社会学講読レポート

                         坂田 美紀

 

テーマ「学校のドラマトゥルギー」

 

大学には全国各地から学生が集まってくる。当然、いろんな地方の出身者がいるわけだから会話の中には各地の方言が存在する。しかし、普段の会話の中では方言をそこまで頻繁に聞くことはない。言葉のふしぶしに方言が聞こえることはあるが。方言を話すことが恥ずかしいのか、違う地方の出身者には分かりにくいからなのか、理由は人それぞれ違うだろう。もし仮に、方言を話すことが恥ずかしいからだとすると、標準語を話すことは田舎の出身だと思われたくないがための「意図的表出」だ。しかし、みんなで居る場に親や兄弟、地元の友達から電話がかかってきたとする。すると、すぐそこにみんなが居ることを分かっていても、ついつい方言で話してしまうことがある。これは「非意図的表出」と言える。

また似た話だが、留学生と話すとき、普段私は比較的方言を出して話す方でも、標準語に近い話し方になる。これは、方言で話すと分からないかもしれないと思ってそうしているのだが、留学生との会話に友達が入ってきたら、地を出してしまうかのように方言が出てしまう。これも「非意図的表出」のひとつだと思われる。

逆に、わざと方言を「意図的表出」として利用することもできる。私は県外の出身の友達とメールをするとき、方言を使う。私の中では、標準語を使い慣れていないので標準語を使った文面でメールを送るのことが恥ずかしいというのもあるのだが、方言を使うことで「私は富山の出身なんだ」ということをアピールしているのかもしれない。それに、県外でひとり暮らしをしている友達も、大学の友達にメールを送るとき、富山弁を使っているらしい。そのことも、もしかしたら彼女は「私は富山の出身」ということを意図的にアピールしているということではないだろうか。

                 (序章 p5 意図的表出と非意図的表出より)

 

部活などにおいて先輩・後輩関係というのはどの学校にも必ずあるものである。先輩(特に女の場合)には、34ページの『他者の前にいるとき、エゴは自分の挙動に種々の記号を付与する』ということが言えるのではないだろうか。例えば服装である。よくありがちなのは、「下級生のスカート丈は長いが、上級生のスカート丈は短い」ことだ。先輩は「スカートを短くする」ことで「自分は先輩なんだ」ということを顔見知りの後輩にはもちろん、まったく知らない後輩にも見せることができる。スカートが短いことが「先輩」という人物にはっきりとした輪郭をつけ、スカートが短い=先輩であることの記号化のように思われる。スカート丈に限らず、制服の着方というのは先輩・後輩関係をはっきりさせるための一種の記号なのではないだろうか。

先生というのは生徒にとっては、勉強のことに関してはすごく知識があって、分からないことはなく、何でも教えてくれるような存在にみえるものだ。学校においては先生の方が生徒より偉いし、何でも知っているような風潮がある。だから、もし、生徒が勉強で何か分からないことがあって、先生に質問したとする。先生にとってその質問内容が高度なもので、答えにつまずくようなことがあっても、先生は生徒の前で決して「分からない」というような素振りを見せてはいけない。この「生徒が先生に質問する」という相互行為の中で、先生(パフォーマー)はずっと、実際そうでなくとも先生はなんでも知っているというふうを装わなければならないのである。

(第1章           さまざまのパフォーマンス p34 劇的具象化より)

 

 給食の時間。すごくよく食べる女の子がいて、今日の献立はその子の大好きなものばかりである。当然、その子はもっともっと食べたいからおかわりをしたいという気持ちでいっぱいだ。しかし、クラス中に「あの子は大食いだ、食べすぎだ」なんてイメージを持たれてしまう。だから、その女の子は食べたくても我慢するのである。パフォーマーである彼女は「よく食べる」ことが自分に相応しいと思っていたとしても、おかわりを我慢することで、自分を少し低い地位に帰属させ、特に男の子たちに大食いだと思わせないようにすることができるのである。

 勉強ができるということで「頭がいい」と言われる人がクラスに必ず数人いる。「頭がいい」と言われる人のほとんどは「○○ちゃんって頭いいよね」などと言われても、必ずといっていいほど「そんなことないよ」「全然」などというような答えを返す。また、テストの答案が返されたとき。頭のいい彼らに「○○ちゃん点数よかったでしょ?」といったことを聞いても、答えは「ううん、全然たいしたことなかったよ」「すっごい悪かった」のどと答えることが多い。本当は「今回にテストはかなり点数がよかった」と思っているかもしれないし、実際そうであることが多い。しかし、そういったことは決して口に出さず、他の人たちの前では、そういった思いを隠すかのように自制心を働かせる。

(第1章           さまざまのパフォーマンス p43内心ひそかに自分に相応しいとパフォーマーが考えているよりも低い地位を彼に帰属させる価値の理念型より)

 

パフォーマーには、自分自身の行為にすっかりとらわれ欺かれてしまっている〈生真面目な〉場合と、自分自身のルーティーンに全然欺かれない〈醒めている〉場合の2つの極がある。私にはよく分からないが、先生たちの送別会の場面でこの2つの極が見られるかもしれない。例えば、送別会において送られる立場にある先生が他の先生からあまり好かれていなかった人だとする。もし、自分自身の行為に欺かれているパフォーマー

ばかりがその場にいたら、送別会は大して盛り上がらずしらけたものとなるかもしれない。送られる先生のことをあまり好きではないということで、パフォーマーたちがあまり乗り気ではないからである。逆にパフォーマーが自分自身の行為に欺かれていなければ、その先生に好意的な気持ちを持っていなくても、送別会だしこれで最後ということから気持ちとは裏腹でも、その場を送別会らしいものとするために率先してカラオケで何か歌ったりして、場を盛り上げるだろう。

 別の例では、受験の前日に神経質になる生徒と先生の間にも見られる。どんなに勉強しても受験の前日というのは何とも言えない緊張感があったりするものだ。生徒が先生に「あー、明日だー、どうしよー」などとすがりついてきたりする。そのとき、ほとんどの先生は、<生真面目>か<醒めている>かといえば<醒めている>ものである。心配そうな表情を浮かべる生徒に向かって「今までちゃんと勉強してきたんだから大丈夫。」などと上手に励ますのである。もし、先生にとって心配の種である生徒が泣きついてきても、必ずといっていいほど「大丈夫」と言うだろう。どのような生徒に対しても、このような場で先生が<生真面目な>態度をとることはあり得ないだろう。

                  (序章 パフォーマーの2つの極より)

 

 大学生にもなると、お酒を飲む機会が多くなる。飲み会に参加している人の中に秘密を握っている人と握られている人がいて、その2人をひとつのチームに例えるとする。その場合、秘密を握られている人は秘密を握っている人の言動にいちいち注意していなければならない。なぜならお酒を飲んで酔っ払うようなことがあると、秘密を握っている人が秘密をしゃべってしまうかもしれないからである。もしも秘密が他に人に漏れてしまうと、このチームにおけるパフォーマンスは失敗したことになる。秘密を握られている人がどうしても知られることを拒むならば、飲み会の席でもし秘密が話されそうになったら、必死に話をはぐらかせて、全くそのこととは関係のない話題を自分から提供し続けるか、または最初から秘密を握っている人を飲み会に呼ばないようにして、自分の秘密を知られることのない雰囲気を作らなければならない。

 別の例もある。苦手な教科の授業はできるならば授業をやりたくないものだ。そんな人が何人か集まるとひとつチームができる。先生が教室に入ってきて授業を始めようとする。その途端、チームのメンバーの1人が授業とは全く関係のない話をし始める。これをきっかけに、チームのメンバーたちが次々と便乗し、先生にあれこれと質問をしたりして授業時間をどんどん短くし、嫌いな教科を受けなくてもいいようにとさまざまなパフォーマンスが始まる。先生がもし、そのチームの生徒達の話にのるようなことがあったり、他の生徒たちが黙ってその話に耳を傾けているようなことがあれば、彼らのパフォーマンスは成功に終わったといえる。しかし、先生がチームのメンバーたちの話をさえぎって「さっ、授業に入ります。」「静かにしなさい」と言ったり、チームのメンバーではない生徒が「授業やりたいから関係ない話するのはやめて」などと言えば、彼らはそれまでのパフォーマンスをやめざるを得なくなり、このパフォーマンスが失敗に終わったことになる。

 これは授業に限らず、日常生活のさまざまな会話の場面で起こっていることかもしれない。一見、円滑に会話が進んでいるように見えても、実は会話している人たちの中でチームができていて、「この話題はでないように」などというふうに、チームのメンバーが会話を統制しているのかもしれない。

 実際にあった話。中学のときの合唱コンクール。ソプラノパートの女の子の中にみんなに「音程が全然違う」と言われている人がいた。私はソプラノパートではなかったのだが、ソプラノパ−トの人たちは困っていたようである。今思うと、そこで彼女たちは無意識のうちにチームを結成していたと思われる。彼女たちは音程の違う人の声を消すとまではいかなくても、その人の声が聴いている人の耳に入ってこないように大きな声で歌ったのである。ここで彼女たちはそうすることで、オーディエンスにソプラノパートの音程はきちんとあっているというところを示したようである。チームで状況の維持を図ったということになる。実際、このパフォーマンス(?)が成功したかどうかは歌を聴いた人でないと分からないが…。              

(第2章 さまざまのチーム 104より)

 

 入学式や卒業式。こういった場には市長とか教育委員会などの偉い人が必ずやってくる。彼らは式の中で祝辞を述べることになっている。こういうとき、私たちは話が長くてついつい眠くなってしまうものだ。しかし、本当に眠ってしまうと、後から祝辞を述べた人に「どういうことだ!!」と叱られるかもしれない。こういった場において、話を聴いている側の人たちはひとつのチームになっているのではないか。長い話を聞くことは退屈かもしれないが、それでも聞いているふりをして、祝辞を述べている人の顔を見ていたりする者もいれば、横で眠りそうになっている人を起こす者もいるだろう。(これは生徒よりも先生に多く見られるかもしれない。)チームの中で、それぞれが『話をきちんと聞いている』というパフォーマンスを維持するためにさまざまなことがなされているのかもしれない。

 もしも、話の途中に全員が好き好きにボーッとしていたり、眠っていたりすると、チームとしての状況の維持が図れなくなる。

 このことは別の見方をすると、第1章に出てきたパフォーマーの2つの極(<生真面目>と<醒めている>パフォーマー)の点からも述べることができるかもしれない。話を聞いていなくても聞いているふりをしている素振りは、話をしている人に「私の話を聞いてくれているな」と思わせるための「醒めている態度」となり、逆に、話がつまらないからといって本当に眠ってしまっては、話しては我慢ならないはずだ。こういうパフォーマーは「生真面目な態度」をとっているパフォーマーなのかもしれない。

                  (第2章 課題より)

 

 家庭訪問の際に、舞台装置の統制はよく行われていると思われる。特にお母さんが中心になっている場合が多いと思うが、家族がひとつの「チーム」になっていると言える。家庭訪問は先生が普段見ることのない生徒の家を訪問するわけだから、「チーム」である家族(特にお母さんと子供?)は、子供の部屋をきれいに掃除し、マンガよりも辞書や参考書をメインに、先生に見えるように配置し、また客間は普段はジメジメとした雰囲気かもしれないが、先生を迎えるために花を飾ってみたり、ちょっと高級な葉の緑茶や和菓子を出したりする。そして、オーディエンスである先生に「この家は上品だ」などというイメージを持たせることで、普段のかなり物が散乱していたり、子供の部屋もマンガだらけなどという「あまりきれいにしていない家」という情報を先生が入手することを制約できるのである。

 しかし、客間などはともかく、子供の部屋をきれいにして辞書や参考書を並べ、いかにも「家でしっかり勉強しています」的な雰囲気を作っても、もしその子が宿題を全然してこなくて、授業中も話を聞かずに寝てばかりいるような子だと、先生はこの舞台装置を怪しく思うかもしれない。そして、先生が「この部屋はきっと普段の状態ではないな」と察知したら、チームによるパフォーマンスは失敗したことになる。第2章の111ページの中に『舞台装置の統制は、支配権をもつチームにある種の安心感を与えるであろう』

といった記述があるが、あまり勉強しない子供だったら、子供とその子の部屋のギャップ(あまり勉強していないのに部屋には参考書ばかりなど)を抑えるためにあえて部屋をきれいにしない方がいいのかもしれない。

(第2 さまざまのチーム p109舞台装置の統制より)

 

 授業が先生の都合で急に自習になったとき。最初の数分、先生がいる場合がよくあるが、そのときはどの生徒も静かにし、与えられた課題を黙々とこなす。しかし、いざ先生がいなくなると、「勉強を一生懸命している」というパフォーマンスが否定される。パフォーマーである生徒たちは、先生の前で見せていたパフォーマンスをやめ、教室という極域の中で急に友達同士で話しだしたり、課題の答えを見せ、写しあったり、マンガを読んだりなど自分の好きなことをやりはじめる。この状態が裏−極域となる。もし、別の先生が見回りに来るようなことがあると、裏−極域だった教室が表−極域となり、生徒たちは再び、与えられた課題を一生懸命こなすというパフォーマンスをし始める。

 同じようなことだが、掃除の時間にも表−極域と裏−極域を見ることができる。先生がいるときといないときでは違うのである。表−極域においてはみんなきちんと掃除をしている。(しているふりであることもよくあるが…)普段なら手をつけないようなところを掃除したりすることもあるかもしれない。そして、先生がいなくなると、「掃除をする」というパフォーマンスは存在しなくなる。掃除用具を遊び道具にして何かの遊びをしたり、掃除の手を止めて、すっかり話に夢中になったりすることがよくある。

 別の例も挙げられる。授業中、先生は生徒たちを前にして熱心に授業をしている。生徒たちの中に居眠りをはじめたり、他の教科の宿題や予習をしたりと、授業とは関係ないことをしている者がいることがよくある。ここで、注意する先生もいれば黙って見逃す先生もいる。どちらにせよ、先生には「授業を進める」というパフオーマンスを行う義務があり、表−極域である授業中においては、パフォーマンスの遂行に必死になる。授業において先生は生徒たちの前で、「先生」という役割を演じている。しかし、授業が終わり、先生は職員室に戻る。ここで、職員室は裏−極域となる。先生は「先生」という役割から一時的に降り、パフォーマンスも中断される。職員室で先生はタバコを吸ったり、コーヒーを飲んだり、また授業中にたまった不満を他の先生にぶつけているかもしれない。表−極域である授業が行われている教室と、裏−極域である職員室では、先生は見せる顔が違うことがある。裏−極域で休息をとり、エネルギーを十分にたくわえて、表−極域の舞台上(教室)に上がるとき、再びパフォーマーの顔になり、生徒たちの前でパフォーマンスを遂行していくのである。

 もしかしたら今述べたのとは逆で、表―極域が職員室で、裏−極域が教室ということもあるかもしれない。先生同士の関係があまり円滑ではなく、職員室では演技をして、教室が他の先生から離れてくつろぎの場になるという意味においてである。

 別の例。しばしば女子トイレは「裏−局域」となる。女子トイレでは、教室やその他の場所(表−局域)ではあまりなされないことがなされる。

 例えば、会話ならば…。恋愛の話は代表的ではないだろうか。表−局域だったら堂々と話せなかったり、素直に言えなかったりすることも裏−局域だと女の子しかいないということもあって話しやすかったりするものだ。「もっと○○くんに話し掛けないとダメだよ」とか「最近どう?」などという会話をしているものである。女の子同士の恋愛話は裏−局域だからこそできるものであって、表−局域に戻ったときはあまりそこまで深く突っ込んだ話はしていないように思う。その他に、裏−局域の女子トイレだからこそしていることといえば、身だしなみを整えることである。表−局域で堂々とやってしまう人もいるが、たいていの女の子はトイレでしているものだ。髪の乱れを直したり、化粧を直したりしている。

このふたつの行いをまとめてしまえば、人前ではなかなかできないようなことを裏−局域では誰に気兼ねすることもなくできているということだ。その分、表−局域では女子トイレで見せていたような感じとは違い、自分を装ったりしている。特に男の子の前では。

      (第3 さまざまの極域と極域行動 125〜表−極域と裏−極域より)

 

 小学校のころ休み時間に友達と「学校ごっこ」という遊びをしたことがある。数人いればできる遊びだ。その中の1人は先生役となる。先生役の子は生徒役の子を相手に授業をするといった遊びである。その中で、先生役の子は担任の先生のものまねをするとまではいかなくても、担任の先生ぽい授業のやり方をまねして、実際の授業を再現するかのようにパフォーマンスするのである。生徒役の子もなりきってパフォーマンスをするのである。ここでは本物の先生が不在者となるわけだが、もし先生本人がその場にいたらきっと「学校ごっこ」なんて遊びはしないだろうし、実際「学校ごっこ」をやっているときに、真似される先生に限らず、誰か先生が来たら私たちは遊びをとっさにやめた記憶がある。

 また、先生がいないときにとてもよくあるのが、先生のことを悪く言うことである。私たちは授業中や、他の先生がいるとき、対象となる先生のことを好意的に思っているというふうな様子を見せる。悪口は言わないし、呼び捨てにすることもないだろう。しかし、先生(オーディエンス)が不在となると、そこは舞台裏に変わり、私たちは先生を好意的な呼び方では呼ばなくなるし、悪口を言ったりもする。不在者は表−極域と裏―極域ではずいぶん異なる扱いを受けていることになる。このことは、先生−生徒間の関係に限らず、学校においてだと先輩−後輩、地位の高い先生−地位の低い先生など、さまざまな関係の中で起こることだ。その他の場では会社における上司−部下、バイト先での店長−アルバイトといった関係の中でも起こるだろう。

       (5 役柄からはずれたコミニュケーション 不在者の取り扱いより)

 

 

以上、「学校のドラマトゥルギー」として学校で起こりうることをゴッフマンの主張をもとに書いてみた。同じ現象でも場所や立場が変わると、「会社のドラマトゥルギ−」としても書けただろうし学校の中でももっと絞って「部活動のドラマトゥルギ−」といった題材でも書けたかもしれない。ということは、日常生活の中にゴッフマン的視点で見られることが数多く存在しているということではないだろうか。