『知った気でいるあなたのための セクシュアリティ入門』

(監修・木谷麦子編 夏目書房 1999)

この本は、セクシュアル・オリエンテーション(性的志向)に視点を置き、性別やセクシュアル・オリエンテーションの自認・職業が違う多くの執筆者が共著している。セクシュアリティは多様で、さらに、視点を個人に置くことで多様性を強調している。

以下、各章について、多数の執筆者の中から、注目したいもの、興味を引くものを挙げる。

第1章は「いろいろなセクシュアリティ」で、割とくだけた文体で、筆者自身の経験に基づいて語られている。「僕はどのようにしてゲイになったのか」の清水雅生は、ゲイについて語られている言説が枠となり、それにあてはめてゲイである自分を規定していくが、その枠からはみ出ている自分がいるという。「『レズビアン』ってどこにいるの?」の二本木由実は、レズビアンの中に、「顔」と「人格」がある人がどれだけいるかという問いを投げかけている。自分がレズビアンであるという以前に「私」として通用する人間になりたいという。「バイセクシュアルというアイデンティティ」の橘来香は、「バイセクシュアル」というカテゴリーを引き受けるメリット とデメリットを指摘している。前者は、異性愛/同性愛の「モノセクシュアル」、「同性」とは誰のことか、また「ジェンダー2分制」への疑問を投げかけている。後者は「ゲイ」「レズビアン」といったカテゴリーは「性別」を規準にした分け方で、そういう基準を持たない人たちを無視しているという。「消極的なヘテロセクシュアル」の古館朔は、ヘテロセクシュアルにとって重要なのは、セクシュアル・オリエンテーションではなくヘテロセクシズム(異性愛を前提にした権力構造)だという。

この章を通じて、カテゴリーを指す言葉が、すべて自分を表すわけではないし、セクシュアル・オリエンテーションを重要視していないということがわかる。セクシュアル・オリエンテーションはその人を表す1つの性向であると言える。

第2章は「セクシュアリティをめぐって」で、学問領域でセクシュアリティを考えている人達の執筆である。大まかに2つのテーマに分かれている。第一は、「セクシュアリティをめぐって」である。「トランスジェンダーをめぐって」の芦屋香織は、男/女の二元論から、TGの概念や存在を問い直す必要があると指摘する。「ジェンダーとセクシュアル・オリエンテーション」の村上隆則は、ジェンダーシステムの内側に深く囚われている自分を自覚することを提案している。「オス・バカ・ノンケ(=異性愛者を指す言い方)」の古館朔は、女性蔑視のヘテロセクシズムが実社会に成立しているという。「あえてひがみ根性の泣き言を担当してやるぜ」の木谷麦子は、男女の筋力差を考えなければならないという。第2はセクシュアリティ・スタディーズで、内外のセクシュアリティ研究の系譜や今後の課題が述べられている。

この章では、ジェンダー論が興味深く、セクシュアル・オリエンテーションにかかわらず、男女のジェンダーの規範・ジェンダーロール(役割)が各々の内部に深く根ざしているとわかった。ならば、近頃言われている「ジェンダー・フリー」を完全に実現するのは不可能に近く、徐々に差を縮めていくしかないのではないか。

第3章は学校で性教育をしている教師たちによる「性教育」である。「総論」の貴志泉は、戦後の性教育の変遷を辿り、これからの性教育には、多様性の受容が必要だという。「同性愛、TG/TSと性教育〜生身の人間と出会って」の原田留美子は、性教育のために「同性愛プロジェクト」を作り、同性愛に関する情報を集めて、それを授業に生かしている。「10年の試行錯誤〜『同性愛』の授業から『個人のセクシュアリティを育む』授業へ」の金子真知子は、生徒たちが同性愛に向き合うような授業をしている。「中学校の選択教科『性の学習』から」の新井保は、授業を受けた生徒達の感想をそのまま載せている。「私を変えた生徒たち」の鈴木アイ子、授業を 続けていく中で、同性愛者ではないかという当事者の生徒と出会ったりしながら、同性を愛することの多様性を主眼に置いている。「性教育ってなに?」の木谷麦子は、執筆者の各々の論に触れつつ、教師はきっかけや情報を提供し、セクシュアリティや生き方を生徒自らが考えて選んでいくべきだという。 この章で貫かれているのは、多様性である。性教育は当然のこと、教育自体にも多様性を認めることが大切だ。教師はきっかけに過ぎず、あとは生徒自身が考えて、生き方を選択し、実行していく。他者との関係においても、互いの自尊心を尊重すべきだ。そのことが様々なセクシュアル・オリエンテーションに向き合ったとき、重要になってくる。互いのセクシュアリティを認め合うためにある。これからも教師たちには、セクシュアル・オリエンテーションやセクシュアリティを題材にした授業を続けて行って欲しいし、これから学校でそいう授業が増えることを願う。

最後に、多数の執筆者がいる中で、この著書では何が言いたかったのかと考えると、第3章にもあるように、セクシュアリティの多様性を互いに認め合うことであろう。しかし、現実は、社会に深く根差したジェンダーや、ヘテロセクシズムがあり、困難にしている。少しでも解決していくためにまず、「なんでもあり」だと人々が認識することが第一だ。そのために、このようなごちゃまぜの著書があってもよいのではないか。

(向山 成香)


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