家族における相互行為

北 えみ

 

<はじめに>

私たちの大多数は「家族」を持ち、その一員である。私たちは家族の中で、さまざまな行動を起こし、さまざまな感情を抱き、多くの時間を過ごす。だが、私たちが家族の中でおこなう相互行為は、学校や社会でのそれとは少し違ってくるのではないかと私は考えた。なぜなら、家族の中では、自分以外の他者に自分を高く買ってもらいたいとか、自分が他者を高く買っていることを知ってもらいたい、といった感情を抱く必要はあまりないからである。そこには血縁という見えない絆によって結ばれている、無条件の愛情や信頼があるはずである。また、かつての家長が絶対的な権威を持っていた伝統的家族とは異なり、現在の家族はそのメンバーがある程度同等の立場で、相互行為をおこなっていると考えられる。そのため演技することの必要性は少ないように思う。だからこそ家族の一員が、自分以外の家族に対して起こす行動や、発信する情報は無意識的なものが多くなるだろう。

しかし、私は家族におけるさまざまな相互行為の中でも演技が行われているのではないかと考えた。家族とはいえ、自分ではない他者である。意識して演技する必要のないように思われる「家族」の中で私たちがどういった「演技」をしているのか、どこまで「演技」をするのか。また、「家族」をひとつのチームとしてみた場合、世間や社会に対してどのような「演技」をおこなっているのか、について考えてみた。

 

<親子という関係>

 家族の構成員として、「親」は「親」であり、「子」にはなりえない。「子」が「親」にとってかわることもない。しかし誰しもが必ず、「子」の時代を経て「親」となっているはずだ。

 そして、別の場面では(家族を亡くしていない限り)、その人にとって「親」も存在し、「子」も存在する、ということになる。言い換えると、その人は場面によって「親」にもなりうるし、「子」にもなりうる。

では、「親」が「親」であり、「子」が「子」であるとはどういうことか。ここで「親」という演技、「子」という演技について考えられる。

 

子どもが幼いとき、特に発話の能力が未発達のとき、親はほぼ一方的に「親」としての演技を行う。ほめたり叱ったりすればなんらかの反応は返ってくるが、それが確実に伝わっているかどうかはわからない。だが、親は確実に自分の役割を遂行するために伝え続けるしかない。

「赤ちゃん言葉」を使って話しかけたりするという行為も、実際に、「赤ちゃん言葉」が小さな子にとって聞きやすいというなら話は分かるのであるが、というよりも、小さな子どもに対する親の態度として、多くの人が認識しているから「赤ちゃん言葉」を使うのではないだろうか。

 

子どもが少し大きくなっても、親のほめたり、叱ったりという行為は減らない。例えば食事の場面で、親はあらゆる注意を子どもに促す。「いただきます」にはじまり、箸の持ち方、ひじをつかない、口にものをいれてしゃべらない、などである。これは、「しつけ」といわれるもので、「親」という役割につきまとう行為であり、「親」の義務である。エゴは自分が「子」であったときの経験から、無意識的にしつけをおこなっているのかもしれない。だが、この行為は本当に無意識からでたものといえるだろうか。「親」が「子」に注意するのは、家庭外で「子」に行儀良くいさせるためである。この行為の目的は「子」が外に出たときの行動に統制を加えるためであろう。つまり、しつけをおこなうことは、「親」の面目を保つためでもある。この「親」の行為は、家庭外でのオーディエンスに対するパフォーマンスであると同時に、「親」という役割を「子」に呈示しているともいえる。ここで、厳しいしつけをおこなえば、上下関係のはっきりとした、伝統的な親子関係に近づく。しかし、現代の家庭においてはそのような厳しいしつけをおこなう傾向はあまり見られないと考えられる。そのために、「常識を知らない」と見られるような子どもたちがでてきているのである。

 

「子」がエゴとなり、外でパフォーマンスをおこなうとき、基本的に幼い「子」ほどそれを意識しない。子どもは自分の思いや、やりたいことをそのまま表現する。雪が積もっていれば、「雪、雪!」と騒ぎ、口に入れる。それが泥で汚れた部分でも関係なくである。その意識しないエゴのパフォーマンスにこそ、親の「しつけ」が問われ、オーディエンスの目も厳しく、「子」の背後での「親」のパフォーマンスが窺い知れるともいえるのではないか。

 

また、幼い子どもは知らない言葉が多いと思っている私たちだからこそ、その中でのきわどい言葉に、話を聞いているオーディエンスは冷や冷やする。どこから聞いてきたのか知らないが、これは聞いてしまってよいのだろうか、というような内容まで子どもは話してくれる。それは夫婦間の秘密であったり、家族間の秘密であったりする。

この秘密を子どもによってオーディエンスに暴露されることは、家庭の裏局域を知られてしまうことである。また、小さな子どもほど密告者的な役割をするといえる。ここでも親は情報統制ともいえる「しつけ」をおこなう必要があったのだ。

 

 では、「子」は「子ども」らしいと思われる演技をしたりするだろうか?私の経験では、みずから「子供」らしくふるまったという記憶はない。「大人」の目からみて「子供」らしい子がいるとしても、その子が自分の意志でそれをおこなっているとは考えにくい。もちろん「クール」な、子どもらしくない子もいるだろう。そういう意味ではクールな子どもは生まれつきというよりも、演技をしているといえるかもしれない。私も考えてみたら「クール」を演技していた子どもだった気がする。「子ども」らしさは幼いほど、無意識的におこなわれるもので、年齢によって「年相応」の態度は身についてくる。だが、どれだけ年をとっても、「子」は自分の「親」の前ではいつまででも子どもであるといえる。

 子どもはその成長にともなって、勉強、友人、進路などについて親との会話を持つようになる。子どもの友人関係や、交際相手などに親は関心を持つ。だが、ある時までは話してくれていたことが突然一言も話してくれなくなることがある。このことを親が子どもにうるさく追求すると、親の過保護や過干渉ととられ、子どもの反発をまねく。子どものプライベートに関して親がどこまで関わることが許されるのか。子どもが大きくなるにつれて、自分の「子」と見る前にひとりの「人間」として見ることが必要となってくる。とりわけ、反抗期や思春期などに親はそのことを強く感じるようになるだろう。子どもが幼いときは、あれこれと注意を促すことが「親」の役割であったが、今度は黙って見守るという役割を演じることが必要になってくる。子どもの成長につれて「親」が演じる役割も変化してくるといえる。

 

また、私の友人のお母さんはぬいぐるみに話しかけ、しかったりするそうだ。これは、成長した子どもたちに対して、しかったりすることが減ったためにおこなっている行為かもしれない。いつまでも「親」としているために、その「演技」をぬいぐるみに対しておこなってしまうのだろう。

 話を聞いていると、私はこのお母さんは「お母さん」らしい「お母さん」であるという印象を持った。そのために、私の友人は「お母さん」が「お母さん」らしい行動をとれないことを心配する傾向がある。例えば、つくってあった夕食を食べられないときなどである。部屋の掃除を今でもお母さんにまかせたりしていることは、「お母さん」としての「演技」をおこなわせているのだと感じた。

 

「子」が「大人」に近づき、ひとり立ちしてしまうと、逆に「親」は「親」らしく「子」は「子」らしく振舞えるようになるものかもしれない。いっしょにいたときはわからなかった、存在のありがたさ、「親子」という関係に気づくことができるからであろう。「家族」の中にいればその無条件の奉仕を受けることが可能だ。だが、「家族」を抜け出てひとりになると、それはひとつもない。そのために、たまに会ったりすることで、「家族」を大事にする気持ちが生まれ、より素直に「子」として「親」の愛情を受けたりできるのだろう。

 

親が子どもの誕生日を祝うことはどこにでもある風景である。子どもが小さいとき、それは「誕生日パーティ」として大々的に行われたりする。これが、子どもが大きくなると行われなくなったり、友達や恋人と過ごすということになりうる。子どもの誕生日を祝うという、いわば「親」としての役割を果たすべき場面ですら、関わることができなくなってくる。子どもは自分の誕生日を親に祝われることをもはや求めていない。むしろ、友達や恋人に祝われることがステイタスになる。

 だが、子どもが「親」と離れて暮らすようになると、誕生日をまた祝いたいというような気持ちが生まれてくる可能性はある。二十歳の誕生日に届いたメッセージに「親」としての気持ちがこめられていたり、親の誕生日には精一杯の感謝をこめてプレゼントを用意したりする行為は、忘れていた「親子」という演技を再びおこなっているものだといえるだろう。

どれだけ「子」が「大人」に近づこうとも、その演技の内容は変化しても「親」にとっての「子」とい存在は変わらないし、親子の絆が切れることもないのである。

 

<役割の放棄>

 家族の中で、親が「大人」に近づいた子どもをひとりの「人間」として接することもおこなわれうる。そして、そのときだけは「親」の役割や「子」の役割とは離れたつきあいをしていると考えられるし、私はそのことはお互いにとっても良いことだと思う。なぜなら、「親」だから見せられなかったことや、「子」だから見せられなかったことも、素直に見せることのできる可能性があるからだ。

 

 「親」が「親」の役割を放棄するときとはどんなときか。それは「子」という存在がいない場面、夫婦だけでいるときなどが考えられるが、私の経験では、親戚など親と同年代の人たちが集まり、なおかつ酒の席などでも、親は「親」の役割を放棄するように思われる。

 

 親戚が一同に集まり、話題となるのは、やはりその子供たちについてであることが多い。子供は聞いてないような素振りを見せつつも、耳をそばだてているものだ。そこでの会話は裏局域をのぞくようなものだ。そこには親たちの自分に対する本音、つまり「親」という役割を放棄した姿を垣間見ることができるからだ。あの子はこんな子だ、という話を聞いて「親」の愛情をはかったりすることも可能ではないだろうか。

 

 「親」が「親」ではなくなるような行為のひとつに「泣く」ということがあげられると思う。「子」はいくらでも泣くことを許されるが、「親」は「子」に涙を見せたりしない。「子」は「親」の涙を見たことがないのが普通であると思う。この涙を見せないという行為は「親」というより「大人」であることを演じるためであるかもしれない。「子」と「大人」の精神的な大きさの違いを示すのではないだろうか。

 だからこそ、「子」が「親」や「大人」の涙を見たときは動揺するし、逆に興味もわく。そしてその理由を知りたいと思う。「親」が「子」のために泣くという場面は、感動もののドラマや映画を見て泣く場面とは異なる。涙の理由は「子」の成長を感じた喜びや、あるいは不出来を嘆くものかもしれない。どちらにしろ、「親」の涙の影響力は大きいと思う。

 娘の結婚式で初めて見せた涙や、息子の万引きを知って見せた涙など、その影響力は「子」の未来にも関わってくるものだ。この「親」の涙は、“普通”や“常識”を超えた愛情であると考えられる。つまり、「親」は「親」としての役割を放棄して涙を見せてしまうわけだが、その行為は逆に「子」にとっては“いつも”とは異なる愛情として感じられ、「親」という存在を確認させるものなのである。

 

 子どもが成長すると、特に父親は自分の息子と酒を飲みながら話したい、と思うようになったりするらしい。我が家では、母親が私に求めてくることもある。これは、子どもを「子」として扱うというよりも、やはり人間として、ひとりの大人として認識している、あるいは認識したい、という気持ちからであると思う。

 

 また、どんな場面でも、「子」のいる前では「親」であるという姿勢をくずさない人は自分の「親」役割の完璧な遂行者といえるだろう。そういった人を素晴らしい「親」だと評価することもできるだろうが、人間味という点に少し欠けるように思う。どういった「演技」が「親」にとって、「子」にとって、また、「人間」として良いのかということはさまざまな考えがあるだろうが、私としては自分の成長とともに「親」に近づきたいという気持ちがある。だから、常に「親」が「親」であることよりも、ひとりの人間として見たいと考える。よって、親がその役割を放棄した場面というのは興味深いものである。

 

<チームの編成>

 家族の中でのチームはよくその編成が変化する。子供は親を見方につけたり、その兄弟を見方につけたり、あるいは祖父母を味方につけたりする。そして、そのチームにより、自分の意見を通そうとする。子どもが親を見方にしてチームを組むときは、たいていそれ以外の兄弟を罰することや、非難すること、また、自分の地位を確保することを目的とする。

祖父母とチームを組むことは子供の常套手段である。祖父母は容易にチームとなってくれる。一緒に住んでいない場合はなおさらではないだろうか。子にとって祖父母は最大の強みである。親もまず、そのチームには逆らえないからだ。子どもが祖父母に甘えることを親はあまり許さない。だが、子どもはおこづかいをもらったり、祖父母をいいように利用したりする。

我が家では、祖父母とチームを組んで親から叱られることを回避したり、泣きついたり、ということは小さなときまでであった。成長するにつれて、私たちは祖父母としての行為を、こちらから要求するようになった。一番の目的はおこづかいをもらうためであるが、そのためにかわいい孫を、このときだけは演じたりするのである。

 

<家族チームとしての演技>

 私たちがひとつの家族の中でさまざまな行動をとるように、社会においては家族が連帯感をもってチームを組み、それぞれ相互行為をおこなっているはずである。それでは世間に呈示する家族像とはどんなものがあるだろうか。どのように協力しているのだろうか。

 

例えば、授業参観の日などは子どもの授業風景を見に親が学校に集まるのであるが、その場面は「子」の舞台を見にくるというよりは、「親」の舞台であると言えるかもしれない。親は必要以上に着飾ったり、自分の子どもの授業での活躍を大いに期待し、あるいは失敗をしないよう願う。これは単に子どもの成長を期待する親としての気持ち以上に、「親」の見栄や「家族」というチームの成功を願っているのではないか。ここで、自分の「子」が目立つような恥ずかしい行為をとるようなことがないように、「親」はこれまで「しつけ」をおこなってきたのである。

 

「家族」として演技するとき、「仲の良い」家族を演じることがチームにとって重要であろう。なぜなら、「家族」とは円満であることが理想とされているからである。円満に見せることは「親」だけが目的としているときもあるかもしれない。というのも、子どもが思い通りになるとは限らないからだ。出来の悪い不良となってしまったとき、いくら仲の良い家族であっても、世間の見方は冷たいだろう。

 

「家族」というチームで円満家族を「演じる」ことは難しいという例がある。それはレストランでの家族の風景に見られた。少し高級なレストランで働くウエイトレスが、食事にきた家族が「円満」かどうかを、その会話の量、雰囲気によってはかった。家族によって、その会話量や、会話風景はさまざまであるようだ。話がはずんで、なごやかにすすむ家族もあれば、黙々と食べ続けるだけの家族もあるらしい。それだけで、円満かどうかを見ることには少し無理があるかもしれないが、オーディエンスに呈示された家族像という点で、「円満」を演じることは少し難しいといえるだろう。

 

私の家族においては、息子は不良であり、母親もある意味(さまざまな行動を知っていれば)不良であるといえる。本人たちにそういう意識があまりなくても、外からはそう見られていてもおかしくない。私たちが成長したので、家族で行動するということはあまりなくなってきているが、家族全員で行動したとき、円満家族を私たちは演じようとしただろうか。答えはノーで、そういった意識はなかった。この年代になって、家族で行動することが、何も知らないオーディエンスにとっては円満家族を連想させるかもしれないし、演技しなくても家族であることはお互いに承知の事実であり、円満かどうかを意識する必要はなかったといえる。

 

<まとめ>

 家族において私たちがおこなう演技は主に、「親」や「子」といった家庭における役割の遂行である。その「親子」の関係も子どもの成長につれて変化するものであるし、接し方も変化させる必要がある。それができない場合に、子離れできない過保護な親や、親離れできない子というものが出現するのだろう。そうならないためにも、時には役割を放棄することも必要ではないかと思う。

また、私たちには性別の違いによる家庭でのジェンダー観が根底にあり、それは親たちにもいえることである。そのために「父親らしい」とか「母親らしい」といった演技を親はしてきたし(せざるをえなかった)、私たちもそれをあたりまえにとらえている。

 家族というチームでの演技は、世間というオーディエンスに対してのものが主である。特に家庭外で幼い子どもがパフォーマーとして演技しているときは、家族という裏局域の秘密が最も漏れやすい。また、家族を演じる際には、仲の良い家族を呈示することが普通であるが、演じきれない部分もある。それはにじみでる要素であるといえるかもしれない。

 

<さいごに>

どんな場面においてもいえることかもしれないが、演技をおこなうということはオーディエンスとパフォーマーの間に距離を感じずにはいられない。そう考えるなら伝統的家族形態が崩壊している現在はなおさら家族の中での演技行動は減少しているだろうと思う。「母親」らしくない母親、「父親」らしくない父親、「子ども」らしくない子どもがあらわれているということは、その演技行動が減っているために起こることだろう。だが、その一方で、性別役割分業によるジェンダー観のうえつけもまだまだ残っていることも事実である。私の家族においても、あまり「家族」らしいといえるものではなかった。母親は好きなことをやりたいという思いが強く、自由奔放であるが、父親からの家庭の仕事をやれという要求があり、けんかの原因でもあった。「母親らしい」母親ではなかったが、父や子どもである私たちが母の行動を認めることで、演技への要求は減り、自分の求めることができるのである。「親」や「子」といった役割を演じることで、必ずしも仲が良い関係を築けるとはいえないし、個人として見た場合にさまざまな制約がかかるともいえる。

だが、演技することが必要な場面もきっとあるだろう。例えばこどものしつけに関することである。これは、親に期待される行為であり、子どものためにも必要なことだと思う。よく聞く話だが、昔は近所の人が自分の子どもではない子でも、悪いことをしたときにはしかっていたという。これは「親」の役割を演じるパフォーマーが、家庭外にもいたということを意味する。このパフォーマーが見られなくなった今、やはりその演技はなんらかの形で必要とされているといえる。

現在の家族においてその関係が崩壊しつつある、といわれるのは家族としての演技をおこなうことが少なくなったためであろう。しかし、ジェンダーに基づく「母親」、「父親」という役割演技はほとんど時代遅れではないだろうか。その中で生きていく私たちには自分というしっかりしたアイデンティティが必要となってくるだろう。

 

<参考文献>

ゴフマン・E1974、『行為と演技』、石黒毅訳、誠信書房