第1章 福野町での国体開催までの経緯
第1節 富山県に国体を誘致するまで
<国民体育大会とは>
はじまり:
国体は、我が国最大の体育・スポーツの祭典であり、スポーツの振興に大きな役割を果たしてきた。
第1回大会は、戦後の混乱の中、健康で明朗な国民生活を取り戻そうと昭和21年に比較的戦災を免れた京阪神地方で開催された。全国から食糧持参で5,377人の選手が集まり熱戦をくりひろげ、沈みきっていた国民に将来の明るい希望を抱かせた。以後、天皇杯・皇后杯の創設により都道府県対抗の形が確立し、各県持ち回りの開催で順調に発展し今日にいたっている。一巡目は戦争の傷跡が癒え、国体を開催できるまで経済的にも復興したぞと言う意味合いも含めていた。
その後、時代の世相を映す鏡となりながら、回を重ねるごとに規模も大きくなり、内容も充実されてきた。昭和62年の沖縄国体で全国を一巡し、翌年の京都国体から2巡目に入っている。
目的:
国体は各都道府県を代表する選手が一堂に集まって、日頃鍛えた力と技を競い合う、我が国最大のスポーツの祭典である。国民のスポーツに対する関心や健康と体力の増進への意欲を高め、また、互いに集い、ふれあい、競い、そして讃えあう機会を提供して人々の連帯感を強めてきた。国体の開催は県勢発展の新たな力となり、経済活動の活性化と豊かな郷土づくりに大きく貢献している。
(『富山に2000年国体がやって来る』第55回国民体育大会富山県準備委員会(富山県教育委員会体育課)1988,1992)
<2000年とやま国体について>
基本目標:
1.魅力 いっぱい 感動の祭典にしよう
21世紀における国体のモデルとなることを目指し、県民総参画・参加でとやまの魅力をふんだんに盛り込んだ感動の祭典として開催する。
2.新たなスポーツ文化を創造しよう
国体を契機として生涯スポーツの基盤づくりを積極的に推進し、新たなスポーツ文化を創造していく。
3.活力あるまち・ひと・暮らしを育てよう
大会を通して、活力あるまち・ひと・暮らしづくりを進めるとともに、活力あふれ発展する富山県のイメージを全国に向けて鮮明に印象づける。
以上のことを目標に、これまで培われた国体の歴史と伝統を受け継ぎながらも、最小の経費で最大の効果が得られるよう創意と工夫を凝らした祭典として開催する。
(『2000年国体富山県民運動GUIDE BOOK』2000年国体富山県民運動推進会議事務局)
更に「簡素効率化・環境に配慮した大会」になるよう、@後催県の宮城県と高知県と共同で開発した、記録情報システムや「国体簡素効率化マニュアル」の作成、国体初のオフィシャルサポーター(公式協賛企業)制度を創立した。また、競技会場はできるだけ既存施設を利用した。(96施設のうち76施設が既存)
基本目標の1について、県内のCATVのネットワークやインターネットなどを活用し多のも新しい取り組みである。国体のために県内のCATV普及率は飛躍的に上昇した。
スローガン:あいの風 夢のせて
「あいの風」は、富山湾の北東風で、古くは万葉の時代から、ブリの豊漁など海の幸を運ぶ風として県民に親しまれている。あいの風が、スポーツの祭典に集うすべての人たちの夢をのせて、「愛の風」、「(出)合いの風」、「私(I)の風」となって、全国へ、そして未来へ向かってすばらしい幸を運ぶイメージを表現している。
このほか、秋季国体後に開催される全国身体障害者スポーツ大会に「きらりんぴっく富山」と愛称をつけ、県民に親しまれるようにした。
<国体を富山県に誘致し開催するまでの経緯>
昭和57年 3月 5日 |
中沖県知事が2月の定例県議会の本会議で、2巡目の国体の誘致・開催を表明。 |
昭和60年 8月23日 |
(財)富山県体育協会で、第55回国民体育大会の誘致を決議 |
昭和60年10月 〜61年 1月 |
同一ブロック(中ブロック)の各府県から、第55回国民体育 会夏季・秋季大会の富山県開催について同意を得る |
昭和61年 1月21日
|
文部省・(財)日本体育協会(以下、日体協)に対し、(財)富山県体育協会長知事・県教育委員会の連名で、第55回国民体育大会の誘致にする要望書を提出 |
昭和62年 6月11日 |
第55回国民体育大会富山県誘致委員会を設置 |
昭和62年 9月 |
文部省・(財)日体協・全国各都道府県等に対し、第55回国 民体育大会富山県誘致について協力を要請 |
昭和63年 3月 9日 |
(財)日体協において第55回国民体育大会の開催申請順序が承認される |
昭和63年 8月31日 |
第55回国民体育大会準備委員会を設立 |
平成 7年 7月11日 |
第55回国民体育大会の富山県での開催が内定 |
平成 9年 5月22日 |
日体協・文部省の総合視察 |
平成 9年 7月 8日 |
第55回国民体育大会の富山県での開催が決定 |
表1−1 富山県への誘致の経緯
表1−1の通り、開催地の決定は開催を希望する都道府県の申請を受けて日体協が文部省と協議のうえ、5年前に内定、3年前に決定する。(基準要項第12項、第13項)
また国体の開催の地域区分は、東、中、西とし、東には北海道・東北・関東、中には北信越・東海・近畿とし、西は中国・四国・九州とし、順番に開催していく。(基準要項第11項)
第2節 福野町国体事務局設置と
なぎなた競技とバスケットボール競技少年女子を誘致するまで
平成 元年10月16日 |
福野町誘致委員会を設立 |
平成 2年 7月27日 |
第6回誘致委員会で誘致競技種目を決定(第1希望にバレーボールとなぎなた、第2希望に柔道、第3希望に軟式庭球) |
平成 2年 9月29日 |
競技開催希望調査書を県に提出 |
平成 3年 5月23日 |
富山県準備委員会第4回常任委員会で第1次会場地市町村を承認・決定→福野町:バスケットボール(少年女子)、なぎなた |
平成 5年 6月23日 |
第55回国民体育大会福野町準備委員会の設立総会 |
平成 6年 6月1〜
2日 |
中央競技団体正規視察(なぎなた競技) |
平成
6年11月17〜 18日 |
中央競技団体正規視察(バスケットボール競技) |
平成 9年 4月 1日 |
福野町教育委員会内に国体準備室を教育委員会部局内に設置 |
平成 9年10月 8日 |
2000年とやま国体福野町実行委員会設立総会 |
平成10年 4月 1日 |
町長部局に国体事務局を町長部局内に設置し、専任職員を配置 |
平成11年
5月22〜 23日 |
第40回都道府県対抗なぎなた大会開催 |
平成11年
6月18〜 20日 |
第37回北信越高等学校バスケットボール選手権大会(少年女子)開催 |
表1−2 競技の誘致とリハーサル大会までの経緯
<国体事務局について>
表1−2のように平成10年4月1日に設置された国体事務局は平成9年に設置された国体準備室を前身とし、9年には3人だったのが、10年には5人、11年には7人となり、平成12年4月1日からは8人で国体開催の準備に当たるようになった。平成8年以前は福野町体育課が担当(兼務)していた。
事務局長 福野町助役事務取扱(兼務)
事務局次長
競技式典係長(なぎなた担当)
総務企画係長(バスケットボール担当)
宿泊輸送係長
競技運営責任者(富山県なぎなた連盟より派遣)
なぎなた競技専門員(富山県体育協会より派遣)
事務補助(バスケットボール担当)
(『 2000年とやま国体福野町組織図』2000年とやま国体福野町実行委員会 2000 r)
以上8人(実質7人)が国体事務局のメンバーである。この国体事務局に参与観察させていただいた。
競技運営責任者は教員であるため、火・水・木曜以外は職場である学校にもどる。
競技専門員であるが、これは町に各1人、県体育協会から派遣されているものである。
県で予算がついたために、県の方から1競技に1人専門員が欲しかったら言ってくれと言われたそうである。このため当初の3人で競技経験のある彼女を推薦をし、県体育協会に登録・派遣された。
また、バスケットボールの専門員は4会場(富山市・砺波市・井波町・福野町)に1人であり、いちいち専門員が移動すると混乱するため、幹事市町の砺波市に1人いる。
この国体事務局ではありとあらゆる国体関連のことを取り扱っている。
競技についてはもちろんのこと、民泊について、輸送について、炬火リレーについて(近隣市町村と連携して)、リース(レンタル)について、ゴミについて(同焼却施設を利用する市町村と協議)、PR活動についてなどいろいろである。
例えば、国体期間中のごみの処理についてであるが、こういったイベント時には専用の赤色のゴミ袋を使うのだが、それではほんの少しの量でも収集車(パッカー車)を出動しなくてはならず経費がかさむため、一般家庭用の青色のゴミ袋で対応することになった。これによって、普通の家庭のゴミと同じように回収されるので経費はかからないのである。
<PR活動>
今年は開町350周年だったこともあり、国体事務局主催のもの以外にもさまざまなイベントが行われた。
リハーサル大会前 ・大会会場の2施設と役場前に懸垂幕を掛けた。
国体前 ・ショッピングセンターに大会開催までのカウントダウンの残暦板を設置(冬季国体後、県より借用)
・ポスターを作成し福野町内外に配布(1000枚)
・自由に書き込めるのぼり旗を小中学生に書き込んでもらう。
・国体マークの入ったプランターに花を植えてもらう。(計354人)
・各種関係機関・団体・各民泊協力会で競技会場や宿泊場所の周辺の清掃活動をしてもらう。 など
広報啓発塔は経費削減のため、既存の広告塔を書替え使用(ポスターの差し替え)し、国体終了後は以前の状態に戻した。
(『広報啓発活動・町民運動』2000年とやま国体福野町実行委員会 2001 b)
少ない事務局員と少ない予算のため、ほとんどがボランティア活動の企画になっていたようである。
強く国体をピーアールしたのは「NHKのど自慢」が4月9日福野町で収録されたことである。(放送は4月23日)どこに遠征に行っても「出てたでしょ?」と言われた。
出場したのは成年の強化指定選手ではなく少年の国体強化指定選手である。
この「のど自慢」であるが、始めははがき抽選(選考)であるため、歌の上手い下手は関係ない。要は話題性である。なぎなたチームははがきに「国体強化指定選手チームです。」と書いて送った。また、バスケットボールのチームも送ったのだが、「強化指定選手である」ことを書かなかったために、落選してしまった。
また、はがき選考を通った人で8日に2次選考があった。このときなぎなたチームは稽古着・袴で登場した。これが決め手になって本選に出場することが出来たのである。この稽古着・袴であるが、全日本なぎなた連盟でも賛否両論で理事会で承認を得たから着用できたのである。上の先生になると「神聖な稽古着をそんなちゃらちゃらとしたところで着るなんて」と言うことだそうだ。
ちょうどNHKの人に話を聞く機会があったので「もう一つ鐘を鳴らして、合格させてくれれば良かったのに」といったら、「鐘2つが妥当だよ。もし彼女たちが稽古着じゃなかったら、出場できなかったかもしれないんだよ。」と教えてくれた。
この様子は町報の表紙にもなり、会場に入れず見れなかった人、テレビでのど自慢を見なかった人などにも強く心に残ったに違いない。
それにしても全国ネットのメディアの力は大きい。
「国体」と「350周年」、どちらを表看板にしても良かったのだが、「国体」の方にすると経費が国体準備費から落ちてしまうので結果的には同じことをするのだけれど「350周年のイベント」として取り扱った。
同じようにNHKの巡回ラジオ体操も4月30日生放送されたのだが、これも350周年記念イベントとして行ったうえでしっかり国体のこともPRした。
他にも「チャレンジデー 2000inふくの」が5月31日に行われた。「チャレンジデー」とは、15分以上運動した人の多さを同じぐらいの人口の自治体で競うスポーツイベントで、今回は姉妹都市の多度津町(香川県)と競い合った。
この31日だけは町の有料の体育館も無料開放し、ショッピングセンターでもスタンプラリーをしたり、また各地区のゲートボール場でも早朝ゲートボールが行われたりと、子供からお年寄りまで、幅広い世代が身体を動かしてスポーツへの関心を高めた。
この4月の第3週(17日〜23日)はNHKで福野町ウィークだったらしく、ほかにも毎年5月の1,2日に行われる夜高祭りの特集も放送されていた。
当初スポーツ少年団に入っている子供達を通して、家族や近所の人に大会に応援に来てもらうことでなぎなたの知名度を高めていこうとしたのだが、あまり成功はしなかった。
そこで各地区ごとに毎年開催される文化祭でなぎなたを見てもらうことにした。この文化祭には民謡や踊りといったステージ発表もあるのだが、そのときに「福野町ではなぎなたが国体種目になっていますよ」と少しでもなぎなたがどのようなものか知ってもらうためにも見てもらい、競技の見方なども説明した。このとき他の発表を見に来た人が多く、自分の家の子供の活躍を初めて見た人もいて、毎回驚きの声や歓声があがり、当初はなぎなた連盟の方から出演依頼していたのだが、回を重ねる内に地区の方から依頼されるようになった。
なぎなた競技の競技役員であるが、今回は富山県から86人、全な連から審判員として21人と総務3人、そして次期開催県の宮城県から2人が総務として携わっている。この富山県の86人はほとんどが現役選手の母親であり、他にも今回は選手になれなかった高校生選手、引退した元選手、その母親、またそのお友達から成る。ある競技役員に「なぜこの大規模な大会が成功するのか」と尋ねたところ、「全員がなぎなたに携わる人で、結束が固いからだよ」と誇らしげに答えていた。
<経済波及について>
県の国体による経済波及は大変大きなものだったようだ(とやま国体公式HP「2000年とやま国体の経済波及効果等調査報告」より)が福野町ではどうであったのか。福野町での経済波及については調べていないため、詳しいことはわからない。このため、この県の報告した経済波及についても、データを提出していないので福野町に関しては関係があまりないといえる。ここでは開催する前の事務局での予測についてふれたいと思う。
事務局長に国体での福野町での経済波及について国体開催前の7月に尋ねたところ、「経済波及と言うよりは赤字の方が多いのではないかな。今年限りのことだからきっかけでしかないだろう。国体が福野町で毎年開催されるのなら予算もつくし、経済効果も高まるけれど。」という返事が返ってきた。実際の事務局の予算では、国体開催費は県からの補助、選手負担の宿泊費等と福野町の一般財源からの捻出によって賄わており、福野町の開催費は15,200万円で、県からの補助は3,670万円、一般財源からは9,300万円、選手の払い込みが2,230万円だった。
またこの町の一般財源からの金額は町の予算の1%ぐらいである。
「経済波及かどうかはわからないけど、印刷会社・仕出し屋・他の多くのレンタル(リース)は全て町の業者に依頼している」と教えてくれた。
これは始め大したことではないように聞こえたのだが、印刷はプログラムや会議の要項などの冊子、案内のちらしなど全ての印刷である。
また仕出し屋も期間中の多い日で1日1500個の弁当が必要で、これだけでも1日150万円のお金が動くことになる。
4章の3節でも詳しく述べるのだが、転用施設の利用に当たり、大型機器レンタル・給排水の工事費・電気料増加の申し込み料等で1転用施設につき約80万円、16施設で約1,600万円必要だった。これも全て町の業者に依頼した。(食器や布団等も)
大会会場の設営(雛壇や机・椅子・トランシーバー、テント等)も全て町の業者に依頼した。このとき、該当する数社に見積もりを出してもらい、一番低コストでできる会社に依頼したのは言うまでもない。
第3節 国体終了後
国体終了後、事務局員も5人になったが、依然として忙しいようである。後催県と質問会を開いたり、報告書を作成したり、またなぎなた競技は平成13年7月に全日本中学生大会(以下、全中)が福野町で開催されるため、その準備をしている。
平成12年11月19日には民泊協力会との「感謝の集い」を催し、268人のひとが集まった。
平成13年1月25,26日後催県(宮城・岡山・高知・埼玉等)との質問会が催された。ここでは大会開催・運営についてや輸送・宿泊について話し合われた。
2000年とやま国体福野町報告書は2月末頃が完成予定である。