スポーツにおける行為と演技

                                                         越前谷 裕美

 

 

この世界の様々な文化の中に、スポーツという文化がある。経済的な豊かさに関係なく、各地にどんな形であれ、存在している文化である。もともとスポーツとは、プレイ(遊び)から発生したものであり、プレイという大きい枠の中にスポーツがある。しかし、その由来とはかけ離れたスポーツ文化も存在する。それはプロといわれるスポーツであり(一部のアマチュアも含まれる)、ヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」においていわれているプレイの特徴から外れる部分がある。「プレイは自由な行動である。・・・プレイは固有の傾向によって、日常生活から、ある一時的な活動の領域へと踏み出していくこと。プレイは必要や欲望の直接的満足という過程の外にある。」プロにとってスポーツは生活する上の資本を稼ぐビジネスとなっている。私は大学の中の部活動という枠内でスポーツをしているが、根本には自発性があるものの、やはりそれもチームとしての他者がつくりあげた報酬を求めて行っており、個人の自由度も少ないといえる。これは勝利を他者から求められる環境、全国大会出場の常連校に所属する学生などにもいえることではないだろうか。「スポーツは外発的な報酬を求めたり、非自発的に行われれば、プレイではない。」(クラウス・マイヤー、1981;p92

 様々なスポーツにおける場面で、人々はエゴやオーディエンスとしてどのような行為、演技を行っているのか。「プレイ」の流れをくみながらも独立した現代スポーツは、どのようなパフォーマンスによって成り立っているのかを、自分の体験も活かしながら考察していきたい。

 また、スポーツとはもはや観客(オーディエンス)を含めたひとつの文化である。プロ野球、Jリーグ、その他のプロスポーツには企業、地域ごとに応援団や後援会などが運営にもたずさわっており、試合そのものにももちろん関わっている。「現代スポーツは“観る観客”“魅せるマスコミ”“視られる選手”の三者の相互作用のうちに展開されている。」(江刺 正吾、小椋 博、1994;p23)たとえプロでないアマチュアスポーツの選手も、大会というオーディエンスが存在する本番で結果を出すために練習に取り組んでいる。人はスポーツに限らず、他者に認めてもらいたい、他者に自己を認めてもらうことで自分の存在を確認しているところがある。そうであるから、自己以外の他者は誰であろうと常に「オーディエンス」なのだ。たとえそのスポーツの練習や試合の様子を「観る」その名のとおりの観客が存在しない場面だったとしても、そこに自分以外の他者、つまり他の味方の選手、敵のチーム、コーチ、マネジャー・・・が一人でも存在すれば、自己にとっては存在している観客なのである。そこで、オーディエンスとしての観客ではなく、行為主体としての観客をみていきたい。

 

 まず、パフォーマーとしての観客の二つの極をあげてみる。パフォーマーとしての観客のオーディエンス、それは自分以外の観客や観客ではない他者、選手などのことであるが、そのオーディエンスに生真面目な印象を与えるパフォーマー(ゴッフマン、p19)とは、“熱狂的”といわれている観客、ファンのことである。

 プロスポーツにおけるファンのあり方を例にあげてみる。たいてい、どのプロスポーツチームを応援するか決定する理由のひとつは、自分が住んで暮らしている地域に存在しているチームであるとか、親や家族がもともと熱狂的なファンであって、自分もそうならざるをえない環境にあった、などである。そういった理由から一度ファンになってしまうと、もう多少の理由で簡単に応援するチームを変えることはできなくなるだろう。

 もともとスポーツという文化には、人々にとっての地域性というものが顕著にあらわれるものである。これは高校スポーツでもみることができる。毎年二回、春・夏に行われる高校野球、冬の高校サッカーなどは、全国的にテレビ放映される。特に高校野球は開会式から全試合テレビ放映され、各高校の一回戦時には、その学校の校風紹介までもなされている。それは特殊なものかもしれないが、それによって全都道府県の各地域が全国へ、それぞれの特色を知ってもらうよい機会であるのは事実だ。

 高校野球において、まず地区予選からみると、たいてい人は自分の出身校を応援する。どんなに見ず知らずの高校生でも自分の後輩と考えることでカテゴリー化される。そして、もし出身校が負けたら同じ地区の学校を応援し、全国大会となるともちろん自分の出身地を応援する。さらにその学校が敗退すると、勝ち残っている同じ地方の学校を応援するようになる。こうして帰属意識がどんどん拡大していくのである。このように特に高校スポーツでは、自分の存在した地域への執着がみられる。スポーツに全く関心のない人は興味がないかもしれないが、多少関心のある人はスポーツを見るにあたって、応援するチームがあったほうが面白いであろう。そこで全く知識のない、知らない高校を応援するよりは、単純に少しでも自分に身近な高校を選ぶのかもしれない。しかし、スポーツにおいての自分と応援するチームとの関係性、つながりが特に重要視されているのではないだろうか。例えば地元からプロのスポーツ選手が誕生したとなると、その地方のニュースでだいだいてきに取り上げ、その行動すべてを細かく報道するようになる。ときには、地元選手の活躍を伝える枠までできることもある。それによって地元民は、彼に多大な期待を抱き、彼の姿と自分の夢とをかさねるようになるのである。これは海外へ挑戦する日本人プレイヤーに対するメディアや国民の行動と全くおなじものだ。

 

 オーディエンスに生真面目な印象を与えるパフォーマー、熱狂的なファンとは、選手にプラス、マイナス関係なく直接多大な影響を与える人たちのことである。プロスポーツでもなんでも当てはまるだろうが、例えば大学生の部活動にとってのそのひとつはOBOGだ。私たちの部も毎年行われるOB会には、部が発足した当時の人たちから全員に招待状を送っている。直接今の部員が関係していなくても、同じ集団に所属していた以上先輩と後輩という強い結びつきが存在しているのだ。スポーツ集団にとって、どんな形であれ、自分が所属するチームの熱狂的なファンとは、それがたてまえであっても最も大切に扱わなければならない。勝利後のインタビューなどで選手がよく「応援してくれた人たちのおかげです。」と頭を下げるのからも見てとれる。チームや集団はその中身があって成り立っているのではなく、枠がまわりから作り上げられた上で存在できているのである。そのとき枠内に入っている人物が重要なのではなく、そのまわりに存在する人たちによって

形づくられているのだ。

 一方、もうひとつのパフォーマーの極、自分自身のパフォーマンスに全然欺かれない、醒めたパフォーマー(ゴッフマン、p20)は、一時的なファンのことといえるのではないだろうか。例えば昨年行われたサッカーW杯では、日韓共催ということもあって、かなりの醒めたパフォーマー、つまり“にわかファン”が生まれた。それまで特にサッカー、スポーツに興味のなかった人たちが、ただ単純に容姿のよい選手をアイドル扱いして追っかける。これはスポーツファンという立場から見ると、「自分自身の行為に信をおかず、相手の信頼にも最終的になんらの関心もない場合」(ゴッフマン、p20)といえる。これに対してオーディエンスである選手は醒めたパフォーマーをそう理解したうえでファンとして受け入れているだろう。そして醒めたパフォーマーも、オーディエンスにそう理解されることを自覚して行動している。それが醒めているといわれるゆえんである。一方、生真面目なパフォーマーは自分が醒めているパフォーマーだとオーディエンスに思われることを望んでおらず、むしろ生真面目なパフォーマーだと思われるべき行動をとる。

 多くの醒めたパフォーマー、“にわかファン”を生んだサッカーW杯は、外面の標準的部分のひとつである舞台装置である。W杯という世界規模のスポーツイベントが行われる、しかも日本が会場であるとなると、何年も前からW杯熱がじわじわとわきあがってくる。各地域の首脳はもちろん、自分のところで有名な国にキャンプを行ってもらうことを望む。それによって多大な経済効果が期待されるのは当然であり、やがてその地域の住民も含んだ多くの人々が、世界のサッカーチームにきて欲しいと願うようになる。そこで全くサッカーに興味のなかった人も、経済とかスポーツそのものを楽しむこと以外の効果を求めるという理由であれ、W杯という大きな舞台装置に飲み込まれていくのだ。そしてもっとその舞台を大きいものにするのが、メディアである。スポーツをテレビで観ることは、メディアという舞台装置によって作り上げられたパフォーマンスを観ているということであって、スポーツではなくそこから切り離された舞台を楽しんでいるということなのである。本来の舞台であるスタジアムや競技場に足を運び現場で観るのと、メディアを通して観るスポーツとはまったく別のものなのだ。メディアは私たちがもともと観ることの不可能な場面、審判の判定のきわどいプレーをもう一度アップでスロウ再生して確認する、とか、選手ひとりひとりのプレーの特徴から生い立ちまでをも試合間の絶妙なタイミングで流す、などのさまざまな出来事を背景・小道具として舞台装置を作り上げる。そしてスポーツイベントはメディアというエゴが、「パフォーマンスの過程で用いる表出装置である外面」(ゴッフマン、p25)となるのだ。

 このようにメディアが主体となって作られた舞台装置に、オーディエンスは次第にのせられていく。やがてそのオーディエンスも舞台装置の一部となる。日常的なコミュニケーションの手段としてW杯の話題が持ち出され、国際的なスポーツイベントで生まれがちな見せかけの愛国心が国民にめばえていき、すでに舞台にあがっているオーディエンスがさらにまだあがっていない周囲のオーディエンスをもまきこんでいくのである。まさに「人間は表出装備の一部としては、舞台装置の非-人的部分に比して効果的である」というわけだ。 

 しかし、オーディエンスとして舞台装置にあがったパフォーマーは、「そこを去るときにはパフォーマンスを終息させなくてはならず」(ゴッフマン、p21)、醒めたパフォーマーたちは“にわかファン”とならざるをえないのである。

 

 次に、チームとその外面、チーム間における相互行為のありかたを部活動というパフォーマンスの場からみていきたいとおもう。パフォーマンスとはひとり、あるいは何人かで行われ、その場面・状況によってさまざまな構成のチームが生まれていく。部活動においては、まず各部ごとにチームがつくられている。部ごとのチームの存在がチームの構成員ひとりひとりの他の状況でのチームにおけるパフォーマーとしての要素に関わってくるということは、部活動という場面に限ったことではないが、部活動においてその効果が最も顕著にあらわれているのは、高校や中学ではないだろうか。各生徒が何らかの部に所属することが義務づけられている、という場合の多い中学校で特に、その様子を見ることができるといえる。部活動は主に運動部と文化部のふたつの分野にわけられる。その時点でオーディエンスに与える印象というものが、それぞれ異なってくる。あるパフォーマーがパフォーマンスを遂行するにあたって、オーディエンスはそのパフォーマーの性質をみぬこうとするものである。

 学校という特殊な舞台装置の中で、その組織の構成員である生徒=パフォーマーたちは、中学生という同じ役割、ルーティーンを行う。中学生やその前後の年齢の期間は、いわゆる思春期であり、子どもを卒業したいが大人にもなりきれない時期といわれる。それはエゴが自分にとっての外面・パーソナリティーのあり方を学び取っていく時期ではないだろうか。ゴッフマンによる外面とは、「行為主体のパフォーマンスのなかで、観察する人びとに対して状況を一般的、固定的仕方で反復規定する機能を持つ部分。」(ゴッフマン、p24)である。そしてその外面の標準的部分は、舞台装置と個人的外面のふたつにわけられる。特に「相当期間にわたって、パフォーマーのおかれる状況が変わっても変化しない、パフォーマー自身ともっとも密着しているともなされる諸項である」(ゴッフマン、p26)個人的外面とは、自分にとってどうあるべきか、またそれを確立させるにはどうすべきか、を模索していく期間なのである。自分自身のパフォーマンスを観察する人びと・オーディエンスに呈示して一般的・固定的仕方で反復規定していく際に、パフォーマーである自分自身をオーディエンスの一員にしているといえるのではないか。思春期といわれる時期にあるパフォーマーたちは、それぞれの役割や外面が自分自身にとっても、オーディエンスにとっても明確にされておらず、同じ時期のパフォーマーと状況が似ている。それゆえに、思春期のパフォーマー同士で、役割や外面が入れ替わる可能性が日常的にあり得るのである。これは“いじめ”という行為に表れやすいものであり、先輩・後輩の上下関係においてもみることができる。まだ自己の外面や役割があやふやな時期にいるとき、すでに明確なものとなっていて状況が変わっても変化することのない個人的外面の諸項を、パーソナリティーとして扱って表現するのは仕方のないことである。だから、その個人的外面である年齢、つまり学年で役割をひとつ確立するのだ。そうしやすいように、ほとんどの学校で学年をすぐに識別できるよう内履きや名札、体育着などの色を学年ごとに区別している。そもそも制服が男女で違うのも、性別という、すでに明らかである個人的外面の確立であるといえる。また、そのような目印がなくても、パフォーマー自身が区別されるようなパフォーマンスを行う。最上級生になると服装や態度があきらかに下級生のものと違ってくるのはそのためである。このように、年齢という個人的外面は中学生にとって特に重要であるため、上級生はその、年齢から由来する上下関係での役割の入れ替わりをとても恐れている。であるから、上級生のような態度をとったり、違反した服装をしてきたりする生意気な下級生、重要な個人的外面をわきまえた役割を放棄したパフォーマーを“ひどい目にあわせる”のである。そしてそれは、うわさとして各学年に広まっていき、上級生はますますそのようなパフォーマンスを見逃さないように監視の目を光らせるようになり、下級生は自分のパフォーマンスが役割からはみ出していないか気をくばるようになる。その中には故意に自らの役割の枠がないかのようにふるまうパフォーマーも必ずといっていいほど存在する。彼らはまた別の役割、あえて自分の既存する個人的外面を破壊して、新たな外面をつくろうとする役割を演じているのである。しかし、この年齢という個人的外面においてもまた、役割の入れ替わりは行われる。直接的に先輩と後輩という図式にかわりはないのだが、上級生は卒業し、新入生が入学してくる。そこで、下級生が上級生となり、学校という舞台装置下での役割が入れ替わるということになるのだ。少なくとも下級生は学年という個人的外面は表出できるようになっており、従来どおり上級生という役割を演じるのである。

 このように、エゴの外面や役割があやふやな時期にこそ、特にいじめという行為は起こりやすい。“仲間はずれ”という言葉だけ見ると、自主的な行為のようである。しかし、自ら好んでそのような状態になる人はまずいないだろう。“仲間はずれ”とは受身の行為である。同じ学年やクラスという単位のチームの中で、さまざまな意味で分野別の集団の形成がなされていく。それはつまり、外面・役割によるもので、勉強のできる人たち、運動部の人たち、前に挙げた上級生のような態度をあえてとる人たちのような分類である。その集団はそれぞれが必ずしも常に一緒に同じパフォーマンスを行っているわけではない。むしろ自分自身はワンマンチームであるかのようにふるまうパフォーマーもいるかもしれない。しかし重要なのは、その集団に属しているパフォーマーが自分自身のことをどのように位置づけているのか、ではなく、エゴ以外のオーディエンスが彼をどの集団の構成員としてみているか、ということなのだ。集団にしろチームにしろ、その枠組みをつくるのは内に存在しているパフォーマー個人ではなく、彼のまわりのオーディエンスやパフォーマンスに参加していない局外者なのである。であるから、エゴが自分の役割を知る手段はオーディエンスや局外者のような他者の目を通してなのだ。このことは、思春期に限っていえることではなく、社会的にもいえることであろう。自分の外面・役割を常に探求しながら生活している思春期のパフォーマーたちは、特別にその他者の目を気にしながら、日常のルーティーンやパフォーマンスを行っている。思春期のパフォーマーたちは、自分たちの外面・役割が明確でないことを自覚しているし、また、“外面の入れ替わり”が起こりうることも気付いている。それゆえ、自分が一度取得した役割、主に、勉強がよくできるとか、積極的で面白いことがいえるとかいったプラスの方向の外面であるが、それをマイナスの方向のものへと“入れ替わり”が起きないようになんとかして保持しようとするはずだ。自分で自分自身の外面を保つためにオーディエンスである他者の前で常にその外面・役割に即したパフォーマンスを演じることはもちろんであるが、その他の方法として、チーム内に一般的にマイナスのイメージで定着している外面、消極的であるとか、おとなしくて暗いとかいうものを役割としてもつ集団をつくりあげてしまうというのもある。自分が手に入れたプラスの外面・役割を確立し、マイナスの外面・役割をもつ集団をますます明確なものとするために“仲間はずれ”“いじめ”という行為が行われるのである。そのような行為を受ける人は特別にマイナスの要素が目立っているわけではない。だれもがマイナスの要素は持っているものであり、いじめられる人のいじめられるきっかけとは、ささいなことであることが多い。周囲のオーディエンスが彼らのマイナスの外面をつくりあげ、外面化・役割化していくことによって彼ら自身もその役割を演じざるをえない状況へ陥ってしまうのだ。しかし、何度もいっているように“外面・役割の入れ替わり”ということがおこるのは確かである。もしプラスの外面を維持している集団の中のひとりのパフォーマーがゴッフマンのいう偽りの呈示をしてしまった場合、すぐにでもマイナスの外面・役割=いじめられる集団へ“入れ替わる”可能性があるのだ。ここでの偽りの呈示とは、マイナスの役割を持つパフォーマーをそのような立場として扱わない、つまりプラスの外面とマイナスの外面の役割の壁をなくすような行為をすることである。もちろんその“入れ替わり”を実質上パフォーマンスとして行うのはプラスの外面を演じる集団であり、彼らはマイナスの外面との壁を壊されることをとても恐れている。壁がなくなることで、自分がマイナスの外面を持つ集団へと“入れ替わり”がおこる可能性が高くなるからである。つまり、プラスの外面を演じていて、常にその集団へ属していたいと願い、だれかをマイナスの外面を持つ集団へとその存在を確立させる=“いじめる”のは、自分がその外面をもつことを極端に恐れているからなのだ。自分でつくりあげた外面に、自分自身が属することを避けるという矛盾した状況に陥っているといえる。

 このように、思春期ではまず、個人的外面のあり方を学んでいくといえる。

 

 個人的な価値観かもしれないが、運動部に所属する人は活発で明るく、文化部に所属する人は物静かでおとなしいというイメージがある。もちろん運動部員で静かでおとなしい人もいたし、文化部に所属する人で明るく、活動的な人がいたのは事実だ。しかし単純に運動部、文化部という言葉の響きだけきくと、そのようにイメージしてしまうのだ。実際、ある人物を表現するときに「あの人は文化部系だ。」とか「運動部っぽい。」などと表現方法として用いることも多々ある。スポーツとは、「選手や観客の中にある敵愾心が晴らされる衝動放電」(『スポーツ・文化・パーソナリティ』ドナルド・カルホーン、1989;p276)の効果があり、単純に直接的な意味で身体を活発に動かすパフォーマンスであるから、そのようなイメージが定着したといえる。また、メディアにおけるスポーツ選手の印象操作によるところも大きいだろう。

思春期には同時期のパフォーマー間で、外面・役割の入れ替わりがおこりうるといったが、それゆえにお互いの外面に敏感になっているのではないだろうか。どの部に所属しているか、運動部か文化部か、ということは中学生である期間の個人的外面として、彼らにとって重要なこととなりうる。自分の外面・役割を模索している最中である彼らにとって、個人的外面が役割の判断基準となるからである。そこで所属する部活動が自分自身や周囲の外面・役割を決定する要素となるのだ。

 

 前に学校という大きい舞台装置での上下関係について述べたが、次に部活動というより狭く密接なパフォーマンスの場から、その上下関係をみていきたいと思う。ここでは学校よりもずっと上下関係の存在が重要視される。他のどんなパフォーマンスの場よりも厳密に扱われる問題ではないだろうか。そしてスポーツにおけるものが、よりいっそう確固としたものであると思われる。もともと先輩・後輩という立場の上下関係とは伝統によるものである。昔の日本にいきづいていた目上の人を敬う行為が代々伝えられている。現代の若者は敬語が使えないといわれ、部活動は礼儀作法を身につけるよい機会と思われているゆえんである。

 まず、正確ではないにしろ先輩には敬語を使うには当然のことであるし、それ以上に各部ごとに多種多様な伝統的規則が存在している。それをパフォーマンスとして行うのは、ここでも学年というチームごとである。基本的に学校という場でみた上下関係の役割と同じ関係があてはまるのだが、そのとき故意に自分の本来あるべき役割からはずれたふるまいをするパフォーマンスの役割の存在を認めないという点で異なるといえるだろう。部内の学年というチームで、その役割からはずれた行為をすることは同チームからはずれるということを意味する。ここで重視されるのはひとりひとりのパフォーマンスではなく、チーム全体でみてとれる画一化されたパフォーマンスなのだ。もし役割からはずれたパフォーマーがチーム内に存在したのなら、他のチームメイトが現状況のパフォーマンスの定義を維持しようとして、彼に自分たちと同じ役割を演じさせようとするだろう。チームメイトとは、「自己防衛の手段として自分たちの努力を一定の仕方で方向づけることに、非形式的ではあるが合意している人々」(ゴッフマン、p98)のことである。もちろん決められた規則を守らなかった場合、自分自身もそして所属するチームも不利な立場に立たされることになる。だから自己防衛の手段としてチームのパフォーマンスを統一させるのだ。

 ここで、実際行われていた部ごとの規則のいくつかを挙げてみようと思う。どんな部でもよくあるのが、日常生活の場、校内や登下校中などで先輩に遭遇した際、大きな声であいさつをして礼をする。私が中学生の時在籍した運動部では、礼の角度が小さいと注意されたし、半径何メートルにまで聞こえるような声であいさつしなければならない、という規則があるところもあった。また、学校や部活動以外の私生活の場でも、大声であいさつしなければならないという規則の部に所属した人は、人がたくさんいる駅周辺などで先輩を見かけたときには困ったという。練習においての規則となると、まず先輩よりも先に体育館に来て、準備を始めるのは当然である。準備したら、練習が始まるまで横一列に並んで直立不動を続ける。その間、私語は禁じられている。ボール拾いをする間、立ち方は直立で片足に体重をのせて楽な体勢をとることもしてはいけない。先輩にボールをわたすときは「すいません、お願いします。」といちいち言う。最初のうちはくつ下の長さまで決められていたし、身に覚えのないこと(目つきが悪い、笑ってないのに笑ったといわれる)を注意される人もいた。これらのことをことあるごとに一人ずつ、あるいは全員呼び出されて、立たされたまま怒られるのだ。私自身何度も理不尽に感じたものである。しかし、たとえ何人も反論がある人がいたとしても、先輩にたてつく人はいなかった。その部に入部するというパフォーマンスを行った事から、それがそのときの現状況での自分の役割に、疑いを抱く余地もなくチームを組むことになるのである。

 この行為がゴッフマンのいう演出上の忠誠心や節度を示すということなのではないだろうか。忠誠心を示すルールは「チームの構成員は自分たち自身のパフォーマンスに熱中しなければならない。」(ゴッフマン、p251)であり、節度あるパフォーマーは「自己の呈示に感情的に距離をおかなければならない。」(ゴッフマン、p253)のだ。先輩の行為が正当であると思えなくても、チームの統一された役割を維持するために「表出上の現行規定を遵守するという見せかけを与えるために自発的感情を抑圧することができる」=「自己統制のできる人」になるようにパフォーマンスを演じていくのである。

 また、自分自身もいずれ先輩の外面・役割を得るときがきたら、今の先輩と同じ行為ができて今より上の立場に立てる、という思いも手伝っているだろう。実際、自分のチーム(学年)が一番上の先輩になることを「ウチラの時代がきた」と表現したものである。(『子どものスポーツ』武藤 芳照、1989;p87参照)

 チームは上級生、下級生というふたつの分野だけではなく、学年ごとにチームが構成される。上級生でも二年生と三年生の役割は異なるということである。特に中間の位置にある二年生の役割とは難しいものだ。前に述べたように先輩という役割は、役割からはずれたパフォーマンスを行う後輩をあるべきチームへ統制しなければならず、そのためのパフォーマンスを行わなければならない。そのパフォーマンスを行うことで、受け継がれてきた役割・外面を維持し、後輩が先輩としての外面・役割を学ぶ場にもなる。その点で、先輩としてのパフォーマンスも後輩としてのパフォーマンスも行わなければならない役割というのは大変なものとなる。彼らはどちらのパフォーマンスも平等に、その場のオーディエンスに適したエゴを演じなければならない。先輩の前では後輩としてのパフォーマンス、後輩の前では先輩としてのパフォーマンスを行うということだ。そして、それぞれのパフォーマーとしてのエゴは、唯一存在するエゴのようにふるまう。エゴ自身そう思っている上でパフォーマンスを行わないと、その自分自身のパフォーマンスへの不信が無意識的に外面に表出してしまい、オーディエンスの信頼をも失ってしまう可能性があるからだ。「エゴは自己が存在するいくつかのグループ、それぞれに異なった自己を演じながら存在している。そしてその自己は、唯一のもので最重要なものであるという印象をつくりだそうとする。エゴが多様な役割をもつということによって<オーディエンスの分離>が生じる。エゴの役割によってオーディエンスもそれぞれ分離し、様々な印象をもつエゴ各々のオーディエンスは自分らの前に示されているエゴを本来のものだと信じている。」(ゴッフマン、p55)後輩としてのパフォーマンスと先輩としてのパフォーマンス、それぞれを呈示しなければならない場が近い距離にある、もしくは同一である場合がほとんどであるから、完全なる<オーディエンスの分離>を生じさせることは非常に難しい。しかし、もしオーディエンスが、普段エゴが呈示しているパフォーマンスと異なるエゴを目撃してしまった場合、そのパフォーマーの役割・外面への信頼度は一気に下がってしまう。そして一度は形成されていたかもしれない<オーディエンスの分離>が崩壊してしまい、異なるオーディエンス同士の壁があいまいなものとなる可能性が大きいのだ。つまりそれはオーディエンスである先輩と後輩のエゴに対する役割が、同一化する方向へと進むということであり、エゴのチームとしての外面・役割が、どちらのオーディエンスからの信頼度もうすれて価値の低いものとなってしまうということなのである。この状況をゴッフマンのいう局域としてみるなら、先輩がオーディエンスである場合、そこを表‐局域とみるのに対して後輩が接する部分が裏-局域となる。それぞれの局域が同一パフォーマンス上に存在するのだから、パフォーマーにとって困難な状況になるのだ。

 部活動にはこのように、だれもが一度は経験する、先輩・後輩の役割が存在している。それが自分の意志に反したことでもチームとして統一されたパフォーマンスを演じなければいけないことを学ぶ。そのために、役割がより明確に区別されている、上下関係の厳しい部では特に、他のチームと親密になすことはあまりないことだといえるだろう。しかし、考え方の違うエゴが集まって形成された学年ごとのチームも、同一のパフォーマンスを演じるという共通の目的によって、パフォーマンス上結束が強まっていくものである。それと同じように、学年ごとのそれぞれのチームが同一パフォーマンスを演じることになったら、一時的なものであれ、チーム間の隔たりがくずれて大きなひとつのチームへと編成されることになる。もともと部活動とは、部員みんなでスポーツを行うことが意義であるはずなのだから、そのスポーツの楽しさや達成感、試合での勝利という目的に向かって大きな部というひとつのチームが形成されるのは当然のことといえる。その場に存在しているパフォーマーたちは同じでも、ひとつの大きなチームの内部で個人的外面やひとつひとつのパフォーマンスの目的によって、構成員の異なるチームがいくつも形成される。部活動という狭い空間、限られた人数でも、お互いに重複したりしながら、ある特定の定義を持ったパフォーマンスを演じるチームが複数存在するのである。

 

 スポーツとは、「劇的具象化」(ゴッフマン、p34)のともなうパフォーマンスである。たとえ負けがあきらかになっている場面だとしても、決してあきらめずに最後まで一生懸命プレーすることが美徳だということになっている。大衆とスポーツを一体化させた舞台とするメディアが介入すると、さらにその意識が強まるといえる。全国高校野球などがその例だろう。メディアはスポーツチームの、本来オーディエンスには立ち入ることのできない裏‐局域を見せることが可能である。そしてそれを、大衆=オーディエンスがパフォーマンスにひきこまれるよう、いくつか組み合わせて利用し、劇化させるのだ。しかしメディアが一方的に劇化を行っているのではなく、パフォーマー側と激化における協力関係にある。全国的な高校スポーツ、特に高校野球において、強豪校とあきらかに差のある学校の対戦となったとすると、メディアはどちらにもスポットをあてることができる。スポーツは「物語」なのだ。ここでいう「物語」とは、「人間の行動をストーリーとプロットをもつ様式で叙述したもの」(『スポーツの社会学』亀山 佳明 編、1990;p20)であり、ストーリーとは試合を、メディアを何も介さずに観た、ありのままの「出来事」で、プロットとは観客としては知ることのできない選手たちの個人の内面的なもの、「ゆらぎ」のことである。プロットである「ゆらぎ」は、本来個人のものであり、大衆のものである「物語」とは相反する性質を持つ。その変化し続ける個人の「ゆらぎ」を瞬間切り取って、ストーリーと結びつけ、ひとつの壮大な「物語」をつくりあげるのがメディアの仕事だ。負けたチームが涙を流すという場面で、その「敗北」と「涙」が「出来事」であり、その涙を映して意味賦与を行うことがプロットである。ゴッフマンは“劇的具象化”の段落(ゴッフマン、p34)の中で、ある病院研究における内科の看護婦と、外科の看護婦の役割の違いを例に挙げている。外科医の仕事の大部分が可視的症状に依存している(包帯を取り替える、整形用ギプスをあてがう)ため、看護婦が患者のそばにいなくても、その活動に敬意を払うことができる。一方、内科医の仕事も高度の技術を要するものであるが、内科的症状は不可視的であるので、内科の看護婦が患者の症状を観察するために声をかけたとしても、患者はただ見にきただけだと思い、内科の看護婦たちは外科よりもたいしたものではないと決めこまれてしまうという。

 この例での、パフォーマンスがオーディエンスに受け入れられ、劇的な自己‐表出を容認されるには必要である「可視的」なパフォーマンスにあたるのが、ストーリー=「出来事」であるといえる。そして本来不可視的で、オーディエンスに見せることのない、また見せる意思のないであろう裏‐局域のパフォーマンスが、プロットである「ゆらぎ」なのである。ゴッフマンの例えにある、外科看護婦と内科看護婦の間における劇化の問題は、スポーツの分野ではメディアが補っている。看護婦の例で見てとれるように、不可視的なパフォーマンスより可視的なパフォーマンスのほうが、オーディエンスとのつながりを強める傾向にある。スポーツにおいて選手であるパフォーマーは、自分がオーディエンスである立場を経験したことから、オーディエンスが求めるパフォーマンスを理解している。それによってメディアの役割も、その利用方法も知った上でストーリーを演じるのである。それが、裏‐局域を表の裏‐局域とするような、負けが確実でも最後まで一生懸命プレーすることだったりするのである。

 

 ゴッフマンは、接触において社会的距離を維持することで、オーディエンス自身が敬意を表すとか、パフォーマーにあると考えられる聖なる無謬性への畏敬という形で、パフォーマーに対して「神秘化」(ゴッフマン、p77)がなされるという。私はこの事象を部活動における女子マネージャーのあり方にみられると思う。高校野球やサッカーなど、メディアとのつながりの強いスポーツで語られる「物語」には女子生徒の存在はかかせない。必死に応援している姿、重要な場面で祈る姿、勝利または敗北したときの彼女たちの涙は男子生徒のもの以上に貴重なものとして「物語」のプロットとなる。そのようなメディアや漫画などによって、男子部活動における女子マネージャーの存在が「神秘化」されているのではないだろうか。それはオーディエンス(男子部員)にも、パフォーマー(女子マネージャー)にとってもいえることである。男子部員はかわいくて、よく気のつく、けなげなマネージャーの存在を望み、女子はかっこいいスポーツマンを影で支えるマネージャーに憧れるものなのだ。

 女子マネージャーが、スポーツという「物語」においてプロットであるならば、それはつまり裏‐局域のパフォーマンスということである。まさに、実際その通りであり、女子マネージャーの仕事といえば練習時のボール拾い、選手たちのユニフォームの洗濯、練習中や試合中のドリンクをつくる、などの雑用がほとんどだろう。マネージャーとは裏方の仕事であり、プレイヤーたちが練習だけに打ち込めるような環境を整えるものであるのだから、そのような仕事をすることは当たり前だという人もいるだろうし、それがチームとして大事なことだから、下の立場に見ているわけではないのかもしれない。マネージャー本人たちもそう考えていて、その現状に異議をとなえることはないのかもしれない。しかし、女子マネージャーもチームの一員であり、等価値な存在であろというなら、試合のスコアをつけてそこから改善すべき点などを分析し、チームの戦術的な事柄を的確にプレイヤーに指示できる女子マネージャーはどれくらいいるだろうか。また、それを他のプレイヤーが指摘したときと同じように素直に受け入れる選手はどれほどいるのだろうか。特に野球やサッカー、ラグビーなどでは、経験者である女子は少なく、やったこともないくせにマネージャーになにがわかるんだ、と反発するのではないだろうか。これでは同じ部というチーム内でパフォーマーとオーディエンスにお互い分離してしまうだろう。これは“マネージャー”というパフォーマーにいえることではない。“女子マネージャー”であるからこそ、いえることである。もし男子部活動で男子マネージャーがいたら、その役割的な地位は高く、同じ“マネージャー”でもかなり異なっている。ほとんどの場合、男子部で男子マネージャーが誕生するのは、選手からの転換したというのが多い。ある高校スポーツのある強豪チームでは、監督が現役プレイヤーの中からマネージャーを指名することもあるという。他にも、プレイヤーとして身体的に限界であるとかの理由もあるだろう。というように、男子マネージャーの多くがそのスポーツのことを知り尽くしていて、プレイヤーだった経験を活かすことでチームの戦術やプレイヤーの特徴などにも精通している。そうなると、練習中監督が言ったことをプレイヤーたちに指示するなどの重要な役割を得る存在であるのもうなずける。先程述べたある強豪チームの男子マネージャーは、プレイヤーたちが監督に言いにくいような悩み事を彼に相談してくることもあり、だれよりもチーム状況を知り得る立場であるという。また、女子部における女子マネージャーもだいたい同様のことがいえると思われる。同じ女子マネージャーでも、異性の部と同性の部では役割が違ってくるように思える。どちらが“女子マネージャー”として優れているか、という問題ではない。はたしてこれでも女子マネージャーはチーム内でプレイヤーと同じ位置にいるといえるだろうか。もちろんジェンダーの問題としても、同性と異性では同じパフォーマンスをしてもオーディエンスへの印象が異なるのは仕方のないことなのだろう。

 本来のマネージャーの意味、部をマネージするという意味が、男子部における女子マネージャーには当てはまらず、異なった意味付与がされている。ここでは、試合での勝利という共通の目的を持ちながらも、同一チームを組んで同じパフォーマンスを演じないというと特殊なパフォーマーの形態が存在する。「物語」が作られやすく、また大衆からもその美しい「物語」を求められる高校スポーツにおける“女子マネージャー”とは、その「物語」をより色鮮やかにし、たくさんのプロットをもったおもしろいものにするための飾りという役割も含まれているといえるのではないだろうか。そして、彼女たちはその部分を理解したうえで、“女子マネージャー”を演じているのだ。このように女子マネージャーが「神秘化」され、たくさんの「物語」が形成される高校スポーツの存在こそが「神秘化」されているのかもしれない。

 

 

 スポーツは、メディアの存在があろうとなかろうと、個人対個人、あるいはチーム対チームの争いのパフォーマンスである。プレイヤーたちは練習で個人の技術を高めながら、争いにおけるパフォーマンスの演出法をも学んでいくのだ。チームによる「演出‐談合」(ゴッフマン、p206)は、普通オーディエンスが不在の時行われる。しかしスポーツにおいては、試合というパフォーマンス中、オーディエンスの目の前で堂々と行われ、それがパフォーマンスのひとつとして容認されているのだ。それはサッカーでの、フリーキック前のキッカー同士の話し合いであったり、野球でピッチャーマウンドに内野手が集まってきてピッチャーに声をかける、などの行為である。また、バスケットボールやバレーボールのタイムアウトも同様のものといえる。これはオーディエンスにも、ルールとしても認められた行為である。それらのプレー以外の時間でのパフォーマンスも、チームとしての戦略のひとつとして含まれている。そのパフォーマンスは主に、自チームがよい状況ではないときに行われ、チームのパフォーマンスを再調整することが目的のように演じられる。しかし、パフォーマンス自体は自チームのみで行われるが、他のプレーと同じように相互行為であるといえる。これらのプレー以外のパフォーマンスが行われることで、自チームにパフォーマンスの方針を明確として強みにすることはもちろん、プレーの面でオーディエンスである相手チームにプレッシャーという脅威を与えることになるのである。

 スポーツのパフォーマンスとは、自チームと相手チーム、パフォーマーとオーディエンスがお互いに保護的な立場において成り立っているといえるのではないだろうか。ゴッフマンは印象操作の保護の実際的措置として、「印象操作の防衛的技法の大方は、オーディエンスや局外者が保護的に行為して、パフォーマーがショーを救えるように援助するという察しのよい傾向に補完的部分をもっている。」(ゴッフマン、p269)という事実を述べているが、スポーツでだれかと争ううえで全く同じ意味ではないにしろ、当てはまる要素があると思われる。ここでは自チームをパフォーマー、相手チームをオーディエンスとみる。実際、試合とは争いであり、お互いのパフォーマンスを保護しあっていると意識して行為しているわけではない。しかしスポーツとは、「敵対的協力関係」(ドナルド・カルホーン、p247)の意味をもつのである。それは「相手が受け入れたルールの範囲内で競い合うことに同意すること」(同、p174)である。また、二つのチームが対戦する際、相手の弱いところ、まだ未発達の部分を攻める。それは両チームにいえることであり、その行為が続くことで両者はお互いに現段階の能力を超えた力を出せる機会となる。そしてお互いがお互いを強化し合っているともいえるのである。これらのことから、表‐局域でエゴがそれと気付かずに、パフォーマーとオーディエンスがお互いを保護的な対象とする行為を行っていることがうかがえる。

 

 

 ところで、大人や子どもの年齢に限らずスポーツ、体育の授業が苦手あるいは嫌いな人はどれくらいいるだろうか。幼い頃ほど身体を動かす遊び、鬼ごっこやかくれんぼ、ドッヂボールやゴムとびなどをたくさん行っている傾向にあるといえる。もちろん小さいときから本を読んだり、絵を描くほうが好きで、体を動かす遊びは嫌いだったという人もいるだろう。しかし、ほとんどの人が小学校において、授業の中で机に向かって勉強する科目より体育のほうが好きだと思っていたのではないだろうか。私も体育は好きだったが、走るのが苦手なため陸上競技の授業内容だけは嫌だった。体育の授業内容の中でも、器械運動が、ある一定の運動能力を示す尺度であるといえる。器械運動とは、鉄棒、跳び箱、マット運動などのことである。小学校の体育で、逆上がり、跳び箱、前転・後転・逆立ちなどのマット運動をだれもが経験するものだ。そして何度地面を蹴り上げても逆上がりができないと悩んだ人もいるだろう。ちなみに私はいまだにできない。だいたい体育では、みんなの前でひとりづつそれらの演技を行う、という場面が多い。いやでも自分はできないという行為がみんなに目撃されてしまうのだ。すると、そこで子どもたちは運動能力が高い、低いという基準をつくりあげてしまう。できないという事実に対して、まわりが運動能力が低いというレッテルを貼り、貼られたことで本人も自分は運動オンチだと思い込んでスポーツに苦手意識がわきあがる。そして自らスポーツから離れていってしまうのだ。これはパフォーマーが自分自身のオーディエンスとなる例だといえる。「パフォーマーがある時点で、自分が人に抱かせたリアリティについての印象は唯一無二のリアリティであると確信して、自分自身の行為によって欺かれることがある。(ゴッフマン、p94)ということである。

 小学生時代にスポーツに関わるもうひとつの場所は、部活動である。小学校でのその活動は“スポーツ少年団”といわれるものだ。このスポーツ少年団の活動の基本は「少年たちが 地域において その余暇時間に スポーツ活動を中心に グループ活動を行う」(武藤、1989.123)ことである。「常に、子どもの子どもによる子どものための活動であることに存在価値が認められている」(同、p124)。スポーツ少年団の構成員はほぼ小学生で、そのほとんどが46年生の高学年であり、だいたい週3回くらいのペースで活動している。ここで初めてそのスポーツを経験した子どもも多いだろうし、中学校の部活動ほど上下関係や役割の差を感じることはない。部活動は学校内に存在しているのに対し、スポーツ少年団は地域の中にある活動であることも関係しているだろう。しかし、スポーツ少年団対象の大きな全国規模の大会はいくつも開催されており、メディアが介入してテレビ放映されるものもある。子どもたちは試合での勝利を目指すことが目的となりやすい環境にいるのである。たまに小学校の校舎の目立つところに、「祝!〇〇小学校〇〇少年団、全国大会出場!」などと書かれた張り紙がかかげられているのを見かける。スポーツ少年団は地域の中の組織であるから、地域への報告としてのものだろう。実際、スポーツ少年団の活動費(全国大会出場のさいの遠征費など)を地域住民に寄付してもらったりしているようだ。それが子どもたちをますます勝利至上主義への道へと進ませてはいえないだろうか。勝つこと、うまくなることにスポーツの喜びを見出して、そのスポーツを楽しむことができればよいのだが、そのためにスポーツに拘束されて自由な時間がなくなったり、厳しい練習に耐えてスポーツ障害を引き起こしたり、“燃え尽き症候群”など精神的にダメージを受けてしまってはなんの意味もない。

 

 スポーツはもともと「遊び」である。「遊び」とは日常生活と切り離された領域で行われる自由な行動のことであるが、現代のスポーツが「遊び」と=であるとはいえないだろう。プレイ以外の相互行為や舞台装置、それをつくりあげるメディアなど、さまざまな要素が入り組んだ巨大な文化となっている。そしてその中で、「プレイ(ここでのプレイは遊びの意味とする)はディスプレイ(演技)に、ゲームはスペクタクル(見せ物)に変容しつつある。」(カルホーン、1989;p100)のである。ということでゴッフマンの『行為と演技−日常生活における自己呈示』の理論をスポーツの分野にあてはめてみることができるのではないかと考えた。しかし、一方でスポーツを自己呈示として、「選手はスポーツのルールによってあらゆる仮面をはがれ、自己を正当化しようとするあらゆる弁明の機会が取り上げられた状態に耐えなければならない。自己啓示の瞬間に人は誰も自己をだますことはできない。」(カルホーン、p309)という面もある。その点においては「遊び」の文化を完全に抜け出してはいないと思われる。今現在スポーツという文化にとって、そして私自身にとっても必要なのは「遊び」の要素だと思う。であるから、武藤 芳照氏の「スポーツが遊びの一種であることを明確にすることこそ、現代スポーツの歪みを正すための第一歩である。」という考えをふまえたうえで、スポーツの社会学というものを学んでいきたい。

 

 

 

 

 

 

 

参考文献

「行為と演技−日常生活における自己呈示」E.ゴッフマン 1974 誠信書房

 

 他、その本文明記