002年度後期社会学講読

 

 

 

 

 

合コンのドラマトゥルギー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岩田 京子

 

 

 

 

 

No.1

 

序章:合コンを始めるにあたって

 合コン…合同コンパとは、まさに行為と演技が共存している場である。合コンにくる人間はほとんどがエゴであり、ほとんどがオーディエンスである。例えば、男4人、女4人の合コンがセッティングされたとしよう。男ABと女abが知り合いで、あと二人を数合わせに連れてくることになった。そこで彼らは誰を選ぶだろうか。きっと自分たちより顔がよかったり、もてたり、地位が上だったりする人は連れては来ない。むしろそんなにもてていなかったり、自分と同レベルかそれより少し下の地位の人を連れてくる。しかもあまりにも下ではこれまた意味がない。うまくバランスが取れるように、かつ主催した自分たちが引き立つように人を選ぶ。彼らは自分たちが主役になりたいと思っているし、自分を高く買ってもらいたいと思っているからである。自分よりレベルが上の人を連れてこれば、主役を奪われることになるかもしれない。それではこの合コンを企画した意味がない。あくまで主役は主催した自分たちになるように人選をしなければならないのである。しかし、このことは全ての合コンに当てはまるわけではない。学生同士の合コンなどでは、エゴやオーディエンスという立場も関係なく、ただ盛り上がればいい、楽しければいいという状況がよくある。オーディエンスを気にするエゴが発動するのは、彼氏彼女探しに躍起になっている人や大人の社交場でのことだろう。それゆえ、ここでの「合コン」というのは、彼氏彼女探しに躍起になっている大人たちの集いとしよう。付け加えておくが、私はここで言う「合コン」に参加したことは一度もない。人を選んでコンパに行ったこともない。想像で話をするのはよくないが、一般的なイメージの「合コン」を元にこれを書かせていただきます。

 

第1章:合コンにおける外面

 人数がそろい、ついに合コンの日がやってきた。待ち合わせは六時半に駅前。男性たち(男性チーム)がそろい、女性たち(女性チーム)がやってきた。お互いをみてどんな印象を抱くだろう。合コンにおける外面は重要な項目である。まず外面の1つ、舞台装置について、最も重要な要素である「人」から述べよう。最初の段落でも書いたが、数合わせとはいえ、主催した人たちは自分たちより顔がよかったり、もてたり、地位が上だったりする人は連れては来ない。しかもあまりにも自分よりレベルが下の人も連れては来ない。レベルが上の人を連れてこない理由は最初の段落で述べたとおりである。レベルが下の人を連れてこない理由は、自分がその程度のレベルだと思われたくないからである。自分もレベルが低いと思われたくないから、同レベルくらいの人を連れてくるのである。いくら高級レストランでの合コンだったとしても、どう見てもおたくっぽくてげんなりしてしまうような人を連れてきていては、楽しい合コンは成り立たないだろう。「人」は「人」を量るのに、最も簡潔な舞台装置と言っていい。

次にもう1つの外面、個人的外面として、服装が挙げられる。普段着からスーツやイブニングドレスの人は特に着飾る必要もないかもしれないが、たいていの人は自分の中のいっちょうらを着て出かけるだろう。しかも合コン場所に見合った格好でないといけない。いっちょうらだからといって何十万もするジーパンをはいてきても、高級なレストランでは入店を断わられる可能性もある。舞台装置と個人的外面は外面を示す上で深く関係している。女子に至っては化粧も外面を引き立たせる要素である。美しくみせなければいけな

No.2

 

いが、ケバ過ぎては引き立たせるどころかレベルを落としてしまうことにもなりかねない。何事も程々が肝心である。

それでは合コンをする場所に移動しよう。「場所」も舞台装置の1つである。仕事帰りの

おじさんだらけの居酒屋だったらどうだろう。きっと女子たちは店を見た時点で帰ってしまう。「こんなところに連れてくるなんて、この人もきっとただのおやじね」と彼女たちは思うだろう。たとえばこんな例もある。なかなかかっこいいなと思えるような人が勇んでパチンコ屋に入っていったら、その人がどうにもバクチ好きに見えてしまい、幻滅してしまう。場所もその人をあらわす重要な要素である。自分をよく見せたいのなら、ちょっと背伸びしてでもおしゃれなレストランやバーに連れて行くべきである。そして普段からそこに通っているように、知ったかぶりな演技をしなければいけない。他の人はそれが嘘、演技だとわかっていても、仕方なく付き合うことができる。おじさんだらけの居酒屋に連れてこられて素を見せられるよりはよっぽど楽しく時を過ごせるだろう。

 

第2章:印象操作とチームパフォーマンス

 さて、無事レストランにも到着。男性チームのちょっと背伸びした演技も板についている。乾杯の前にまず自己紹介である。男CDは女abとは初対面、女cdは男ABとは初対面である。ここでお互いにいい印象をもってもらうためには、別に素の自分を出す必要はない。オーディエンスたちは自己紹介の場で見せられた「演技」を全くその人であるとは信じないだろう。かといってオーバーな演技は不信感を与えてしまう。彼氏彼女探しの合コンなのだから、一般的に望まれる男性像、女性像を演ずればいいのだ。逆にそうすることで、素の自分を出したときに相手の心をつかめるかもしれない。人はギャップに弱いのだから。素が非常に真面目な人が、素のまま就職活動の面接のような自己紹介をしてしまったら、オーディエンスたちはがっかりしてしまい、場も冷めてしまう。これは私も経験したことであるが、新歓コンパでの自己紹介はとにかく「明るく楽しくはきはきとおバカに」が鉄則である。場の雰囲気を察知し、どんな目的でこのコンパが開催されたのかを熟知しておく必要がある。

 自己紹介も終わり、乾杯も済んで、料理を食べながら会話も弾んできた。男Aが「休日は何してるの?」と女子たちに聞いたとする。女aは「買い物する」、bは「友達と遊んでる」、cは「たまったメールの返事をかいてる」、dは「料理とか、家事全般をする」と答えた。d以外の三人はビックリしてdを見た。dは実家に住んでいて、家事は全て母親に任せている。女仲間の中ではずぼらで通っていて、お世辞にも料理が上手いとかはいえない、そんな人である。それがいけしゃあしゃあと「料理」と答えたことに女子3人はビックリした。しかし男性チームは「料理」という女性的なことばにつられてdにいろいろな質問をしている。女子3人はdの言ったことを否定したい気分になったが、男性チームがうれしそうに質問をしているのを見ては何もいえない。dの言ったことを否定するということは、dを否定するばかりか、場を壊すことにもなる。ここは自分たちのためにも我慢せざるを得ない。またチームで誰かが虚偽を語る場合打ち合わせが必要だが、この場合、「合コン」という演技が必要な場にきたということで、ある程度の打ち合わせ、演技に対する同意ができていたとみなすことができるだろう。そしてそれからというもの、女性チームは平気で虚偽を言えるようになった。虚偽の応酬である。

No.3

 

 今度は女cから質問、というか確認がされた。「みんなかっこいいから本当は彼女とかいるんじゃない?」と。実は男Bには彼女がいた。それを男性チームは知っている。しかしこの場で真実を明らかにすると、またもや場を壊しかねない。Bは焦って「いるわけないじ

ゃん」と答えた。そしてその話をかわすように男性チームはまた女性チームにいろいろな質問をふった。Bは「二股しても別の女と付き合ってみたい」と考えていて、「彼女がいる」という情報はどうしても隠しておきたい暗い秘密だった。ACは場が壊れないようにその秘密を守ろうとした。Dも初めは秘密を守ろうとしたが、彼女がいるくせに女性チームと盛り上がっているBに腹が立ってきて、自分の前に座っていた女dに秘密を打ち明けてし

まった。男Dは男性チームの密告者になった。女dBにそっと確認を取り、それが真実であるということを知った。しかしdもその情報は場をしらけさせるものだとわかっているので他の女性たちには知らせようとはしなかった。テレビショッピングのような演技の激しいさくらとは違うが、何も言わず場と同調するのもさくらの役割だろう。

 

第3章:合コンの中の局域と行為

 会話に間ができ始めた頃、女性チームが席を立ち、化粧室に行った。そこで彼女たちは自分が受けた男性チームのイメージ、自分はどの男性が好みか、自分が気に入らない男性の悪口、自分たちの演技についての皮肉をこめた賛美や批判、自分たちの外面について、このあとの戦略を話し出した。男性チームの前では言いづらかったこともここでは言うことができる。はたまた男性たちのくせやしぐさなどを真似て笑いあうことだってできる。男性チームというオーディエンスがいないので、不在者を犠牲にして女性チーム内の相互的顧慮の証明をし、男性チームを前にして彼らに迎合しなくてはならないときに生ずる自尊心の埋め合わせをつけることでの、チームの連帯の維持を図っているのだ。崩れた化粧を直して、後半戦に備えることもできる。この化粧室は女性たちの裏局域で、ゆえに男性チームといる場所が表局域となる。女性チームは化粧室に男性チームが近寄らないことを十分承知しているから安心して素を見せることができる。仕事の統制もここで行う。逆に男性チームは女性チームがいないのをいいことに、自分が受けた女性チームのイメージ、自分はどの女性が好みか、自分が気に入らない女性の悪口、自分たちの演技についての皮肉をこめた賛美や批判、このあとの戦略を話し出した。オーディエンスがいない場所で、局外者を気にしなければ、どこでも裏局域にすることができる。そのかわり隔離された場所とは違い、どこで知り合い(男仲間、普段チームとして付き合っている人)に会うかわからない、自分たちにとってオーディエンスである女性チームがいつ化粧室という裏局域から出てくるかわからないから、周囲の動きに注意を払う必要も出てくる。女性チームは化粧室を出たら、男性チームは女性チームの気配を感じたら、また演技派のエゴでいなければならなくなる。

 

第4章:行為と演技

 合コンも後半戦に突入。女性チームが立っているついでに、席替えをした。うまく男女交互になるような席順になった。オーディエンスが少なくなることで、失敗、面倒、反逆の可能性が低くなる。しかしそううまくいかないのが世の常である。席が近くなり、密な話も出てくるようになった。余談だが、女性は男性の左隣、男性は女性の右隣に座るとお

No.4

 

互いの印象をよく感じるらしい。それはさておき、さっきから女cはだれかれかまわず男の話は熱心に聞いている。cのこの行為は作法に適った行為で、自己が現在いる局域や舞台装置に対する敬意の表明であり、この場合合コンの場である表局域に対してということになる。それは男性チームというオーディエンスによい印象を与えたいという希望に動機付けされていて、熱心に話も聞くし、熱心に男性チームと会話もする。熱心に話をするだけでは「気が強い」とか「自己中だ」という印象も与えかねないが、熱心に話を聞くという行為をすることによって、オーディエンスによい印象を与えていることになる。この行為は見せかけにもとれるし、女cが冷静沈着な人であるともとれる。

 飲み物がなくなったので男Aはウェイターを呼んだ。半分酔っ払っているうえ、ウェイターは合コン中のオーディエンスではなく演技する必要もないと思ったので、口の利き方が普段のようにあまりいいものではなくなっていた。ウェイターにあまりいい印象をもたれなかっただけならまだいいが、その姿を女aが見ていた。女aは普段の男Aを垣間見てしまったわけで、その口調の荒さに幻滅を覚えた。aが冷めた目で見ていることに気付いたAは、非常に困惑した。たとえその場の局外者に向けて行為をする場合でも、オーディ

エンスの気配を感じ取り、素を見られてはまずいのなら演技をしなければいけない。

bと男Cで出身大学の話になった。お互いに出身大学を当てようとしていたのだが、Cは何も知らずに「まさかbちゃん、T大ってことはないよね?あの大学の女の子ってさぁ、ギャル系かオタク系かのどっちかじゃない?なんかどっちも見てて気持ち悪いよねー。bちゃんはやっぱお嬢様っぽいからー・・・N女子大!?」とつべこべといってしまった。実は女bの出身大学はT大である。男Cに幻滅と怒りを覚えながら女bは静かに口を開いた。「私そのT大出身なんだよね・・・」男Cは困惑し、焦って言い訳をするだろう。「い、いやー、bちゃんみたいなかわいい子はN女子大だと思ったんだけどなー。そっかT大かー。あ、でも、頭いい感じするもん、bちゃん。あ、あははは・・・」このとき男Cのしてしまった行為は踏み越しであり、状況の定義の一部として投企している自己の印象を不適当なものにしてしまうということを理解していない非意図的挙措である。男Cのした行為は失敗に終わってしまったが、女bは、表出上の現行規定を遵守するという見せかけを与えるために、自発的感情を抑圧し、気にしていないかのように振舞った。女bは、自己統制のできる人である。

 女dはそろそろ男Bとの会話にもあきてきて、席を移動したいと思い始めた。そこで自分の近くにいた女aをつついて、声には出さずに「席を替わって」と言った。dのこの行為は裏局域を作動させるもので、表局域内での出来事であるから、オーディエンスに気づかれてはいけない。もし男Bdの行為に気づいてしまったら、Bdに対して不信感を抱くだろう。このように表局域内での裏局域的行為は、決してオーディエンスには気づかれないように、チームメイトの中だけで話題を共有できるように注意を払わなければならない。

 男Dと女cが、芸能人で誰が好きかという話をしていた。好きな芸能人が一緒なら問題はないが、一方が好きでも、もう一方が嫌いなときもある。思わず「あ、私その人嫌いだなぁ」と女cがつい口を滑らせると、「じゃあ○○は?」と男Dはすぐにネタを変えてきた。そしてまた好きな芸能人が一緒だと、「趣味が合うねぇ」と、合意した部分を強調して言う。お互いの対立する部分はあまり触れられず、その話題を避けるように違う話題を持ってく

No.5

 

る。合意は強調され、対立は控えめに演じられる。

 女dは男Aと話しているうちに、Aがどんな人間で、どんなタイプが好みかがなんとなくわかってきた。そこでdは、さっき化粧室に行ったとき男Aのことを気にしていた女cを化粧室に呼んで、「Aはたぶん家庭的で女らしい人が好きだから、cちゃん女らしくしてればきっといい印象もってもらえるよ」とアドバイスした。そして席に戻った際には、cが家庭的であるという印象を男Aに持ってもらうため、さりげなく家事の話などを出したり、家庭的であるということを強調して言った。また自分は実はあまり家事は得意でないと打ち明け、そのときのAの反応をcに示そうとした。女dはこの場合訓練スペシャリストとして役割を果たしており、パフォーマーである女cにどうしたら望ましい印象をAに抱かせることができるかを教え、同時に未来のオーディエンスの役をとっている。またさくらとしての機能も果たしている。さらに女dは家庭的だという印象をもってもらいたいがためについた嘘を自ら暴いてしまったわけだが、ここでは仕方がないこととして、あらかじめ考えておいた嘘が暴かれたときの身の振る舞いのとおりに演ずれば、オーディエンスには不信感を与えてしまうかもしれないが、パフォーマーである自分はその不信感にもある程度納得できるのである。

 ちなみに合コンにおいて、チームの構成員は自分が引き立つように努力はするが、自分自身のショーを演出してはいけない。またパフォーマンスの時間を自分のチームを告発する機会にしてはいけないし、チームの構成員は自分たち自身のパフォーマンスに熱中しなければいけない。決してでしゃばったまねをする人はいないということだ。それはチームに対して忠誠心を示すためである。抜けがけしてでしゃばった場合、オーディエンスの感じ方はそれぞれなので一概には言えないが、チーム内からは反感や非難の声が聞かれるだろう。だから、酔ったフリをしてへらへらと体を近づけるのはまだまだ後。ちょっとくらい大丈夫だろうと思っても、どこで誰の目が光っているかわからない。ここでそんなことをしたら気分もぶち壊しである。お近づきになるのはまだまだあとの話である。

 

第5章:合コンが終わったら

 合コンが終わると、やっとチーム、オーディエンスという枠からはずれ、人は自由に関係を持つことができる。電話番号やメールアドレスを交換したりして、連絡先を知らせる。しかし、教えたのにいくら待っても何の連絡も来ない人がいる。「絶対連絡する」という言葉はなんだったのか。それは連絡先を教えてもらった(この場合連絡してこない人は無理に教えてもらいたくもなかったわけであるから、連絡先を聞いたというのが最適だろう)ことに対する社交辞令のようなものである。たてまえだけでも少しは気があるように見せておかないと、教えた子に失礼だし、合コンの規則が守られていないことになる。

 女cと男Aは合コンの席でいい雰囲気になり、「絶対逢おう」と約束した。そんなに日も経たずにcのもとにAから連絡が入った。クラシックコンサートのお誘いである。クラシックコンサートは、興味がある人間以外にとって、眠くなることこの上無しである。女cもそんなにクラシックに興味があるとはいえなかった。しかし男Aはかなり行く気で、話す口調も楽しみで仕方ないといった感じだ。cは「クラシックじゃなかったら・・・」と思いながらも半分仕方無しにではあるが、クラシックコンサートに付き合うことにした。この場合、オーディエンスである女cはパフォーマーに対して察しのよい行為をとっており、そ

No.6

 

れはパフォーマンスより手の込んだものになっている。Aと行動をともにすることによって、今まで以上に自分の印象をAに根付かせ、それがよい印象になることを望んでいる。

 女cと男Aがいい感じにできてきているのを知っているのは、合コン中にアドバイスをした女dだけである。女abにはたまにしか男性から連絡が来ず、はっきり言って脈はなさそうである。自分たちの状況がつまらないabcdに最近の様子を聞いた。cは「何もないよ」と嘘をついた。これは合コンのときにチームであったabに対する体面を気遣ってのことである。「Aといい感じ」と答えれば、ひがまれてやっかみを買いかねない。abは「ふーん」とそっけない返事をしたが、「何もない」という返事に安心しているのは態度に出ている。cは胸をなでおろした。しかしdは、cAのことをこっそりabにも話した。dの行為はcAのことをチーム全体で知っておかないと、何も知らずにabAにちょっかいをかけてはいけないという、cab、チーム全体にとって必要なことだと感じてのものだった。しかしabは秘密にされていたことにも、実はいい感じになっていることにも腹を立てた。チームのことを思って行ったことが、逆にチーム内のバランスを崩すことにもなりかねないことがある。

 

終章:レポート終わりにつけて

 あくまで想像上、一般的イメージでここまで書いてきたが、合コンにとらわれなくても日常的に起こりうる事は多数ある。あたりまえだが。しかも「こういう行為をすれば、人はこう感じる」と定義づけられても、全く同じ状況になったり、オーディエンスが同じ思いを抱くことは必ずしもないことである。この文献に述べられている以外にも、たくさんの行為と演技がある気がしてならない。

 

 

 

 

 

 

 

【参考文献】

『行為と演技〜日常生活における自己呈示〜』

E.ゴフマン著、石黒毅訳 誠信書房 1974年発行