香内三郎、山本武利ほか 『現代メディア論』 (新曜社 1987年)

 現代社会において、日本だけでなくアメリカ、ヨーロッパなどでもメディア論議は盛んになってきた。この本ではメディアの歴史、構造、メディアに期待されている役割についての論議、またメディアの現状に焦点を当てることによって、私達の生活、社会、権力のあり方を考えていくことを目的としている。
 この本は第1部、第2部、第3部の3つから成り、さらに第1部のU、Vというふうに、細かく分けて論述されている。これから簡単にだが、それぞれについて説明していこうと思う。
 まず第1部に入る前にTという章がある。ここでは何人かの学者の理論を取りあげながら、メディアの説明を行っている。メディアという言葉は1920年代、広告業界紙で使われ始めたのが起点だといわれている。ジョン・フィスクは、なにかを表現、伝達しようとする人間の活動自体がメディアの原義であるとしている。また、これまでのメディア史の中で最も大きな期待を投げかけられた電信(テレグラフ)について、そして電信によるコミュニケーションについても述べられている。テレグラフは19世紀後半に広まり、この頃からコミュニケーションという言葉もよく使われるようになってきた。発明者のモースは、テレグラフを肉体内部の神経組織にたとえ、世界中をひとつの大きな「隣近所」にかえてしまうのだ、と論じている。「隣近所」を「地表大の村落」と言い換えれば、20世紀のマクルーハンになる。マクルーハンは『人間拡張の原理』で、本は眼の延長、ラジオは耳、衣服は皮膚、テレビは神経系、というふうに、どこででもメディアにとりまかれた人間をイメージにした。著者はマクルーハンの理論にとどまらず、もっと多様なメディアを考えていく必要があるとしている。これから3部にわたってメディアの実態を分析していっている。
 次は第1部だが、この章はさらにUとVに分かれており、Uではイギリス、アメリカを中心にした、前近代のメディアについて、そして近代的活字メディアの誕生と、メディアの大衆化について述べられている。著者は「話し言葉」と「書き言葉」は昔からメディア・ミックスのままながいこと共存し、複合されて、ある側面では「書き言葉」の比重が気づかれないうちに大きくなっていく、複雑な過程だとしている。15世紀後半には印刷技術が発達し、週刊誌の部数も増加した。そして始めの内は購読者は一部の人達だけだったが、人々の読み書き能力の発達により、購読者は増加していった。18世紀から19世紀初頭にかけての、イギリスの農村地帯の口頭文化から活字文化への移行期に重なって、新しい活字メディアが浸透し、大衆的「読者層」が形成されていった。その後、写真、映画、レコードといった、我々の視覚的・聴覚的外界像を再現し、複製するメディアがあらわれたと著者は述べている。
 Vでは封建社会から戦後あたりの日本におけるメディアの歴史について具体的に雑誌などを例にあげながら説明していっている。著者は、幕末維新の動乱期に日本人向けの新聞が日本人の手によって刊行され、日本人の民衆に読まれた意義は大きいとし、しかも反権力のメディアとしての新聞の効用を民衆が味わったという点に注目している。この頃の新聞は、反権力の世論喚起を通じて、権力に対抗しうる「ニューメディア」であることを日本人に初めて周知させたことになる。明治に入り、政府は新聞の保護育成案を講じた。このこたから、新聞は政府の文明開化政策を促進させるメディアであるという認識が政府にもあったことがわかる。戦後のメディアの大きな動きといえば、1953年にNHKテレビと日本テレビが開局したことである。その後も、民放ラジオの誕生をうけるように、民放テレビが誕生し、出版界でもベストセラーの本が出たりと、大衆化が進んだ。
 次は第3部だが、この章はW、X、Yの3つに分かれており、Wでは活字メディアの歴史と現状について述べられている。世界的な視野に立ってみると、活字メディアに対する飽和と貧困の2局面の事態が現存していると著者は指摘している。また、活字メディアが主体であった社会の中で、ニューメディア(テレビ等)が既存のメディアに影響を与えたため、活字メディアの役割が縮小、減少しつつあると述べられている。 現在、新聞などといった活字メディアは、ニューメディアであるテレビのニュース速報等に押され気味であるが、ニューメディアの無条件の受け入れは、社会生活の中での人間を個々ばらばらに分解し、英知に向けての創造的な営みを妨害し、入手した情報にただ受動的に反応するだけの受け手を作り出してしまうことになるかもしれないと著者は述べている。
 Xでは現在の私達の生活に最も関係の深いマスメディアとしてテレビを例にあげ、ここ数年間に出版されたテレビ論関係の書物でテレビについて何が論じられているのかを紹介しながら、テレビは今どうなっているのか、どのようなテレビのあり方が望ましいのか、現状分析と問題点を提起している。著者は、テレビは時代批判の精神と真実追究の姿勢をもったジャーナリズムであってほしいと願うし、人間の生き方を解放するような文化創造のメディアであってほしいと期待している。また、テレビは娯楽メディアであることを認めたうえで、なお言論・報道機関なのだという原点を忘れないで、その原則を生かしていくような新しい試みを続けてほしいと願っている。また、テレビの問題点として、日本人の「心理的テレビ離れ期」と、若者たちの「質的なテレビ離れ」をあげている。「心理的テレビ離れ」には、テレビに対する興味や関心が薄れつつあるという意味が含まれている。「質的なテレビ離れ」は、若者たちが、ニュース、ドキュメンタリー番組から遠ざかり、歌謡ショーやバラエティーといった特定の番組に視聴が集中するだけになってしまっていることを意味している。また、民放局・広告主の視聴率至上主義にも批判の声があがっている。マスメディアの中でも、特に民放は政治力学の中でジャーナリズム活動を規制されやすい構造的体質をもっているから、どうしても政治権力に迎合し、国民の期待と願望に応えきれない場合が多い。国民はただの視聴者として、視聴率をあげてくれる受け手としての位置しか与えられていないのが現状である。この現状を変えていくために、まずはジャーナリストが報道・言論機関としての社会的責任を担いきれるような活動を模索しているその姿勢をどのように持続していくのかということ、もうひとつは政治情報を操作しようとする政府、あるいは経営者の論理によって自主規制を強める放送メディアに対して、「知る権利」をもつ我々がもっとこの「知る権利」の主張を強めていくことが必要であると著者は述べている。
 Yではニューメディアの分類とR・E・ライスによるニューメディアの定義を説明していっている。昔、ニューメディアという言葉がブームになった。今日ではニューメディアの言葉としてのブームは過ぎ去り、実体としてのニューメディアが少しずつ現実のものとなりつつある状況である。初期の頃によく用いられたニューメディアの分類軸は、伝送路の違いによるものであった。しかし、最終的に同じ形式で提示される情報でも、複数の選択可能な経路を通ってくるものもあることから、伝送路という側面だけでニューメディアを分類することはできないことが指摘された。他にもニューメディアの分類の例として、メディアを通信システム、通信方式、アプリケーションの3つの階層に分けて、ニューメディアを把握しようとしたりしている。著者はいずれにせよニューメディアの分類は容易ではなく、ここであげた分類例もそれぞれニューメディアのいずれかの側面についての一応の区分けであって、そのかぎりにおいて有効なものであるとしている。しかし、そうした分類をいくつか重ね合わせることで、それぞれのニューメディアの今のところの位置づけや、当面の発展の方向などは、ある程度まで明らかにすることができると述べている。また、著者はニューメディアの定義としてライスの定義を認めている。ライスは、ニューメディアを、コンピュータなどの利用者相互間に、あるいは利用者と情報との間に、相互作用を可能にする諸コミュニケーション・テクノロジーであるとしている。相互利用を実現するためにはディジタル技術が必要である。ニューメディアはディジタル系のメディアともいえる。例えば、電話は100年の歴史をもつオールド・メディアだが、現在ではディジタル技術を用いて「音声メイルボックス」というニューメディアが実現している。著者は、ニューメディアの展開は、単にニューメディアの問題にとどまらずに、メディア全体の布置構造に影響を及ぼすものになるとしている。また、新聞や電話などといった、ながい歴史をもつメディアへ深い関心を持つ人々は、ニューメディアの動きに対しても十分に注意しておかなくてはならないと述べている。
 最後に第3部だが、ここでは新しいメディアとして広告、映画、ビデオ、音楽、マンガ、若者文化を例にあげながらZ、[、\の3つに分けて論述している。
 Zでは広告メディアとして新聞、雑誌、テレビ、ラジオという具体例をあげて論述されている。テレビの影響で映画は観客をテレビに奪われ、ラジオの聴取時間も激減した。しかしテレビの急成長にかげりのでた70年代に入ってラジオの勢いが戻り、活字メディアにおいてはテレビ番組欄を拡充した週刊誌が部数を伸ばした。このように色々なメディアで広告が見られるように成り、メディアを効率よく使おうとする広告主のメディア・ミックスの志向がうかがえる。
 [ではテレビに先行する映画と、ビデオ・カセットなどの映像メディアについて述べられている。日本やアメリカといった先進国では、映画メディアはテレビの存在の前に、かつての重要さを失った。しかし、中進国や発展途上国では、映画はマスメディアとして大きなウェイトを占めている。その理由として、映画はリテラシー(識字)を必要としないこと、テレビのように受信機が必要なくお金がかからないこと、人々にとって娯楽であることがあげられる。次に映画の将来についてだが、これまで映画は新しいテレビ・メディアに対して、スクリーンの大型化とテレビではみることのできない内容をもつ映画の製作の2つをおこなった。このような対抗策で、映画はある程度興行的にも成功した。しかし今後、映画はテレビだけでなく、その後継者ともいえるビデオと競合、共存していかなくてはならない。次にビデオについてだが、日本のマス・コミュニケーションの教科書では、ニューメディア全般について論じられることはあっても、ビデオ自体についてはあまり考察されていない。しかしアメリカのテキストでは、新聞やテレビあるいは出版に準じて、ビデオががメディアのひとつとして紹介されている。ビデオというニューメディアが映画やテレビ、出版といった既存メディアに与える影響についてだが、映画については前に述べられているので説明しないが、テレビと出版に与える影響について簡単に述べられている。テレビは、レンタルビデオの影響で視聴時間が減少し、またビデオの録画においてテレビ・コマーシャルが省略されてしまうという事態が発生した。出版は、印刷メディアであるため、ビデオとは競合関係でなく、基本的には補完関係であるとされている。
 \では音楽メディア、マンガ・メディア、若者文化について述べられている。著者は若者たちの日常に顕在化している音楽空間には、日常的な音楽メディアが欠かせないとしている。日常化した音楽空間の「音楽」とは、メディアを通しての電気的再生音の音楽だからである。電気メディアが音楽と人々との関係を変えたことは間違いないことである。またマンガは現実的な日常に微妙に重なり合う世界を描いていることから若者たちに受け入れられていると著者は言っている。
 ここまでが、この論文の大体の流れである。比較的読みやすい文献のように思うが、第1部と第2部でメディアの歴史について2回述べられており、内容が多少重複していたので、そういう部分は省いてほしいと思った。しかし第2部、第2部、第3部ともそれぞれ異なった筆者によって書かれており、しかも筆者間の意見調整も行われていないため、無理ないのかもしれない。また、10年以上前に書かれたものなので、現在のパソコンなどといった新しいメディアについては触れられていないことが残念だった。だが、メディアの歴史については詳しく述べられているので、メディアを研究していくうえで、基本的なデータとして利用できるかもしれない。また、日本ではビデオについて考察されているテキストがあまりないようだから、この本の第3部の[あたりは使えるかもしれない。本の古さを除けば、全体的にメディアの研究には使えそうな感じの論文だったように思う。

(利田麻衣子)
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