塾講師の演劇論

 

 

 私は塾の講師のアルバイトをしている。わずか週に二日ばかりのバイトではあるが、私の現在の生活スタイルの中では最もパフォーマンスを必要とする場である。小さな町にある塾なので規模が大きいということはない。先生は、バイトである私と、経営しているO先生の二人だけであるし、生徒は全員で15人くらいのものである。それでも私と先生、私と生徒、私と生徒の親の人といった具合に頻繁に相互行為は行われている。よってこの舞台を今回の分析対象としたい。また、分析の手法としては、『行為と演技』(ゴッフマン)に登場するいくつかの概念をピックアップして用いたいと思う。

 

〇外面…行為主体のパフォーマンスの中で、観察する人々に対して状況を一般的・固定的仕方で反復規定する機能を持つ部分。エゴがパフォーマンスの過程で意図的あるいは無意識的に用いる標準的な型の表出装備。

 舞台装置は塾の内部ということになる。建物内に入るまでは、私に講師としての顔はな

く、塾の中に入ったときからパフォーマンスは開始される。個人的外面には、外見と態度

の二つの機能があるわけだが、これに舞台装置を含めた三つの間にオーディエンスはなん

らかの整合性を期待する。主たるオーディエンスである生徒たちは、塾には塾らしい装備

をしてほしいと期待するであろうし、先生にはそれに相応しい服装で、かつ先生らしい振

る舞いを期待するに違いない。

 

〇劇的具象化…他者の前にいるとき、エゴは自分の挙動に種々の記号を付与する。そのとき、自らの挙動を他者にとって有意義なものにするため、相互行為の間に求められている諸能力を表出しなくてはならない。

 自分のパフォーマンスを他者にはっきりと示すために、ときにパフォーマーはやや大げ

さともとれるくらいに自分の挙動に劇的表現を与えるということである。私が生徒に授業

している時は、できる限り黒板を多用すること、できる限り指名して答えてもらうことと

している。それらは先生としての象徴的行為であると思われるからである。それによって

私が先生であることがより明確になるわけである。

 

〇理想化…パフォーマーは、自分が自らの遂行する役割に相応しい理想的な人物であると

いう印象操作を行なう。

 先生が先生であるために、一般的に理想とされる先生像を演じるということになるわけであるが、逆に理想的ではないとされる行為などは隠されなければならないのである。例えばカジュアルな服装であってはならない、タバコは吸ってはならない、ポケットに手を突っ込んではいけない等々が当てはまるだろう。これらの行為を抑制することによって理想的な基準は保たれることになる。

 

〇表出的統制の維持…パフォーマーは、パフォーマンス中のどんな些細な出来事でも、それが全体の意味に背かないように注意を払わなくてはならない。

 つまり小さなミスであっても、それがオーディエンスの期待に反する行為になりかねな

いので十分な注意が必要であるということだ。私の場合でいえば、英語の発音を上手く言

えなかったり、数学の公式を忘れてしまったりした場合が該当する。それらによって私へ

の不信感が芽生える可能性があるわけである。また、塾の中に漫画やお菓子などが置いて

あったとしたら、舞台装置が整っていないことになる。

 

○偽りの呈示…エゴの遂行するルーティーンうち、どれか一つが他者に偽りの印象を与え

ると、それは該ルーティーンがその一部であるにすぎないにもかかわらず、関係全体ないしは役割全体にとって脅威となる。

 これは、オーディエンスに一つでも不審を抱かれるようなことがあると、他の全活動にも影響を及ぼしてしまう危険性が出てくるということだろう。私が誤った問題の解き方を呈示してしまったとする。それが私の意図的なものであろうがなかろうが、それを生徒に察知されると、それまでわたしが教えてきたこと全てにも疑いが掛かってくるということになる。

 

○神秘化…接触に科せられている制約すなわち社会的距離の維持は、オーディエンスに畏怖が醸成され保持される手だてを与えるものである。

 自分より上位の地位のパフォーマーに対して畏敬と距離を感ずるのは当然だが、同等及び下位の地位のパフォーマーに対しても同じくらいの畏敬と距離を感ずる。つまり私の場合でいうと、O先生に対して畏敬と距離を感ずるであろうし、また生徒に対しても畏敬と距離を感ずるということになる。要はあらゆる人に対して言えることで、人間の聖なる部分であるパーソナリティーを侵害することはないということであろう。

 

○チーム…一つのまとまりあるルーティーンを演ずるに協力している一組の人々

 あるパフォーマンスが呈示する内容は、パフォーマーの性格の表出的延長であると仮定され、またパフォーマンスの機能はそのような個人的観点から見られやすい。しかし、このような見方は狭い見解であり、全体としての相互行為に対するパフォーマンスの機能の重要な差異を曖昧にすることになる。実際にはパフォーマンスは、遂行された仕事の特性を表出しているのである。私が生徒に教えるときも、それぞれの生徒に対する教え方には違いがある。優しく教えたり厳しく教えたり、順序立てて教えたり。それは別に贔屓をしているわけでもなく気に入らない生徒がいるからというわけではない。それぞれの生徒の性格に応じて教え方に相違を持たせているのである。そうした教え方の相違は、事前にO先生との打ち合わせによって決定されている。ある特定の参加者が投企する状況の定義は、チームとしての参加者の緊密な協力によってつくりだされ、維持されている。

 チームという概念によって、一人ないし一人以上のパフォーマーの遂行するパフォーマンスを考えることが可能になるが、それはまた別の場合をも含む。パフォーマーは自分自身の行為に欺かれることがある。この場合、パフォーマーであり、同時にオーディエンスでもある。つまり、本来エゴはパフォーマーであるはずだが、オーディエンスの立場にも立って自己自身に不審を招く要素がないか検討し、その事実を隠さなければならなくなる。教壇に立って生徒と相対している時、または事前にO先生と打ち合わせをしているとき、パフォーマーとしての演技を行なっているわけだが、同時に相手の側に自分も立ってみてどこかおかしな点がないかチェックをする必要があるのである。オーディエンスの立場に立ってみて初めて分かる事実も存在するのである。

 私とO先生とはチームという間柄にあり、生徒というオーディエンスの前でパフォーマンスを行なうのは当然なのだが、生徒が不在のときでもチームとしてのパフォーマンスを演ずることがある。舞台に二人しかいないときでも先生らしく振る舞っているということである。これは前述した、エゴはパフォーマーでありまたオーディエンスでもあるということが影響している。真のオーディエンスである生徒が不在でも、自己チェック用のオーディエンスであるエゴ自身は存在しているからである。

 チームにも大きく分けて二種類ある。大きなチームとワンマンチームである。大きなチームは、チームの構成員の間で不一致が生まれやすいので、チームの立場が決定されると直ちに全構成員がそれに従うことを義務づけられる。ワンマンチームは、問題に関して自分がとるべき立場を敏速に決定し、その立場を利害などにうまく適合させることが出来る。私のチームの場合はこちらに当てはまる。同一チームとはいえ、私とO先生の関係は雇っている者と雇われている者という関係にあるため、チームとしての方針を決定するのはO先生の方であり、その構成員である私は方針に従って役割を遂行するのみである。

 

○劇的相互行為…各チームがルーティーンを介して他のチームに対して行為すること

 チーム間で相互行為を行なう場合、舞台を統制する側のチームをパフォーマンスチームと呼び、その他のチームをオーディエンスチームと呼ぶ。この場合、舞台装置の統制権のあるパフォーマンスチームに有利に働く。私の教えている教室の時計は5分進めてある。別に5分前行動とかいったことではなく、それによって5分早く授業を終わらせることができて楽だからである。また、授業で教える箇所を選定するのはパフォーマンスチームである。数ある教材の中から教えにくい所は選ばず、教えやすい所だけを選んで用いることもできる。これらは舞台統制権のある側のみが行なえるものであるが、その舞台装置自体はオーディエンスチームに晒されている状態にあるため、伝達される一切の事実を隠すことはできない。

 

○チーム単位のパフォーマンス…チーム内の誰かに、劇的行為の進行を指示し、統制する権限が与えられている。

 チームの中には演出者と呼ばれる、チームの統制に携わるリーダー的な存在がいる。私はO先生の指導によって言動や態度、外見などが統制されている。こうした演出者は他のパフォーマーよりも責任が大きいとされる。こういったことから、チーム単位のパフォーマンス呈示に協力する人々に与えられる劇中での優位性が異なるといえる。

 

○局域…知覚にとって仕切りになるもので、ある程度区画されている場所

 

○表局域…特定のパフォーマンスを準拠点とした場合、そのパフォーマンスが行なわれる

場所

 私の場合だと、O先生との相互行為に焦点を置く場合は塾の内部が表局域となるし、生徒との相互行為に焦点を置く場合は教室の内部がそれに当たる。いずれにしても、表局域に入った瞬間から私のパフォーマンスは開始されるわけである。

 

○表局域における個人のパフォーマンス…個人のその局域内での挙動が一定の基準を保持し、体現しているという見せかけを与えるための努力

 一定の基準には丁重さと作法に関わるものがある。丁重さに関わるものは、パフォーマーがオーディエンスと会話やジェスチャーによるやり取りをしているときの、その扱い方に関わるものである。主に態度についてであり、つまりパフォーマンスを基本に則った丁寧なやり方で確実に遂行すべきであるということである。作法に関わるものは、オーディエンスの視野や声の聞こえる範囲内で、パフォーマーがいかに身を持するかということである。主に振る舞いについてであり、オーディエンスに良い印象を与えよう、制裁を回避しようなどの希望に動機付けされている。

 

○見せかけの勤勉、見せかけの余裕…ともに作法の一形態

 見せかけの勤勉は、例えば私がいい加減な授業をしている教室へO先生が入ってくる気配を感じたときに、突如として黒板を書き始めたり何かの説明を始めたりするケースが当てはまる。熱心に働いているという印象を与えたほうがいいからである。見せかけの余裕は、たとえ私が苦手としているような授業範囲であったとしても、それを生徒側には悟られないように全て私は理解していますよという風を装わなければならない。そうでなければなめられるという結果になる。特徴としては、見せかけの勤勉は地位の高い人に対して、見せかけの余裕は地位の低い人に対して行なわれる。

 

○裏局域…特定のパフォーマンスに関して、該パフォーマンスが人に抱かせた印象が事実上意識的に否定されている場所

 裏局域は、表局域とは遮断された場所にあって守られている。そこはオーディエンスが誰も侵入できない場所として安心できるところである。私の場合でいうと、その日に教える箇所の中で、あらかじめ目を通しておかないと説明するのに手間取ってしまいそうな部分を勉強しておく場所である。またはただ単にO先生と雑談をしたりメールを打ったりするくつろぎの場でもある。そうした場所にいるときは先生としての顔を離れているため、オーディエンスとしての生徒が入ってくることは不都合が生じるわけである。

 

○秘密…チームがオーディエンスに対して隠している部分

 秘密には三つの類型がある。一つ目は暗い秘密である。これはあるチームが自認し隠している、しかもそのチームがオーディエンスの前で保持しようと企図している自己像とは背馳する事実のことである。私は教室内での飲食を容認しているのだが、これは実は禁止されている事項である。よって私と生徒たちをチームとして捉えた場合、O先生には知られてはならない秘密を共有していることになる。この種の秘密は恒久的に秘密のままにしておこうという努力が払われる。

 二つ目は戦略的秘密である。これは、チームが何かしら計画している状態であり、オーディエンスがその計画に効果的に対応できないようにするために、該チームがオーディエンスに隠す自チームの意図ならびに能力に関わるものである。抜き打ちテストを行なう場合が該当する。事前にこのことが知られてしまっては抜き打ちにはならないため、これは秘密として保持される。この秘密の特徴は永遠の秘密ではないということである。秘密の準備に基づく行為が完了した暁には否応なく明るみに出される。

 三つ目は部内秘密である。これは、その秘密の所有が個人をある集団の構成員として特徴付け、該集団を事情に通じていない人々とは別の違ったものであると感じさせるような秘密である。

 

○攪乱…パフォーマンスが何らかの理由によってうまくはたらかないこと

 パフォーマンスにおいて、意図的でない、何気ない表出がオーディエンスに不適当な印象を与えることがある。授業をしている最中に何気なく窓の外をぽかんと見ていたり、ポケットに手を突っ込んで突っ立っていたりする行為は、パフォーマーがあまり気付かないところで生徒に悪印象を与えているかもしれないということである。

 また、不時の侵入という攪乱の形態もある。局外者がある局域の舞台裏などに偶然侵入したとき、社会的に侵入者に対して維持すべき印象と背馳した挙動を見てしまうことを指す。

 踏み越しは、その行為によって、パフォーマーが状況の定義の一部として投企している自己の印象を、不適当なものにしてしまうことを理解していない意図的な言明、非意図的挙措のことである。例えば、私が生徒のプライベートな部分を知らずに、その生徒が気にしているようなことを言ってしまったりすることが該当する。

 

 以上、塾講師としてのドラマトゥルギーをみてきたわけであるが、ここでこれまでの概念をまとめてみたいと思う。社会組織の内部には、オーディエンスに一定の定義を提示するために協力しているパフォーマーのチ―ムの存在がある。しばしばあるルーティーンのパフォーマンスが準備される裏局域と表局域の分離がみられる。オーディエンスに舞台裏を覗かれないよう、局外者が彼らを対象にしたのではないパフォーマンスに入ってこないよう統制されている。チームの構成員の間には、隔意なさが行き渡り連帯感が成立しやすく、ショーを台無しにする可能性のある秘密が共有され、保持されている。パフォーマーとオーディエンスの間には一定程度の対立と強調が存在しているかのように行為が行なわれる。典型的には合意が強調され、対立は控えめに演じられる。チームメイト、オーディエンス、局外者の中にはパフォーマンスに関する情報を持ち、パフォーマンスをするチームに不明瞭な、ショーの演出を複雑にする関係を持つ人がおり、彼らの何気ない仕草、踏み越し、騒ぎによって攪乱が生じ、その時点で維持されている状況の定義を損なったり、それに背馳したりすることがある。

 こういったパフォーマンスやオーディエンスの関係はあらゆる場面で見られ、その都度相互行為は行なわれているわけであるが、それらは現代社会においてはもはや無意識に為されているルーティーンが大部分を占めているかもしれない。しかし、これらの分析を進めることによって今まで見えていなかった社会の一端を窺うことができるかもしれないのである。