『女優の一日〜日常生活のドラマトゥルギー〜

町谷 明美

T.はじめに

日常生活において、私たちはほとんどの場合、誰かしらの前で行動している。そしてそこでは多様な行為と演技が行われているという。そこで、私自身の一日を追いながら、私自身の体験を分析してみる。

U.ある日のドラマトゥルギー

朝起きるのが苦手な私の朝は、目覚し時計、ではなく母の怒鳴り声ではじまる。二階の自室で寝ている私の名を一階から母が呼ぶのだ。ただ、母の名誉のため指摘しておくが、母のもともとの声質や態度の問題ではなく、あまりに私が起きてこないため、次第に声を荒げざるをえなくなっているのである。近所に聞こえるほど母の声が大きくなった時点で私の目は覚める。何度も呼ばれて次第に目が覚めていっただけでもあるが、近所の人に私がなかなか起きない人間だと知られてしまうことに危機を感じ、これ以上母に叫ばせてはいけないというという意識からだと考えられる。つまり、私の一日はオーディエンスの存在を意識することから始まったと言えるだろう。

 やっと一階に降りた私を待っているのは朝の身支度という時間との戦いだ。父の単身赴任、兄の一人暮らしで現在我が家は母と二人暮しであり、母とはチームメイトであるため、この時間は家中が裏舞台であり、パジャマにぼさぼさ頭という寝起き姿から、外出用の外見が出来上がるまでの過程が堂々と行われる。ただし着替えに関しては、親しい間柄であっても大っぴらにすることに抵抗感を持つ私は、別室で着替えたり、隠しながら着替えたりすることが多い。つまり私にとって着替えをするという行為は裏局域のものであり、またこのとき私にとって母はチームメイトではなくオーディエンスとなるのだ。

さて、準備が完了するといよいよ家の外に出るわけだが、最近我が家の前が工事中であることを指摘しておきたい。普段は、近所の人とは時間のズレがあるのか、朝玄関を出るときに人に会うということが少ないため、バタバタと玄関を出たり、まだ半分ボケッとした顔をしたりしていることもある。しかし、ここしばらくはその時間にすでに工事関係者の方が働いておられることがあるため、玄関の扉を開けた瞬間に人の存在の有無を確認し、人がいた場合は少しすましたような態度で車に乗り込むのだ。これはオーディエンスの存在を意識した意図的表出である。

そして大学へ着くまでの間の車の中はまたしても裏舞台となり、お気に入りの音楽をかけ鼻歌どころか熱唱することもある。ただし最近気づいたのだが、外が明るいうちはバックミラーで後続車の中の様子や、停止中には対向車の中の様子もわかるのだ。とはいっても運転中なのだからジッと観察するということはないが、運転手が一人で口をパクパクさせているのを見ると、独り言をいっているか歌っているな、と思ってしまう。ということは、私もそう見られている可能性が高いということだ。車を運転しながら歌うなんて珍しいことではないとは思うが、自分が見られていると思うと恥ずかしく、特に信号での停車中は歌うのをやめたり、歌っているとわからないよう顔を動かしてみたりしている。これはある印象をもたれたくないがため、ある行為をやめるという意味で消極的な意図的表出と言えるだろう。また、運転のことで言うと、私はまだ運転経験が乏しく、また得意とは言えず、自分の運転に自信が持てていない。すると例えば、前方車との距離が離れていたり、後続車がピッタリついてきたりすると、自車のスピードが法廷速度に適していても自分の運転が不安になるという体験が少なくないのだ。もちろん法廷速度を無視した横暴な運転のことではなく、法廷速度を守ることと流れに乗って走ることの違いの問題だが、これは流れをとめてはいけないという責任感覚より、とろい運転だと思われるのではないかという焦りが強い。それに負けて安全運転を放棄するということは決してないが、精神的に妙な焦りをかんじていることは確かである。これは運転手という役割を演ずるにあたり、外面を選択する上でのジレンマの一種といえるのかもしれない。

さて、大学付近に借りている駐車場に着くと、そこは表舞台へ出る一歩手前の舞台袖である。というのは、その駐車場は道路に面しているのだが、道路に背を向ける形で駐車するため通行人からは車内の私の様子はそれほどわからないはずなのだ。そのため、鏡で髪を整えたり、運転用のスニーカーから夏であればミュール、冬であればブーツへの履き替えを行ったりなど、最終的な身支度のチェックの場となる。そしてドアをあけ、表舞台へと出て行く。

車を降り講義室へ向かう途中、つまりただ道を歩いているだけのときにも演技を指摘することができる。背筋を伸ばすなど歩く姿を意識するのは、人が見ていなくても健康面での自分への指示として実行していることだが、人の前を通るときに妙にすました顔になるのは、気まずさのほかに人前であるという何らかの演技をしているのだと思う。このようにあいまいに言うのは、私にとってすました顔であることが自分のプラスイメージにつながるかには疑問を持っているからだ。私は無表情な人にあまり好感を持たないため、他人もそうではないかと思うからだ。とはいっても一人で歩くのに笑顔というのも奇妙である。これも一種の外面選択のジレンマかもしれない。どちらにしろ他者の目を意識しているのである。ついでにふれておくと、友人などと歩くときにはまた別の演技を行っているといえる。例えば昼食を買うため大学生協に向かうとき、何らかの話題を繰り広げていることが多いのだが、少しでも聞き取られそうな距離に他人が入ると多少ではあるが言葉を選んだり、発言内容を選んだりすることがある。例えば、とくに何かについて批判や愚痴を漏らしているときは、きれいでない言葉遣いをすることがあるが、使わないようにしたり、通り過ぎるまで言葉をにごしたりする。他人には言葉端しか聞き取られないが、それでも何らかの印象を与えると思い、そうしているのだろう。このとき面白いのは、会話の流れよりも他人に聞かれることを意識して言葉を選んでいる、ということだ。というのは、誰かと会話をするとき、親密度の差や意図的・非意図的かは異なるが、話している相手をオーディエンス的な存在とみなして、話題や言葉づかいを選んでいるものだ。しかし、第三者を意識する間はその第三者がオーディエンスであり、対話相手はチームメイトとなる。しかもチームメイトといっても、その存在よりも他を優先させるという意味でのチームメイトであり、ときには、対話相手は一種の局外者となっている場合もあるかもしれない。

さて、私の一日に話を戻すと、いよいよ講義開始である。講義室でも同一の人がオーディエンスとチームメイトをかねる事例が多い。まず生徒同士についてみてみよう。生徒同士といっても親密度とは無関係に集まった者同士であり、私はオーディエンス前であることを意識している。一方で「授業を受ける生徒」として我々は同チームに所属しているといえる。教師と生徒間については、基本的には「教師対生徒チーム」という図式であるが、ときに「一部の生徒対教師・その他の生徒」となることがある。それは例えば、授業の妨害となるような言動をした生徒がいた場合、講義を妨げられたものとして教師とその他の生徒はチームメイトとなる。教師は注意、その他の生徒は嫌悪感を表情や態度に出し、同じ目的のための行為をするのだ。しかしこういった場合、必ずしも生徒が教師とチームを組むわけではない。なかには無関心で、まるで局外者であるかのようにする者や、また講義継続を望んでおり、教師の執拗な説教行為を疎ましく思う生徒もいるのだ。ここで講義への参加態度という話題を引き継ぐと、私は授業をまじめに受けているという演技をしたことがない、とは嘘でも言えない。これは完全な意図的表出で、ボーッとしていたのに、時々教師のほうに目を向けたり、別の作業をしていることを隠すなど、ちゃんと話を聞いているという印象を与えようとするのだ。講義室を覗いて、90分間、居眠りや内職をしている生徒が一人もいないという講義はまずないだろう。教師側からするとバレバレだという説もあるが、たとえばれていても逐一注意をうけるということは少ないのだ。それは教師が講義というパフォーマンスを維持しようとしているためだろう。つまり、教師はその経験から、生徒の擬装を見破るのに練達してはいるが、見逃すという擬装をもってすることで現状維持をはかっているのだ。しかし、もちろんすべてが見逃されるわけではない。授業に支障をきたすと思われるような行為があった場合、教師は講義を行うという役割がはっきりしている以上、擬装をもってすることはできなくなり、パフォーマンスを中断してでも注意しなければなくなる。ときには教師が思わず生地に近い言動をしてしまうこともある。例えば、不必要な私語をし続ける生徒に対し、講義を妨げたことや他の生徒に迷惑をかけていることへの叱責だけでなく、自分自身の当講義に関する苦労や思いまでを話し始めたり、当の生徒以外に関することへの不満をもちだしたりなど、感情的になり役柄から外れたコミュニケーションをしてしまうことがある。役柄から外れているかどうかということは、個人の性格などが関係し、はっきりとはいえないかもしれないが、私の経験上、そういったコミュニケーションのあと、気まずそうにする教師を多く見てきたため、そのときの教師は我を忘れていたと言えるだろう。また、こういったときは生徒も教師自身も気まずさを残しつつも、何もなかったかのように振舞うことが多い。これは教師と生徒が、一つの授業を構成するチームメイト同士として、秘密を隠し、チームにおける役割・立場の維持に努めているということだろう。しかし、後にその秘密について生徒同士が話すことはある。しかも怒られた生徒本人を交えて。このとき、不在の教師を貶刺することで当の生徒の自尊心の損失を埋め合わせ、また事件を起した張本人であるという罪悪感から開放し、チームに復帰させ、生徒同士というチームの連帯の維持をはかっているのである。また、教師も怒らせた生徒も不在で、その生徒のことを貶刺することもある。しかしこの場合、その生徒に話が聞かれる危険性は高い。実際、教室である人の話をしていたら廊下に当人がいたということは経験がある。そんなときは、当人に聞かれることが可能であることを身振りや表情でコミュニケーションの参加者に知らせようとする者が現れる。その生徒に対する批判をゆるめフォローをしたり、本当にその場にいないという意味での究極の不在者である教師のことに話題を転換し、貶刺の対象をそらしたりするのだ。うまくいくとこの察しを察するコミュニケーションの参加者も現れ、コミュニケーションの参加者というチームの志気が高まると同時に、生徒同士というチームの崩壊を回避するよう努められる。

このように、学校という限られた空間・時間の中には、様々な年齢・立場の人がおり、同一の人でも様々の役割が繰り広げられることになるのだ。

こうして私は一日の学校生活を終えるわけだが、この日は友人たちと食事の約束があり、市電で駅前へと向かった。市電に乗り込むと、女性2人組みが鏡とにらめっこをし、メイクを直していた。私は自分のブーツの中で少しずれてきていた靴下を直したが、それでさえ周りの人の目を気にしながらであった。この差は何なのであろうか。彼女たちにとって人前であっても市電の中というのは裏舞台なのだろうか。これから向かう先が彼女たちにとっての表舞台であり、この場はそこでの演技のための舞台袖であるのかもしれない。それとも我々は局外者として見なされているのだろうか。我々にどのように思われようが彼女たちは意にかえさないのか。もしくは、そもそもメイクをするということが裏でやるべきパフォーマンスだとは思っていないとも考えられる。私は朝の行動で述べた着替えについてと同様、人前で化粧をすることに抵抗感をもっているため、驚いただけなのかもしれない。つまり、表局域・裏局域を判断するのは当人の意識の問題で、どこを何ととらえるか、どの行為を何ととらえるか、それは一概には言えないとわかった。

さて、そんなことを思いながらも市電は進み、目的地へと到着した。友人と落ち合い店に入ったのだが、店の置くからガラスの割れる音と罵声が聞こえてきた。どうやら客があばれているようだ。そこで思い出したのはかつてのバイト先での送別会だ。以前私はイタリアンレストランでアルバイトをしていたのだが、まだ新人だったころに先輩の送別会があったのだ。いくつかのグループに別れワイワイと食事や団欒をしていると、突然グラスの割れる音と怒鳴り声がし、一気にシーンとなった。二人の先輩が喧嘩をはじめたのだ。普段から物事をはっきり言う性格の女性Aに、男性Bがキレた、という感じだった。BAを批判し、Aは戸惑いながらも強気でかわそうとし、さらにBを怒らせていた。すると店長が明るく二人の間に入り、周りにも面白おかしく演技し、この喧嘩がささいなことであるように見せようとした。すると数人のリーダー格の先輩方も場の秩序を維持しようと、明るく振る舞い、二人の喧嘩からみんなの視線をそらせようとしだした。私はその察しを察することはできたが、あまりに驚いて、また怖くて、きっとそれを表情に出していたと思う。そんな私や他の新人に対しては先輩方が特にかまってきて、しばらくしてからも面白おかしく接してきた。このとき店長とリーダー格の先輩方は、喧嘩によって崩れかけたその場の秩序を復元・維持するという目的のためのチームを結成したといえる。当の二人、とくにBはおさまりがつかず、そんなBを怒るCまで登場してしまうこともあり、チームの活動は困難さがあったが、Bの相手をするという役割と、私たちの相手をする役割に分かれたらしく、気づけばもとにおさまっていた。よって、状況維持は成功したと言える。その後はこの話題に触れるのはタブーなのかと思い、私は口にしなかったが、しばらく経ったある日、私がバイトに行くとABが仲良く話していた。てっきり気まずいのかと思っていた私は驚いた。後に聞いた話では、店長たちは、事件を秘密として隠すのではなく、通常通りにABを会わせ、Bが酒の勢いもあったことをAに謝り、Aはたいしたことなかったというように言い、仲直りしたようだった。これは、ABも私も所属している「同じ店で働く者」というチームの秩序を保護したといえる。しかも秘密をもつのではなく、本音を伝え合わせることで、チーム内のABを特別視するわだかまりを排除し、さらにはABの間に、「場を崩壊させた張本人同士」というチームメイトとしての新たな絆をつくらせ、自分が役割を外れた行為をしてしまったことに気づいたがその責務からチームに戻ることができずにいたBのチームへの復活をスムーズにしたと言えるのではないだろうか。秘密をもつことでチームの志気を高めるということもあるが、この場合のように、暗い秘密を秘密のままにせず解決することは、秘密の原因の当人たちを含めたチームのつながりをさらに強固なものにするのだ。

店の人が割れたグラスを片付けるのを見ながら、そんなことを思い出しつつ、席についた。店のスタッフを呼び注文したりすると、自分もウェイトレスの経験があるため、ついつい観察してしまう。店の込み具合や友人の態度から、「今笑顔で接待しているこのスタッフも本当はイラついていて、我々に背を向けた瞬間にしかめっ面になるんだろうな」とか、「じつはキッチンや洗い場は汚いのかもしれないな」などと勘ぐってしまうのだ。ただし、私のかつてのバイト先の名誉のため、前者は私の実体験であるが、後者は該当していなかったことを指摘しておく。しかし他店で働く友人からはその店では汚い雑巾のようなものでテーブルを拭いているだとか、手洗い場には古く汚い石鹸しかない、などと聞いたことがある。ウェイトレスの態度というのは、表局域と裏局域の表れの代表的なもので、客に見聞される可能性が物理的になくなった瞬間に表情や態度を変えたり、物理的に見られる可能性があっても、スタッフ同士にのみ通じる演出・合図があり、笑顔のまま客に対する貶刺をしたりしていることもある。またこのような愚弄的共謀は上司や仕事自体への不満に対しても行われる。物理的に見聞不可能な場は、スタッフ共通の裏舞台ということになり、そこには店の秘密がたくさんあり、客への貶刺も堂々と行われる。また、今は客であるため、客側の演技も実感する。接客しているときとは異なり、自分の感情を表に出すことが可能だが、無愛想な店員や、とくに料理などに関する不満は、スタッフが離れてからもらす。笑顔で注文したり品物を受け取ったりした直後に担当のスタッフを貶刺する。両方の立場がわかるため、店に行くたびにそれぞれの演技を見つけ、思わず笑ってしまうほどだ。

 また、こういった夜の飲食店ではかなりの確率で合コンが行われている。トイレに行くと先ほどまで愛想良く笑っていた女性人の、本音や本性を知ることがよくある。合コン相手への本音や、女性仲間に対する不満、身だしなみや態度の変容。ときには同じ女性であっても、「女は恐い」とおもってしまうほどの変貌ぶりだ。そしてトイレを出る前には表情や身だしなみのチェックがなされ、席にもどる瞬間に演技が再開されている。こういったことは、合コンでなくても特に異性間においては本当によくあることで、最近は一種の礼儀なのかと思うほどだ。 

さて、観察もほどほどに、夕食を楽しみ、家路に着くことになった。帰宅し、母と談笑していると、親戚から電話がかかり、次の休みに母に子守りをしてほしいと言われた。そして我が家まで来ることができないから私に車を出してほしいと。母がその電話に出たのだが、母の反応から母が断りたがっていることを私は察した。私はとくに用事はなかったのだが、電話をしているそばで、「その日に用事があったような気がする」というようなことを言う。ちょうど休日の話をしていたときで、本当は予定がないことを母も知っているため、具体的な用事を私に尋ねずに、母が私の話に便乗した場合は、やはり断りたいのだとわかり、「手帳を確認したがやはり用事があった」というようなことを母に伝えている演技をするのだ。それは電話の相手にも聞かれていることを理解したうえでの行為であり、本当は母の反応を確認しながら話の流れを決めており、また実際には手帳の確認などしていないのだが、相手にとっては自然なように聞こえるのだ。そして母の意志を直接確認する機会のないまま、断る方向に話は進み、残念だができないという結果になった。これは事前に母が休日は体を休めたがっていると知っていたせいもあるし、表情や身振り、さらには文字という伝達機能もあったおかげもあるが、私と母は非形式的で無意識的なしぐさや表情から察することで、チーム単位の共謀をおこなったと言える。

 こういったことを除けば、家の中、とくにこれから外出する確率の低い夜の家は、母と二人という裏舞台・裏局域であり演技の必要が少ない。極端ではないが、やはり家では、外ではできない行儀悪さがある。「外面がいい」とひにくって注意されることもあるが、家庭内の隔意なさの現れであり、私にとって重要な場なのだ。

こうして私は一日を終え、眠りにつく。「母の目覚まし」で再び女優として目覚めるまで。

V.おわりに

以上のように私の一日を分析してみると、私たちは常に何らかの行為と演技をしているとわかる。知らぬ間にこんなにも様々な行為と演技を身につけていることに驚いた。しかも個人においてだけでなくチームを形成したり、パフォーマーとオーディエンスという関係においても、言葉で指示しあったわけでもないのに相互に役割を果たしたりしている。行為と演技の種類、また舞台分けは人それぞれの認識があり、一概にはいえないが、そもそも人間は欲や本能を理性で抑えるという演技をしていると言えるだろう。となると、もはや演技のない世界は想像がつかない。演技というとまるで常に偽りを装っているようで、自分自身に対しても他人に対しても虚しさを感じてしまうようにも思うが、そうすることによって人間関係が成り立ち、社会の秩序が保たれているのだろう。これらの行為や演技をするということは、人間関係を形成しようとしているということで、社会の一員であるということだ。自分本位でなく、人との絆を作るための演出・演技をしていくことが大切なのだ。

 

 

参考文献

E.ゴッフマン(1974)『行為と演技―日常生活における自己呈示―』誠信書房