大学生活のドラマトゥルギー

                            人文学部 人文学科 社会学コース 高橋 莉代

 

《序章》

 

 小・中・高を経て、もう早いもので大学2年を終えようとしている。小学校時代、中学時代、高校生時代の自分自身を振り返ってみると、ごく平凡な人生を送ってきたような気がする。小・中・高と困ったとき、辛いときには支えになってくれる家族や友達がすぐ傍にいた。幼い頃からの苦楽を共にしてきた友達にさほど“気を使う”ということもせずに過ごしてきた私にとって、富山での新しい大学生活は未知なもので、不安・緊張・孤独を感じることが大学入学当時は多かった。家族や親友と別れ、新たな人間関係を富山で築いていかなければならない状況になってみて初めて、いかに自分が人に頼って支えになってもらっていたかを実感したものだった。一人になったことで何もかも自分でしなければならなくなった。掃除・洗濯・家事の他に自分の勉強や友達作り、うまれて初めてのバイト、自分の体調管理、など大学1年生の時はそれらをきちんとこなすことに精一杯だった。

 今まで一番私が苦労したものとは“友達ネットワーク”を作り上げることであった。友達作りは昔から内向的で消極的な私としては、最も不得意とするものであった。大学入学したての頃の“私”と比べると現在の“自分”はいろんな面で成長できているのだろうか。大学生になって日々感じることは、『責任』と『自立心』である。毎日の生活の中で欠かせない存在となっているのが、大学に入ってからできた“友達”、“バイト”のこの2つである。現在進行形で進化・成長し続ける私にとって欠かせないものであり、この“友達”&“バイト”を抜きにして今の私自身は語れない。円滑な人間関係を作り上げることはこれから私が生きていく上で必要不可欠であるし、バイトもまた然りである。

 後期の社会学講読で取り扱ったE・ゴッフマンの「行為と演技〜日常生活における自己呈示〜」は、“人間が何かアクションを起こす場合には意識の有無にかかわらず相手に何かしらを伝達し、印象づけているのだ”とか“演技行為は人と人が関わり合う時、必然的に生じる現象である”と大雑把にまとめることができる。人間というものは誰かに頼らずして生きていくことは不可能であって、私が人付き合いを不得意としながらなんとかここまでやってこられたのも、やはり他人の前では『仮面を付けた複数の自己』が存在していた証拠である。よくよく自分自身を客観的かつ冷静に分析してみると『私らしくない自己』 が様々な場面で現れていたことにはっとさせられると同時に、自分自身の見えていなかった所が明らかになったりして興味深かった。ごく親しい友達と一緒に居るときの私、知り合い程度の人といるときの私、家族と居る時の私、バイト先の上司や社員と接するときの私、バイト仲間と話しているときの私…等、実に様々な自己が私の中に存在していることが分かる。

 ここでは大学生活をより有意義なものにするためには欠かせない“友達”&“バイト”における人間関係の色模様を、具体的な事例と共にE・ゴッフマン的視点から考察・分析してみたい。おそらく考察していくうちに“あの状況ではこうしておけばよかったな”とか“あんな風に行動するべきではなかった”などという反省点が浮き上がってくると考えられるが、この分析をきっかけにしてよりよい人間関係の構築に役立つポイントのようなものが明らかになれば幸いである。

 

《第1章》

 

 ある行為主体が特定の役目を演ずるとき、行為主体は<他の人のために>パフォーマンスを提供し、ショーを演ずるという一般的見解がある。

 パフォーマーの二つの極とは@自分自身の行為にすっかりとらわれ欺かれてしまっているとか、生真面目なことに自分が舞台にのせたリアリティを現実そのものだ、と信じ込んでいる場合、A自分自身のルーティーンに全部欺かれない場合で、別の目的のための手段としてオーディエンスの確信を操ろうという動機によって動いている、自分自身の行為に信をおかず、相手の信頼にも最終的になんらの関心も無い場合、である。Aの場合、醒めているパフォーマーがオーディエンスの利益、あるいは社会の利益と考えて相手を欺くこともある。

 つまり、@の場合、パフォーマーが、相手が彼あるいは状況に関して抱いている想念には最終的にはなんらの関心もないまま、ただ別の目的のための手段としてオーディエンスの確信を操ろうという動機によって動いていることがある。エゴが自分自身の行為に信をおかずに相手の信頼にも最終的になんらの関心をも示さないとき、われわれは彼を醒めているといい、<生真面目なsincere>という用語を自分自身のパフォーマンスによって作り出された印象を信ずる人々に与える(p.20 L.6〜11)状態をいう。要するに融通の利くパフォーマーか否かを表しているといえる。

 

■@の具体的事例T

     私は今のホテルのバイトが二つ目である。大学1年生の時ローソンのバイトをしていたときのことである。レジをしている時、片手に手提げバックともう片方の手にはA4版ぐらいの大きさの雑誌を抱えて商品をレジに持ってこられた。私はその当時まだローソンバイトを始めたばかりの時期だったために、お客様の状況にどう対処すればよいか分からず「雑誌の方を商品とご一緒に袋にお入れいたしましょうか?」と聞かずにそのままレジを通してしまった失敗談があった。その当時の私は入社したばかりであったこと、従って仕事内容を完璧にこなすことに精一杯で接客に気持ち的余裕がなかったことが主な原因だったのである。要するに、マニュアル通りのレジにおける接客をするという“生真面目な”パフォーマンスを行ったといえるであろう。

 

 Aはサービス業に従事する人たちが経験することである。顧客が心から欺かれたいという要求を示すので、顧客がそういう要求を出さないかぎりは<真面目な人>が、顧客を欺かざるを得ないことを表すことがある。

 

■Aの具体的事例U

    現在私はホテルで宴会の配膳のアルバイトをしている。その仕事内容は主に、お客様に料理を運んだり、テーブルの皿を下げたり、バーカンで飲み物を作ったり、次の日の宴会設置を手伝ったりするのが主である。例えばお客様がタバコの自動販売機がどこにあるかを尋ねてきたとき、私がすかさず「1階ロビーにあるタバコ自動販売機で買って参りましょうか?」とお客様に言うときは、ホテル従業員である私が顧客を良い意味で<欺いた>ということになる。

 

《第2章》

 

 局域regionとは、知覚にとって仕切りになるもので、ある程度区画されている場所と定義される。(p.124 L.1) 局域には、【表―局域】と【裏―局域】がある。【表―局域】においては、個人のその局域内での挙動が一定のある基準を保持し、体現しているという見せかけを与えるための努力でもってパフォーマンスしなければならない。つまり、パフォーマーは会話やジェスチャーでやり取りをするときには丁重さ<politeness>でもって接しなければならない。また、パフォーマーがいかに対面のよい作法でもってオーディエンスに働きかけることを心がけなければならない。

 

[1] 【表―局域】<見せかけの勤勉>

   従来、具体的社会組織において研究された作法の一形態に、<見せかけの勤勉 make-work>がある。見せかけの勤勉とは作法の一形態のことを言い、多くの組織で労働者が一定時間内に一定量のものを生産することを要求されているのは勿論であるが、必要とあればその時点で熱心に働いているという印象を与える構えもできていることが理解されている。見せかけの勤勉は、仕事場における作法の別の側面ともども、低い地位の人々にだけある“重荷”だと見られがちである。しかし演出論的アプローチをとる場合、われわれは見せかけの勤勉の考察と同時に、その反対のこと、つまり見せかけの余裕の演出を考察することも必要である。ここで注目すべきことは、見せかけで勤勉にせざるを得ない人も、見せかけで余裕あるふりをせざるを得ない人も、おそらくそれぞれ同一軌道の反対側にいるのであろうが、しかも両者はともに世間の目という脚光の同一側に身をおかなくてはならないのである。

 

■【表―局域】における<見せかけの勤勉make-work>の具体的事例T

   私がホテルバイトを始めて約半年が経ったが、ようやく仕事内容にも慣れ、バイト仲間とも徐々に仲良くなり始めてきた。仕事中にバイト仲間と立ち話をする機会も多くなってきた。常識的にバイト中にお客様の前で私語は慎むべきなのだが、たまについ立ち話で盛り上がってしまうことがある。一定時間にホテルの総務部長が様子を見に来るのであるが、やはり上司の姿を見た瞬間に心の中に“やばい”という気持ちがあって、いかにも“自分は今まで真面目に仕事をしていました”ような顔をして自分の仕事に戻る傾向がある。“いい子ぶる”自分に嫌気がさしながらも、やはり上司の前では完璧なホテルマンとして振舞って一目置かれたいような部分があるのではないか。

   <見せかけの勤勉>でよく思い出すのが、クラス全員の自習中に、突然、先生がクラスに入ってきた際、クラス全員の態度が180度変わったことである。昔から生徒の特定の態度について興味深く思っていた。この場合、本来の生徒と先生の関係というものがはっきりと見て取れると考える。

 

■具体的事例U

   仕事中に自分のやらなければならない範囲の仕事が終わってもう何もすることがなくなったとき、私の場合は“ぼっー”として立ちっぱなしがごくたまにある。そんな時、正社員や上司の姿が見えたり、目が合ったりすると、姿勢を真っ直ぐ伸ばしたり、訳もなく体を動かす動作をしてしまうことがある。自分としては意図的にそうしようとして体を動かすのではなく、無意識的に“必ずそうしなければならない”という感じに襲われるのである。これも<見せかけの勤勉>の具体例のひとつである。

 

[2]【表―局域】=【舞台裏】について

   【表―局域】とは、特定のパフォーマンスに関して、該パフォーマンスが人に抱かせた印象が事実上意識的に否定されている場所と定義できる。(p.131 L.4〜5)また、パフォーマーがオーディエンスは一人として侵入しないものと安心していることができる場所である。(p.132 L.5〜6)

   あるパフォーマンスの【裏―局域】は、そのパフォーマンスの呈示される場所の反対側にそこから隔壁によって切断され、廊下によって守られている。このような仕方で【表―局域】と【裏―局域】が隣接しているので、【表―局域】にでているパフォーマーはくだんのパフォーマンスが進行している間に舞台裏の援助を受けることができ、短時間の寛ぎを得るために一時パフォーマンスを中断することもできるのだとある。前述したように、一般的には、【裏―局域】はオーディエンスからは隔壁された場所でならなければいけない。

   接客業関係の仕事を経験すると、今まで見えてこなかった接客業の裏事情が段々と化けの皮が剥れるように明らかになってきて非常に興味深いと感じていた。ここではコンビ二とホテルアルバイトの二つについてそれぞれ事例報告したい。

 

■コンビ二バイトの具体的事例T

   私のアルバイト先では、売り場と事務所の間にはお客様側からは事務所内を見ることのできないような鏡付のドアで仕切られていた。店内には防犯カメラが設置されているため、店内の様子は全て事務所内のTVモニターにしっかり映され、チェックされているのである。事務所内には必ず少なくとも一人は居なければならない規則になっていて、事務所から店内に出る瞬間がなんともいえず緊張していた記憶がある。お客様が店内に入る時には必ず「いらっしゃいませ、こんにちは」という挨拶を義務付けられていたが、もしこの挨拶がなかったとしたら、お客様にはどのような異なる印象を抱かせるだろうか。私の場合、“店内は常に明るく、活気に溢れた状態で”という方針を堅く守っている店長がいたために、いくら嫌だと思うお客様がいたとしても表面的にはどんな種類の客にも平等に接する義務が私達クルーには課されていた。従って、クルー個人の私的な感情が店内に持ち込まれることはあってはならなかった。

   店内にあるレジ内と外の関係にも【裏―局域】の構図が見てとれる。レジ内というのは、事務所内と異なり、お客様の目に触れる空間でもあるので、一応目の届く範囲は常に清潔にしておかねばならないきまりがあった。ローソンの場合、レジ内にて売り物であるフライアーを使った食べ物を作っていたために、レジ内の店員の足元には普通にフライドポテトが転がっていたりすることもあった。表と裏の関係はモノトーンのようなもので、私達の日常生活にもたくさん溢れているはずだ。

 

■ホテルの具体的事例U

   E・ゴッフマンがシェットランドホテルで考察したようなことというのは、実際のところ本当に起きている現象であると実感している。例えばどのような現象かというと、お客様用専用通路や部屋は整頓されていてキレイなのだが、いざ従業員専用通路だとか宴会場バックをそれらと比較したときにはそのぼろさと狭さにビックリするはずである。備品に関してもホテルはとてもケチで、毛先バサバサになって役割を果たしていないように思われる箒をいまだに使用していた。また、ホテルは表の顔と裏の顔があまりにも違う。接客業というのはお客様の前では笑顔を絶やさずに常に愛想良くして対応しなければならないためか、ホテルは割とストレスが溜まり易い職場環境であるといえる。従業員は宴会場のバックに引っ込んだとたんに態度をころっと変え、お客様の悪口やら上司に対する愚痴を喋りだす。その豹変振りに驚かせられるときがよくあったりして、接客をする場には必ず裏の空間が必要であると感じた。

 

[3]局域の交互性について

 E・ゴッフマンによると特殊な局域というものも存在するという。ある局域は、その局域と定期的に結びついているパフォーマンスの、表―局域あるいは裏―局域と見なされる傾向があるが、ある時点・ある意味で表―局域として機能し、別の時点・別の意味で裏―局域として機能するような局域も存在する。(p.146 L.4〜6)その具体例は以下。

 

■具体的事例T

   社会学コース演習室は講読や実習、演習の講義に利用される部屋でもあるが、それと同時に飲み会で使用されたり、話し合いや雑談部屋として使われたりと【表―局域】&【裏―局域】の両方を果たすと見た。社会学コースの演習室には家電製品も含め設備が整っているため、ひとが集まりやすく、時には自分の家で寛いでいるような錯覚を抱かせるほど私はこのコース演習室に愛着を持っている。他の人はどうコース演習室を捉えているのであろうか。コース演習室は先輩と後輩との関係を深め、唯一先輩と接点を持てる場所であるから、私が先輩と仲良くなった場所というのもこのコース演習室であったので、この部屋はずっとこれからも貴重な空間として大切にされなければならない。

 

《第4章》印象操作の技法

 

  人と何らかの事情で関わる場合には、パフォーマーが表出に責任のある行動をしなければならない。場面・状況によって私達が演じなければならない役柄は異なるため、失敗をしないようにいくつかの印象操作の技法を覚えておく必要があるのではないか。印象操作の技法は<何気ない仕草>によってパフォーマンス攪乱が起こらないような対処法を学んでおく良い機会であると思われる。

チームの構成員が最良のショーを演出するためにパフォーマーに要求される要素というのは【節度】・【忠誠心】・【周到さ】である。私はこの中で<節度あるパフォーマー>が最も重要であると思われる。<節度あるパフォーマー>とは@自己の役割を心得ていて、それを遂行する際に<何気ない仕草>も<踏み越し>もない冷静沈着なひと、A自己―統制のできる人、B自発的感情を抑制することができるひと、のことである。

  逆に、パフォーマンス攪乱の主要形態としては、<何気ない仕草>・<不時の侵入>・<踏み越し>・<騒ぎ>があるという。それぞれについて私自身の具体的事例を述べてみたい。

 

<何気ない仕草>…パフォーマンスが意図的でない、何気ない表出によってオーディエンスに不適当な印象を与えることをいう。余計な事・出すぎた事はチームの中ではやるべきではないことが分かる。

 

<不時の侵入>…局外者がある局域の舞台裏などに偶然侵入したとき、社会的に侵入者に対して維持すべき印象と背馳した挙動を示すことをいう。具体的事例として、みんなが静粛に真剣な様子で授業を受けていた社会学講読の授業中に、先輩が突然荷物を取りに入ってきたとき、その当時はまだ先輩とうち解けていなかった時期ということもあり、私は思わず睨みつけてしまったことがあった。その先輩とは現在、なんのしがらみもない仲なのだが、その時の自分の反応は局外者に対する背馳した挙動と言うことができるのではないだろうか。

 

<踏み越し>…ある行為によって、パフォーマーが状況の定義の一部として投企している自己の印象を不適当なものにしてしまうということを理解していない意図的な言明、非意図的挙措。このような体験は誰しもが経験のあることであると思われる。言葉のやりとりは慎重にすべきであるといつも感じる。

 

<騒ぎ>…これら3つの攪乱によって生じるもの。また、チーム内で互いのパフォーマンスを許容できなくなり、協力関係にある人々に直接公然たる批判をぶつけてしまうとき生じるもの。私の性格から言って、公然の前で批判をすることは絶対あり得ない話なので具体例は今のところ思いつかない。

 

《まとめ》

 

 全体を通して私が第1章・第2章・第3章で取り上げたE・ゴッフマンの観念は、私自身が毎日何となく人と接する上で感じていたことを論理的に解説されていたものだったため具体例を挙げる際にとても参考になった。人間関係はある一定の法則、すなわち“T.P.O”に応じた相手への接し方の決まりがあったことが分かって非常に勉強になった部分がかなりあった。人と人との関わりというものは一生切っても切れないモノであるし、私が思うに人間がストレスと感じるのはほとんどが「人付き合い」に関してである。人付き合いは確かに難しいが、支えになってくれるのもやはり“人”であるからこれから大人になっていく過程でE・ゴッフマンの考え方を参考にして人との関わり方を学んでいきたいし、自分をもっと客観的に見られるような人間になりたい。