてください」とお願いすることでお互いに気持ちの整理が付いたのではないだろうか。この「選手は食器を・・・」は『民泊の手引き』にも載っており、説明会の度に事務局からもお願いしていたため、どの家庭も気をつけて選手に言っていたのではないだろうか。事務局では言ったかどうかを調べてないため判らないそうであるが、アンケートに「食事の時いざこざがあった」とは誰1人書いていなかったので上手く切り抜けたのではないだろうか。
 過去の民泊のアンケートのようなものには「食事時のいざこざ」がよく載っていたそうである。
 
 次にAであるが、これには
  @余裕のある人員を確保する事
  A献立
  B受入準備の確認
  C食材のの納入について、食品はできるだけ調理当日に納入する。
  D調理の前には爪を切り、指輪や時計は外しておく。
  E調理中
  F卵料理について
  Gできあがったらなるべく早く食べてもらい、家の外に持ち出さない。
   (『献立・調理について』2000年とやま国体福野町実行委員会 2000 e) 
                      
と書かれている。どれも基本事項であるが、これを徹底することによって1人の病人もなくそれぞれが納得のいく試合となるのである。
 
 この食事は量も多く品数も多いため、練習をしなければどれも温かいうちに食べるのは無理である。
 国体事務局では食生活改善推進員(以下、食改)84名の中の9人に委嘱状を出し、地区指導員として中心となって料理講習会を行ってもらった。この9人は食改の中から推薦を受けた人である。また委嘱状を出していない推進員にも交代で9人を手伝ってもらうことにした。
 
 食改とは町の福祉団体で、主な活動は町で行われるイベント時に鍋をしたり、町報に料理のレシピを紹介をしたりである。図2−6のように、役場から保健センターへ要請された福祉団体で、保健センターの栄養士の指導の下、前述のような活動を行っている。食改では年5000円ほどの手当はあるが、ほぼボランティアである。今回は試合で十分に力が発揮できるようにと食中毒への注意を特に呼びかけていた。
 
役場内 健康課
       図2−6  福野町の福祉団体
      要請  ↓
  保健センター 栄養士  
     
 指導
 
 
母子推進員
 
ヘルスメート
 
食生活改善推進協議会(食改)
 
  保健婦の手伝い        健康診断
 
 町主催の料理講習会は地区ごとに延べ30回開催し、毎回調理例を替えて行ったが、区ごと、民泊協力会ごとでも自由に講習会を開いていた。献立や作り方は黒板や模造紙に書いて掲示し、参加者の手元にも配布した。
 実習風景や料理の完成図を撮影し、実習のレポートと一緒に毎回国体事務局に提出してもらい、保健センターの担当者にとりまとめてもらった。
 レポート内容はメニュー・買い出しの材料と費用・作り方・味などについて、思ったこと・改善した方がよいことなどである。
 
 また食中毒(O−157やO−26、大腸菌や赤痢など)の注意のため、調理担当者約1100人の検便も行われた。各民泊協力会によって調理担当者の数が違うため、この人数は国体事務局での予想人数である。(実際は1056人)
 民泊家庭は臨時の宿泊施設のため、3か月以内に1回は実施して欲しいと保健所の方から言われた。このため、保健所指導の下、家庭への指導・実行は国体事務局が行った。もしも検体保持者がいたときは、保健所からその人へ指導される。(図2−7)また検食は50食以上でないので行わなかった。
 
    図2−7 検便実施の流れ

保健所
 

指導 →
 ←検査

国体事務局
 

指導・実施→
      ←回収

各協力会会長
 

容器配布→
     ←回収

各調理担当者
 


 
                        
 ホテルや・旅館は毎月1回程度、検便を実施しているでだろう。だから宿泊がホテル・旅館の利用が多い年は検便の人数は少なくなる。また今回のように民泊が多い年は検便の人数は多くなるのである。
 
 
第5節 入浴について
 
 <もらい湯計画>
 
 民泊家庭に宿泊する人は原則としてその民泊家庭のお風呂を使用し、転用施設で宿泊する人は、民間・公共施設のお風呂へバスで移動して利用するか、近所でもらい湯をすることになっている。
 
 平成12年6月9日までに国体事務局へ提出された各転用施設協力会の計画を見ると、付近の民間企業のお風呂を使用すると答えていたところが3カ所、銭湯を利用するところが2カ所、他の8カ所は転用施設付近の民家(約96軒)のお風呂を借り、残り2カ所は転用施設内にある風呂を利用することになっていた。
 
 銭湯へ行くチームは計画バスで移動してもらい、他は徒歩で行ってもらうことにした。この計画は8月末におおむね確定し、その後計画バスの手配や北陸電力の電気量の増量の申し込みなどをすることにした。
 
 ある区は転用施設を2軒(2チーム)担当しているのだが、あまりもらい湯をするつもりはなかったようだったので、「もらい湯を計画してください」と依頼すると今度は30軒も立候補家庭があった。事務局では20軒ほど挙がればいいと考えていたのであるが、「もらい湯家庭が少ない?よし、やってやろう」と言う人が多く、また区内の協力会担当でない班からも立候補があったのである。「意外に関心を持っているのだな。」と事務局長は驚いていた。
 
 この予定より多すぎたもらい湯家庭であるが、「多すぎたから、あなたの家は結構です」とすぐに断ってしまったのでは「なんだ、協力してくれと言ったから申し出たのに、結局意味なかったのだな。」と言う気持ちになり、最悪、「もう協力なんかしてやらない」と言われかねないのである。
 
 また、選手の詳しい人数は9月14日の選手申し込み提出の締め切りよってはっきりするので、たくさんの家庭にお願いしておいて、今多すぎるからと断るのも大変だし、断った後でやっぱり必要だからと依頼するのも大変なため、8月末以降に転用施設から遠い家庭から順番に「ありがたいけれど、ちょっと遠すぎるから・・・」と断ろうと思っている。
 
 そう民泊輸送係長は苦笑いをして教えてくれた。実際は30軒ののうち協力を断ったのは本当に遠かった家庭1,2軒だけだった。
 
 
第6節 輸送について
 
 今回の国体全体で必要とされる輸送用のバスは約770台であった。
 これは隣県(石川・福井等)から大型路線バスと大型観光バスをふくめた数字である。
 
 福野町では最多日で19台を必要とし、7日間ののべ台数は85台である。(なぎなた)この期間中、小学校のスクールバス2台も稼働する。また、スクールバス以外のバスは全て業者に依頼しので、もちろん運転手もプロであり、県外バスに乗って来町する。
 
<なぎなたの輸送計画>
 
・駅−会場(小学校)はシャトルバスとし、選手が一斉に来たときなど足りないときは大型バスが随時追加される。最多日4台
・会場(練習会場を含む)−民泊先は巡回バスとする。最多日15台
 
 以上の2点を基本にし、巡回バスのバス停は小学校のスクールバスを中心に設置され、また、民泊家庭から1q以内になるよう、直線コースになるように設置された。
 
 最初の日と最後の日はバス停まで民泊の家庭の方に送迎してもらい、家庭からバス停までの道順を覚えてもらった。2日目以降は各自でバス停まで移動してもらうのだが、10月半ばの午後5時半なら、比較的まだ明るいので迷子にはならないだろうと考えている。
 
 出迎えは選手にとってあまりに意外だったため、4章のアンケート調査でも述べるが、
皆「バス停まで出迎えてもらった。」や「旗を振って、到着を待っていてくれた。」等感動、感激の声が多かった。
 
 小学校に近い家庭(1q以内)で民泊しているチームは徒歩で会場まで移動してもらい、その民泊家庭の方は会場まで出迎えてもらった。
 同じように、駅に近い家庭(1q以内)で民泊しているチームはシャトルバスを利用してもらうことにした。民泊家庭の方は駅に出迎えてもらった。
 これで選手が歩く距離・労力を均等にしたのである。(図2−8)
                        
            1q以内       巡回バス8台            シャトルバス2台
 
民泊家庭
−−→
バス停
−−−→
会場(小学校)
←−−−−
 
 2軒の距離が        家庭から           1q以内は
100メートル以内      直線コース              徒歩
  バス停まで                          
  1q以内                      
                         
      図2−8 なぎなたの輸送計画
 
 10月14日の総合開会式の時は、まず民泊先から巡回バスで小学校に集合し、県がチャーターしたバスで総合開会式場へ移動する。(下図2−9)
 
              巡回バス                県のバス
 
民泊先
←−→
会場(小学校)
←−−−→
総合開会式場(富山市)
 
 
          図2−9 10月14日の輸送計画
 
<バスケットボールの輸送計画>
 
 バスケットボールのチームには1チームごとに担当者(福野町職員)が1人つき、チームが町内に入ったときから常にチームに同行し、練習するかどうか、どこで練習するか、弁当の宅配、バスの配車等を毎日監督と話し合い、行動を確認し、他のチームと調整をしてもらった。
 
 バスケットボールのチームは人数が多く、普通に巡回バスにしたところで1チームでほとんど埋まってしまうため、また、チームごとに動きが全く違うので、潔く、1チームに1台バスをチャーターした。
 
 バスケットボールの場合、なぎなたと違って負けるとすぐに帰郷してしまうので、1日目は8台までに減り、2日目は4台・・・となる。また、銭湯を利用するチームにとってもいちいち他のチームと連絡をとる必要がなくなるのである。
 
 このバス1台の1日チャーターには30万円必要とする予定だったので、全部で16チームあるので単純計算すると、1日480万円必要となる。このため、2チームで1台にする計画だったが、変更が多々あり、結果的に1チーム1台になったそうである。
 
 また実際の経費は時間単位でのチャーターだったため、1試合目で負けたチームや勝ち進んだチームの平均で1日1台約20万円(16台で1日380万円)だったそうである。
 期間中のなぎなた・バスケットボールのバス利用は総額1000万円だった。
 
第7節 応援について
 
 『転用施設の手引き』の中には、バスケットボールの応援の仕方などが記載されている。
 
17 応援について
   
   (『転用施設の手引き』2000年とやま国体福野町実行委員会 2000 h)
 
 なぎなたの応援についても、応援の仕方などが『民泊の手引き』の中に記載されている。
 
16 応援について
 
      (『民泊の手引き』2000年とやま国体福野町実行委員会 2000 g)
 
 バスケットボールは比較的なじみがあり応援しやすいだろうが、なぎなたの場合ほとんどが初めて観るに近いものがあった。
 そこで少しでも知ってもらおうと国体の開催前に行われた高校生の北信越大会が6月17,18日にあることをはがきで案内し、応援に来てくれるよう依頼した。これは出欠確認をしなかったのでそれぞれの意志に任せたのだが、「あの協力会は来ている(来ていない)」という意識が働いたためか、スーツを着た人が多く集まり、県内の選手も県外の選手も驚いていた。
 
 民泊輸送係長は「より本番に近い雰囲気を味わってもらえるはず」と9月3日の成年の北信越大会の時にも案内を出す予定だと言っていた。実際民泊家庭に案内のはがきを送り、今回は更にプログラムと簡単な競技の見方を載せた見開きのちらしも作成し協力会の人に渡した。民泊家庭のお父さんだけでなく、協力会会長や区長にも声をかけたらしく約100名のスーツ姿の人が観客席に集まったので、成年選手も少年選手同様、皆一様に驚いていた。
 
 また7月9日の県なぎなた体育大会の時には会場の横のグラウンドで消防団の集まりがあったらしく、お昼の休憩の時に涼みにきたついでになぎなたの応援(手をたたいたり、声をかけたり)をしてくれたそうだ。(後日選手談)また、観客席の座席用の簀の子の上にその消防団の人たちは寝ころんでいたようで、更にユニフォームの色も黒っぽいので、「トドだ!大群だ!!」と言っていたそうである。
 
 国体本番ではどの協力会も各々工夫した応援をしていた。のぼりを掲げているところ、選手の名前を1文字ずつ書いた紙を4,5人で持っているところ、チームの県の小旗を振っているところなど様々であった。また、会場の観客席には700人ほど入れるのだが、連日変わらず超満員であった。
 
 大会前には「なぎなたは5人しか応援に行ってはいけないのか」や「バスケットは40人しか行ってはいけないのか」という問い合わせも多かったそうである。
 実際になぎなた会場へは協力会によっては20人程、バスケットボール会場へは協力会によっては120人程が応援に足を運んだ。特にバスケットボール競技ではメインコートの試合になったら、ギャラリーも1階席も協力会の応援でいっぱいだったそうである。
 
 なぎなた会場に大会初日に来ていた民泊家庭のあるお母さんは「あと2日したら帰ってしまうなんて、考えると淋しいのよ」と言っていた。
 またどんなものかちょっと見に来たという人も多かったはずなのだが、見入ってしまって帰るに帰れなかった人も多かったようである。
 
 皆、自分の協力会のチームの時はなりふり構わず応援し、果ては富山県チームと対戦しても自分のチームを応援するほど熱が入っていた。これには選手達も「知らない土地で自分たちを応援してくれる人がいる」といたく感激していた。(選手の声3「問7」)
 
 これを考えると民泊によって「大会に参加している」という気持ちが強まったようである。