電車のドラマトゥルギー

 森田真由子

 

 

 

1.はじめに

 

私たちは生きていく中でさまざまな場所へ移動する。生活する上で移動は欠かせない行為である。動物というのは動く物、と書く。特殊な例を除いてすべての動物は移動する物なのである。そしてほとんどの動物は移動を徒歩(鳥は飛び、魚は泳ぐが)など何かしら自分の体を使って行う。それに対し、人間だけは、自動車や電車やバス、飛行機などの乗り物という物体を使って、自分の体を動かさず(自動車は運転したりするが)に移動する手段を持っている。それは人間が他の動物とは違って知能を持っている故であり、知能を持っているからこそ、乗り物を作り出すことが出来たのである。つまり、乗り物の中の空間、というのは他の動物には見られない人間特有のものなのである。乗り物にかかわらず社会現象というのも人間特有の空間である。そこではさまざまな人間が生活しており、さまざまな相互行為というものが生み出されている。人間社会の一部としての乗り物に見られる相互行為とはいかなるものか。

乗り物の中でも電車というのは自動車やバスや飛行機とは違い、比較的乗車している人間が自由に動くことが出来る乗り物である。また、私は高校三年間と大学一年の合計四年間電車通学をしていたので、電車の中で生じた出来事を把握している。そういった理由により、乗り物の中でも電車の中での行為について見ていきたいと思う。

 

2.電車の中の空間

 

電車というのはバスや車とはちがって、レールの上を走るものである。私たちは電車と聞くと「ガタンゴトン」というあの独特の音を思い出す。レールの上を走っているために、車内は安定しており、乗車している人間が自由に歩くことが出来るのである。また、電車はバスや車よりも多くの空間を持つ。これも乗車している人間が自由に動くことの出来る理由の一つである。電車の中の空間には、窓を背にして向こう側の人間と顔を向き合わせて座る対面席と、窓を横にして四人がけで座るボックス席がある。また、席とは戸一枚で分け隔てられ、トイレや出入り口、列車の接合部分に通じるデッキという空間がある。電車の中の空間は主にこの三つに分けられる。

 

3.電車の中の相互行為

 

1)クリーク

 

電車にかかわらず、乗り物というものには大半の人間は「どこかしらに行く」という目的を持って乗る。何の目的もなしにただ乗りたいから乗る、という人間はあまり居ないだろう。「どこかしらに行く」という目的を持っている時点で、電車の中の乗客すべてが「目的地に着く」というクリークを形成している。電車に乗っているときに、電車ジャックされたいとか、なにか事故が起こればいいのになどと思っている人間はまずいないだろう。そういうことを考えるのはよほど心配性な人間くらいで、ほとんどの人間は何事もなく目的地に着くものだと思って電車に乗っている。私が前に特急電車に乗っていたときのことである。その電車のちょうど一本まえの電車が事故にあったらしく、電車内で一時間ほど待たされたことがあった。その間、特に詳しい説明もなく私たちにされたのは、事故があったからしばらく止まります、という簡単なアナウンスだけだった。一応駅には止まっていたのだが、本来は動くはずの電車である。三十分を過ぎたところから乗客たちがざわつき始めた。何か説明はないのか、という声や早く進め、という声があがっていた。言うだけでは何も変わらないのだが、人間というのは思いを声にして発することによって状況が変わるのではないか、という考えをどこかに持っているものである。あの瞬間、乗客たちは発言をすることによって、電車を早く動かそうという目的を持つ一つのクリークを形成していたといえる。

発言することによって形成されるクリークに対して、発言しないクリークというのも形成されることがある。それは、終電で見られる風景から読みとれることが出来る。

終電、とくに金曜の終電だと、酔っぱらいが乗ってくることがある。酔っぱらいというのはおとなしくしていればいいのだが、そうはいかないものである。酒に呑まれて判別が付かなくなった彼らは、たとえそこに自分の仲間がいなくても大声で話したり、歌ったりする。それだけならまだいいのだが、周りの他の乗客に対してくだをまいたりする場合がある。この場合は非常にやっかいである。こちらが何も言わないでいると、彼らはこたえるまで執拗にせまってくる。この場合に私たちは声を出さずに彼らを無視し続けるというクリークを形成する。下手にこたえたりすると彼らはつけあがってしまうからだ。このクリークの成員はだれもが、酔っぱらいがだまるか、他の車両に行ってしまうことを期待するのである。そしてこのクリークは、酔っぱらいを、声を発しないことによって精神的に排除するのである。また、声を発してしまうと酔っぱらいと同様に見られてしまうおそれもある。そう見られないためにも、クリークの成員は声を発しないのである。

 

2)チームと局域 −電車内の局域−

 

電車の中にはもちろんクリークだけでなくチームも見ることが出来る。女子高生は仲良しグループでおしゃべりをしているし、サラリーマンは同僚同士で話をしている。これらはすべてチームといえる。

そういったチームがよく占領しているのは主にボックス席である。四人で座れるボックス席はおしゃべりをするのにちょうどいいのである。また、チームにとってボックス席とは裏局域となりうるのである。電車に乗っているときにボックス席に座った女子高生たちが化粧をしているのを見たことがある。すごく違和感のある風景であったが、彼女たちにとってそこは自分たちだけの空間、チームにとっての裏局域であると考えれば、理解は出来る行動である(自分はあまりそういう行動はしてほしくないが)。裏局域だと思われる行動は他にもある。女子高生たちが撮ってきたばかりのプリクラを切り分けたり、そこで写真を撮ったりする、というのは彼女たちがそこを裏局域として認識している故の行動である。たまに対面席でも化粧をしている人を見かけるが、彼女にとっては電車全体が裏局域であり、電車から出たその土地が表局域なのであるといえる。こうしてみてみると女子高生にとっては電車自体が裏局域で、目的地が表局域であるともいえる。

自分自身はボックス席を裏局域と見なしたことがある。それは一人で電車に乗ったときのことである。その日は時間がなかったために見出しも整えずに電車にのり、とりあえずボックス席を確保した。しかし自分の目的地である場所は化粧くらいはしないと恥ずかしいようなところである。トイレに行って化粧をしようかと思ったが、せっかく確保したボックス席が取られてしまうかもしれない。荷物をおいていっても荷物を取られてしまうかもしれない。しばらく悩んだ末、ボックス席の限りなく人目に触れない位置でこそこそと化粧をした。あのとき人目に触れたくないと思ったのは、裏局域から表局域の通路であるともいえる化粧をしている瞬間をオーディエンスに隠したいと思っていたからかもしれない。女子高生たちは完全にそこが裏局域であると思っているからこそあれほど大胆に化粧が出来るのではないか。

電車内の裏表局域の例としては、デッキと客席があげられる。よく車内のアナウンスで「携帯電話の使用はデッキでするように」と言われたりする。携帯電話の使用はたいてい私用であり、裏局域で使われるものであると思われている。それをデッキで使え、ということはデッキが裏局域であると見なされている証拠ではないか。もちろん、電車内すべてを裏局域としている女子高生は携帯電話を客席で使う。これが、普通電車ではなく特急電車では、乗っている年齢層が多少高いせいか、ある程度客席を裏局域と見なしている行動は見られても、携帯電話はデッキで使っている人が多いように思われる。

電車での裏局域の例は他にもある。電車が満員で、ボックス席に見知らぬ人と座らなくてはならなくなったとき、私たちは出来るだけ相手との接触をさけ、窓の外をみたり、持っている本を読んだり、ヘッドホンで音楽を聴いたりする。間違っても相手をまじまじと見るようなまねはしない。これはがらがらに空いた電車内での対面席に座った人間同士にも見られる行為であるが、そうすることによって私たちは出来るだけ自分を裏局域におこうとするのである。外部との接触を断ち、自分を裏局域に置き、そして相手の裏局域を見ないようにすることによって見知らぬ人と居る居心地の悪さから少しでも逃れようとする。またこの場合はゴッフマンのいう市民的自己にも当てはまる。電車の中という他人同士が居合わす状態で、私たちは、自分はその場にふさわしい人間であるというイメージを、自らを裏局域に置き、相手の裏局域も見ないことによって維持しているのである。

 

3)不在者の取り扱い

 

電車の中には本当にさまざまな人がいる。化粧が濃い人や、格好の奇抜すぎる人がのることもある。その場合その乗客は他の乗客からかなり注目される。しかし、その乗客が電車に乗っている間は他の乗客は無関心を装い、見ない振りをしている。その乗客が車から降りたとたん、化粧が濃いだの格好がおかしいだのその乗客に対する評価をしだすのである。これは、「パフォーマーがオーディエンスの前にいない局域にいるさいに、パフォーマーがチームの中のオーディエンスおよびオーディエンスの役割をとっているチームの中のオーディエンスの役割をとっているチームの中の何人かの者たちとの相互行為を諷する」(ゴッフマン、1974201頁)という、不在のオーディエンスを貶刺するやり方である。この場合、不在のオーディエンスというのは電車から降りた乗客であり、パフォーマーというのはおのおのオーディエンスについて評価を下す残りの乗客であり、チームの中のオーディエンスの役割をとっているチームの中の何人かの者たちというのはパフォーマーの話を聞いている他の乗客である。このとき電車内にいる乗客はチームを含むある一種のクリークを形成しているといえるのではないか。このような不在者の取り扱いは他のチームにも見られる。電車の中でおしゃべりをしている仲良しグループのうち一人が途中の駅で降りると、電車に残った子たちはその子の悪口を言ったりする。また上司と一緒に電車に乗っていたサラリーマンは、上司が途中の駅で降りるとほっとしたような表情をしたり、その上司が完全に見えなくなってからにらみつけたりする。

このような不在者の取り扱いが攪乱される場合がある。電車から降りたと思われていた乗客が電車内にいた場合である。化粧が濃い人や、格好の奇抜すぎる人が電車から降りたと思っていてもそれはトイレにいっていただけかもしれないし、降りたと思ったグループの一人や上司がなんらかの事情で電車を降り過ごすかもしれない。そして不在者として取り扱われているオーディエンスがチームの中に戻ってきた時に攪乱が起こる。そこで、オーディエンスはチームに貶刺されている事実を知り、また、オーディエンスがまだいることに気付いたパフォーマーはオーディエンスがチーム貶刺されている事実を知ったことを知るのである。このとき、「パフォーマーの演じていたオーディエンスを貶刺する役柄というのが一瞬にして崩壊し、<我を忘れ>思わず生地に近い嘆声をあげる」(ゴッフマン、1974197頁)のである。これらの表出は、それまで演じていたパフォーマーの役柄からはずれたコミュニケーションであり、そこからパフォーマーが違った役柄を演じだすことを意味する。そしてパフォーマーは今まで演じていたオーディエンスを貶刺する役割をやめ、まるでオーディエンスを貶刺していなかったように、または今までしていた貶刺の内容を弁解するようにふるまい、その場を取り繕うのである。仲良しグループの一人が自分の悪口を言われているチームのところに戻ってきたとき、それに気づいたチームの人間はまるでそれまで悪口など言っていなかったようにその人に話し掛けるし、上司をにらみつけているのを見られたサラリーマンは慌てて表情を変え取り繕いの笑みをうかべたりする。

また、仲良しグループのようにチーム構成員が複数の場合、悪口をされている子が戻ってきているのに気付かずに悪口をいいつづける子がいたりする。そのときは、悪口をされている子が戻ってきているのに気付いたグループ内のほかの子が、悪口を言いつづける子にさりげなくその子が戻ってきているということを知らせ、悪口を止めさせる。このとき、けっしてこの行為を悪口をされている子には気付かれてはいけない。なぜなら、その子が戻ってきたから悪口を止める、という行為はその子の悪口を言っていたという行為を認める行為であり、そのあとにグループが行なう取り繕いのパフォーマンスが成り立たなくなるからである。チーム単位のパフォーマンスには演技への出入りの意図的なすばやい転換が必要なのである。

 

4)演じられる役柄 −劇的具象化と印象操作−

 

電車の中ではすべての人間が役柄を演じている。高校生は高校生の役柄を演じているし、サラリーマンはサラリーマンの役割を演じる。おばちゃんはおばちゃんの役割を演じ、車掌は車掌の役割を演じている。それらは無意識に演じられているものもあるが意識的に演じられているものもある。意識的に演じられているものの例として、車掌の行動があげられる。車掌というのはJRの制服を着ている。そして車掌が車内を歩く時、必ず券売機を持って歩く。それは、乗り越しなどをした乗客に切符を売るという目的を考えれば当り前だと思われるのだが、車掌は券売機を手に持って車内を歩く。通常他の作業をしているとき、車掌は券売機を腰のベルトにかけて両手をあけた状態にしているのだが、乗客に切符を売りにいくときは、彼はわざわざ券売機を手に持って歩くのである。これは車掌の仕事の劇的具象化であり「自分は切符を売るという仕事を真面目にこなしている」という乗客への印象操作である。劇的具象化は車掌が各列車を出入りするときにも見られる。車掌は、列車を出入りするとき、扉を背にして深々とおじぎをする。乗客がどんなに少なくても、車掌は深々とお辞儀をする。これも車掌の仕事の劇的具象化であり「自分は乗客にこれほどまでに感謝しているのである」という乗客への印象操作なのである。これらはある程度マニュアル化しているため、完全に意識されたものではないが、ある程度意識されて演じられている役割である。他の役割でもある程度の劇的具象化は起こる。席が空いていても座らない高校生は「自分は若い高校生である」という無意識的な劇的具象化であり、わざわざみえるように化粧をする女子高生は「自分は若い女子高生」という無意識的な劇的具象化である。また、電車内で空いている席をさがすおばちゃんは「自分は疲れたおばちゃんである」という半意識的な劇的具象化である。それによって他の乗客は席を譲ったりする場合がある。

電車の中で役割を演じるために必要なのは印象操作である。先に述べたように、車掌は自らの仕事を劇的具象化することによって印象操作を行なう。

印象操作は他の場面にも行なわれる。電車の中には何度も述べたようにさまざまな人間が集まる。そのために予想のつかない事態が起こることもある。その事態によって自分が演じている役柄の存在が危うくなった時、またこれから起こりうる事態によって役柄の存在が危うくなりそうなことがうかがえるとき、人々は自らの役柄を守るために印象操作を行なうのである。具体的な例を挙げてかんがえてみよう。

電車の空間というのは、自動車やバスよりは広いが限りがある。高校生やサラリーマンが通学・通勤するラッシュ時にはもちろんぎゅうぎゅう詰めに混むのである。満員電車ではほとんど動くすきなどはない。その中では、乗客同士の意図しない接触もありうる。満員電車内でたまたま動いたら、手が他の乗客の体に当たってしまったということはよくある。しかし、それが男性と女性であった場合騒ぎが生じる。男性がたまたま動いて、女性のお尻に触れてしまった場合、女性は男性をちかんであると思う。そのとき男性がパフォーマーであり、女性がオーディエンスである。パフォーマーがした意図的でない何気ない表出によって、オーディエンスにパフォーマーがちかんであるという不適当な印象を与えてしまったのである。この際、パフォーマーである男性は女性に対し謝ったりするなどして、ちかんという本来の自分の役柄とは違う役柄を演じてないということをアピールする。また、女性が近くにいる際はなるべくお尻や胸などには触らぬように手の位置を変えたりする。これは自らの役柄を守るための印象操作である。

また他の例を考えてみよう。前にも挙げたように、車掌は乗り越しをした客などに切符を売るために電車の中を歩く。しかし、まれにではあるが、電車の中が騒がしかったりすると、乗客の呼び止める声に気付かずに通り過ぎてしまうことがある。そして深々とおじぎをして列車を出て行くのである。乗客は、自分が呼び止めたのにもかかわらず車掌が無視して行ってしまったと思い、車掌に対し「真面目に仕事をしていない」という印象を感じる。これはパフォーマーである車掌が劇的具象化をしてまで投企している自分の印象を不適当にしてしまう行為である。これをゴッフマンは「踏み越し」と読んでいるが、まさに車掌は乗客の呼び止める声を「踏み越す」ことによって状況の「踏み越し」をしてしまったのである。そのことに気付いた車掌はその乗客に丁寧におわびをし、切符を売る。また、そのような踏み越しがないように乗客の声に十分注意をして電車の中を歩くのである。

車掌の印象操作の例は他にもある。私が前に夜行列車の自由席に乗っていたときの話である。夜行列車自由席にはボックス席しかなく、私と友人の二人でボックス席に座っていた。その日は乗客が多く、二人で占領していたそのボックス席にも他の乗客が座ってきた。私達は横になって眠りたかったので多少嫌な感情を覚えた。実際にボックス席に二人で座り、横になって眠っている乗客もいたのである。私たちの横に座った乗客は車掌を呼び止め、乗客が多いのだからボックス席で眠っている客を起こして他の乗客を座らせろと言った。車掌は少し困った顔をしたが、しばらくした後、眠っている乗客を起こして注意していた。これも、意見した乗客に、注意をしないことによって「真面目に仕事をしていない」という印象をもたれることを回避しようとした車掌の印象操作といえるのではないか。

 

4.おわりに

 

こうしてみてみると、電車の中にはさまざまな相互行為というものがあるのだということがわかる。それらは電車でしか見られないものもあるし、電車以外の場所でもみられるものもある。電車というのは本当に特殊な空間である。すべての人間が個々のパフォーマーにもなるし、オーディエンスでもある。それは通常の社会生活でも言えることであるが、すべての人間がクリークの成員になりうる、というのは電車の空間の特徴ではないか。また、車掌の乗客への印象操作というのも他の交通機関ではみられないような現象である。今回はおもに普通電車での分析が多かったが、特急電車などにも注目して分析すると、普通電車とは違う特性が見られて面白かったのではないかと思う。

 

 

参考文献

・E.ゴッフマン(1974)『行為と演技――日常生活における自己呈示』誠信書房