由紀草一 『思想以前』    洋泉社 1999年

著者は、茨城県内の高校で英語を教える教員である。その著者がこの本を書き始めたきっかけは、オウム真理教事件である。そしてその後に続く酒鬼薔薇事件、中学生によるナイフ事件と、若者(子ども)が主役のまがまがしい事件が相次いだ。若者の間で何が起こっているのか、何かしなくてはいけないのではないか、そんな思いが著者の中に起こった。あれこれ考えた結果、辿り着いた言葉が、「ちっぽけな、つまらない自分」というものである。いつの時代も凡人はそう感じているものだろうけれど、現在の若者はそこに罪悪感が追加されるようになってきている。つまり、ちっぽけで、つまらないままではいけないのではないか、と。そう思いながらも、依然としてちっぽけなままで、外の世界に押しつぶされそうな不安に苛まれた人々が、一気に態勢を挽回しようとしてか、起こしたのがそれらの事件だったと考えることができる。

犯罪にまでは至らないにしても、現在の若者が指摘される問題は多い。学校では学級が崩壊し、不登校児は年々増え続ける一方、いつでも携帯電話を手離さずに何かとつながっていたい若者たち。これらの現象に共通する要因として、著者は、自分と他者との、また自分と世界との「間」のつなぎ方を挙げている。これは前述した「ちっぽけな、つまらない自分」というものともつながることで、つまり、今の若者たちは自分と他者との「間」をうまくつないで考えることができないために、ちっぽけな自分に陥ってしまったり、日常生活に困難を抱え込んだりしてしまうということである。

本書ではまず、現代日本を支える個人主義、それからその結果としての価値相対主義を肯定することが前提となっている。人間は本来みんな自由なのである。そしてそれは、人は本来なにものでもない、ということを意味する。よく、「本当の自分はこんなんじゃない」とか、「本当の自分をさがそう」なんて言葉を聞くが、そんなものは初めから存在しないのである。にもかかわらず、必死にもがいている人たちが大勢いる。それはなぜなのか。それは現在の生活になんらかの「意味」が、あるいは胸踊るような「物語」(著者はそれをロマネスクとも呼んでいる〉が足りないからなのである。どれだけ個人主義が進んで、自分一人だけでできる趣味の世界だけで生きていこうとしても、それらの「意味」や「物語」は他者との間でしか作れないのである。 なぜなら、もし他人がいないとすれば、「自分は自分である」ことになんの意味もないからである。

本書の中で最も興味深かったのは第3章である。<現代のヒーローはどんな十字架を背負うのか>と題したこの章では、ヒーローやカリスマを「意味を供給する者」と定義して、その具体例として麻原彰晃、ジョン・レノン、小林よしのりの三人を挙げている。個人主義の基本原則からして、これらのカリスマ的な人物に頼ることの危険さを述べている。

本書では一貫して、自分と他者との関係に関点を置きながら、ちっぽけでつまらない自分でも生きていけるということを訴えている。その手法が、いかにも先生らしく、若い人へのメッセージ形式になっているのではなく、著者も悩みながら答えている文章に好感がもてた。結局、著者の一番の狙いは、考えるということ、自前でもなんでもいいから思想をもつということの大切さを伝えたかったのだと思う。そうすれば、人は大抵の場合は生きていけると。

(中田 久美子)


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