日本に居るうちのわたし

                     

                      氏名  于 慧超

 

われわれが現在の自己よりも少しはよくなったと思われるように努力することとか、他人に自己のよいところ、あるいは理想的側面を見せたいという時に、自分のパフォーマンスがそこで呈示される当の社会の理解ならびに期待に適合するように〈社会化され〉たりする。

パフォーマンスは彼が現に遂行している役割を得るについては理想的動機があり、自分はこの役割に相応しい理想的な資格をもっており、さらにこの役割を得るためにどのようなかたちにせよ、侮辱・非礼・・屈辱をも忍ぶ必要はなく、また、暗暗裡に了解されている何らかの〈取引〉をする必要もないという印象を他者に与えていることをわれわれは知っている。(人とその仕事の門には聖なる適合関係が存在するというこの一般的印象は、おそらく高級な専門的職業に従事する人々がごく一般的につくり出しているものではあるが、同様の要素は低級な職業に従事している多くの人々に認められるところである。) このような理想的という印象を強化するやり方に一種の〈訓練の修辞法〉とも言うべきものがある。この訓練の修辞法によって、労働総組合・大学・同業組合・並びにほかの免許発行機関はその仕事に従事する人々にある種の範囲ならび機関の神秘的な訓練を受けることを要求するのである。それは一つには独占を維持しようとしてのことであり、一つには資格取得者は学習経験によって再形成されたもので一般の人々とは区別されるという印象を与える。(文献 52ページ)

以前より、わたしは日中文化・言語が混在している環境に居る時間がながくなってきている。自分の日本語学習は確かに身近な学習のリソースが豊かになってきている。しかし、それらのリソースをうまく利用することができているかどうかは自分で考えるしかない。日本語学習において、まず、文法をミニつけるには大切である。また、よく注意すべきことは母語の意味に近い日本語の単語を区別し、人間関係を考え、正しく使うことである。日本人にとって、常識であることでも異なる社会で育った人間には未知なことである。そのため、日本語を習っている学習者たちは適切な表現形成ができず、まわりの人間関係がまずくなってしまう。外人と見られるわたしたちは時々日本人の仲間から排除されることに困っている。その結果、日本人に接する機会が少なくなる。異文化圏に居る自分が思いよりこころをもつことは大切である。異文化と自文化との距離を縮めるため、自分自身は積極的な態度を持たなければならない。日ころ、自分が物的リソースをもって、得た情報とか、持っている意見なドをまわりの人とコミュニケーションをすれば、理解を深めるだろう。

もう一つの学習のリソースとして、日本人学生という社会的リソースである。現在、わたしにとって、もっとも接する機会が多いのは同じ大学に所属する日本人学生である。しかし、自分が気がついてないうちに、そのリソースをうしなってしまった。一方、留学生といろいろな意見を交換することに大使、日本人学生は積極的性がないため、異文化への理解はむずかしくなっている。そもそも外国人留学生たちが日本人学生を学習のリソースとしてあつかう人も多くないと思う。その問題を解決するため、重要なのは、やはり自分自身(留学生たち)を見直すことである。

オーディエンスの一員になる場合、われわれは自然に、パフォーマーが与えようとしている印象を、真あるいは偽、本物あるいはまがいもの、まちがいないあるいは〈臭い〉と感ずる。

エゴの遂行するルーティーンのうち、どれか一つが他者に偽りの印象を与えると、それは該ルーティーンがその一部であるに過ぎない。関係全体ないしは役割全体にとって、脅威となる。一つの不信を抱かれれば、やましいことがない、他の活動にも不信を抱かれてしまうから) エゴがあるパフォーマンスを遂行している間に、たった一つでもかくすことがあり、露見の可能性が該パフォーマンス遂行中ないしは局面にしか生じないものでも、パフォーマーの不安は遂行中のパフォーマンスに及ぶことがある。たとえば、日本へ留学しにきた学生はみな留学生と呼ぶ。みなの国籍、言語、価値観はそれぞれである。だが、日本人の考えでは、留学生といえば、何も区別せず、同じに思いがちである。そのため、一人の留学生は悪いことをすると、留学生の全体が悪く思われる。

パフォーマーが、自分が現在呈示している身ごなしや能力は、いままでつねに保持していたものであるし、習得期間中にも失敗したことは一度もなかったという印象を与えようとさえすることがある。自分がパフォーマンスを行うことになっている組織から暗黙の支持を得ることもある。たとえば、アルバイト先では、自分が回りの日本人との母語の相違があるため、物事に対する理解、意識などの違いもある。だが、その集団に入る以上はみなと一緒にがんばらなければならないと思う。日本が経済不況のため、現在来日した外国人がアルバイトを見つけるのはますますむずかしくなってきている。もし、日本人は意識の中に国際化がないなら、わたしたちは日本社会への参加はできないはず。

パフォーマンスの解釈というのはすべてオーディエンスにゆだねられる。そのため、パフォーマーはパフォーマーの中どんな些細な出来事でも、それが全体の意味に背かないように注意を払わなくてはならない。パフォーマンスの時宜不適出来事の象徴的位置はおおまかに言って、三つの類型がある。第一は、パフォーマーが一時的に自己自身の筋力の統制ができなくなり、心ならずも不能・不作法・あるいは不敬をあらわす。第二は、パフォーマーの相互行為へのかかわり方が過剰である。あるいは過少であるという印象を与えるような仕方で行為する場合である。第三は、パフォーマーの[自己]呈示が不適当な演出のために不十分になるのを黙過する場合である。(文献 60ページ)

いうまでもなく、さまざまのパフォーマンスは、それぞれに必要な表出上の配慮の程度を異にしている。われわれの文化とは異質の場合には、われわれはすぐに表出上の高度の整合性を見てとることができる。たとえば、人文学部の留学生の控え室においては、昼間、ここに多くの留学生(国籍はさまざま)と日本人の学生が集まっている。彼らは身に付けている文化、もっている意識は異なっている。ようするに、自分に近くにいる外国人とうまく交流できるのかを考えなくてはならない。控え室にいる一人一人は、このパフォーマンスを遂行するパフォーマーがかくさなければならないものは何にもないが、それでも活動の始めから終わりまでのどこかで、彼が公然と取り扱えないようなことがでてくるのである。当該の役割ないしは関係のありようの範囲内に入る事柄とか分担される行為の数が多ければ多いほど、秘密の点が存在する確率がより大きくなると思われる。上の例のように、その共同体にいる人々は、異文化への理解という意識あれば、お互いの関係の望ましい現状を維持することは可能なのである。

われわれは、人に与えた見せかけは不整合な事実があれば不信を招くことがあるという常識的考えを保持しようとすればできないことはないが、人に抱かせた印象と矛盾する事実が、真のリアリティだと主張する理由もまずないし、ましてそのような事実とくい違う人に抱かせたリアリティだと主張する理由もないのである。日常的なパフォーマンスについてパフォーマーが支持する見解が一方的であり得るのはもちろんのことである。

 

 

参考文献

『行為と演技』−日常生活における自己呈示  E・ゴッフマン著