『学校生活のドラマトゥルギー』

社会学コース2年 本 季代

 

 誰もが経験する学校生活、そして今私たち学生が日常生活のほとんど大半を費やしているであろう学校生活。当たり前のように授業を受けたり、試験を受けたりしている中でも様々なことが起きる。学校というところは一般的にたくさんの人がいるのでそれだけ人間の行動というものが観察しやすかったり、目につきやすかったりするであろう。また学校には様々な人間関係が存在する。教師と生徒、友達同士、先輩・後輩などその形は多種多様である。そこでそんな学校生活の中の人間関係や集団の形態などを分析したいと思う。分析するにあたっては分かりやすいように簡単に章立てをしている。一章ではテストについて、二章では教師と生徒について、三章では先輩と後輩について、四章では友達についてというように四章に分けて学校での出来事や人間関係を分析してみた。

 

第一章 「テストについて」

 学校に通っているからには誰でも通らなければならないことがテスト、試験である。これが好きという人はあまりいないはずである。第一章では生徒たちが一般に嫌いとするテストへの接し方を見てみたいと思う。

 大学でテストが近づいたと実感するのは授業で普段あまり見かけない人を見たり、いつもより人数が多いと感じたときである。新学期の始めの方は授業に出て途中は全然来ていないのにテストが近くなると様子を見るためまた来るようになるという行動パターンはよく見かける。テスト前の生徒同士は協力関係を結んでいると言ってよいだろう。それは精神の面でもそうであるし、実際にノートや資料の貸し借りなど事務的な面でももちろん言える。精神面というのは、テスト前に範囲などを確認しあったり、自信のない仲間を見つけ不安を共有するといったことである。これらは自分にも経験があるのでよく分かるのである。図書館が混んでいたり、コピー機が混んでいたりというささいな光景でも見かけてしまうとテストが近いことを実感し不安になる人は多いのではないだろうか。

 そしてテスト当日になると、教師が教室に入ってくると同時にそこにいるオーディエンスである生徒たちが一斉にパフォーマーである教師の動向に注目し始めるのである。いざテストが始まると、今まで隣で一緒に話していた友達とは切り離され一気に自分一人の世界となる。テスト中というのは一人一人とても不安で孤独な気持ちになっているのではないかと私は考える。そして一回のテストが終わると、解放されたように気が楽になり、気が抜けてしまうのである。

 今まで主に述べてきたのは大学におけるテストの場合だが、中学・高校の頃はみんな今よりももっとテスト勉強を一生懸命したと思うのだが、大学生になるとあまりテスト勉強をしなくなるのはなぜなのだろうか。その原因としては大学に入れたことへのある種の安心感と周りの状況に流されてしまうということが考えられると思う。

 テストに関する人の行動を観察したり分析したりすると、やはり気の重いテストをどうやって切り抜けるか、早く終わってほしいなどというような考えが伝わってくるような行動をほとんどの人がとっている。裏局域(舞台裏)では慌てたり、不安がったりしてみんな落ち着きがなくなっているが表局域=当日の教室では落ち着いて静かにテストを受けているのである。

 

第二章 「教師と生徒」

 学校での人間関係においては、まずは教師と生徒という人間関係について取り上げたいと思う。日常の授業・講義においては教師がパフォーマーであり、生徒がオーディエンスと言えるだろう。パフォーマーである教師は自分のパフォーマンスである授業を成功させるためあらゆる心構えをしてくるのではないだろうか。それは外見的な部分もそうであるし、内面的な部分もそうであると考えられる。まず外見的な部分に関して言うと、教師は自分が専門としている領域からあまりにも外れている身だしなみというのはしないものである。普通科目の教師ならばスーツであったり普段着であったりするのに対して、体育の教師は運動しやすい服装、理科の教師は白衣であったりといつもしていることで無意識に自分の立場をあらためて理解しようとしているのかもしれない。また内面的な部分では少なくとも、人前に出るということで一人の時とスイッチを切り替えなければならないだろう。そしていざ授業が始まるのだがここでのオーディエンスである生徒たちはゴフマンの概念で言うチームをなしていると言える。そして教室でそのチームによって状況の維持が図られるということはよくある光景だと思う。ここでは三つの例をあげてみたい。一番基本のところでは、静かに授業を聞くということもチームで状況の維持を図っていると言えると思う。しかしこの静かな状況が維持されている中でも教師がほんのちょっと言った冗談や、誰か一人が話し始めたりすると安易に今まで保たれていた状況は壊れてしまうのである。二つ目の例をあげると、教師が生徒に何らかの質問を投げかけ答えを求めているとする。しかしみんな答えがわかっていたり、意見を持っているのにも関わらず、誰も手を上げないという状況を維持してしまっている。自分がその状況を壊す最初のきっかけになるのを避けようとするのである。そして三つ目の例は授業の終了時間の十分ほど前になると、教室全体がざわめき出すということである。誰からということもなく「そろそろ終わる」という雰囲気で筆記用具や教科書などをしまい始める。やがてそれが教室全体に広がり、教師は授業を終わらせざるを得ないという状況にさせられるのである。この三つ目の例に関してはチームの力というものが一番象徴的に表れているのではないだろうか。

 また誰でも一度は経験したことがあるであろう授業中の居眠り。これは生理現象であるのでチームとは関係なく個人の問題なのであるが、場合によってはチームができるほど居眠りする人が続出していることもある。生徒が居眠りしている場合において二通りの教師がいる。注意する教師と知らない振りで授業を続ける教師だ。この違いは何なのだろう。注意する教師は自分がパフォーマンスを行っているのに居眠りしている人が視界に入ってくるのが許せない、または寝るくらいなら受けなくて良いと考えているのか。逆に注意することもなく授業を続ける教師は本当に興味がないのか、後で分からなくなるだけだからと見放しているのか。生徒の立場としては後者の教師のほうが怖いと感じるであろう。また寝てしまっている最中よりも、ふと目が覚めた後が気まずいのである。絶対寝ていることがバレていることは分かっているのだが、注意してくれない教師。この一対一のパフォーマーとオーディエンスの間には授業が終わるまで気まずい空気が漂うのである。

 私が教師、生徒ともに特別な行動をとると感じたのは授業参観である。ここでは主にゴッフマンの概念の中の「表局域」「裏局域」というものを用いたいと思う。授業参観は教師にとっても生徒にとっても普段とは違う状況(教師にとっては生徒のほかに別の種類のオーディエンスが増え、生徒は自分たちがオーディエンスの立場だったのに教師と同じパフォーマーの立場に変わってしまう)で行われる。私の経験から見ると、教師はその日のために授業に使う資料や道具、また身だしなみにいつも以上に気を使い、授業のやり方も丁寧になる。普段は生徒を怒鳴ったりするような教師であってもその日ばかりはにこやかで物腰が柔らかくなる。また生徒たちも同様に、自分の授業態度が見られているとなると緊張を感じるようになる。生徒の場合は両極端で、いつもより頑張って発言しようとする子と緊張してしまっていつもの力が発揮できなくなってしまう子がいるように思う。このように授業参観は教師や生徒にとって表局域となり、誰にも見られていない日常の授業風景が裏局域(舞台裏)と言うことになるのだと思う。やはりオーディエンスに自分のことを良く見せたいという感覚が働くのは当たり前のことなのだろう。しかし通常、裏局域はオーディエンスには区域外であるからここでこそわれわれの間には相互行為の隔意なさが期待できる。教師が生徒を怒鳴ったり、教師と生徒の間で質疑応答の会話があったりということは隔意なさを象徴していると言えるのではないだろうか。だからこの場合では表局域が必ずしも良いとは言えないと思う。授業参観というものは普段の授業風景を見るためのものだから、表局域・裏局域というものができてしまうのは本当は良くないのだろうがこれは人間として仕方ないことだとも言える。

 教師と生徒の関わり方というものも興味深いが、これは年齢によって全然違ってくる。小学校では教師は勉強を教えてくれると共に、一緒に遊んでくれる存在だった。中学校ではすごく好き嫌いが別れていたし、教師に対してあまり良い印象がなかった。高校・大学となると一人の人間同士という感覚があるかもしれない。成長すると共に生徒の中で教師の役割は大きく変わっていくだろう。年齢が高くなればなるほど表局域で付き合うようになり、お互い裏局域(舞台裏)は別の場面に相当するようになる。

 生徒の中に教師はどこか近寄りがたいという意識が年齢と共に高まっているということも考えられる。ある授業の中で今まで心に残った嫌いな人といったような題に受講者一人一人が答えていったのだが、教師という答えが多かったのが印象に残っている。嫌いな教師がいると答えた人は小さい頃に教師に怒られた、傷つけられたなどトラウマを持っていて無意識のうちに教師を避けようとしているのかもしれないと思った。

 

第三章 先輩と後輩

第三章では、学校の中において教師と生徒とはまた違った縦社会である先輩・後輩関係について見ていきたいと思う。縦社会と言っても教師と生徒ほど年齢は離れていないし、その分親しみやすいと思う。

 先輩・後輩関係を意識するのはたいていの人は中学からではないだろうか。小学校ではそういう縦の関係は全くなくいろいろな学年の人と遊ぶものだと思うからである。私の場合、中学校では小学校とのあまりのギャップに驚いたものである。服装や態度などについて暗黙の決まりのようなものがありそれは、先輩から直接忠告を受けるわけではなく、同級生の間のうわさで「こういうことをするとダメらしい」とか服装に関する暗黙の決まり(スカート丈、靴下、セーラー服のスカーフなど・・)を知るのである。私の中学の先輩・後輩関係はゴフマンの表局域、裏局域という概念がとてもよく当てはまる。日常の学校生活が表局域であり、普段は先輩の目を気にしている。しかし、修学旅行など先輩がいない」日があるとそこは一気に裏局域へと化すのだ。男子にはこのような傾向はほとんどみられなかったが、今考えると女性の世界の方が表局域、裏局域が存在する部分が多いのではないかと思うような体験だったと思う。

 一方、高校では先輩・後輩関係はあったが一気に楽しいものへと変わった。ここでの関係は部活における関係だったのだが、指導してもらうのはもちろんのこと、普通に楽しく会話したり遊んだりもした。また逆に自分が先輩となったときの後輩との関係もとても楽しく良好なものだった。このような形が先輩・後輩関係の本来あるべき姿ではないだろうか。ここでの部活動がチーム単位のパフォーマンスだとすると、先輩が演出者、つまりチーム内でパフォーマンスが不適切となった構成員を隊列に戻したり、パフォーマンスに関わる様々な役目とそれらの役目に用いられる個人的外面を割り振るという機能を果たしているのであり、その他のパフォーマーである後輩を引っ張っていくという責任重大な役割を担っていると言えるからである。

 大学に来て先輩・後輩について一番思ったのは一つしか歳が変わらなくても先輩はすごく考え方などが大人だということであった。後輩とはまだあまり交流がなく分からないが、なぜかすごく若く感じるのである。このように同じ学校であっても先輩・後輩の見方というものは中学・高校・大学と随分と変わってきていると感じた。

 学校だけでなく一般社会においても言えるのかも知れないが、先輩と後輩の関係の間には基本的には「遠慮」という概念があると思う。どんなに親しい間柄でもいざとなると、先輩に遠慮してしまうのが後輩というものであろう。例えば、もし食事に行くとして食べたいものが違っても先輩を優先したり、意見があっても相手が年上であるとか先輩であるとかいう理由で自分は引き下がっていたりという人は結構いるのではないか。

 

第四章 友達

 学校生活において一番大切なもの、そして欠かすことのできないものはやはり友達だと私は思う。毎日顔を合わせる友達、幼い頃からの友達、そこまで親しいわけではないが会うと話す友達など友達にはたくさん種類があるし、これらのほとんどは小学校から現在まで過ごしてきた学校生活と必ずと言っていいほど深く関わっている。友達とは遊び、会話、けんか、勉強など一番行動を共にしたり関わりを持つ回数は多い。だからいろいろな場面を分析することができるかと思う。

 まず友達になる前、つまり新しい環境に入ったときのことを考えてみたい。だいたい最初に友達になるきっかけというのは座席が隣であったり、出席番号が近いということだろうと思う。しかしどちらかが話し掛ければ名前や出身地など話題が広がっていくが、そのどちらかが話し掛けるまでは少し間があるのではないだろうか。もちろんこれは私の主観であってみんながみんな必ずしも当てはまるということはないと思うのだが。でもやはり相手が初対面の人となると誰であれ少しは躊躇するであろう。そうこうしているうちに話題が広がり始め、何か共通点が見つかるとより親密になっていく。その共通点とは出身地であったり、趣味であったりと自分が持っている領域が相手の持つそれと重なり合うと人は嬉しさを覚えそれがきっかけで心を開いていきお互い親密さが増すのだと思う。このように考えると、友達になるということは本当にちょっとしたきっかけであったり、下手をすれば自分の経験上なのだがどうして友達になったのか覚えていないということもあり得る。

 私の高校での友達関係は二種類ある。クラスでの友達と部活での友達である。ここで大きく違っていたのは、毎日顔を合わせるという条件は同じだったにもかかわらず部活での友達のほうが親密さが深かったということだ。やはり部活はクラスと違って経験する出来事の内容が違うということが理由としてあげられると思う。楽しさや辛さを一緒に経験する機会が多いと必然的に親密度は増すものだし、これは友達同士だけでなく人間関係すべてにおいて言えるのではないだろうか。

 友達関係の形態として「グループ」というものを考えてみたい。学校生活の中でクラス、部活と場面によって友達は変わるがそのどこにでも必ずと言っていいほど存在するもの、それはグループである。このグループとはゴッフマンの概念で言う非形式的集団(クリーク)に相当すると思われる。高校・大学ではそれほどでもないが、小学校・中学校では特にグループへの依存が強いという印象がある。例をあげると、まず一番ありがちなグループ内での仲間外れである。グループ内で意見が衝突したり、違う行動をする子が出てくるとその子は仲間外れにされてしまうので自然とみんなに合わせようという意識が芽生えてしまう。この仲間外れという行為はゴッフマンでいうパフォーマンス攪乱の形態の一つである 

「何気ない仕草」によって集団内で互いのパフォーマンスを許容できなくなり、協力関係にある人々に批判をぶつけてしまうときに生じる「騒ぎ」という概念の一種だと思う。また別の例を挙げると、他のグループとの関わり方についてである。学校にいる間、あまり他のグループの子と話す機会がないということは結構あるのではないか。このような子たちの特徴としては他のグループの子と話す話題がないとか話が合わないと決め付けてしまっているところも大いにあると思う。しかしグループには今まで述べてきたようなマイナスイメージな部分ばかりが存在するのでは決してない。やはりグループ内では親密さは深まるし何より楽しいということだ。自分たちにしか分からない話題があったり、秘密があったりする。隔意なさという点ではグループは長所だと思う。

 次は友達との会話について取り上げようと思う。今くらいの年代だともっぱら多いのは恋愛話である。自分の悩み相談から他人の噂話など色々なことを話している。どういうわけかこれがすごく楽しいのである。例えば、久しぶりに会った友達などに対しては「最近どう?」などと聞く。この言葉が意味していることはだいたい決まっている。このような言葉は表面上では近況を聞いているようだが、たいてい恋愛がうまくいっているかというような意味が裏側に隠されているのである。これは多くの人が恋愛に興味を持っていて、他人のことがすごく気になっているのであり、他人のことを聞くことによって自分と無意識に比べようとしているということの表れであるかのようである。

 一方、あまり親しくなく、会っても軽く会話を交わすだけというような友達とは恋愛話はあまりしないものである。その人との親しさの度合いによって足を踏み入れる領域をコントロールしているので、お互い暗黙の了解のようにそのような深い会話はせずにその場が終わっていくのである。

 会話とは少し違うのかもしれないがメールという通信手段も友達と付き合っていく上で必要不可欠である。今や誰もが携帯電話でメールをしているという時代である。しかしメールは相手の顔が見えない分色々問題が発生してくることもある。電話は顔は見えないが相手の声のトーンなどで何となく気持ちが分かるものである。電話や直接顔を見ての会話であればちょっとした声、表情の変化、つまり相手の非意図的表出を受け取ることができるが、メールは顔文字などで表現される相手の意図的表出しか受け取れないので便利だと言っても本当に必要な会話をしたいときにはあまり効果が得られないかもしれないのである。よい人間関係を形成していくには、相手の非意図的表出も察知してあげるということが必要となってくるのではないだろうか。 

 

まとめ

 学校生活は私たちの日常の中で中心的な位置を占めている。私たちの学校生活は小学校から始まって今に至っているがその中で数え切れないほど色々な体験をしている。今回は主に人間関係について分析したが学校行事などについて分析するのも面白いかもしれないと思った。実際に人間関係などについて分析してみると、ゴッフマンの概念に当てはまる状況が意外と多かった。ゴッフマンの概念は一見とても難しいが私たちの日常生活の何気ないところに当てはまったりする。

 教室などの状況をあらためて思い返してみるとみんな意外と人の行動に流されやすかったりして、いつのまにか教室(生徒)全体が一つのチームとして機能しているというところが面白いところだと思う。先生や友達のいつもは気にも留めないようなちょっとしたしぐさにも目を向けるとそこに意外な根拠があったりするのかもしれないと思った。

 今回は人間関係を中心に見ていったからかもしれないが、表局域と裏局域の概念もよく使われた。でもこれはある意味当たり前のことなのかもしれない。誰にでも表裏はあると思うし、極端に言えば朝家を出た瞬間から私たちは表局域に出たということになってしまうのかとも考えた。また学校という舞台においては、教師と生徒の関わりの部分に面白い現象が多かったと思う。

 

 

参考文献 

E.ゴッフマン『行為と演技―日常生活における自己呈示―』 訳・石黒毅